道路レポート 
静岡県道38号掛川大東線旧道にある
3本の煉瓦トンネルの先代ルート(掛川大坂往還) 第2回

所在地 静岡県掛川市
探索日 2023.03.19
公開日 2024.08.10

 信州街道から里道に右折し和田村へ


2023/3/19 10:05 《現在地》

青田隧道南口から約350m、上板沢の青田バス停がある三叉路で現県道と合流する。
ここから少しの間は県道掛川大東線を進む。

チェンジ後の画像は、県道風景。
いかにも遠州らしい低地丘陵の眺めだが、青田隧道が整備された当時はここが「信州街道」であり、太平洋の相良からはるばる青崩峠を越えて信州塩尻へ通じる主要な街道筋だった。その最大の交通目的は、生活必需品である塩を海岸地域から内陸地域へ供給する塩の道であり、加えて秋葉山への参拝交通も多かった。

とまあ、信州街道の話をしたけれど、この道は今回の主役ではない。間もなく、真の主役が登場します。



10:31 《現在地》

青田バス停から約600m県道を進むと、次の板沢バス停がある。
日本茶好きの方にとっては、「きみくら本店前」といった方が伝わり易いか。
ここに左折する道があるが、実はこれが信州街道の末裔らしいのだ。



ここで再び、冒頭でもチェックした新旧地形図、明治22(1889)年地形図と最新の地理院地図を比較してみよう。
緑の着色が「信州街道」、そして赤色の着色が今回の探索の真の主役の「里道」である。(チェンジ後の画像にもそのままの位置に表示させた)

縮尺が近い2枚の地図を丁寧に重ね合わせると、120年という時間の経過を忘れさせるほど道はしぶとく生き残っていることが分かる。完全にピタリと重なる場所ばかりではないが、それでも現在の地図に対応する道を見つけるのが難しくない誤差だ。


地図の比較により、この板沢バス停前の丁字路を左折するのが明治の信州街道で、
目的の里道は、直進からすぐに右へ折れて丘を登っていたことが分かる。
最後まで直進する現在の県道は、明治38(1905)年に開通した檜坂隧道および岩井寺隧道へ通じる“里道の新道”で、その時の工事で隧道前後の直線ルートも完成させている。全体を見れば青田隧道にもひけを取らない大掛りな工事だったろう。



10:32 《現在地》

板沢バス停からさらに100mほど進んだ地点である。
全国地価マップなどの大縮尺の地図を見ると、ここにある民家の裏から始まる道が描かれている。地理院地図も同様だ。
それこそが、目指す里道の名残である。
赤点線のように進むと、その道にアクセス出来る。
特に通行が規制されている様子はないが、普通は通りがかりにここへ入ろうとは思わないだろう。



10:33

地図の通り、民家の裏に道があった!
しかしなんともプライベート感のある道路風景だ。
道幅も1.2mくらいで、四輪車は通れない。でも舗装はされているし、廃道というわけでもないようだ。

掛川市が公表している市道認定図を見たが、ここは市道には認定されていない。
となると、農道か、私道か、はたまた明治以来の里道が成り行きで今も実質的に道路扱いされている、いわゆる法定外公共物か。
現在の扱いは不明だが、ここが檜坂や岩井寺を越えて南へ延びていた一連の里道だったのは確かだ。信州街道ほどではなかったとしても、明治期に隧道が掘られるくらいには主要な道であったはず。



民家裏手の“隠し道”みたいなところを上っていく。
舗装は切れたが、良く踏み固められた草道で、自転車でも走りやすい。
誰がどんな目的で利用しているのか知らないが、しっかりと刈払いされている。

なお、この辺りから大字が板沢から和田になる。
明治22年まではそれぞれの名前を冠する村があった。
今目指している檜坂隧道の旧隧道擬定地は、和田村とその次の子隣村の境である。



上り坂が急になると舗装が再開し、すぐ先に明るい茶畑が見えてきた。
青田隧道の旧旧道に続き、ここでも茶畑は旧旧道の余生を支える淑やかな役割を担っていた。
廃道になりそうな道をずっと眠らせずにおいてくれるのは、探索者的には有り難い。



10:34 《現在地》

天然の起伏を鷹揚に乗りこなす茶畑が、名も知れぬ小さな峠の上に広がっていた。
麓との落差はせいぜい10〜20mだが、それでも私が峠越えに期待する風景の起承転結がしっかりあって嬉しくなる。

ところで、掛川周辺での茶作りには伝統的な茶草場農法というのがあって、これは茶畑の周りに点在する草地(茶草場)からススキやササなどの草を刈りとって、秋から冬にかけて茶畑に敷くのだという。こうすると茶葉の味や香りが増進するとか。
道理で茶畑の周りが綺麗に刈り払われているわけだ(まあ、それだけが理由ではないかも知れないが)。



峠を越えて下りに転じた道は、まるでヤスリで削ったように滑らかだが急傾斜な岩盤面と茶畑の隙間を行く。
とても狭い道だが、茶畑が生きている限りは不滅だろう。
どこでも育つわけではなく、そのうえ産地のブランドがとても大切にされる茶葉の場合、その産地にあっては、他のあらゆる種類の農作物よりも優先されているように見える。



10:36 《現在地》

県道を右折したところから約250m、峠を越えて丁字路へ突き当たる。里道の順路は左。
端畑の石垣の代わりに、“古タイヤ”垣が利用されているのが目に留まった。
普通の自動車ならまず入り込めないような山奥の茶畑にも入り込んで私をしばしば驚かせる軽トラだが、タイヤだけになってもこんな貢献を見せるとは。



少し広くなったがまだ狭い“板チョコ舗装路”が、かつての和田村の中心地へ有機的カーブを描きながら延びていく。
明治の地形図を見る限り、この里道がメインストリートだった頃は、今の県道がある上小笠川沿いの平地は葦原や湿田が広がる辺鄙な土地だった様子。
全国的にどこでもそうだが、土木技術の進歩によって河川の排水が上手く行えるようになるまで、川沿いの低地というのはいくら平坦でも人が好んで住むような場所ではなかった。



10:36 《現在地》

古タイヤ垣の丁字路から200mで今度は十字路。里道の順路は右折である。
なお、この右折方向を含めた左右の道は、市道12333号和田子隣線に認定されている。
以後しばらくは、この市道が里道をなぞる。

チェンジ後の画像は、この角の右手前に安置された見るからに古そうな仏塔だ。風化していて文字も読み取れない。五輪塔と思ったが、丸い石がないので宝篋印塔の一種か。聞き取りなどをしなかったので詳細は不明だが、古道らしい遺物である。
今回は明治の里道というものに着目しているが、おそらくもっとずっと昔からあった生活道路なのだろう。



右折直後の風景。市道に入って、ようやく車も安心して通れるような道路になった。
前方をやや高い山が遮っているが、あれが子隣村との境界で、明治22年の地形図には、あの稜線を越える里道のピークに短い隧道が描かれていた。
明治38年開通の檜坂隧道があるのも同じ稜線だが、両地点は400mほど東西に離れている。



10:39 《現在地》

途中の十字路を直進し、山際に突き当たると道は二手に別れている。右奥の桃色の建物は和田公会堂らしい。
路面の色は右が本筋だと訴えているが、市道和田子隣線は直進である。直進する。

隧道擬定地まで、あと残り300m。



10:40

直進すると上り坂が始まり、すぐに沿道には広い茶畑が現れた。

それは、越えるべき稜線の近くまで広がっており……

隧道擬定地が巨大な切り通しになっていることを、
この早い段階(250m手前)で報されてしまったのだった。


まあ、これはままあることだ。
残念ではあるが、気持ちを切り替えて先へ進もう。
この平凡に見える道を何も意識せず通るのと、かつて隧道があった里道だと識って通るのとでは、味わいも違うはず。それを愉しもう。



10:42 《現在地》

旧檜坂隧道(仮称)の跡へ到達。

残念ながら隧道は現存しなかったものの、先ほどの青田峠の切り通しにも匹敵する巨大な切り通しがあり、そのシルエットは前述通り、遠目にもよく目立っている。
今の市道は一見古い道には見えないが、このような深い切り通しが開鑿される前の道が隧道だったというのは、十分に肯ける地形だ。



今の市道の路面の高さに隧道があったとしたら、差し渡し20mくらいで向こうに抜ける長さであろう。
かなり短く、5万分の1地形図には一度も描かれなかったことも肯ける。

切り通しの南口の角に小さな石仏が安置されていた。
形態的に恐らく馬頭観音で、路傍の石仏としては最も馴染みの深いものだ。
隧道との関係も期待したが、よく見ると「天保」(天保=西暦1831年〜1845年)と刻まれており、もっと古いものだった。



また、石仏のすぐ隣の農道に面する岩面に、草で隠された穴があることに気付いた。

(一瞬、隧道が残っていたと、200pxサイズの文字くらい興奮したのは内緒だ)

(写っている自転車がいつもと違うと気付かれた人もいるかも知れないが、これは数年前から併用しているサブ機だ)



見つかった穴は、入口も奥行きも狭く、天井も立てないくらい低い。
横井戸か、農具の保管庫か、種とか芋の保管庫か。
しかし、これが掘られた当時も穴の前にはいまと同じ高さに道があったわけで、失われた隧道の路面も同じ高さにあったろうと推測ができる。また、そもそも穴を掘るに容易い地質であったことも窺える。



B
昭和37(1962)年
A
昭和51(1976)年
@
平成17(2005)年

この隧道は、いつ頃まであったんだろう。

色々な地図を確認してみたが、ここに隧道を描いているのは、本編で紹介した明治22(1889)年の2万分の1地形図だけであるようだ。
そこれより新しい地形図は暫くの間縮尺が5万分の1だったから省略されたのか、はたまた実際撤去されていたのかは不明だが、歴代の5万分の1地形図には一度も描かれていない。
縮尺2万5千分の1の昭和31(1956)年版地形図も確認してみたが、軽車道がここを越えているものの、頂上に隧道は描かれていなかった。

歴代の航空写真も確認してみた(→)が、隧道の有無まではっきりと確認する事は出来ない。
ただ、現在の幅の広い市道や切り通しが整備されたのは平成13〜15年の間らしく、それまで峠の道はとても細く、辺りも鬱蒼としていたようだから、ひっそり隧道が残っていた可能性は十分にあるよう思う。

当時のこの場所を知っている方の証言を私は待っている!




この写真は、隧道跡の市道切り通しを南側から振り返って撮影したものだが、このように非常に大きな切り通しになっている。そのため、麓からは結構高い稜線に見えたものの、結局市道は大したアップダウンもなくここを越えている。

で、こうして離れて見ると、実はこの巨大な切り通しの底は、2段になっていることが分かる。

この事実と、前述した3世代の航空写真の内容により、チェンジ後の画像に描いた“仮説”を見出した。
これは、隧道(航空写真@に対応)→第一次切り通し(同A)→第二次切り通し(同B)という段階で変化したという仮説だ。

当初の里道は、現在の市道より高い位置で稜線に向かい、そのまま少し高い位置にあった隧道で稜線を越えていた。(←@)

その後、峠の北側が茶畑として開発されたことの関連なのか、隧道が崩壊したのかは分からないが、隧道部分が切り通し化された。(←A)

さらに道路を拡幅し、掘り下げて整備されたのが、現在の切り通しである。(←B)

明確な証拠はないので仮説とはしたが、この切り通しが2段階に整備されていることは、ほぼ間違いないと思う。



そしてこれが、“第一次切り通し”の底にある竹藪の様子だ。(南を向いて撮影)
現地でもちょっと気になったので、念のため踏み込んで撮影しておいたものだ。

密生した竹藪で特に道らしい痕跡があるわけでは無いが、市道の切り通しの一段上にこのように稜線を貫通する平場があるのは、自然ではない。左の山側法面もかなり切り立った素掘りの岩場になっていて、古い切り通しの法面っぽいのである。

というわけで、現在の市道の切り通しよりは、この場所の方が隧道跡地としての濃度は濃いと思う。隧道が現存していないことに変わりはないが…。
以上、追記でした。



次は、子隣村から岩井寺へ。






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