2014/6/2 7:13 《現在地》
県道へ入った直後は2車線幅の道路だったが、ほんの150mほど進んだところに架かる橋には最早1車線の幅しかなかった。
親柱に取り付けられた銘板によると、昭和38(1963)年10月竣功の脇谷橋である。
この県道が当分の間、峠への水先案内として並走する草谷(くさだん)川の小支流、脇谷を渡る橋だ。
なお、冒頭で紹介した角川日本地名辞典のブナオ峠の解説によれば、県道の全通は昭和43(1968)年とのことだから、麓に近いこの橋が昭和38年竣功というのは時期的にも合う。道はここからおおよそ5年の歳月をかけて約650m高い10km先の峠へ辿り着いたのだろうか。
橋のすぐ先にある素掘りのままの切り通し。早くも道は野趣を見せている。険道であることを隠していない。
路面は舗装されているものの、小砂利が多く浮いている状態で、車で走れば砂埃が舞うだろう。
この切り通しの傍らに、コンクリート製の小さな石祠が安置されており、中には素朴な造りのお地蔵さまがいた。
いかにも長い歴史を誇る峠道のようだが、実はこの探索で辿る一連の県道は、近世以前のブナオ峠道(塩硝街道)とほとんど重なっていない。西赤尾町から入ることは共通しているが入口からして違う。今日の車道は、昭和の時代にほとんどゼロから整備されたものである。
おそらくこの石仏も、古道から移設してきたのではないだろうか。
7:24
脇谷橋を過ぎて少し行くと、思い出したようにまた2車線道路となった。
しかし、白線も路面もいやにヘロヘロで全く頼りなく見える。
そして案の定、この2車線区間は300mも続かなかったし、これ以降私は半日近くも新たな2車線道路を目にすることはなかった。
7:27
入口から600m辺りの風景。
車線と一緒に白線まで喪失し、ただ舗装があるだけの林道同然の道となった。
以後はこれがデフォルトに。
それでもなお、県道であることを主張するかのように、「富山県」の文字が入った看板が立っていた。
この看板などは単に「徐行」の道路標識でも良さそうな内容だが、目立たせたいからなのか、わざわざオリジナルデザインの看板として主張していた。
そしてこのような看板は、この後もしばしば現れた。
7:30
だいぶ年季が入っていそうな、「カーブ多し徐行」の看板。
富山県砺波土木センターと福光警察署の記名があった。
また右奥には「落石注意」と赤文字で書かれた看板も見えており、そちらもしっかり「富山県」を主張していた。
道路構造を整備して万全の道とするよりも、看板によって利用者に走行上の注意を促す方がよほど廉価な安全対策であるが、その効用には限度があるうえ、近年では道路管理者が事故や訴訟のリスクを恐れて道路を封鎖することがしばしば行われるため、“注文の多い道は短命”というのが、私の経験則から導き出された道路界の法則である。
7:39 《現在地》
入口から約1.7kmの地点で、大きな橋に遭遇した。
谷にハの字の形に橋脚を下ろしたシルエットが特徴的な方杖ラーメン型式の鋼橋であった。
また、峠に向かって上っていく道であるにも関わらず、橋の上だけは勾配が逆転して対岸へ強く下っているのが印象的だ。
親柱の銘板によると、草谷川支流の大滝川に架かる落合橋で、竣功年は昭和42(1967)年7月となっていた。
まだまだ麓に近い場所だが、竣功年を見る限りは県道の開通直前に完成した橋ということになる。もしかしたら、この橋の開通で全線が繋がったのか。
なお、私はここまで来るのにおおよそ20分費やしたが、距離では峠までの約6分の1、高さでは5分の1弱しか進んでいない。先はまだまだ長い。
7:42
落合橋を過ぎて間もなく、短いスパンの九十九折りで2度切り返して草谷川河床との距離を稼ぐと、以後は河床から50m前後の高さを保ちながら河川勾配に沿って左岸山腹を上る経路となる。
谷が直線的であるために、この径路上ではしばしば源流の石川県境に聳える1500m超級の稜線を見通せたが、そこにはまだかなりの残雪を認めた。
越えるべきブナオ峠は1000mにも満たないので雪は大丈夫だと思うが、一応は冬季閉鎖中の道らしいから、何があっても文句は言えない。
まあ、ついさっき1台の乗用車に追い越されたばかりなので、それが戻ってこない限り当分は大丈夫だろう。
7:54
路肩に蜿蜒と長く連なる頑強なコンクリート駒止の列。
それのみを転落防止の頼りにして、ほとんど崖のような急傾斜の山腹を横断する難路が続く。
「路肩注意」と看板に指導されても、タイヤを路肩に寄せずに走れるのは2輪までだろう。
見通しの悪いカーブも多く、その割に退避スペースは少ないが、それでも昭和末頃までの日本の(地方の)峠道としては、並かそれ以上の整備状態と言えたのではないだろうか。舗装があることは、かなりのアドバンテージだ。例の(私が勝手に名付けた)“三兄弟”のなかでも、峠まで舗装されているのはここだけである。
近年でこそ通り抜けの出来ない県道として悪名高いのかも知れないが、県道認定当初からロクに整備されてこなかった類の放置系“険道”ではないと感じる。
7:55
路肩の一角に地味なキロポストを発見した。
「24.0K」とあるのは、おそらくこの県道の起点からの24.0km地点を示しているのだろう。
全長26.5kmとの事前情報に照らせば、私はまだ2.5km……全長の10分の1すら進んでいないという事実を突きつけられている。
この数字がゼロになるところを、私は無事に見届けられるであろうか。
8:02
午前8時をまわり、そろそろ突入から1時間を経過する。
道の周りの景色に変化はあまりないが、谷向かいの尾根上に居並ぶ巨大な鉄塔群の見え方は細やかに変化し、脚力だけで遠い峠を目指そうとする“修行”を励ましてくれた。
8:22
さらにしばらく進むと、初めて手の届くところに残雪を見た。
雪の周りだけは植物の季節が違う。初夏のような濃い緑の中にあって、ここだけは早春のようにフキノトウやウドがまだ食べ頃の姿であった。
7:24 《現在地》
入口から約3.6km進んだ地点、おおよそ標高600m附近に、短いコンクリート製の洞門があった。
地理院地図にも描かれている上平側では唯一の覆道である。
現地の地形は、いかにも雪崩や落石が多発しそうな草生えの崩壊斜面を正面から道が横断する形になっており、その中央付近だけが覆道で護られている。
現地にはこのシェッドの名前や竣功年を知る手掛かりはなかったが、全国Q地図で見られる道路構造物マップによって、西赤尾ロックシェッド、昭和61(1986)年竣功が判明した。
昭和43年の全通後も、舗装だけでなく、こうした危険箇所の安全対策が徐々に進められていたことが窺えるのだが、全体に占めるシェッドのあまりにも短い姿を見てしまうと、この道を万全な状態まで整備するにはあとどれくらいの工事が必要なのか、なんとも途方もない気がしてしまう。
8:36
この道は険しい山谷を長距離走るが、橋の数はとても少ない。
その代わり、数え切れないほどの洗い越しが存在する。
地図上では無名である無数の沢の水が、路面を横断する凹みを流れて谷に落ちるように処理されている。この構造を、洗い越しという。
洗い越しは橋よりも安価に建造できるが、大きな出水や冬季閉鎖が明ける度に大量の土砂で路面が埋没しがちという管理上の不便がある。
おおよそ山の雪が自然に消える季節を過ぎても、なかなか冬季閉鎖期間が明けない道の多くは、こういう部分の再開通作業に時間を費やすことを織り込み済なのである。
現にこの洗い越しにも数日前に路上から除去されたような瓦礫の山が道路脇に山積していた。
8:48
入口から約5km進み、ようやく距離のうえで峠までの半分を過ぎた。
標高も700mに届きつつあり、330から始めて980を目指す登坂のやはり半分を漕ぎ上がった。
道はこの前後で2回切り返すややスパンの大きな九十九折りを用いて、一度追いつかれた草谷川に対する比高を再び確保する。
ブナオ峠の名前の由来となったブナの木が目立ってくるのも、この辺りからだ。
9:04 《現在地》
入口から6.5km付近、海抜780mには久々となる橋があった。
とても小さなコンクリート橋で、銘板などはなく橋名不明。(道路構造物マップによると、北谷橋(きたたにはし)、竣功年不詳とのこと)
この小さな橋と周囲の路面は、それが跨いでいる谷から溢れ出たらしき大量の泥で汚れていた。冬期間に堆積した土砂をほんの数日前に寄せたばかりの雰囲気だ。
思うに、これだけの長さの峠道を毎春補修して解放する作業は、本当に大変な労力だろう。
それがどこかへ通じている道ならばまだ報われもするが、峠から先はもう長らく通行止なのに、そんな仕事を続けている。
しかし前述の通り、2020年頃からこの上平側でも通年の通行止が行われるようになった。
もしかしたら、繋がっていない峠道の片側を毎春整備することの虚しさに、関係者が(コスト的な意味でも)いよいよ音を上げてしまったのかもしれない。上平側の通年通行止が今後も続くようなら、その可能性はますます高くなるだろう。
9:11
とうとう突入から2時間が経過したが、まだ峠に手は届かない。現在地は7km付近で、海抜は820m前後。
それまで草谷川に沿ってひたすら西南西へ向かっていた道は、北谷橋辺りで同川をほぼ上り詰め、その源流部のギザギザした山肌を踏越えながら南進している。
実はブナオ峠は草谷川の頂上にはなく、その南隣を流れる同じ庄川水系の別の谷、赤摩木古谷(あかまっこだに)を上り詰めた地点にあるのだ。
写真は、路肩から見下ろした草谷川の谷だ。
下界はもう遙かに遠く見えないし、序盤に励ましてくれた鉄塔達ももう随分遠い。
踏越えてきた道のりを振り返って休んでいる私を、この道に入って2台目の“後続車”が追い越していった。
随分前に前に追い越していった1台目は、まだ戻ってきていない。これで私の先には2台の車がいることになった。
9:20 《現在地》
7.5km付近、海抜約850m、静かなブナの森の中にあるこの切り返し。
ここでようやくブナオ峠への本当の水先案内人、赤摩木古谷との初遭遇となる。
カーブ外側の樹木の切れ間から覗き込むと……(↓)
赤摩木古谷が流れ込む桂湖を見下ろすことが出来る。
桂湖は庄川水系境川を堰き止めた境川ダムによって平成5(1993)年に誕生した人造湖で、湖底に旧桂集落を秘めている。
角川日本地名辞典の解説にも書かれていたが、ブナオ峠の初期のルートは桂に降りるもの
であり、そこからさらに峠を越えて飛騨白川へ通じていたそうである。
私が桂および隣の加須良を目指して加須良林道を探索した模様を『廃道探索 山さ行がねが (じっぴコンパクト文庫)』にレポートしているので、ぜひお求めください!
なんて話はともかく、これでようやく上り詰めれば峠が待つ谷筋に出た。
行き止まりであるはずの峠へ向かったまま未だ帰ってこない2台の先行車の行方も気になるし、私も早くブナオ峠を極めて“ブナ王”になりたいぞ!!
2014/6/2 9:26
桂湖を見たのは先のカーブだけであった。
道は再び草谷川源頭のギザギザした山腹を横断しながら、いくつかの九十九折りを交えつつ最後の高度稼ぎに入る。
そしてやがて草谷川と赤摩木古谷を分ける稜線上を辿るようになる。
チェンジ後の画像は、九十九折りを描く道を振り返って撮影した。
一帯は日本屈指の豪雪地帯であるが、森林限界はまだずっと上にあり、ブナを初めとした様々な広葉樹が緑豊かに繁っている。
思えばここまでの長い峠道に、植林された森を全く見ていない。このことは景観上の特徴といえる。
9:39
これまでで一番高いところから見渡す、2時間半を費やして登ってきた草谷川の大景観。
本流である庄川の向こうに聳える利賀川との分水嶺はもちろん、そのさらに向こうにある神通水系との分水嶺まで見えた。
どの川も南北方向に通じていて、東西方向の移動には川の数だけ高い峠越えを余儀なくされた。ブナオ峠もその一つであった。
このような交通条件の悪さが、合掌造り住宅に代表されるような独特の文化様式を共有する五箇山や白川郷など自治体を越えた地域のまとまりを生み、その一部は今日まで保存され地域の魅力として発信されている。
9:47
標高900mを越える辺りで道は稜線上に出て、それまで常に左右のどちらかが急斜面であった窮屈さから解放された。
緩慢な地形と密生する植物のため眺望はほとんど利かないが、それがまた峠への期待感を上積みしていく雰囲気だった。
道幅も2車線には満たないもののやや広くなり、勾配も緩やかになってきた。
自然と自転車を漕ぎ進むペースは速くなり、まさしく峠へのラストスパートという言葉を連想させる状況であった。
長い登坂修行の完遂を慈しむような道の配剤に、私は満悦の気分となって、間近の峠を目指した。
9:49 《現在地》
最後の切り返しで標高950mオーバーに乗ると、道はいよいよ平坦に近くなった。峠までは残り500mを切っている。
ここで始めて、かつての塩硝街道、ブナオ峠に存在した古道との遭遇があった。
「塩硝の道 ブナオの四十八曲り 区間約1キロメートル 平成19年9月」と書かれた大きな木製標柱を目印に明瞭な土道が右に別れていた。
明らかに私とは逆行して草谷川へ下る方向に向かっていたので立ち入らなかったが、帰宅後に調べると記録があり、現在地の地図に赤線で示したような古道の跡が残っているそうだ。
本編は県道の探索を目的としているため、ブナオ峠の古道について深くは追求しないが、気になる人もいると思うので、少しだけ関連する内容を追記する。
まずは、現在地周辺の明治42(1909)年の地形図をご覧いただきたい(↓)。比較画像は最新の地理院地図だ。
「現在地」に「ブナオ峠の四十八曲り」の標柱で案内されているのは、ブナオ峠を越えていた古道の一つで、西赤尾から草谷川を登ってくるルートだった。これが近世まで西赤尾道などの名で呼ばれた(現在では塩硝街道と呼ばれる)、五箇山方面と刀利および金沢方面を結んだ道であった。
明治42年の地形図では、里道を示す二本線で描かれている(赤く着色)。
そしてこれとは別に、「現在地」附近で分岐し赤摩木古谷に下り、現在の桂湖の湖底を通って桂村からさらに峠を越え飛騨国の白川郷へ通じる道もあった。
本編冒頭で紹介した『角川日本地名辞典』のブナオ峠の解説に出て来た、「文明年間にはすでに開けていて、蓮如上人も越前に出るのに当峠から桂村へ抜けたと伝える」というのは、このルートである。
明治42年の地形図では、小径を示す単破線で描かれている(緑に着色)。
なお、明治42年の地形図では他にも、ブナオ峠の頂上から刀利に向かわず、国境の稜線を越えて金沢へ直接出る倉谷川の谷へ抜ける小径も見えた。
現在では登山道すら見えない山域に、色々な行先を持つ枝道があったことは、ブナオ峠を巡る交通の盛んであった証左といえよう。
9:50
おおっ! 車を発見!!
ここまで私を追い越して峠へ向かった2台の車のうち1台だ。
1時間くらい前に追い越していった軽バンである。
車内に乗員の姿はなく、おそらく前述の古道に入っている模様。山菜だろうか。
そしてこの直後、私は、「うおーーー」と唸った。
9:51
うおーーー!!
これがブナオ峠の名の元になった巨大ブナ林!
ブナオ峠周辺には、樹齢150年から200年と言われるブナ林が広大に展開している。それこそがブナオ(オは尾根や稜線のこと)の名の由来になった。
道を完全な日陰にするほど高く鬱蒼とした樹冠を発達させており、まさにブナのトンネルである。
全くもって荘厳なる美林だが、幹が曲がっていて水分を多く含むブナは、朽ちやすく狂いが生じやすいため建材には不向きとされ、薪として燃やすくらいしか使い道がないと考えられていた。しかも深い山に自生することが多く、運び出すことも難しかった。故に無用の木として「橅」の漢字があてられていた。
そんなブナだからこそ、長らく峠道の間近にありながら伐採もされずに残されてきたのだろう。
だが、ブナを取り巻く世の見方は、都会の人々が自然に飢えた昭和40年代あたり、ちょうどここに県道が整備されるようになった時期に一変して、貴重な自然林として持て囃されるようになった。
かつて無用故に切り残されたブナ林が、今やブナオ峠の宝となっている。
当地を含む、富山、岐阜、石川、福井の4県に跨がる両白山地主要部は、林野庁によって「白山山系緑の回廊」として広大な保護林が設定され、今後も環境が残されることになっている。この県道は、回廊核心部に迫る貴重な車道の一つであった。
車道でありながら、“森のプロムナード(散歩道)”と呼びたくなるような甘美の道だ。
ここが交通量の多い幹線道路であったなら、このような静けさと清らかさは残らなかっただろう。
なるほど、このような美林に包まれながら一夜を明かせるのであれば、はるばる10km先の【ブナオ峠野営場】を訪れることも吝かではない気がする。
ただ、ここまで来て未だに野営場の実在が確認できていないが…。
9:51 《現在地》
鬱蒼としたブナの森が少し開けた日のあたる道端に、何か建物でもあったような石垣で区画された平場があった。
ここはもう峠の一角といえる地点(頂上の150mほど手前)で、標高的にもほぼ頂上と変わらない場所である。
そして、地理院地図ではこの位置にポツンと1戸だけ建物が描かれている。
実は、この場所こそブナオ峠野営場の跡地で、ここには管理棟にあたる建物があったらしい。
いつまで営業していたのかは不明だが、山サイ界隈の老舗中の老舗『自転車・峠おやじ』に、峠おやじ氏が平成14(2002)年にこの峠を自転車で越えたレポートがあり(当時は刀利側も開通していた!)、そこには(おそらく既に営業していなさそうな姿の)この小屋が、はっきりと写っていた。
……入口の看板だけを残して、ブナオ峠野営場はかなり昔に消滅してしまったようであった……。
9:52
最後の最後は、初心に返って(?)、狭い道だった。
空を覆ったブナの森は後方に退き、いまは風通しの良さそうな峠のV字が前方の全面に展開している。
稜線が大きく落ち窪んだ天然の鞍部が峠である。古くから開かれた峠は、やはり天然にも優れた峠だったのである。昔の人はそのような場所を見つけ出して道にすることに長けていた。
西赤尾の入口よりほぼ10km、自転車での所要時2時間42分をもって――
9:53 《現在地》
ブナオ峠(標高974m)到達!
狭い道の果てに辿り着いたのは、広場を持つ解放的な峠であった。
砂地である広場の中央を1車線分だけの舗装路が貫いている。
舗装路が描く勾配のプラスからマイナスへの変化、そして左右に広がる地形の確かな立ち上がり。ここが峠の頂上であることを、一切の看板や標識を無しに確信できる、見事な鞍点的景観。
峠が好きだという人が百人いたら百人ともヨシ!と手を叩きそうな、峠らしい峠だった。
ただ、この完成された景観を持つ峠は、一つだけ、最も峠として重大なものを欠いていた。
越えて行く道が、無い。
噂に聞いたとおり、再び開く気配を感じさせない封鎖であった。
「この先災害のため通り抜け出来ません」 「通行止」
そんな通り一遍の事柄だけを伝えてくる看板はまだ新しそうに見えたが、復旧に向けた意思の薄弱と、このまま放置したい消極的態度しか感じられない類の封鎖であった。関係者ですら鍵をもって開くことが出来ない封鎖は、道にとって死刑宣告とほぼ同じものだと考えている。
この封鎖の状況が物語る先行きには、もはや「廃道」の二文字しかなかった。
状況は把握した。
この峠を越えて下り始めるには、少しだけ覚悟がいる。
まだ容易く引き返せるこの地点で、息を整えてからでも遅くはない。
改めて峠を観察している。
随分前に私を追い越していった1台目の乗用車は、この行き止まりの県道の真ん中に駐車していた。それで問題が無いのがこの道の現状である。
ドライバーは登山へ向かったのだろうか。ここからは1本の林道と2本の登山道が分岐している。登山道はかつての五箇山地域の外縁である高い稜線を縦走するもので、ほとんど車道が到達しない山域に延々と伸びている。それだけに、このブナオ峠が入下山やエスケープルートとしても使えなくなると、一連の縦走路はいよいよ連泊を前提とせねば辿れない類の孤絶した山道となるであろう。
峠の一角にひっそりと埋設されていた石標を見た。
側面には「ブナオ峠」、上面に東西南北の方向が刻字されていた。
登山者の便宜を計ったものであろう。
なお、この峠は平成16(2004)年まで、西礪波郡福光町と東礪波郡上平村の境であったが、以後は南砺市内の一地点となっている。
そのためか、境を感じさせるような看板や標識が全くないことは少しだけ寂しい。
かつては野営場があり、シーズンともなれば若人や岳人達の交歓する歌声が夕闇をも賑わわせたであろう峠は、今や静寂に包まれ、か細い県道によって辛うじて一方の下界にのみ繋がっていた。
繋がりを断たれた道を辿って、その最後の通行人となるかも知れない記録をここに残すことが、私の歓びである。
10:00 いざ、おさらばです。
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