塩那道路 (県道中塩原板室那須線)  その7 

公開日 2005.12.16
探索日 2005.10.09



空との別れ

7−1  それは神への挑戦なのか?! 

12:43

 もう、言い飽きた。

 そして、聞き飽きただろう。


 でも、それでも言うしかない。

 凄い景色だ、と。


道は、何と畏れ多いことに、唯一無二なる稜線を、そのまんま車道にしていた。

こんな激しい景色、見たことがない。

これまで私の見てきた、あらゆる道の常識を、覆す景色だ。

海抜1700mの奥羽山脈稜線上に、それをなぞるように車道がある。

一般の観光客達の無遠慮な往来を免れたことだけが、せめてもの救いのように思われる。

もう、作ってしまった道はどうしょうもないが、それでも、今後この道を廃道に戻そうというのは、なるほど理性的な判断のように思う。

私がどうしても来たかった道。
あなたも、リスクを背負ってでもどうしても来たいなら、どうぞご自身のお力で来て、この景色を見て欲しい。
これは、無責任な誘いではない。
挑発などでは毛頭無い。

ただ、どうしょうもなく、こんな道があったということを、伝えたい衝動に私は駆られるのだ。
こうしてレポートをしている傍から、私の心は、あの景色のただ中に、いまもいるのだ。

それほどに、衝撃的な、道の姿だった。

人間が、空を目指して建築し、神の怒りをかった「バベルの塔」。
これは、道路版「バベルの塔」だ。



 東西に遮る物無くひらけたる稜線からの眺望。
それもそのはず、この場所は天然の展望台。
「大蛇尾展望台」の塩那看板が、半ば雪に押しつぶされながらも路傍にある。

 写真は、東側黒磯市方向の景色。
左の高い山が大佐飛山、右の稜線は、塩那道路の辿ってきた尾根で、その奥の一際高いところが、小佐飛山である。
大佐飛と小佐飛に挟まれた谷が、大蛇尾沢だ。
その名の通り、大蛇の尾のように長く複雑に屈曲した沢筋が、方々の山から集まっている。
どこまで行っても、決して人の住む街など無いのではないか。
そう思わせる山深な景色だが、塩那道路の帰り道は、この方向にずっと続いている。


 塩那道路の最高所だった鹿の又坂からは、すでに1.5kmほど来ている。
余りにも衝撃的かつエキサイティングな景色の連続に、またも路傍のカメラに撮影されたにも関わらず、気にならなかった。
道は、稜線の微妙なアップダウンに合わせて緩やかに上下しており、海抜は1700m程度を行ったり来たり。

 どんなに愛した恋人との蜜月の日々にだって、いつか終わりがあるのと一緒で、塩那道路のハイライトも、いよいよ終わりが近づいていた。

 


 いま辿ってきた道を振り返る。
道の上に出っ張ったピークが、鹿の又岳だ。

 この稜線の区間は、塩那道路全線中でも、最も道幅が狭く抑えられている。
もしここに、2車線の観光道路を作っていたら、稜線の景色は一変していたことだろう。
ただ、道からの景色の良さは折り紙付きで、文句なく、日本有数の「スカイライン」(本当にスカイラインを通っているスカイラインとしても)になり得たろう。
あの有名な、「日本百名道」への登録も、堅かったかも。

 この塩那道路や、私を史上最も苦しめた伝説の「八甲田山十和田湖連絡道路」など、観光道路として建設したが実を結ばなかった道は、どれも半端無い。
誰しもが胸を打たれる山の景色の醍醐味をファミリードライブの車窓に届けるため、日本各地で人間側自然側両方に多大な犠牲が払われていることを忘れてはいけない。
戦いの結果、どちらが勝利しても、取り戻せない破壊は、ある。


…なんか、説教じみてゴメン。


 幾つかのコブを越えたとき、行く手の尾根に森が見え始めた。

緩やかだが、確実に下りの途にあった我々が、いよいよ、「空」と別れを告げ、再び、長く 深く 永遠に思えるような、森の道へと帰って行くのだ。

それをリアルに予感すると、私は最高に寂しく…
 いや、悲しくなった。

 これが今生の別れにはしたくないぞ塩那道路…。
ゆーじ氏も、快晴の時にもまた来たいと、力強いお言葉。

 たとえ塩那道路が廃道化したとしても、日本道路史上からその名を消してはいけない。
観光開発の享楽に溺れた地方行政が、こんな道さえ国土に刻んだのだという、反面教師になろう。
こんな道は、規模の大小こそあれ、地方の至る所にあるものだ。


7−2  記念碑 

12:52
←地図を表示する。

 一際広い鞍部が現れ、道もそこで大きく広がり、傍らにはプレハブの小さな小屋が。
ここは「記念碑」という場所で、塩那標識も立っている。

 この小屋の建っている広場が、稜線上の最後の地点といって良い。
正面には、栃木と福島との県境となる男鹿岳(1777m)の、頂上まで針葉樹に覆われた扁平な山容。
塩那道路のこれまでの苛烈な道のりを考えれば、男鹿岳のゆったりした山頂など余裕で越えれば越えられそうに見えるのに、ここで進路を東に取り、いよいよ那須・板室へ向けての下りとなる。
全長51km中、たった5kmの“スカイライン”、まもなく終了だ。


 その名も、スペースハウス!

なんか、力まなくて良いところで思わず力んでしまった。

工事現場なんかによく見るプレハブ小屋だが、造りはしっかりしており、中を覗いてみるとガランとしてはいるが、雨風を凌ぐにはぴったりだろう。
なぜか、鍵もかかっていないし。



 で、この地名の由来となったのが、この石碑である。

塩那道路にただ一つだけの、記念碑だ。

正式には未完成のままの塩那道路だが、自衛隊が開削に携わったパイロット道路の開通記念碑として、この地にある。

また、何故かここの塩那標識だけは、地図が記載されておらず、妙に白い。
塩原からは、29.2km。
板室までの残りの距離は、それでもなお21.6kmもある。
 



   104建設大隊 
     塩那の峻険を拓く
           栃木県知事 横川信夫著

自衛隊によって建設された事が、短い文章で顕彰されている。
その下には極小さな文字で、塩那道路の生みの親、第四十代栃木県知事の直筆のサインがある。
彼は昭和46年、三期在職中にパイロット道路開通を見届けるも、建設が財政難で休止された昭和50年、その年にこの世を去っている。
塩那道路の顛末を見届けることなく。

   塩那山岳道路開設の経緯
塩那山岳道路は栃木県が陸上自衛隊に委託し東部方面れい下第一施設団の
第1建設群に属する第104建設大隊(宇都宮駐とん地)が昭和41年から昭和46年に
亘り全長約50粁の中約35粁のパイロット道路を拓きこの道路の礎を築いた
ものである
工 事 参 加 部 隊
昭和41年 作業隊長 (第3中隊長)1等陸尉 安東 弘 以下 67名 2.5粁
 〃 42年    〃   (第1中隊長)  〃   小林一郎 〃  62名 3.1粁
 〃 43年    〃   (第2中隊長)  〃   三宅誠八 〃  57名 2.2粁
          〃   (第3中隊長)  〃   福井正● 〃  48名 2.0粁
 〃 44年    〃   (第1中隊) 2等陸尉  薄井 貢  〃  41名 1.0粁
 〃 45年    〃   (大隊長)  2等陸佐  小田利八郎 〃 190名 8.2粁
	 幕  僚  3等陸佐  木田久夫  3等陸佐  阿部 恒
              1等陸尉  菅原慶治
      板室区隊長 (第2中隊長)1等陸尉 菊池貞三
      塩原 〃   (第3中隊長)  〃   島田三郎
昭和46年 作業隊長 (副大隊長) 3等陸佐 佐川一男 以下 150名 16.0粁
	 幕  僚  3等陸佐  辻 昭三  (読み取れず)
      横川区隊長 (第1中隊長)1等陸尉 (読み取れず)
      板室区隊長 (第3中隊長)  〃   (読み取れず)
 のべ650人あまりの自衛隊員が、人跡稀なこの地に篭もり作業をしたことになる。
工事が、始めはゆっくりとしたペースで、昭和45,46年には一気にペースアップしていることも読み取れる。
そして、一つ聞き慣れない言葉が出てきた。

「横川区」という言葉だ。

塩那道路が、塩原と板室の両方から同時に建設されていた事は周知の通りだが、この「横川区」とはどこのことなのだろうか?


…塩那道路には、まだ知らない世界が、どうやら、あるようだ。




 なぞの、「横川区」の文字。

だが、その答えと思われる物は、意外に近くにあった。


次の地図を見て欲しい。




 これは一帯の拡大図である。
よく見て欲しい。

 この記念碑が建つ地点のすぐ北から、塩那道路と別れ藤原町の男鹿川の谷底へ下っていく、九十九折りの道が描かれている。
その行き先は紛れもなく、会津西街道沿いの横川地区だ。

塩那道路のほぼ中間地点であるこの稜線上から、分かれる道が存在しているというのだ。
道路地図はその存在を強く物語っているが、地形図にも点線ではあるが記載がある。
なんらかの道があることは確かなのだろう。
だが、ゆーじ氏はそのような分岐があったことに、昨年全く気がつかなかったと言うではないか。

 その捜索は後ほどに回すとして、性格的にはこの道、塩那道路の中間部へと直結する工事用道路だったのではないかと思われる。
とはいえ、先ほどの記念碑の碑文によれば、この横川区の道路が本格的に建設されたのは、パイロット道路完成の年である。
となると、工事用道路というよりもむしろ、塩那道路を塩原と那須だけではなく、横川下流の鬼怒川とも結びつけようという、壮大な新線建設の色香も感じるではないか。

 その真相は、いまはまだ闇の向こうだ。




 付近をよく見ると、記念碑のすぐ傍に、分かれ道を発見した。
しかし、その分かれ道は10mも行かないうちに砂利が途絶え、高山植物が薄く生える堅い地肌の道となる。
これでは、夏場など殆ど草地と区別が付かないだろう。

 そして、この分岐地点には、未発見だった道路標識が、発見されたのである。
写真は、枝道を背にして分岐地点を写している。
正面に、黄色い看板が見えるだろう。



 付近の紅葉に一体化しており、分岐に気がつけなければ、おそらくこの標識にも気がつかなかっただろう。
しかし、そこには確かに文字が記されており、辛うじて判読が可能だ。

 その文字は、「板室方面」と読める。

色は、どっからどう見ても、黄色。
故に、これは世界初の「黄看」かと言うことになるが、いや、単にペンキが剥げ、下地の色が出てしまっただけではないかと思う。
おそらく、文字の形などから想像して、これはもともと白かった… 白看なのでは?
真相は、またも闇の中だが…。




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7−3  もう一つの塩那道路 

12:57

 塩那道路から分かれ、鞍部の西側へとそろりそろりと下りていこうとする道。
それは、間違いなく、地図に描かれている道である。
しかし、一般には開放されずとも管理され続けている塩那道路に対し、まったく見捨てられた存在となっているこの「横川工区」の道は、廃道だ。

 砂利の跡が辛うじて残る高原の道を50mほど進むと、その先は一面の笹藪となり、道の形を判別するだけでも一苦労な有様だ。



 チャリを置き、二人で歩いて先へ進んでみた。

そこは、森林限界を辛うじて超えており、低木と笹藪が幅を効かせる、廃道としてはかなり困難な状況だった。

だが、我々の目には確かに、緩やかな斜面に沿って続く、浅い掘り割りの道が見えていた。

道幅は、車が通ったと言っても不思議はない幅がある。




 これが進むべき道ではないと分かっていながらも、なかなか引き返す決定打を得られなかったが、100mほど進んだところで、一つめのヘアピンカーブと思われる、急カーブに突き当たった。
全く人の行き来している気配はなく、背丈よりも高い灌木や笹藪が、視界を覆ってしまった。
もはや、その先へ進むには、足元の状況をつぶさに観察し、一歩一歩確実に道を辿らねば、遭難しかねない。
ここは、普通なら登山のフィールドに十分なりうる、高山なのである。

 我々は、今回は塩那道路を素直に辿ろうという計画だったので、それに従った。
だが、この道はぜひとも、全容を解明したい。
もし、この道をチャリごと通過することが出来れば、塩那道路の中枢部に忌まわしいゲート破りなどしなくても、堂々と立てることになる。
男鹿岳や鹿の又岳などに大手を振って登山したいという登山者達の先鞭にもなろう。

 この塩那2次計画は、2006年度中に予定している。
目標はただ一つ、塩那道路横川支線(仮称)の全容解明である。
地図上では、男鹿川沿いの林道の支線として実線で描かれた林道の終点まで、約5kmの九十九折りで塩那道路と下界を結んでいる。
その先の林道も状況は不明だが、国道まではさらに8kmほどある。
南八甲田の悪夢が、繰り返されるような予感がする…。

 チャリごとでの走破は達成できなくても、怒らないでね〜(笑&弱気)




 往復200mほどの寄り道を終え、塩那道路本線に戻った。

時刻は午後1時をまわり、自然に帰途に就きたい時間となっていた。

まだ、先行きは長いのだ。
下りとはいえ、油断は出来ない。

なんと言っても、ここは塩那道路なのだから。








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