2023/3/19 11:06
果たして、旧岩井寺隧道(仮称)は、実在した。
現時点(探索時点)で、この隧道について語れる情報はほとんどないが、明治22(1889)年の地形図に描かれていた隧道が人知れず実在していた。この事実だけで、まずは十分だ。秋田から探しに来た甲斐があった。
隧道の素性に繋がる発見は、これから、目指す。
そして、幸いなことに、開口はしている様子。
相当に崩れが進んでいることは、坑口全体が上向きである状況や、坑口前がこんもりとした土山になっていて内部を隠している状況から容易に窺えるが、それでも明治38(1905)年という大昔に旧道へ転替した隧道としては、開口しているだけでも御の字だと思う。仮に跡形無く崩壊していたとしても、文句は言えない古さである。
これで、貫通までしていたら、最高だが……。
隧道(北口)は、地理院地図上のこの地点にある。
元の地図にも隧道までの「道」が描かれているように見えるが、坑口や隧道の表現はない。
また、「道」はここで終わらず、そのまま附近の山の上に続いているように表記されている。
一方、チェンジ後の画像は、「現在地」が隧道の北口になるように位置や縮尺を調整した明治22年の地形図だ。
この古地形図上の隧道を見つけなければ、(読者からの情報提供でもない限り)探しに来ることは無かったと思う。
それにしても、当時の2万分の1地形図は、現在の地理院地図と比較してもほとんど遜色が無い精度で地形を表現している。
航空写真による自動作図が無い時代に、もの凄い技術と手間で描かれた地図である。
(まあそのせいで、2万分の1縮尺での全国網羅計画は早々に断念され、5万分の1となったわけだが…)
もう1枚、地図を見て欲しい。
これは掛川市が公表している「e-地図かけがわ」に、発見した坑口を書き加えたものだ。
大縮尺で使いやすいので、しばらくこいつで現地レポートを進めるぞ。
坑口に積もった崩土の山のてっぺんから、始めて洞内へ視線を落とす。
坑口上部の岩盤は盛大に崩壊し、下が埋まっている分だけ、上がラッパ状に広がっている。
そのため、天然の洞窟みたいに見える。かつて人が削った壁面は、少しも残ってなさそうだ。
と、ここで嬉しいニュース。
風がある!
こいつ、貫通しているぞ! 出口はまだ見えないが、風が吹き抜けているので、貫通はほぼ確定した。
11:07
洞内は、全体的に灰色の世界だ。
掛川周辺に多数存在する、泥岩の地層に掘られた隧道だ。
泥岩は、砂岩と並んで最も手掘りでの隧道づくりに容易い地質だろう。全国の手掘隧道の多いエリアは、大体が泥岩か砂岩地帯である。
断面サイズは、この次の世代である煉瓦造りの岩井寺隧道(幅3.6m、高さ3.2m)より一回り以上は狭い。
目測だが、幅は約2.5m、高さは2〜2.5m程度だ。
人道か、せいぜい荷車程度の小型車輌までを前提としたサイズ感だ。
まあこれは(明治22年以前の竣工という)年代を考えれば当然だろう。【地上の道形】もそのくらいの幅だったしな。
よし! 貫通を目視でも確認できた!
すごいすごい、マジで貫通していやがるか、ありがてぇ。
いや、ありがとうございます!
しかも、内部は入口ほど酷くは崩れていない様子だ。出口がよく見通せている。
廃止(少なくとも旧道化)から120年近く経過した隧道が貫通しているのは、地味に凄いことだと思う。
もちろん、隧道の長さとか地質とか条件は千差万別だから、他の隧道と比較するのは余り意味がないが。
それでも、120年間ほとんど手入れはされなかったと考えられる状況で貫通を保っていたのは、素直に驚きだ。
なお、全長は60m前後と目測。
2代目が114mだから、半分くらいかな。
まあ、妥当なところだろう。
入ってすぐに、入口を振り返って撮影。
崩壊によって天井が高くなった分だけ、地面も高くなっているので、外を見上げる感じがある。
掛川の空を一旦見納め、さほど深からぬ洞奥へ。
洞内、ほぼ全景。
全体的に天井も壁も崩れているけど、まだまだ通れなくなる心配をするレベルではない。
崩れて床が埋れた分だけ、天井が高くなって、自然と釣り合いが取れている。
こういう風に少しずつ表面が剥がれる感じで崩れてくれるのは、元来脆い地質である泥岩や砂岩に掘られた隧道の強みだと思う。
大きなブロックがまとまってグシャッと崩れることが少ないので、一気に閉塞してしまうことが起こりづらいのだろう。
で、この洞内で次に撮影したものを順に3つ挙げると、
1.壁の一画を埋める数千匹のカマドウマ軍団
2.おそらくみかんを食べたケモノ(イノシシ?)の黄色い下痢糞
3.天井でポツンと1匹だけ留守番をしているぼっちなコウモリ
出口付近は天井が全体的に低くなっているが、この四角に近い断面こそ、当初の形状に近いものだと思う。
一般論として、小断面の古い隧道には四角に近い断面のものがしばしば見られる。
そもそも、隧道の天井をアーチ形にカーブさせるのは、アーチ構造で地圧に抵抗することや、内壁を覆工する都合が大きく関わっており、小断面で覆工を持たない素掘り隧道の場合、掘削する土量を減らせる四角い断面は十分に有利だった。鉱山の坑道も大抵は四角いが、それも同じだ。
出口間際だけは、頭を擦りそうなほど天井が低くなっている。
だがこれは出口から流れ込んで堆積した土砂の影響で、天井が低くなっているのではなく、洞床が高くなっているのだ。
当初は全体的に2〜2.5mの高さがあったと思うが、もともと天井が低めであったのも確かだろう。
また、出口付近の天井や側壁には、手掘りの証拠である鑿(のみ)の痕を留めた岩面が所々に残っていた。
これはこの隧道に入って始めて見た人工物らしい痕跡といえるが、それが刻まれた具体的な時期、すなわち本隧道が作られた時期というのは、机上調査の重要なテーマとなる。ただいずれにせよ、古い隧道が多くある掛川地域の中にあっても、同じく明治22年版に描かれていた「上張の手掘り隧道」や「旧檜坂隧道(仮称)」と並んで、最古参に属するものであったはず。
あんなに四角かった断面が、最後の最後でとても綺麗なアーチ形になっている。
しかし意図的な形状ではないだろう。
天井部分の崩壊や、風蝕、地表水による浸蝕などの影響で、自然と丸みを帯びたのだろう。
11:10 (隧道通過の所要時間は約3分)
待望の発見となった旧岩井寺隧道だが、更に望ましい貫通という成果まで挙げて、本日初めて旧大東町の領域へ突入した。
とても、良い気分です!!
旧大東町側も、当然のように隧道へのアプローチは廃道のようだ。
薄暗い切り通しの底であり、先もあまり見通せていないが、向かって左の隧道内壁をそのまま延長したような岩壁は、あまり風化も崩壊もせずに、隧道の内部以上に道の名残を留めている感じがする。
一方で右側の壁は、土砂と倒木ででほとんど埋れていた。
よし、GPS信号来た!
どうやら、「現在地」である隧道の南口はここにあるようだ。
改めて地図上での計測でも、旧岩井寺隧道の長さはおおよそ60m程度だと判断できた。
隧道南口の近景と、ちょっと遠景。
これ以上離れると、途端に坑口は見えづらくなる。
もともと山の窪んだところを掘り下げて、そこから隧道を掘り進めたようである。
水が集まる地形だが、そもそも集水範囲の山が低いから、岩壁は濡れているものの、溜まったり流れ出すほどではない様子。
この隧道、廃止されてから経過した時間が、使用されていた時間より遙かに長くなっているはず。
そのため、人が利用していた名残り、使用感までもが風化してしまっていると感じられるのは残念だが、山を貫通する隧道が掘られていた証拠としては十分過ぎる遺構であり、本当によく残ってくれていたと思う。
2023/3/19 11:11
旧岩井寺隧道の南口を後に、市道との合流地点を目指して歩き始める。
写真は、隧道に繋がる切り通しの出口付近だ。左の岩壁の上が本来の地表の高さだから、かなり掘り下げたところから隧道をスタートしていることが分かる。
この先は、竹林だろうか。道形があると嬉しいんだが……。
これは切り通しを出て少し進んだところから、隧道方向を振り返って撮影した写真。
まだ50mも離れていないが、倒木や土砂が邪魔で既に坑口は見えない。
そんな坑口がある切り通しの上部に、深く切れ込んだ部分があることに気付いた。
ちょうど峠の頂上だと思うのだが、かなり深い切り通しがありそう。
この位置に、切り通しがあるようだ。
旧岩井寺隧道開通以前の峠越えの遺構であれば、近世まで歴史を遡るものかもしれない。
当初の計画では予定していなかったが、間近に見える切り通しに行かないというのはパスハンターの名折れであるから、急遽引き返して、切り通しを目指してみることに。
まあ、ヨユーの寄り道ですな。
11:13
峠の切り通しへ登っていく道(現在の県道から見て“旧旧旧道”にあたるとみられる道)は、おそらく旧隧道の南口から素直に谷筋を上っていたと思うが、倒木が多く辿りづらいうえ、坑口前の切り通しによって一部が破壊されていそうだ。
それでも適当なところを歩いて登っていくと、切り通しの直前に明確な分岐が残っていた。
改めて「e-地図かけがわ」の詳細な地図を見てみると、ピンクでハイライトした実線部分には元の地図から細い道(徒歩道)が描かれており、私が切り通しの傍で出会った道はこれであるようだ(この道は地理院地図にも描かれている)。
また、私が登ってきたルートを破線で描いたが、こちらは元地図には描かれていない。
切り通し手前の分岐から、登ってきた南側を振り返って撮影。
チェンジ後の画像には、切り通しの底にあって直接は見えない坑口や隧道を、透過の表現で書き加えている。
向かって左に切り立った岩の崖があるが、これは旧旧旧道の峠の切り通しの始まりの部分であり、明らかに人工的に削られている。
で、その岩壁に割り込むような形で、前述した分岐の一方の道がある。
これがその道の様子だ。
岩崖を登る急な部分に階段状のステップが刻まれており、これまた明らかに人手が入っている。
旧旧旧道の峠越えをベースに考えれば、この道は切り通しから分岐して稜線上を目指す“脇道”ということになる。
この脇道の先へは行かなかったが、昭和37(1962)年の航空写真を確認したところ、登った先の稜線上に畑が点々と広がっていた。
旧岩井寺隧道は最近のどんな地図にも描かれていないのに、この道はそうではないから、案外最近まで耕作されていたと思う。
【小豆ボトル】の持ち主も、ここを歩いて畑に行ったものと思われる。
切り通し前で撮影した全天球画像。
@は、私が登ってきた南側の道で、Aが峠の切り通し。
そしてBが、稜線へ通じる石階段の脇道だ。
それでは、お待ちかね……
11:14
峠の切り通し。
これが想像以上に深く切り立っていて、びっくり!
信州街道の要衝に作られた【青田峠の切り通し】ほどではないし、平成生まれの【旧檜坂隧道跡地の切り通し】とも比較にはならないが、切り通しの下にあるのが明治22年以前に掘られた隧道である以上、この切り通しが峠越えの当代ルートとして盛んに整備されていた時期は、明治初期からその前ということになるはず。
そんなに大昔にこれだけ深い切り通しが作られているのは、それだけ重要な道だったということだろうし、明治以降だけで4世代の道がある事実も、同様のことを示していると思う。
切り通しの長さは20mくらいで、幅は4mほど。
歩行者向けとしては随分広く感じるが、前後の道はさすがに急傾斜過ぎて車が通っていたとは思えない。
深さも10m以上あり、ぶっちゃけ、ここも隧道だとしても不思議じゃないと思った。(だったらヤバかったな笑)
まあおそらくだが、最初にあった峠越えを何回か掘り下げて、この高さになっていると思う。
そうやって徐々に掘り下げてくると、深い切り通しが出来て、隧道にはなりづらい。
なおチェンジ後の画像は、北側から振り返って撮影した。
本当に立派な切り通しだが、ここに切り通しがあることで思い出されるのは――
――(↑)この明治22年の地形図にある不思議な表現よな。
何度見ても、切り通しの記号と隧道の記号が重なっているように見えるのだが、
まさかこれが、2世代の道がここに立体的に重なっていることを表現していたのだとしたら、
それは、“お見事”を通り越して、
真意が分かりづらすぎるだろ(笑)。
地味に探索前からの疑問であった明治22年地形図の表現問題にオチが付いたところで(本当か?)、引き返さず、そのまま切り通しを北側へ下ってみることに。
ただ、切り通しの立派さとは裏腹に、北側の下り道は、まるで滑り台みたいな窪んだ急斜面を、特段の工夫も無く、そのまま下って行くものだった。しかも、藪と倒木で見通しがたいへん悪い。
ここは本当に急なんで、これを回避出来ただけでも隧道は有り難かったろう。
で、ワシャワシャ掻き分けながら、地形に従って下っていくと……
11:16 《現在地》
ちょっと思いがけない唐突さで、見覚えのある穴が、見覚えないアングルでスポーンと出現!
旧旧旧道とみられる峠越えによって、再び旧岩井寺隧道の北口へ戻ってきたのである。
というわけで、戻ってきた。
ここで改めて北口の全天球画像を撮影。
最初来たときは、坑口以外に目が向かなかったが、その少し手前で切り通しへの道(旧旧旧道)が右に別れて“矢印”の辺を通って登っている。
隧道は、この峠の急な部分だけを回避する最小限度の長さで掘られていることが分かる。
11:17
再び、隧道を北から南へ通過する。
この隧道が探索対象だった一度目の通過とは異なり、純粋に通路として通るだけの二度目の通過。
探索じゃなくただ通られる方が、今のこの隧道にとっては新鮮な体験だろう。
ここに隧道があることに驚かず、当然の顔をして、平然と通る人って、逆に面白いだろ(笑)。
11:19
先ほど尾根に切り通しを見つけ引き返したところも直進し、そのまま進む。
この区間、もう何十年も手入れがされていないようだ。
地形的には何も難しいことろのない谷筋の一本道で、ただ下って行けば良いので迷うところもないが、とにかく竹藪の状態が荒れていて、通りにくい。
まあ、竹で隙間があるぶん、青田峠の笹藪よりは幾分マシだが……。
11:21 《現在地》
通りにくいといっても、距離は100mにも満たないから、藪に慣れた私のにゅるっとした動きをもってすれば、隧道の出口から3分ほどで市道(=旧道)に到達できた。
結局、脱出する最後まで荒れた竹藪が続いていた。谷の地形がそのまま道になっていて、特段の道路構造物が見当らない区間であった。
振り返り、これが旧道と旧旧道の分岐地点ということになるが、旧旧道が見えるかといわれれば、全く不明といわねばならない。
これはあれだ。迷わず行けよ、行けば分かるさってヤツだ。
私の言葉を信じて右の竹藪へ突入し、疑わず100mを頑張り抜けば、怪しい坑口がキミを出迎えてくれる。
11:22
こちらは旧道の岩井寺隧道南口。上の分岐地点から目と鼻の先だ。
自転車を北口に置き去りなので、歩いて取りに戻るところである。
たかが全長114mの隧道だが、私の過去15分ぶんの探索を、これ1本にまとめたようなものである。
そういう心境で見るせいか、数字から受ける印象よりは遙かに長く深いものと感じられる。
あと、やっぱり煉瓦の坑門はイイ! かなり痛みは進んでいるが、そこも含めて美しい。
ちなみに、【隧道内】もオール煉瓦だが、なぜか側壁からアーチの途中までが白く塗装されてツートンになっているのが、他ではあまり見ないオシャレポイントである。なんなんだろうね、この塗装は。
こんな古色蒼然とした明治隧道に、さらなる先代があったのは驚きだが、こうして両者の姿を比較できるようになってみれば、素掘りと煉瓦隧道で、明らかにこちらが新しい“次世代”の姿をしている。
11:27
自転車を回収し、南口前の旧道・旧旧道分岐地点へ戻ってきたが、旧旧道の反対側には、隧道名にもなった古刹、岩井寺(読みは地名と同じ「がんしょうじ」)の山門と参道がある。
明治22年の地形図によれば、旧旧道時代からここが山門であったようだ。
山門に立つ3本の石柱は1本だけが明らかに古く、その正面側には「遠江三十三番打留札所 小安観世音菩薩霊場」と刻まれているほか、側面に、「明治四十五壬子」と、明治45(1912)年に建立したことが刻まれている。
行基開山、空海行脚、足利尊氏を中興の祖とする名刹の存在は、近世において子隣村の一部を岩井寺村として分立させたのみならず、明治においては山門前に掘られた隧道にも栄えある名を与えたようだが、旧旧隧道が果たして「岩井寺隧道」と呼ばれていたかは机上調査の問題としたい。
というのも、旧岩井寺隧道を含む旧旧道は微妙にかつての岩井寺村(現在の掛川市岩井寺)の外に終始している。
まあ、昔の人がそのことを命名に関わるほど重大なことと考えたかは分からないが、とにかく厳密に見ると、旧岩井寺隧道は高瀬村(明治22年から佐束村、昭和30年から城東村、昭和48年から大東町、平成17年から掛川市)と子隣村(明治22年から上内田村、昭和25年から掛川町、昭和29年から掛川市。なおこの経過は岩井寺村と共通)を結ぶ存在であった。
11:28 《現在地》
山門から先も1.5車線の不足無い道が続き、約200m先、掛川市高瀬の高瀬上バス停附近で現県道と合流する。
写真は合流地点から振り返って撮影。
もちろん左が旧道だ。
この区間の現道も、檜坂隧道に対する現道と同じく切り通しによって尾根を越える方法を選んだので、岩井寺隧道に対応する新トンネルはない。その開通の時期だが、昭和52年の航空写真では影も形も無いが、同58年版ではすっかり出来上がっているので、この期間内だと分かる。檜坂の現道よりも数年程度古いようだ。
以上で、今回の探索区間は終了だ。
明治最古の地形図を手掛かりに、青田隧道、檜坂隧道、岩井寺隧道という、約4km圏内にある3本の旧道煉瓦トンネルそれぞれに対応する旧旧道世代の道を探る探索であった。
十分な探索成果が得られたが、帰宅後には、一連の道の歴史や気になる初代・岩井寺隧道の竣工時期について机上調査を行ったので、最後にそれを紹介しよう。
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