2009/3/19 8:21 《現在地》
「おせんころがし」の難所を突破すると、ご覧の広場に出る。
ここが旧道だと知らない人が見れば、行き止まりと納得するだろう。
道を塞ぐフェンス自体、藪にほとんど隠されている。
【最新の地形図】には碑の他に二棟の建物も描かれているが、痕跡すら留めていないというか、ここにそのような余地はないように見える。
それに、建物があったとしてどんなものだったのだろう。お土産物屋? イメージできない。
特にこの道が幹線道路だった当時は、この狭い空き地が対向車を待ち合わせる重要なスペースであったろうから、碑すら邪魔だと思う。碑がいつからあるものかは分からないが。
碑は、「孝女お仙之碑」である。
墓石のようなデザインである。
…こんな風にどうしても「死」を連想してしまうのは、バックグランドを知っているからだろうか。
それとも、やはりこれは誰が見ても墓石なのだろうか。
そもそもここは観光地と言うほど宣伝されていないし、霊場と言うほど親しまれてもいない。
だから造花の一輪さえなく、石積みや賽銭も見あたらない。
知らない人が見れば、行き止まりに碑があるだけの場所かも知れない。
碑の隣には勝浦市が整備したご覧の案内板があって、辛うじて史跡たらしめている感じがある。
ここに記された「おせん」のストーリーがよく要約されていると思うので、全文を以下に転載する。
おせんころがし
高さ二十メートル、幅四キロメートルにもおよぶこの「おせんころがし」には、いくつかの悲話が残されています。
豪族の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙は、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から夜の海へ投げこまれてしまいました。
領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。悲嘆にくれる領民たちは、わびを入れ、ここに地蔵尊を建てて供養しました。さすがの父も心を入れかえたということです。
『外房総大沢の生活と伝承』という本によれば、大沢集落にはこのほかにも多くの「おせんころがし」にまつわるストーリーが伝えられており、いずれもが絶壁からおせんが落ちて死ぬ結末だ。(例を挙げる)
これらはみな、おせんが(望まずとはいえ)“一人”で落ちた話なので、どちらかというと「おせんころがり」という感じもする。
「おせんころがし」という「転がされた」イメージにしっくり来るのが、案内板に紹介されている最もメジャーなストーリーなのである。
またこのストーリーについても、前書には非常に詳細な内容が伝わっており、豪族の家があった場所や家名までも明らかである。
おそらくおせんは実在の人物で、村に大きな悲しみを残した墜死劇も真実なのだろう。
しかし、村人たちが供養のためそれを後生に伝えようと努力を惜しまなかったとしても、それが公式の【地形図に名前を残す】ほどまで知られるようになったのは、やはり不思議なことだ。
それがただの「伝承のなかの地名」ではなく、実際に多くの旅人が命を落とした「難所」の地名として、村だけではない広い地域に、実感(あそこはおそろしい!)とともに根付いたからだと思う。
ようは、それほどに多くの人が知り、体験した難所だったと言うことだ。
おそらく四国の「大歩危小歩危」、北陸の「親不知子不知」なども、同じように伝わってきたのだと思う。
碑が地蔵尊の跡地だとすれば、おせんはまさにこの場所から簀(す)巻きのまま、夜の海に投げられたことになる。
父の改心と村人の救済を同時に願うおせんは、身代わりが成就する瞬間まで、一声も発さず耐えたのだろう。
そうでなければ、物語は成立しなかった。
最初はありがちな悲恋物語を想像していたが、思いのほか胸に来る…重厚な悲話だ…。
小湊隧道以来、大沢集落で少し迂回した他はずっと海岸ぎりぎりを辿ってきた道だが、この碑の地点を最後に内陸へ下がる。
見ての通り、これより先はいかなる道をもってしても通行する術はない。
そんな感じの景色である。
再び道に目を向けよう。
そこには、これまた印象深い風景が眠っていた。
碑の前で左に折れ内陸へ待避する道には、当然、障害物がある。
これまでへばり付いてきた崖が、そう易々と、心変わりをした道を受け入れてくれる訳はない。
小湊から大沢の海岸に出る地点に小湊隧道があったのも、そんな理由である。
しかし、ここに隧道はない。
隧道の代わりに、もの凄く深い掘り割りが長々と続いている。
年がら年中海風が吹き抜ける山腹(法面と言うには大きすぎる)に木はほとんど無く、森林限界を超越した高山の峠を思わせる独特の景観を見せている。
果たしてこの掘り割りは、どこまでが人工的に掘られたものなのだろう。
両側の山頂からは、30m以上落差がありそうだ。
掘り割りがぐねぐねとカーブしていたり、地形図が見せる自然な等高線を見る限り、大部分は古い沢地形を利用しているようだ。
そして、沢底を完全に道が覆っているにもかかわらず、そこに水気がほとんど無い(疏水溝もない)状況から分かるとおり、河川としての集水能力はほとんど失われている。そもそもが水捌けの良い地質なのだろう。
そんなわけで、普通であればじめじめしていそうな深く長い掘り割りの中も、乾いた感じを受ける。
これまた、所ならぬ高山の峠を思わせる由縁である。
ところで上の写真には、裏返って潰されて路面に埋もれかけているバリケードが写っている。
← 救出してみた。
かすれた文字で、「全面通行止」と書いてあった。
ススキに埋もれたフェンスといい、この小さなバリケードといい、確かにかつてこの先に道があって、それが廃止されて、暫くはともすれば通行しようと企てる人もいた。
そんな状況がイメージできる。
それが今では、放っていても(ほぼ)誰も入ろうとしないような、“忘れられた廃道”なのだ。
これは掘り割りの途中で海側を振り返って撮影。
完全に1車線分の幅しかない。
そのうえ路面も平らではなく、両側の路肩が高くなっている。
路肩の傾斜は、そのまま法面に繋がっているのだ。
しかも、ここを抜ければ碑の前に僅かな待避所があるだけで、すぐにあの断崖絶壁…。
一方通行でもなければ、一日でどれほどの交通量をさばけただろう。
大正10年という、相当に早い時期に路線付け替えが行われたもの納得できる極難路だ。
峠道からてっぺんだけを切り出したような「大切り通し」は、100m足らずで幅が広がり、もはや切り通しではなくなる。
それにあわせて道幅も際限なく広がっていくというのが、節操がないというかなんというか、おかしい。
実際にはこのすぐ先で現在の国道に合流しているので、この節操のない空き地を作り出したのは、国道をゆく車たちである。
おそらく大型トラックなどが仮眠したりするのに使っているのだろう。
覆い被さってくる轍はそれだけではない。
「ホテル行川」がある。
ちら見したところ、民家みたいなモーテルだった。
風致上決して好ましいものではないが、その入口である分岐には、自分の宣伝と同じサイズで「おせんころがし」への案内もしてくれているのが、ちょっと見直した。
もっとも、私がこのホテルの本来的利用客になる可能性は皆無なので、見直されても嬉しくないかも知れない。
なお、「ホテル行川」の入口から国道側に10mほどの地点にもう一つ反対側へ入る分岐があって、奥へ一筋の舗装路が続いていた。
この道は入口からバリケードで塞がれていたのだが、念のため確認したところ、奥に別のモーテルの廃墟(というか建物の基礎や廃材)があるだけだった。
行き止まりである。
8:39 《現在地》
だだっ広い現国道との合流地点。
国道の奥に白く見えるのは、並行する外房線線路の保安設備だ。
ここまでで、明治由来のおせんころがしルートの探索は終了である。
続いて、大正10年から昭和44年までの「旧道」を探索しようと思う。
そのためにまず、現国道を大沢まで戻る。
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これが「おせんころがし」の難所を永遠に過去のものとした救世主。
昭和44年開通の、その名も…
おせんころがしトンネル
トンネルの全長は347mあり、これと150mほどの大沢橋を足した約500mの「ほぼ直線」。
それが現国道による「おせんころがし攻略」の全てだ。
対して、先ほどまでの旧旧道は約800m、これから向かう旧道は750mの距離がある。
距離の差はさほどでもないが、便利さでは比較にならない。
小耳に挟んだところによると、この「おせんころがしトンネル」は、幽霊スポットというありがたくない喧伝をうけているそうだ。
たいていそういうトンネルというのは、見た目がじめじめしていて気持ちが悪いとか、変に狭いとか、いまどき素堀だとか、何かしら“いじめられそうな”雰囲気を持っているものだが、このトンネルに関してはそういうのは感じない。
見た目平凡なトンネルが幽霊スポットになってしまったのは… マジで出るから ではなくて、
名前のせいだ。
おせんころがしなんて、知らない人が聞いたらいかにも不吉そうな名前を名乗るから…。
その証拠に、これから紹介する旧道にはもっと「それっぽい」なトンネルが2つもあるのに、名前が平凡すぎるせいか、そういう話は聞かない。
快適なおせんころがしトンネルを出ると、歩道が激狭で、むしろこっちの方が怖い「大沢橋」にさしかかる。
手前のバス停は、大沢バス停だ。
大沢に鉄道の駅はないので、これが唯一の公共交通の窓口だ。
しかし、この場所は、ちょっと…。
地形的にも道路的にも、どうにもならなかったのは分かるんだが…
ちょっと“トンデモ”なセッティングだ。
バス停の真ん前にバスが止まれば、車体の半分くらいはトンネル内に残ることになるだろう。
ここにバス停があるのを知らない後続車なら、ちょっとギョッとするのではないだろうか。
要注意だぜ!
8:44
約50分ぶりにここへ戻ってきた。
旧道と、旧旧道の分岐地点だ。
もっと時間が経ってそうだが、1時間もかかっていない。
今度は、旧道(左)を探る。
もう、廃道はない。
普通の旧道探索だ。
旧道は分岐後すぐ左にカーブし、現国道と直交する。
左に見えているトンネルは、おせんころがしトンネルと同じく昭和44年に開通した境川トンネル(長さ543m)だ。
もちろん、幽霊話はない。(と思う… なぜか大沢側坑門に、スプレーで大きく「マユミ大丈夫」と落書きされているのが嫌だが)
この交差点を現国道から見ると、長いトンネルと大沢橋の隙間の僅かな陸上区間にあるわけで、平面交差としては最悪の部類である。
それでも旧道は生活道路として欠かせないものなので、塞ぐこともまた出来ないのである。
そう。
大正10年開通の旧道は、いまも大沢集落の欠かせない生活道路である。
気をつけて交差点を横断すると、続いて“無言の大道”をくぐる。
無言というか、寡黙というか、とっかかりがないというか…、
基本、駅がないところの鉄道線路ってそんな感じでしょ。
でも、輸送量という意味では国道に匹敵する重要な交通路だから、“大道”。
この旧道が開通したのは大正10年。
ここに跨線橋が出来たのは、それから8年後の昭和4年である。
そして“溜め”もなく、いきなり出た。
道幅よりも明らかに狭い、隧道。
無装飾のコンクリート坑門には銘板ないが、隧道データベースによれば「大沢2号隧道」という。
大沢2号隧道
全長:112m 車道幅員:3.5m 限界高:4.0m 竣工年度:大正10年
国道トンネルとしては狭いが、現役だった昭和40年代を思えば、そんなに珍しくなかったとは思う。
このトンネルが面白いのは、入る前から次の「大沢1号隧道」の出口まで見通せる点だ。
カメラをズームにして覗くと、こんな面白い写真が撮れる。(←写真にカーソルオン)
これは別に渋滞しているわけではなく、写っている車はすべて駐車車両だ。
なぜこんなに車が停まっているかといえば、そこが集落だからだ。
2本のトンネルに挟まれたわずか80〜90mが、大沢集落にとっての旧道の全てなのである。
大沢集落は、漁港がある入り江と、その後背の細い沢地という、幅80〜100m、奥行き300mほどのごく狭い範囲内に、さながら箱庭のように凝縮された集落である。
そこに何戸の家があるのかは測れないが、人口密度はかなりのものがあろう。
そんな平地に極めて乏しい狭い集落内を、3世代の横断道路と1本の縦断道路、さらに1本の横断鉄道が通っている。
しかも、現国道と鉄道は“戸口サービス”を行っておらず、旧旧道は狭すぎ、縦断道路は急すぎる。
残る道はこの旧国道だけというわけで、「車両輻輳」もやむを得ないと思われる。
8:49 大沢集落 《現在地》
これが、1本だけの縦断道路だ。
旧国道と集落内で唯一交差する道路でもある。
急坂を下っていくと、旧国道に【ここ】で合流することになる。
写真にも写っているが、途中で“冷たい鉄路”を超低空でくぐる。
上空の電線なんかもすごい錯綜しているし。
おせんさんの血筋を引いていそうなおばあちゃんたちも、ネコのように井戸端会議をしている。
ほんと、ここはゴチャゴチャした集落である。(←信じて貰えないかも知れないが、私の中では集落に対する精一杯の賛辞である)
さて、集落も終わりに近づいた。
つっても、2号隧道から50mくらい来ただけだけど、もう終わりだ。
1号隧道という、厳然たるストッパーが迫っている。
なお、ここが旧国道内では唯一の2車線区間(約30m間)だが、通過交通はセンターライン上を走るのが普通のようだ(笑)。
隧道の方は、これまた代わり映えはない。
ただ、今度は御影石の銘板が取り付けられている。
しかし「第」に略字を使っているのが好みではないし、大正10年当時のものでないことも明らかだ。
大沢1号隧道
全長:80m 車道幅員:3.5m 限界高:4.0m 竣工年度:大正10年
2号隧道より30m短いほかは同一スペック。
なお、銘板にある「第一」と、データベース(『道路トンネル名鑑』原典)の「1号」どちらが正式なのかは分からない。
短い隧道を抜けると、直前の人界ぶりが嘘のように普通の山道である。
あとは、2車線にギリギリ満たない道を下っていくと、すぐに現国道の「おせんころがしトンネル」東口脇に出て、旧道は終わる。
この旧道、長距離ドライブの途中に通るだけなら、特段の印象もなく終わってしまうかも知れない。
しかし、今回のように意識して味わってみると、問答無用で心奪われる旧旧道とは違った景色や印象を持った、やはり趣のある道だと気付いた。
大沢、最高!
おせんの悲しい優しさが、美しい外房の景色を、より印象深いものにしてくれた。
おせんころがし、無事に完結。