2019/4/2 16:01 《現在地》
史上最短クラスの洞内探索を終えて、地上へ戻ってきた。
まだ喜びの色は醒めやらないが、隧道の残り半身を捜索すべく、すぐ手の届く位置に見える稜線を乗り越えて裏側……そこを清内路側というべきか大平側と呼ぶべきかは、途中で行き先の変った峠だけに悩ましいが……、とにかく反対側へ行こう。
まずは、開口部の上部にある陥没痕らしき窪地を目指した。
こうして近づいて見ると、下から見た印象より大きな陥没穴だった。しかも、坑道をなぞる方向に細長く凹んでおり、峠側は地中の岩盤が露出するほど深かった。
やはり隧道の落盤を原因とした陥没の痕とみて間違いないだろう。
この陥没した土量に匹敵するものが、あの狭い洞内を埋めているのだから、ここが廃止の原因となった落盤だとしても、その復旧は簡単ではなかったと思われる。
大金を投入して(さらに最新技術のコンクリート巻き立ても投入して?)建設した虎の子の隧道を、僅か数年の使用で放棄すると決断させるほどの崩壊とは、果たしてどれほどの規模のものだったかのかは気になるところだが、何メートルも離れた地上に陥没を生じさせるほどの崩壊だというだけでも、問題の大きさは伺えた。
もちろん、際限なく時間とお金を投入できるならば復旧は可能だったろうが、当時、そういう決断に至らなかった妥当な理由があったということだろう。
それには、隧道前後を含めた峠道全体の利用度も含めて考慮すべき要素が多く、この景色だけを見て推測することは難しい。
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さらに、この陥没地では新たな謎にも遭遇した。
上の画像をグリグリして、私の足元あたりを見て欲しいのだが……。
陥没地の一番下の低いあたりの地面に、加工が疑われる二つの岩塊を発見した。
次の写真は、凍り付いた表面の雪を少しこそげ取った岩の表面だ。
岩の表面には、石ノミのようなもので加工したような痕が、ところどころ残っていた。
岩全体の形は直方体に近く、サイズも似通っている。
これも人為的な整形を疑わせる要素だ。
岩質自体は、あたりで採取されるものだと思うが、これが加工された石材だとすると、隧道の近くで発見されたことに意味があると考えたくなる。
隧道が陥没したことで、岩の位置が動いている感じもあるが…。
さらにもうひとつ、陥没地の上端より上の斜面(峠側の斜面)でも、同じようなサイズと形をした岩の発見した。
こちらはさらに形が整っており、明らかに人工物だと思う。
果たして、これら3つの石材らしきモノの正体は?
私にとって一番夢のある想像は、隧道の坑門や内壁の構築に用いられる予定だったが、何かの事情(例えばコンクリート巻き立てへの計画変更)により使われず、そのまま地上に放置された加工済み石材だとする説だ。
過去の経験でも、群馬県の数坂峠に明治未成隧道の石材遺物群を見つけたことがあり(自著『廃道探索 山さ行がねが』にレポートしている)、鳩打峠は未成隧道ではないらしいが、隧道付近に未使用石材が散乱しているという状況は似通っている。
ここは鳩打峠の古道とも隣接しているので、そちらで使われたり、使おうとしていた資材である可能性も排除できないが、一般的な石垣を構成する部材は直方体ではなく角錐であることが多いし、隧道の坑門や内壁の石材に似ているというのが、私の偽りざる感想だ。
辿り着けていない洞奥部分に、このような石材で覆工された坑道が伸びている可能性もある。
この謎の石材たちは地味な存在だが、まだ見ぬ洞奥の風景や、建設当時の過去の景色を、私が想像する材料としては、とても魅力的だった。
坑口から陥没地へ登り、そこからやや右に逸れて稜線へ登ったところに、鳩打峠の切り通しがあった。
ひとつの切り通しに吸い込まれていく2本の道が、そこにはあった。
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全天球画像で、ここにある全てのモノの位置関係を一望にしたい。
こうして見ると分かるが、三つの謎の石材が見つかった場所は、
峠を越える古道の真下ではないから、そこから転げ落ちたものではないと思う。
また、予め場所さえ分かっていれば、峠道から隧道を目指すのは容易い。
だが、知らない者が目視のみで見つけ出すことは、ほとんど不可能だろう。
大きな陥没地でさえ、よほど注視しないと見えないし、僅かに露出した開口部の目視は不可能だ。
16:11 《現在地》
少し峠から離れて、切り通しを臨んだ。
たいして違いはなさそうな2本の道が、絡み合うように峠へと達していた。
この2本の道は、峠の長い歴史の中にあった、小さな改良を物語っているのだろう。
微妙に勾配が緩やかだが迂回のある道が廃れ、近い道が今は使われている。
地味な峠だが、2世代の隧道の存在を含めて、案外に複雑な経緯を隠し持っているらしい。
峠を越えた行き先が、途中で大きく変化したこととも、関係があるのだろうか。
同一地点から、麓方向を振り返って撮影した。
2本の道はひとつになって、杉林を足早に下って行く。
正面奥の明るい藪の下が、今ではもう何の価値もなくなった“第1擬定地”だ。
また、ここから初代隧道へと通じる道の【分岐地点】まで、僅か100mほどである。
繋がりを確定させるために、荷物を置いて小走りで往復してみたのだが、3分ばかりで目的を達成できた。
「信濃路自然歩道」になっているだけあって、歩き易い道である。完全廃道の“隧道道”とは訳が違う。
16:16 《現在地》
鳩打林道の起点から探索を開始してから約2時間、自転車と徒歩を使って鳩打峠の頂上を極めた。
海抜1173mとしている資料もあるが、地形図上では1150〜60mの高度に鞍部が描かれていて、鞍部中央に刻まれたV字型の切り通しが道である。
切り通しの中ほどにプラ板の道標があり、信濃路自然歩道がここを左折することが示されていた。
峠の本来の道筋は間違いなく直進だが、その方向の行き先表示はない。
地形把握のため、少しだけ信濃路自然歩道を辿ってみた。
切り通しの底から急坂で這い出したあとには、南進する尾根道がゆったりと伸びていた。疎林の隙間に見える尾根続きの高まりは、道標に名指しをされた高鳥屋山(標高1398m)だろう。
おそらくこの尾根道も登山目的で古くから歩かれていただろうが、生活の道ではなかっただろうし、すぐに引き返した。
廃道が、いらっしゃいませをしていた。
見慣れた景色が、切り通しの分岐から始まっていた。
この先は積極的に封鎖されているわけではないが、倒木や笹藪の存在が物語っている。登山目的なら、これより先は道間違いの領域だろう。
鳩打峠は麓から見れば十分に高さを感じる立派な峠だが、この頂上が市町村の境となったことはなく、引き続き飯田市大瀬木地籍の山林が広がっている。しかし林相はがらりと変って、淋しげな景色である。
私は初代隧道のまだ見ぬ裏口を探すべく、峠を越えた。
目的地は遠くないはずだが、足元の道を辿ることで到達出来るかは、分からない。
長いあいだ踏まれてきたであろう峠道は今なお鮮明で、これを素直に辿っていけば、遠からず林道に降り立てることだろう。
疎林の森の古道はいかにも私好みに淋しげで、ただ無心に歩きたい気持ちを生じさせた。しかし、私がここへ来た目的は、この古道の踏破ではない。
初代隧道の捜索を続ける。
既に一方の坑口を発見し、その位置を確定しているだけに、残されたもう一方の坑口の位置を特定することについては、とても有利な状況になっている。
峠からの比高が20〜30mとはっきりしているので、その範囲内の斜面を重点的に探せばよいし、峠を挟んで両側に同じような谷が向き合っている地形のため、探すべき谷もその一箇所だけである。
坑口擬定地と考えられる谷を路肩から覗き込んでみた。
深さは感じるが、悪い地形ではない。
あちら側ほど藪が深くないのがありがたい。
その気になれば駆け下りて行けそうだが、谷のよさげの高さにこの道の続きと思われるラインがうっすらと見えていたので、ここは素直に道を辿って谷へ入ることを選択した。
16:20 《現在地》
分岐だ。峠から50mほど緩く下った先で、道は二手に分かれていた。
まっすぐ行く道の方がここでは目立っているが、これを行けばおそらく最短距離で現在の鳩打隧道の北口辺りに下りられそうだ。古道として一番素直な道だと思う。
しかし、隧道擬定地である谷へ入っていくのは、切り返していく左の道だ。
直前に見下ろした谷の中の道形に通じているのもこちらだろう。
悩むことなく左の道を選択した。
しかしこの後、二つの道が再び合流するのか、あるいは別方向へ下りていくのかは、気になるところである。
あ〜〜。 良いねこの谷!
すげー分かり易い、隧道があるならここしかないと思える地形! しかも見通し良し!
あとは、開口部が残っているかどうかだが、おそらくこの道よりはもう少し下だと思われる。
“★印”の地点から、下を覗いてみよう。 頼むぞ〜。
2019/4/2 16:22
初代隧道の北口擬定地付近に辿り着いた。
隧道発見の興奮、ふたたび、なるか?!
駄目!(涙)
見通しが良すぎて、一望で駄目だと分かった。 分かってしまった。
南口のように、藪のせいでうっかり開口部を見逃しうるような地相ではない。
疑問を残したまま立ち去ることにならなかったのは、研究者としては喜ぶべきことだ。
だが探索者としては、残念だった。
道がU字型に回り込んでいる眼下の谷間全体が坑口擬定地だが、
道はこの先、切り返しながら緩やかに擬定地前へ下っていくようだ。
つまり、隧道を有していた世代の道との合流地点は、「★印」のところだ。
ショートカットは簡単だが、焦らず足元の道を辿ってそこを目指すことにした。
大きな画像だ。
大きな画像なら、何か見せたい発見が写っていると期待したかもしれないが、
残念ながらこの画像をいくら拡大しても、鳩打峠の穏やかな地肌が精細に見えるだけで、
ここになければならない隧道の面影は、全く見えなかった。疑わしい凹凸さえない。
この斜面の風景から読み取れる示唆があるとしたら、それは、
隧道を完全に没するだけの斜面の流動があったのではないかということだ。
植物が繁茂し、落葉が堆積し、雪が積もり、小石が斜面を転げ落ちた程度では、
それが百年分繰り返されても、隧道の痕跡が完全に消えることは起こらない。
いわゆる険しい地形とは正反対である穏やかなこの土地が、
実は隧道の存続にはとても不利な性格を持っていた可能性が極めて高い。
なだらかとは、言い換えれば、風化した地形、風化しやすい地質のことであり、
そのような土地に建造された隧道は、よほど手をかけて守り続けなければ、
容易く地形の中に没してしまう。そのことを再認識させたのが、この景色だった。
北口擬定地直上を通り過ぎた。
穏やかな道形が鮮明に続いていた。
隧道を掘ろうとさえしなければ、そうそう地形が牙を剥くことはないようだ。
今いるこの道は、下りはじめてすぐに【二手に分かれた】うちの一方だが、車道を感じさせる勾配を保ったまま、崩れ去った初代隧道の北口擬定地前へ順調に下っている。
この道と初代隧道を通っていた道は直接繋がっているので、世代的にも隣り合っている可能性が高いのだろう。
鳩打峠の終盤も差し掛かったいま、この地で見た何本もの道たちが、私の描く一つの時系列(ストーリー)上に粛々と並び始めていた。
ストーリーの完成には決定的なピースが不足していることを自覚するが、あるもので足りるストーリーを推測することも私の楽しみだ。
ごく狭いスペースで180度の切り返しを回った。
明らかにこれは自動車向きの線形ではなく、リアカーのような荷車や、あるいは牛馬の通行を想定したような感じである。現代の道ではないということを強く感じた。
この向き直って正面に見える谷が、峠直下の北口擬定地の谷だ。
既に隧道が開口していないことは見てしまったが、なくなってしまった隧道を思い描くには、正面アングルが必要だ。
16:26 《現在地》
北口擬定地谷の入口に到達した。
既に閉塞だと分かってしまっている擬定地へ近づいていく状況を読まされる皆様はきっと盛り上がっていないだろうが、私の中ではまだ、隧道を発見してから30分も経過していない状況であり、興奮が継続している中だったから、皆様とは違った印象でこの時を迎えていた。
すなわち、二つの坑口のうち片方しか残ってないことは、先の坑口発見の希少性を際立たせる事態であるというふうに前向きに捉えた。
北口喪失が嬉しかったわけでは決してないが、あの笹藪の中で見つけた小さな開口部が一層愛おしいものと感じられる効果はあった。
改めて、北口擬定地の入口へ。
地形のスケール感が感じられると思うので、まずは動画をご覧いただきたい。
開口こそしていなかったが、この北口は先に見た南口以上に隧道のオーラを感じる地形だった。
それゆえに見応えがあった。
擬定地は、谷の入口から奥へ向かって、擂り鉢のようにシームレスに勾配が変化しており、
どの位置から隧道が始まっていたのかが、観察しても分からないような状況だった。
仮に、谷の入口に北口があったとすれば全長は約100m、一番奥なら全長60m程度だが、
可能性の最も高い坑口位置は、写真に書き加えたように、谷の一番奥であったろう。
現在の谷の中にはなだらかに土が滞積し、オレンジで着色したような地表面になっているが、
隧道に通じていた道はほぼ水平に進行し、谷の傾斜が急になる位置に、小さな坑口を設けていたであろう。
……この推定が当たっていれば……。
谷の一番奥までやってきた。な〜んもないけどな。
しかし、ここを5mも掘り下げることが出来たら、何か出てくることは間違いないと思う。
とはいえ、坑口が原形を留めたまま地中にあるなら、もう少しそれらしい起伏が地表に現われそうだから、
もう完膚なきまでに押しつぶされていて、コンクリートの巻き立てはされていたのかもしれないけれど、
破壊されたコンクリート塊ごと深い所に埋没している可能性が高いと思う。
最初に南口を見たときは、そこに目立つ陥没や落盤があったために、
「南口の崩壊が、短い期間で隧道が放棄されてしまった原因かも知れない」と、
あまり根拠のない推測を披露したが、こうして北口を見てみると、
こちら側の方が遙かに原型を止めていない……、すなわち、
現役時代にここで南口以上の被災があった可能性を示唆していると感じた。
もし、隧道を通り抜けられたとしたら、そのとき目にする風景は、このようなものであったはずだ。
隧道が大正初期のたった3年ほどしか存続しなかったのが真実ならば、通行体験者は少なくとも100才を超えているはずで、これほど古くに廃止された隧道は珍しい。隧道そのものが珍しかった時代に廃止されるとは…、よほどの不運といえよう……。
北口擬定地改め、北口跡地と呼んで良いだろう地点の、遠望全景。
隧道があったことを知っているから、いかにも隧道跡の地形のように思うけれど、
もし知らなければ、この地形を見ても、絶対に隧道があったなんて言わないだろうな。
この程度の地形にいちいち隧道を期待していたら、妄想が過ぎると笑われてしまうだろう。
そのくらいよく見る雰囲気の峠下の地形だったが、ここには本当に隧道があった!
16:29 《現在地》
そして、これは重要な発見だと思うのだが、北口があった谷の前が、こんなに大きな広場になっていた。
これ、普通に考えて自然の地形ではない。
このように平坦な広い土地がここに自然に作られたとは考えにくく、初代隧道を掘削した際に掘り出された残土(ズリ)で谷を埋め立てた跡だと考えられる。
現代のトンネル工事では、発生したズリを坑口付近で処分することはあまりなく、別途用意した処分場に運び出されることが多いが、かつては現地処分が普通で、築堤を造るのに活用されたりしたほかは、大部分が坑口前の谷に捨てられていた。それが最も省力的な処分方法だった。
したがって、ズリ捨て場を発見できれば、その近くに隧道があった可能性は非常に高くなる。
今回、北口に具体的な遺構はなかったが、この広場は強い状況証拠といえるだろう。
広場の土を掘り返せば無数の岩塊が出てくるはずだ。そのせいか下草はほとんど育っていなかった。しかし代わりに立派な高木が悠々と立ち並んでいて、100年の年月を伺わせた。
広場から麓方向へ下りていく道は1本だけで、北西方向へ伸びていた。
相変わらず、人や車が出入りしている気配のない廃道だったが、道幅は狭くなかった。
初代隧道を潜り抜けた旅人たちは、この緩やかな道を通って、清内路を目指したのだろう。
清内路村役場があった旧村の中心地、現在の阿智村清内路へは、ここから約6kmの道のりがあったはずだ。まだまだ長い道のりが、当時の旅人には控えていた。
大正時代だ昭和初期だというようなアタマで歩いていたが、突然目の前に現代の機械力をぶちまけたような治山工事跡が現われて、行く手を阻んだ。
意外に早く、現代の鳩打隧道の勢力圏内に入ってしまったようだ。
初代隧道の北口から、100mも離れていないと思う。
こんな近くまで重機が入り込んだとしても、初代隧道を掘り起こしてみようなんていう無駄なことは、誰も言い出さなかったのだろう。
そしてこの治山現場付近では、【峠の下で分かれた右の道】が下ってきて合流していた。
16:31 《現在地》
現代の匂いがするこの場所から、鳩打峠の忘れられた領域を振り返る。
そこは狭い領域だが、埋れた隧道を中心に濃厚な廃の空気が漂っていた。
幻の隧道跡、ズリ広場、2本の古道、峠の切り通し…、
峠の長い歴史の最新ではない分担道達が、一望された。
道が急斜面に入り込むと、簡単に荒れ果てた。
枯れた灌木がうるさく、短い距離だが難儀した。
眼下の谷に、現在の鳩打隧道の北口が存在している。
越えてきた峠には、大きく分ければ、隧道の道と切り通しの道のふたつがあった。
峠の南側で分かれた両者を見て、北側でひとつに戻ったところを確認した。
したがって今いるここは、隧道と麓を結ぶ唯一の道である。
だから、古道であると同時に、隧道の時代にも使われていたはずだ。
だがその割に、勾配や幅員といった基本的な部分において、隧道に見合った(当時としての)高規格な道には見えなかった。
このような険しい場所に、石垣ひとつ見当たらない。はっきり言えば、徒歩道と大差がない道だ。
これでは、隧道部分だけが“良い道”であったとしても、峠道の全体としては十全に活用し得なかったと思われるのだが…。
隧道の存在が、どうにもちぐはぐに見えてしまう。
やはり隧道は、前後の峠道が完成しない状態で、寿命を終えたのではないか。
さらに古道を進むと、眼下に未舗装の林道が近づいてきた。
峠の南側の古道は“自然歩道”として使われていたために、入口が分かり易かったが、こちら側は役目を終えた道としては真っ当な姿といえる廃道状態だから、すんなりと合流できるのか心配だ。
林道が間近に見えるこの位置でさえ刈り払いやピンクテープの気配がないので、鳩打峠北側古道は、思いのほか捨て置かれているとみえる。
思い返せば、開口していた南口は、人通りのある自然歩道のすぐ近くにありながら、情報不足と視界不良のために、忘れられていた。
一方の北口には、大きなズリ広場や切り通しの地形が残っていたが、根本的に人の出入りが遠のいたために、忘れられていたようである。
16:43 《現在地》
峠の切り通しを出発してから25分後、初めて見る林道に降り立った。
そして案の定、古道の末端は林道法面によって乱暴に切断されていた。
こちら側から峠を目指す人は少ないはずだ。
なお、この林道は私が伊賀良から自転車を漕いで上ってきた林道鳩打線の続きではない。
その支線の笠松線という林道だ。
笠松線と鳩打線の分岐地点は、ここから100mほど下ったところである。
16:45 《現在地》
ここは、林道笠松線と林道鳩打線の分岐である。
一見、シンプルな林道分岐地点だが(雪雲がとても不穏なのは忘れよう)、
今回の探索においては、多少の情報過多を免れない、ややこしい地点である。
初回冒頭に、“鳩打峠の行き先が変化したこと”を書いたと思うが、
この辺りが、その行き先変化の分岐地点となっている。
現在の鳩打林道は、鳩打隧道を抜けてから、黒川沿いを上流へ大平へ向かっている。
だが、林道開通以前に使われていた鳩打峠の古道は……これは今回探索した初代隧道も含むが……、大平へ向かわず、黒川沿いを下流へ清内路へ向かっていた。
現在の地理院地図では、ここから清内路へ向かう道の一部(約1.5km)が消えている。
廃道ということだろうが、谷沿いに何らかの痕跡は眠っているはず。
だが残念だが、今回はここまでだ。
今日は予めそのつもりだった。
時間がないなかで、初代隧道の探索を優先した。
だが今回、実際に峠の古道を歩き、さらに隧道を発見したことで、それらと同じ時代を生きた清内路への全線を、隅々まで知りたくなってしまった。
今後、必ず探索するつもりだ。
この道から辿り着いた清内路の地に、初代隧道の開通記念碑があったりしたら、どんなに素敵かと今は夢見ている。
足の速い雪雲が、伊那谷の裏側にある狭い空を覆いつつあった。
完成された峠越えのルーティンを穢すことに後ろめたさを感じながら、冷たい風に促されるように、世代の違う鳩打隧道へ踵を返した。
この先の300mの直線を通り抜ければ自転車が待っていて、あとは人里へ一直線なのである。
しかし、この高い峠で吹雪になったりしたら、短い距離でも自転車で安全に下ることは難しい。今は早く帰った方が良さそうだ。
鳩打隧道、北口。
南口を80分前に見たあとであり、改修の部分を除けば同じ形の坑口に新発見はなかったが、ひとつ大きく違っていたのは、見ている私の心境だった。
北口はまだ“知らない隧道”だったが、その原点となった非業の先代の遺物を自ら探し当て、同時に峠の高さを知ったいまの私には、これを完成させた関係者の捲土重来の欣舞のさまが、坑門の色の濃さとなって、深く深く刻まれているように感じられた。
特に、平成の末期になって大きな崩壊があった際、もはや現代には不要と烙印されなかったことの底力は、峠を取り巻く何者かの想いの強さと無関係ではないはずだった。
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