群馬県の一般県道である県道255号下久屋渋川線は、沼田市下久屋町と渋川市北橘町を結ぶ、全長約23kmの路線である。
その径路は全線にわたって利根川、もしくはその支流片品川の左岸に沿っており、利根川の右岸を通行する国道17号と好対照を示している。
渋川市は広大な関東平野の北端の一部であり、“坂東太郎”の異名をとる日本有数の大河利根川は渋川以北、沼田盆地に達するまでのあいだ、東側の赤城山と西側の子持山とに挟まれた狭窄部を穿入している。
この山峡を国道17号、JR上越線、関越自動車道、そして本県道が土地を奪い合うように通行している。
明治以前にはこのエリアを、中山道の脇往還である沼田街道が、高崎や前橋方面から本道と西通りの2本に分かれて細々と通っていた。
このエリアが交通上の要衝となったのは明治以後のことで、第一には国策として新設された「清水国道」が明治18年以後ここを通ったこと。
清水国道が明治半ばまでに廃道となった後も、引き続き「新三国街道」として沼田までの道は受け継がれ、従来は子持山の西側を通っていた中山峠越えの三国街道を主役の座から引きずり下ろした。この道は以後紆余曲折を経て、現在の国道17号となっている。
第二には、大正期より建設が進められた上越線の鉄路がやはりここを通過したことで、昭和6年に上越国境清水峠に日本最長の清水隧道が開通し、新潟方面と結ばれると、いよいよこの谷は交通上の衝となった。
これらの歴史に県道255号の名前は出てこない。
しかし、右岸の現国道ルートが確定する過渡期にあっては左岸の通過も真剣に検討されたし、かつて短期間ではあったが、国道の座を射止めた区間もあった。
また、大正時代には現在よりも遙かに路線は長く、「前橋片品線」と呼ばれていた。
現在の路線名は(大字名-市町村名)の組み合わせだが、旧称は(市町村名-市町村名)であったから、より重要度の高い路線名と感じられる。
静かに谷を往く県道255号に、古色の名残を求める旅の始まりだ。
2007/9/26 6:42
今回のレポートは、県道255号の最もハードでコアな中間部約10kmを紹介する。
現在地点は左図の下端付近、国道17号と県道255号を文字通り橋渡しをする県道70号、それと県道255号の交差点である。
ここを左折して県道255へ進む。
交差点の青看には、県道255号左折方向の行き先は「沼田15km」とある。
この時点では、特別に違和感もない。
実際に左折してみても、いたって普通の道だ。
このレポートの舞台は群馬県。山行がでは初めて登場する土地だ。しかし、私はこの9月末の探索以来、群馬の風土がいたく気に入ってしまった。一つの発見が次の疑問を呼ぶという理想的な展開のせいもあったが、この12月までに既に3度も群馬の土地で山チャリをした。
群馬には海がない。その代わり、南方に広がる関東平野が海がわりだ。一方、その他の三方向は高い山々に囲まれている。
全体が四角形の県土といい、3方向までを高い山々に囲まれた地形といい… 私の育った秋田に似ている気がする。
そして、この土地には気高く、そして愛すべき姿をもった独立峰が幾つもある。
代表的なものが、県土の中央付近に利根川を挟むように育った火山、赤城と榛名だ。
この写真は榛名山。群馬では、平地からも高台からもどこからでも、一目でそれと分かる名山を望むことが出来る。そういう土地柄である。
私にとって、チャリに跨ることが自然と楽しくなる土地柄… そう言っても良いかも知れない。
津久田の静かな家並みを抜けると、広大な畑が道の両側に広がる。
それも過ぎると、いよいよ眼下の坂東太郎が風景の主役となる。
対岸の子持山から下りてくる裾野と、此岸の赤城山が下ろした裾野とが、蛇行する谷底を結節点として一望の風景を形成している。
全体としては緩やかな、しかし細部を見ればなかなかに険しい山と川とのせめぎ合い。
人の営みは、家となり畑となり道となり、その各所に散らばっている。
県道255号も、これよりその一員となる。
集落を過ぎると路幅はやや広がって2車線になった。
赤錆びたガードレールや旧制の標識が点在しており、古くから使われてきた道を演出する。
それでも、渋川を始め前橋や高崎といった県内有数の大都市が通勤圏内にあり、間もなく訪れるラッシュアワーには、思いのほか通行量が多かった。
中には渋滞がちな国道17号の抜け道として通っている車もいそうだ。
左に複線の上越線の線路が寄り添ってくる。
並んで沼尾川を渡って少し登ると、狭い県道151号が右から下ってきて合流する。
いっとき重なるが、すぐに県道151は左折し、津久田駅前の終点へ向かっている。
県道151号は前橋津久田停車場線という名前で、不通区間こそ無いが、このエリアで有数の閑散路線である。
津久田の集落からはだいぶ離れた津久田駅を過ぎ、県道255号は果樹園の中の高台を走る。
標高的にはこの辺りが一つのピークになっており、これから利根川の狭窄部に呑み込まれていく。
それを前に、いろいろと想像を駆り立てる標示物が出てきた。
現役で稼働している古いタイプの道路情報板(現在は電光掲示板が主流)や、肝心の標識部が消えてしまい、何を言いたいのか分からない「この先100m」など。
ここが峠である。
2車線の道はここで1.5車線程度に狭まり、かつブラインドカーブで下りに転じる。
さらには、100m前の謎の予告を受け継いで、新旧様々な標識が並んでいる。
特に目を引いたのは、落石注意の標識に取り付けられた補助標識だ。
「ここから1550m」とある。
落石注意の標識に区間を示す補助標識が付くこと自体見慣れないが、その距離がかなり長いというのも、この先の“ガチッぷり”を想像させる。
6:57 《現在地》
かなりの急勾配で利根川の段丘崖下へ下っていく。
路幅は2車線に届かないが、それでもこの幅を確保するために削らねばならなかった崖の高さはものすごい。
垂直に近い(一部はオーバーハング気味だ)法面は、最大で高さ30mくらいあるだろうか。
吹き付けコンクリートの不気味な凹凸が、通行者に何とも言えぬ圧迫感をもたらす。
ガードレールの外は、まだだいぶ高さがあるが、チラチラと緑の隙間から水面が見える。
そして驚くべき事は、この見るからに険しい絶壁の道が、明治9年には既に開通していたということだ。
この道の先にある棚下集落や対岸の岩本に住む人々が、自分たちの不便を解消するため、馬車の通れる新道「鳥山新道」を、棚下と津久田の間に協力し合って開削したと言われる。その着工が明治7年、竣工は9年だという。
かの三島通庸も驚きの、実行力のある住民達であった。
明治初頭に住人達が独力で切り開いた古道。
その名残かも知れない地形が、今もこの岸壁にははっきりと刻まれている。
この二枚の写真を見て貰いたい。
おおよそ路面から10mほど高い部分に、法面の不思議な不連続面が存在する。
私のあたったどの資料にも、この奇妙な地形について考察したものはなかったが…。
画像にカーソルを合わせていただくと、この崖に見られる奇妙な不連続地形をハイライトする。
このように、断続的ではあるが、ほぼ同じ高さに続いているのだ。
旧道を拡幅して現道を作るとしたら、拡幅分の長大な桟橋を設置するか、或いはそこから切り下げて必要な路幅を得るかするだろう。
後者に拠ったとすれば、このような痕跡が現道の上部斜面に残る可能性はある。
残念ながら、ここへ登ることは極めて困難そうだ。
また、仮に上り得たとしても、一面がコンクリートの吹きつけで覆われている可能性が高い。
約500mで高低差30mほどを下降し、次なる平場へ着陸。
ここは利根川の蛇行とそれに削られた断崖によって切り離された土地。
明治の人が初めてここに道を切り開いた後、しばらくは住む人もあったのだろうが、現在は一面の山林に変わっている。
車が途絶えると、辺りは川の音も聞こえず森閑としている。
だが、「1550m」区間はまだ終わっていない。
路上に高く掲げられた通行止予告の標識には、「この先800m区間は連続雨量100mmで通行止め」とある。
傍らには黄色と黒で塗り分けられたゲートも隠されていた。
本当の難所は、まだこれからだった。
いまも、昔も。
路傍の林の中に、今もある程度原形を留める廃屋が何軒か並んでいる。
また、廃村となった跡地を有効に使おうなどと言う話も出たものか、「棚下キャンプ場」なる色褪せた看板や、一度はテントサイトに転用されたらしい緩斜面などものこっている。
如何せん、日当たりが悪すぎたのだろう…。
銘板もない橋が現れた。
2006年に渋川市の一部となり消えた勢多郡赤城村の村史によると、この橋は鳥山橋という。
昭和38年に架けられたものであると言うから意外に古い。
とはいえ、取り立てて印象に残る景色でもなかった。
写真だって、橋と隧道は必ず撮影する習慣から撮っていたに過ぎない。
図らずも、この橋とは後に再会することになる。
絶壁を越えて! 鳥山の W 隧道
7:02 《現在地》
鳥山橋を渡って進むと、再び法面が高くなる。
そして、いかにも大きな場面転換がありそうな、そんなカーブが現れる。
私は思わず息を呑む。
もう一漕ぎで、その景色の一員になる。
カーブの向こうに現れたのは、ブラウン管の向こうでしか見たことの無いような景色だった。
それは、まさに日本版の“ギアナ高地”?!
世界最大比高のアンヘル滝ではないが、その岩棚からはかなり大きな滝が落ちている姿もはっきり見えた。(棚下雌滝と呼ばれている)
朝陽を背にした尾根は真っ白く浮かび上がり、その向こうには何も見ることは出来ない。
対して、白い帯のような大岩盤には未だ一条の光も射さず、それが従える黒い森と共に沈黙している。
凄い景色だ。大迫力だ……。
で、でも。
我らが県道255号はどこを通るのか。
カーブの先へ進むにつれ、それはより深刻な問題に思われてきた。
もっとも、通行止めでないことは承知しているから、どこかに道があるはずなのだが。
この先の断崖地帯こそ、利根川左岸の交通の発達を幾星霜と阻み続けた“魔”の土地なのである。
特に、写真右側に写っている垂直の河岸は、そのまま蛇行する利根川に洗われており、迂回することが困難な崖である。
ほぼ水平に1km以上続き、ひときわ目立つ存在である奥の大岸壁も、手前の垂崖も、みな赤城火山の分厚い堆積物を利根川が延々と削り続けた、その痕跡であるという。
ここに、明治の人々は初めて、道を築いたのだ。
対岸には何とも長閑な森が見えるが、ここは現在「日出島(ひするま)キャンプ場」となっている。
この景色を見れば、誰だって初めから対岸を通行した方がよいと思うだろう。
この断崖絶壁に下流を阻まれ、また上流も綾戸峡に塞がれた棚下集落は、まさに陸の孤島であった。
とんでもない遠景を見せつけられた。
だが県道255号は気にせず前進する。
今に、おそらくはこのカーブを曲がってしまえば、そこには垂直の崖が待っているはず。
高度的にも、もはや迂回するつもりはないに違いない。
どうするつもりなのか。 私はまたも息を呑んだ。
幅員減少の標識一枚が、まず 現れた。
やはりこれだったか。
地図を見ていたのだから、存在は知っていた。
だが、実際に現れた隧道は私の期待を裏切らない、なかなかに風格のある姿だった。
垂直の崖が始まる少しだけ手前から、道は陸を往くことを諦めていたのだ。
それが賢明であろう事は、万人が認めよう。
まるで煉瓦のように小さなコンクリートブロックを積み上げたような外見の坑門。
さらに、アーチ部は重厚感のある石造で構成されている。
残念ながらコンクリートブロックらしい外観については本来のものではなく、後補のタイル張りのような気がしたが、アーチは本物だろう。
そして、御影石の銘板は左書きだが、なかなかに味わいのある平仮名書き。
とりやまずいどう
さらにその下には小さな文字で、「昭和廿九年三月竣工」と刻まれている。
珍しい、昭和20年代生まれの隧道である。
されど、この狭い隧道も、“坂東太郎”と道との果てしない闘いの、
私にとっての入口に過ぎなかった。
隧道の先に待ち受けるものはいったい。
そして、明治の初代ルートの行方はいかに?!
以下次回!!