群馬県道255号 下久屋渋川線 第2回

所在地 群馬県渋川市〜昭和村 
公開日 2007.12. 1
探索日 2007. 9.26

 瀑布の下の明治道を追う 

 県道255号 鳥山隧道 そして


2007/9/26 7:06 

 銘板によると、昭和29年に竣工したという鳥山隧道。
隧道データベース』によれば、延長46m、幅員4.6m、高さ5mというスペックである。
隧道が竣工した当時は、まだ路線名は現名ではなく、前橋片品線であった。(下久屋渋川線となったのは、昭和34年)


 鳥山隧道の終わりは、次の隧道の始まりでもあった。
ごく短い明かり区間で向きの違う隧道を結んでいるため、そこはかなりきついブラインドカーブになっている。
対向車の接近を知る術は、日中の場合一枚のカーブミラーに委ねられており、これは明らかに危険な線形であるが、地元の慣れたドライバー達は容赦なく飛ばしていた。



 続けて現れたのは「不動隧道」で、隧道を繋ぐロックシェッドによってその銘板は隠されている。
ふたたび『隧道データベース』によると、延長51m、幅員4.4m、高さ5.2mとあって、高さや幅と言った規格も微妙に異なっている。
さらに、竣工年が昭和27年と、これまた鳥山隧道とは異なっており、一連のものとして建設されたに違いない筈だからこそ、やや奇妙な感じを受けた。
施工業者が異なっていたのか。

 風雨にあたらないせいか、出来たてのように奇麗に見える鳥山隧道の北側坑口。
その銘板は半分近くロックシェッドにかかってしまい読めないが、「鳥山隧道」とあることが判読できた。
なお、ロックシェッドにも工事用銘板があり、それによると、昭和63年9月竣工、全長8.8m、崩落土砂荷重16トン/平方メートル。比較的新しい。



 断崖に口を開けた窓のような、明かり区間。
ガードレールから身を乗り出してみると、眼下に利根川の鏡のような水面が見えた。
窓の外にはそのままコンクリートの壁が切れ落ちていて、まったく人が立てる場所はない。



 これは、対岸の日出島(ひするま)キャンプ場から眺めた棚下ロックシェッド。

一目見たら忘れられない、インパクト抜群な姿である。
そこに道路があると知らなければ、意味が分からなそうな景色。
「日本の道路特異点」の特殊景観部門にノミネートされるに違いない。(今作ったんだけどね)

それにしても、この断崖絶壁のどこを、明治道は通っていたのだろうか。
実は、今回の県道255号探索の最大の目的は、この鳥山隧道・不動隧道に代わる明治道のルートを特定することにあった。

発端は、ある読者から通報だった。
この附近に、「明治時代の隧道」といわれるものがあると。そういう情報だった。



 その明治時代の隧道とやらは、「棚下不動滝」というところへ行けば、案内が出ていて自然と分かるという。
そして、地図を見ると棚下不動滝はこのもう少し先、不動隧道を抜けた先にその入口があるようだ。
明治時代の隧道自体がどこにあるのかは、この時点で不明であった。
故に、私は普段以上に周囲の風景に神経を集中していた。
そこに道たり得るような平場が感じられれば、すかさず撮影し、そこが本当に道なのかを確かめようとした。

 ロックシェッドの隙間から不動隧道の外側に見えた、この写真の緑の部分も、何となく道らしい感じがあった。
しかし、ここから直接行くことは出来ない。
羽根が必要だ。



 不動隧道へ進む。
洞内は薄暗く、また幅が狭く天井は高いため、鉄道用の隧道を転用したような雰囲気がある。



 不動隧道を抜けると、続いて不動橋に差し掛かる。
この橋は全長4mほどで、竣工は昭和36年。
2本の隧道よりはいくらか若く、当初は木橋だったものと思われる。
橋の袂は日中でもナトリウムライトが点灯しており、谷底の薄暗さを緩和している。



 不動隧道の北側坑口。
こちらの隧道の方が2年ほど古いにもかかわらず、鳥山隧道とは違って坑門は全くの無装飾である。
銘板には「不動隧道」「昭和二十七年三月竣工」とある。
これは一部想像も含まれるが、おそらく2本の隧道は南口銘板が平仮名、北口銘板に漢字名を記したのだろう。
比較的珍しい。




 不動隧道の旧道なのか?!


7:11

 不動隧道を抜けて不動橋を渡ると、ほぼ直角に左折して険しい岸壁に沿った道になる。
左の写真は、そこから不動沢の対岸を撮影したものだが、こちらの道とほぼ同じくらいの高さに、やはり崖を削って道を作ったような痕跡が見える。
これが明治の道の名残なのではないか。
私はより注視してみた。

 すると…



 あうあうあう…

石垣が有りやがるぞ。

き、 決まりだな…  旧道臭い。




 位置関係はこんな感じ。

その前に。
この地形図は原図からして少し間違っていると思う。実際にはこんなに道と川が離れてないような気がするんだが。特にロックシェッドの部分が川から100m近く離れているように描かれているが、これは誤りだろう。

ともかく、石垣が見えた位置はこのように、不動隧道を迂回するような山腹である。
至急戻って急行することに。



 さきほどの不動隧道北口には、行こうと思えばガードレールを乗り越えて沢伝いに下流へ向かう平場がある。
もっとも、坑口の前からだとそこに道があるようには見えない。
対岸からだと、ご覧の通り鮮明である。

 はたして、これは明治ルートなのか?!




 で、早速踏み込んではみたのだが、いざそこへ立ってみると、石垣を探すどころではなかった。
路肩に石垣が築かれているのは間違いないのだが、度重なる崩壊のため、路面全体が斜面になっていて、しかも崩壊は頻繁なのか手掛かりとなる木も少なく、好奇心を満たすために路肩へ近づくことは無謀だった。

 特に、初めのうちは不動沢というそれほど深くもない沢が相方だったから良かったが、30mほど進むと利根川の本流が崖下に現れてきて、ガチンコ勝負の様相を呈してきた。
進めるか進めないか微妙なくらいの難易度で、それがまた嫌らしいのだった。



 肩が触れる位置にある崖は、果たして人が削ったものか、或いは川に削られたものなのか。
一様に砂っぽい斜面は火山灰などで、風化が進んでいて判別が付かない。
もし道だったとしても幅は非常に狭くなっており、石垣も不動沢に面している序盤にしか無かったと思われる。

道を外れておおよそ70mか80mか、慎重に5分ほどかけてここまで来た。

騙し騙し進んできた足場も、遂にここで完全に途絶え、一歩も前に進むことは出来ない。

こちら側からは現道に戻れないのだ。 分かっていたことだが…。



 果たしてここまでの地形は、道の跡だったのか。

おそらく答えはYESだろう。

断崖の鋭角な姿を見てもお分かりの通り、この崖は今も盛んに利根川に削られ続けている。
だから、明治なのか、或いはその後かは分からないが、石垣を築いた道は確かにこの崖を回り込んでいたのではないだろうか。




 しかし、今日ではこの不動隧道を半ば迂回する地点まで辿ることが限界で、残りの鳥山隧道に対しては全く道の痕跡を見つけられない。

また、これは完全な推論だが、鳥山隧道と不動隧道のうち、鳥山隧道は昭和29年の竣工以前から当地にあったということも考えられる。
つまり、不動隧道が出来る前から鳥山隧道は存在していて、当時は今の私の立ち位置から桟橋か何かで鳥山隧道にアプローチしていたのかも知れない。
そう考える根拠としては、次の二つが挙げられる。

  • ここにはわざわざ2本の隧道を掘る必要性が感じられない。仮に一本の直線の隧道を掘ったとしても、距離的には100mにも満たなかったはずだ。
  • 迂回路が存在する不動隧道の方が竣工が古いというのは奇妙だ。
  •  その真相は、まだ分からない。

    いずれにしても、情報にあった明治隧道というのは、ここではないようだ。
    先へ進もう。




     急勾配&見晴らし最高の参道


    7:20 《現在地》

     県道に戻り、チャリを拾って前進再開。
    いくらも行かず、解放されたゲートが現れた。
    連続雨量100mmでの封鎖ゲートであり、前回見た「落石注意1550m区間」の終点でもある。
    そして、「棚下不動の滝」と書かれた大きな看板のある駐車場が右手に現れた。
    どうやら、滝へはここから入るらしい。
    情報によれば、明治時代の隧道もここから入ると。

     入口にはそれらしい案内はないが、右折する。



     ものすごい急坂の道で、これまでの進行方向と逆行するように南へ登っていく。
    確かに道の狭さといい、明治時代の馬車道だと言われればそんな気もするが、如何せん急に過ぎるような感じもある。
    とにかく、ぐいぐいと高度を上げていく。



     自転車に跨って進むのは、最も軽い変速に切り替えてやっとというような急坂。
    しかも、路幅も非常に狭く、軽トラサイズ(=馬車サイズ)といったところ。
    舗装はコンクリート舗装で、かつ施工時の管理体制が杜撰だった証として、ネコ車のものらしいタイヤ痕が鮮明に残されていたりする。
    いかにもローカルな道だ。



     しかし、この写真を見て欲しい。

    いくら何でも、ガードレールは最後まで作って欲しいよ…。
    怖すぎだから。
    これは怖いって!



     路肩がそのまんま、真下を通っている県道(さっき通ったばっかりだ)の法面なんだもの。

    怖いもの見たさで身を乗り出してはみたが、高所恐怖症の人だったら失神しかねない。
    チャリで下ってくるときにハンドル操作を誤ったら、今まで見たことの無いような凄いハイパージャンピングが出来そうだ。




     しかし、その分ここからの眺めの良さは申し分ない。

    今私のいる道を作ったのは、眼下右手に広がる棚下の人たちだという。
    家並みも多く、そこそこ開けている土地に見えるが、それは近代に入って交通が発達したからで、向かって左手の日出島集落が川の蛇行の突端という袋小路にあって、家並みが疎らであるのとは対照的に見える。

    明治時代のごく短期間だけ、この両者は“国道”で結ばれていたが、それはまた別の機会に紹介したいと思う。




     ひとしきり登り切ると、道は穏やかになる。
    バンガロー風の公衆トイレや、真新しいコンクリートの法面など、ここが生きた観光地であることを思い出させられる。
    平日の早朝から訪れるのは私くらいかも知れないが、この先にある棚下不動滝(雄滝)は、かの有名な「日本百名瀑」にも選ばれている、全国屈指の滝なのである。
    地元が力を入れて整備するのも頷けようというものだ。



     一見突き当たりと思える場所に到着。
    この先は棚下不動の境内で、鳥居をくぐって滝へ参詣するには真っ直ぐ進む。
    しかし、足元の平坦な路面をなぞって視線を右に向かわせると…。




     まだ道は続いていた。

     小さな橋の入口には立ち入りを禁止するかのようなチェーンがかけられ、目立つように「車両は通り抜けできません」とある。
    そして、その傍にひっそりと佇む、「鳥山隧道」の案内板。
    なぜか百合の花が一緒に描かれている。

     舗装されているのはここまでだが、車両でなければ隧道を抜けて通り抜けが出来そうな感じだ。
    チャリくらいなら、どうにかなりそうでもある。
    「鳥山隧道」ならばさっき通ったばかりだが、おそらくこれが向かうのは、初代の、明治のそれであろう。




     棚下不動と雄滝


     道を折れて鳥居を潜り、多くの石仏や石標が残る境内を通り抜けると、滝のある奥の院へ向かう階段が始まる。
    こちらの道は明治道とは無関係だが、せっかく間近に日本百名瀑があるということと、棚下集落の発展を支えたお不動さまに一礼すべく登ってみることにした。

    明治に「鳥山新道」の開通で交通の便が改善されてから、この棚下不動への参詣客は増え、彼ら相手の宿商売や物売りで棚下は発展の素地を得たという事実がある。




     この長い階段のちょうど中程、向かって左側の山腹にご覧の穴がぽっかりと口を開けている。
    これは古い灌漑用水路の跡で、起源は分からないが、昭和の初め頃には存在していた。そして棚下用水と呼ばれていた。
    現在はほぼ全線が地下化および広域化され、「群馬用水赤城幹線」としてなお人々の生活を支えている。
    これは、その名残だ。

     境内には、昭和29年にこの水路の復旧工事をしていて事故で亡くなった棚下村の二人の慰霊碑が建っている。

     水路隧道の内部は今ではすっかり乾いており、樋の跡も残っていない。
    また、落盤が激しく、内部は閉塞しかかっているが、段差のある場所にはなぜか梯子がかけられ通り抜けは可能だ。
    しかし、その先「雌滝」の下まで伸びていた水路部分は、到底歩けそうにない状況だった。






     棚下不動滝(雄滝)である。

    流石に日本百名瀑に数えられるだけある。
    落差37mを放り出されるようにして落ちる水。
    滝壺から弾ける音が、神の悪戯以外の何で出来たものかと不思議に思うような大岩窟に反響し、苔むした石仏と静と動の限りないコントラストを演出する。

    素晴らしい滝だ。
    満足&満喫したので、本題の明治道に戻ることにしよう。




     次回は、“初代”鳥山隧道に出会う。