2007/9/26 8:32
めくるめく明治隧道との逢瀬を終えた私は、身も心も充足して県道255号現道へと戻った。
そして、再び北へと走り始める。
間もなく林が途絶えて明るい平野が眼前に広がった。
隧道達の生みの親の末裔が住まう、棚下の集落だ。
しかし、今回は棚下集落については深く触れないことにする。
この地は掘り下げると深いのだが、それは次のレポで…。
というわけで、今回は
「変なもの発見!in TANASHITA」
をお伝えしてお茶を濁そうと思う。
まずは村の入口のトウモロコシ畑にて…。
近くで見たくない人、あるいはこの時点でちょっと嫌な感じがするなっていう人は、画像にカーソルを合わせずに次へ進んで欲しい。
待って!
男性のことも、忘れないでね!
やべー。
いったいいつの時代のノリだよ…。
この車の「あ〜、やっちゃったよ」程度の、悪びれてない表情が怖いくらい素敵。
あと、なんといっても撥ねられた男性の服装と、その妙に色っぽいポーズ。
これは本当に死んでいるっぽいな…。
で、棚下集落を通過(笑)。
利根川を左に見ながら、結構な急坂で登っていく。
そして、その終盤にこの標識。
「落石注意の区間指定」再びだ。
今度は350mと、さほど長くはない。
8:43 綾戸橋
登り切ると間もなくT字路になっており、左折すると綾戸橋で対岸の国道17号に結ばれている。
この、一件真新しい橋にも、長くて深い歴史があるのだが、それもまたいずれ。
今回は、あくまで県道255号に焦点を合わせる。
真っ直ぐ進むと、間もなく利根川の対岸に国道17号が見渡せる場所がある。
しかし、そこに見えるのは鋼鉄のアーマーを纏い、ヘルムをかぶった戦士の姿。
県道255号とは、時に仲間として、またあるときはライバルとして、明治・大正・昭和と歴史を刻んできた道は、遂に国道として不動の地位を手に入れた。
その代償として、美しい綾戸渓谷という車窓を失い、旅情とは無縁の、コンクリートと鋼の怪物にならしめたのだった。
再び現れた、大雨による通行規制の標識。
たった800mという区間ではあるが、通行規制区間に指定されている。
頭上の標識の他に、ひっそりと旧式の道路情報板が稼働している。左右の黄色いライトが交互に明滅する姿を見ると、なんだか嬉しくなる。
この形式の道路情報板はどんどんと減っている現状だ。
県道255号は、軟弱な道である。
綾戸梁という、観光梁場がここにある。
これを過ぎると、いよいよ通行規制時の通行止めゲートが現れる。
この日は解放されていた、通行止めゲートの前。
種々の標識がゴチャゴチャと並んでいる。
いずれも、この先の道が良くないことを連想させるものばかりだ。
い い ネ。 (笑)
うわっ、狭いな。
そう思った。
だが、その急に狭くなった道の行く手を目で追っていくと……
もっと
狭い穴が!
8:50
ここは、綾戸渓谷と呼ばれる利根川の狭窄部の上端部にあたり、これを遡ると再び川幅は広がって沼田盆地に出る。
この地点に、2本の対照的な鉄橋が並んで架かっている。
一本は上路のトラス、もう一本は下路のトラス。
そして、そのどちらもがJR上越線のもので、手前が下り線(旧線)、奥が上り線(新線)となる。
見ての通り、橋へは此岸の岩盤上部に穿たれた隧道から、そのまま繋がる構造となっている。
そして、この複雑な地形に、県道は真っ向から立ち向かっていた。
川と、岩山と、そして鉄道との隙間を縫うように!!
おいおい。
ここに欲しいのは高さ制限ではなくて、幅員の制限ではないか?
思わずそうツッこまずにはいられない。
そのくらい狭い。
直前で大型車の通行が禁止されていたが、納得せざるを得ない。これは物理的に大型車無理。
そして、なんと言ってもこの隧道(こちら側には扁額もないが、高岩隧道という)の変わっているのは、その坑門が、鉄道の橋台の一部となっている点だ。
そのまま、隧道に繋がる一連の構造物となっている。初めて見るぞ、こんな奇妙な坑口は。
詳しく見てみると、こんな構造になっている。
橋台は、「けたに注意」と書かれたボックスカルバートから始まって、その向こうの一旦広くなる場所を覆い、さらに先の同様の矩形断面の部分までだ。
更にその先の、照明が取り付けられている辺りは、純粋な道路隧道である。
上を通っているのは単線の線路であるから、これが線路のサイズに較べれば非常に大がかりな構造であることが分かる。
大正時代にこの上越線の旧線は開通しているが、最初からこれほどの構造ではなかったようである。
というのは、上の写真で見た2箇所の矩形断面部に挟まれた、少しだけ内空の広い部分からは右を見ると、右の写真のように、周囲は明らかに構造の異なる、おそらく大正の当時の橋台の一部が見えるのである。
ここに車道が通じたのは鉄道開通後であったから(古い地図だとここに車道はない)、無理矢理道路を通すために、だいぶ補強をしたと言うことなのかも知れない。
相当に大がかりな工事であったことだろう。
ちなみに、同地点から左を見ると、そこは大きな窓になっていて巨大な上路トラスの内枠を見ることが出来る。
電車が来ると当然、頭上の枕木の間に腹を見せながら通過していくことになるわけで、大迫力だろう。きっと。
そして、高岩隧道の本体へ入って行く。
不思議なことに、この隧道は現行の地形図において明かり区間の扱いになっていたりする(さっきの地図を見て貰えばそれが分かる)。
明らかに誤りだとは思うのだが、見た感じ全長100mはあるだろう県道の隧道が、全く無視されているのは不思議である。
また、『隧道データベース』によると、本隧道の竣工年は昭和26年であり、本隧道、不動隧道、鳥山隧道の順に、北側から順次開削されていった様子が伺える。
その諸元は、全長55m、幅員4.2m、高さ4.2mとあって、現在は
明らかに断面が縮小している?!
その代わり、
長さは倍くらいに伸びている?!
竣工当初に較べ、隧道は長くなったのに、断面は小さくなっているという、極めて奇妙な現象。
その謎を解く鍵は、後付けされた橋台部分にありそうだ。
つまり、竣工当時には橋台部分のボックスカルバートは存在せず、鉄道とは無関係に隧道だけが存在したのではなかったか。
そして、当初の坑口は、今私が立っている、ちょうどこのあたりにあったと考えられる。(写真は振り返って撮影)
その根拠として、この写真の右に写っている鉄格子のはまった窓…
ここから外を覗くと、見えるのだ。
旧道が…。
おそらく、昭和26年の初代隧道開通以前の旧道である。
そして、その旧道は、現在では隧道の中途であるこの地点より、始まっている。
アクセスは不可能だ。
そんな謎解きをしながら、いよいよ高岩隧道の胎内へ。
ご覧のとおり、その線形は奇妙に捻れ、蛇行している。
なぜこうである必要があったのか。
いま、ここでそれを知る術は無いが、一つ言えることは、この隧道が岩盤の極めて浅い位置を通過していると言うことだ。
外部の地形が、この不思議な蛇行と関係しているかも知れない。
初めは見えないが、中程まで進むと出口が見えてくる。
両出入り口を付近を除いては、素堀にコンクリ吹き付けのままの状況であり、先の鳥山・不動両隧道に較べると規格は低い。
しかし、確かに橋台部分よりは幅も高さもあり、これが本来の諸元の由来であると確信できる。
そして、サプライズは、この出口の先にも待っていた。
また、鉄道が…。
と、思わず唸ること請け合い。
入口が鉄道の橋台なら、出口もまた、橋台の真ん前である。
なんという、道路と鉄道のニアミス!
ちなみに、高岩隧道のこちら側の坑口には立派な扁額が取り付けられていた。
銘板には隧道名の他、「昭和54年3月竣工」の文字。どうやらその時に、橋台と一体化する改良を行ったようである。
そして、この北側坑口脇からは、なんとか旧道へとアプローチすることが出来る。
頭上の鉄道トンネル(棚下隧道という)から流れ出しているらしい水が伝う、高岩隧道坑門の壁に沿って歩くと(この辺りは、昔のTVゲームの隠し面なんかを探していく気持ちがする)、その先に、狭い平場が、崖のただ中に現れる。
ここから振り返り見上げると、利根川第四橋梁という名の付いた上越線上り線の鉄橋を間近に見ることが出来る。
現在は2本の鉄道橋に占拠された感のあるこの一帯だが、明治の古くはここに、人道橋としての木橋か、あるいは吊り橋が存在したとも言う。
この話はまたレポを改めるが、現在の綾戸橋の代替わりは、この場所から始まっていたという情報を得ている。
水面からはおおよそ10mほどの岩場に、旧道は水平に刻まれている。
思ったほど崩壊もしておらず、日陰のせいか藪にもなっていない。
昭和26年以前の道だった。
幅は1.5〜2mほどか。
写真では、瀞になった水面に映った下り線の鉄橋が奇麗だ。
片洞門とまではいかないかも知れないが、削り残された岩盤が頭上にオーバーハングしている。
そして、旧道は隧道の全長ほどの距離しかなく、大体50mほどで終了する
旧道の行く手を最後に遮るのは、コンクリートの壁(現道の隧道の外壁)と、巨大なトラスの鉄橋である。
写真では分かりづらいが、黄色い線の部分は現道の路面が見えている。
ここで奇異なる道路と鉄道のニアミス風景を撮影していると、突然頭上のトンネルが騒がしくなった。
どうやら列車が来たようだ。
そして、間もなくオレンジと濃い緑の列車が飛び出してきた。
これだけごく間近(真横)で聞くと、巨大な鉄橋の軋みというか、重量物に激しく叩かれる金属音が凄かった。
8:56
奇妙な隧道を抜け、ここに、私が県道255号で見たかった景色を全て攻略した。
写真は隧道を少し離れてから、振り返って撮影している。
鉄道のトンネルの坑口上に設置された雪崩覆いのゴツさは一見に値するものだ。
全体が巨大なヒンジ構造になっているのも面白い。一応は、棚ぼた的に道路も守られている。
それはいいのだけど、右の写真…。
えーッ!
どこから“工事用車両”が出てきますか〜?!
猫車くらいなら、出入りできないこともないかも知れないが…。
少し進むと一本の橋が架かっていた。
高岩橋といい、『赤城村誌』によれば昭和26年に架けられたという。
先ほどの高岩隧道と同じ年の竣工だが、路幅が全然違う。
落ち着いた雰囲気の古びた橋だなと言うだけで、これといった特徴も無いかと思いきや、その銘板に珍しい表記があった。
前橋側の袂に立つ親柱の片方には、「片品へ41.0KM」、
反対の片品側の袂の親柱の銘板には、「前橋へ31.0KM」と記されていたのだ。
まさに、この県道255号「下久屋渋川線」の旧称である「前橋片品線」を彷彿させる表示。
橋の銘板にこのように道しるべ的なものが書かれているケースは稀で、私は他に数例しか知らない。
同路線上でも、他の橋の銘板ではこのようなものを見つけられなかった。
橋が跨ぐ川の名が、村誌には「渓流」とだけ書かれてあり、銘板に何を書くか悩んだ末のことかも知れない。
さらに進むと、徐々に周囲の山肌の傾斜もなだらかに変わってきて、難所を越えた感じがする。
間もなく片品側の通行規制ゲートが現れた。
なんだか、いつでも封鎖できるようにスタンバイオッケイという感じが…。
冬期閉鎖のない道路では、大概ゲートも朽ちかけていたりするのに、ここは元気そうだ。
そういえば、11月に再訪したら、ここ封鎖されてたっけな(笑)。
9:09 【現在地】
葦ヶ沢橋。
ここが、渋川市(旧赤城村)から昭和村への境である。
道はここからら2車線の平凡健全なものに変わり、沼田・片品方面へと続いている。
私の旅はまだまだ続くが、このレポートで伝えたいことは、ここまでだ。