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2022/10/09 14:09 《現在地》
冬季閉鎖だけかと思いきや、実はもう長年封鎖されっぱなしであったらしき峠越え区間をヒグマの恐怖と闘いながら通り抜け、いま区間の終わりを告げる「花春3ゲート」を潜り抜ける。
ちょうどゲートを抜け出たところに……
ヘキサあり!
「花春2ゲート」のところにもあったが、こんな状態の道にもヘキサがちゃんとあるのが、愉快でたまらない。
草生した通行止ゲートだけでも私にとってはとてもエモーショナルな眺めだが、そこに草臥れたヘキサが加わることで、一層際立ったエモエモでモエモエな風景になっている。大好き!!
それはともかく、ここにヘキサがある以上、この地点(道道起点から約7.5km地点)までは、道道であると考えで良いだろう。
再三述べている通り、この上野塚地区内には道道の未供用区間が存在するが、その範囲は地図によって違っている。
ちなみに、道道の未供用とは、実態の道の有り無しとは別個の問題であり、道路法に従って供用開始の手続きを受けた道道が存在しない区間であることを意味する。
道があったとしても、それが供用中の道道であるかの判断は難しい。この正確な判断は道路台帳などの図面で行うが、現地ではこういうヘキサの存在や、デリニエータに描かれた道路管理者名、あるいは路傍の用地杭にある土地所有者名などから、ある程度推し量ることが可能である。
再びここでSMD24と地理院地図を比較して見るが、さっそく現地と地図の違いが明らかになっている。
まず、花春3ゲートやヘキサの位置は、どちらの地図でも道道として描かれている区間の末端より東に少し外れた位置にある。
また、SMD24の地図ではゲートの西側に丁字路があって繋がっている南北方向の道が、実際には繋がっていなかった。ここは地理院地図の表現が正解ということになる。しかも、この断絶部分には少し高低差があるので、直線で繋げるのは無理があると思う。
では、この花春3ゲートに上野塚側から到達できる実際のルートがどうなっているかを、これから紹介する。
道はゲートからそのまま真っ直ぐに東方向へ伸びていたが、ゲートを出ても草生した状態からすぐには脱しなかった。
道自体は平坦なので、草を押しのけて車で走ることはできるだろうが、そんなことをする人は滅多にいないからこそ、こんなに繁っているのだろう。
これ以降、道道を感じさせるものがあれば特筆しようと思うが、今のところは見当らない。
なお、道の左右はよく手入れされた牧草地か放牧地であり、電気牧柵で道と牧地が仕切られている。
路上にはセイダカアワダチソウが盛大に盛り上がっているのに、左右の牧草地は整然と刈り払われている状態が、普通とは“逆”の光景であり奇妙であった。
しかし、ゲートから250mくらい離れると、牧場関係者の出入りがあるのか、路上の様子は急速に改善。一般的な畦道のような状況になった。
14:14 《現在地》/《現在地(広域MAP)》
そして間もなく防風林の列を潜ると、前方の景色が一気に開けた。
肉眼でも微かに見えたが、望遠で覗くと太平洋の水平線がはっきり見えた。
ここ海抜120mの牧草地から海岸までは約9km離れているが、これだけ見通せるのは、いかに起伏や障害物となる大きな建物が少ないか分かるだろう。
そして、ゲートから約500mの地点で、初めての右折方向の丁字路が現れた。
この丁字路にも特段案内標識などはないが、ここを私は右折する。
これが丁字路から撮影した右折先の道の様子だ。
こちら側も背景の景色が変わったくらいで、路傍の風景は見える限りひたすらの牧草地である。
ただ、全くの平坦というわけではなく、こちらから南下する場合は微妙に下り坂だ。
上野塚にある一見平地のように見える土地の微少な高低は、ことごとく西高東低かつ北高南低である。全ては日高山脈より流れ出る野塚川の沖積地なのだろう。
右折後の道は轍も濃いが、砂利がぶ厚く敷かれていて、自転車にはうっとうしかった。
しかも、道が見える限り全部直線で単調だから、微妙に下り坂であっても乗らないスピードには辟易した。
黙々と数分耐え、550m進むと……。
14:19 《現在地》/《現在地(広域MAP)》
親柱も銘板も欄干さえもない、ただの板に限りなく近い小さなコンクリート橋で水路を渡ってから、広い舗装路に突き当たった。
この舗装路は、国道336号と上野塚地区を結ぶ道路であり、左折すれば約3.2kmで国道に通じる。
そして、注目すべきものがここにあった。
……なんとなく見覚えがある後ろ姿の看板があるのが見えるだろう。 こいつの正体は……。
見覚えがある「通行止予告看板」!
この道道ではここまで既に2回見ている看板が、ここにもあった!
ちゃんと設置者名も最近の名称変更に合わせて更新されており、現行の道道管理者である「北海道帯広建設管理部大樹出張所」になっていた。
看板の内容としては、1.1km先の通行止を予告しているが、これは先ほど通過してきた花春3ゲートの封鎖を言っているのだろう。距離も概ね合致する。まあ、期間無しでずっと封鎖されているのは、イレギュラーだと思うが。
SMDも、地理院地図も、この地点を道道として描いていないが、
この看板がここにある以上、ゲートからこの地点までも道道の供用区間内なのではないか。
実際、交通の流れとしても、それが自然なものである。
……と考えるのが自然の流れのように思うが、事実は異なっている。
なぜなら、入口に架かっているこの小さな橋、この橋が道道ではないことが、別の資料から明らかになっている。
その資料とは、全国Q地図で見ることが出来る2018年度全国橋梁マップだ。
この地図には、道路法の道路上で供用中のほぼ全ての橋が、橋名、路線名、竣功年などの情報と共にプロットされている。
作者の注意にあるとおり、位置が実際とズレていることがたまにあるが、行政の資料をベースにしていて信頼性は決して低くないものである。
2018年度全国橋梁マップによると、ここにある小さな橋の名前は「2号橋(にごうはし)」という超シンプルなもので、昭和60(1985)年竣功、路線名が町道農栄16号道路となっている。
同地図に描かれている他の橋のデータや、後述する北海道の開拓地における区画された道路の命名規則に則って考えると、周辺にある道の路線名も判明する。
まず、花春3ゲートを出た先の道は町道野塚7線道路、そして今辿り着いた広い舗装路は、町道野塚8線道路である。
野塚7線道路と野塚8線道路については多少の憶測を含むが、「2号橋」が道道に架かる橋でないことは明確である。
したがって、ここにある看板は、この先にある道道の通行止を予告するために、手前の町道上に設置されていると結論づけられる。
予告看板の性質を考えれば、これは別におかしなことではないが、ちょっとひねくれている。
(興味がない人には全く響かない話を長々としてゴメンネ。話を変えて、2枚上の画像にヤツが写っていることに気付いた人はどれくらいいるだろうか。恐ろしく黒い毛並みをした眼光鋭いヤツの姿が、はっきりと写り込んでいた…… ↓↓↓)
くろいヌコに、めっちゃ見られてた。
14:22
看板がある丁字路を右折して、久々の2車線舗装路を西に向かって走り始めた。
この先はやがて野塚川源流の林道となって行き止まるが(遠景がまさにそれを暗示する恐ろしさだ)、未供用区間に前後を挟まれた“離れ小島的”な道道の供用区間が、この先に少しだけ存在することになっているので、それを経由してもう一つの道道未供用区間に向かおうと思う。
いまいるこの道自体は、町道野塚8線道路である。
14:24 《現在地》
看板のある丁字路から550m進んだ地点にある、この何の変哲もない十字路だが、地理院地図だけが、この交差点の右と正面の道を道道として描いている。
だが、おそらくこの地理院地図の表記は正確ではない。
その最大の根拠は、入口にあるこの橋だ。
さっき見た「2号橋」にそっくりであり、建設の来歴もおそらく一緒なのだろうが、この橋は全国橋梁マップに記載がない。つまり、道路法の道路として供用されている橋ではないことになる。
おそらく道道や町道のような道路法の道路ではない、農道(あるいは牧道)なのだろう。この道自体も牧場内で行き止まりで、先ほど通った道道とは接続していなかった。
地理院地図がなぜここを道道としているかは謎だが、誤表記と考えて良いだろう。
この農道?の周囲では、たくさんの牛たちが草を食んでいた。
そんな長閑な光景をバックに、ちょっとレポートの進行から離れるが、今回の探索で気になったので調べて学んだことがあるので、情報を共有したい。
内容は、北海道では非常に一般的に見られる一辺約550mの正方形に区画された農地と格子状道路の来歴、およびその命名規則についてだ。
すでにご存知の方は読み飛ばして欲しい。
国の近代化と富国強兵を政策の柱とした明治新政府は、広大かつ資源に恵まれた北海道の開拓事業を、国家の最重要課題に据えた。
北海道の農地の大半は、北海道庁による殖民地撰定事業によって生み出されたものである。明治19(1886)年から昭和21(1946)年まで継続したこの事業によって、開拓可能として選定された土地は402万haにも及び、これは北海道本島の実に50%を越える面積であった。
殖民地撰定事業によって指定された開拓前の土地は「原野」と呼ばれ、これを農地として整備する手法は、明治23(1890)年制定の殖民区画制度に拠った。
その具体的な方法は、まず「基点」を定め、そこを通る軸線となる「基線」となる道路を敷いた。次にこれと直交する「基号線」と呼ばれる道を敷き、基点を中心とした十文字の道路を作り、そこから300間間隔で格子状の道路を作っていくというものだった。そうして生み出されたのが、北海道における特徴的な一辺約545m(=300間)の碁盤の目状の農地である。
碁盤の目を構成する各道路は、基線(1線)を基準に、2線、3線、4線…、基号線においては、1号線、2号線、3号線…のように規則的に命名され、またはこれらの頭に東西南北をつけて、基点の四周に広がることもあった。また、基線は幅10間、それ以外の区画道路は幅8間を基準として造成された。
300間四方(9万坪=30町歩)の区画を中区画と呼び、これをさらに間口100間、奥行き150間の6つの小区画(1.5万坪=5町歩)に区分したものが、全国より募集により入植した各開拓農家の営農の単位となったが、中区画までしか区分されなかった土地も多くあったという。
この殖民区画制度は、明治政府が米国の制度を真似て北海道に移植したものだが、米国では基線が南北軸、基号線が東西軸であるのに対し、北海道では周辺の地形に合わせて都度基線を設定した点が大きく異なっていた。
今回訪れた上野塚は、この制度によって整備された野塚原野の西端にあたる。
『新広尾町史 第1巻』によると、広尾郡内には明治29(1896)年に茂寄、野塚、紋別の3原野が殖民地として撰定され、明治30年より区画地の貸し付けが始まっている。
このうち紋別原野は今回の探索のスタート地となった豊似周辺の紋別川流域の約843万坪、野塚原野は野塚川流域の約1368万坪に及ぶ、いずれも広大な土地が区画された。
上の地図は現代の道路地図帳(SMD24)から読み取れる、野塚原野の格子状道路配置を基線(赤線)と基号線(青線)に色分けしたものだ。
途中で道が途切れていたり、番号が抜けていたりするが、もともと整備されなかった場合もあれば、後の開拓で放棄されて失われた場合もあった。しかし多くの道路は今も町道や農道として利用されている。
本編に登場した町道野塚8線道路もその一つである。
閑話休題。
次回は、未供用区間に挟まれた“離れ小島”的な悲しき道道の風景をお伝えする。
2022/10/09 14:29 《現在地》
現在、町道野塚8線道路を西に向かって進行中。「通行止」の予告看板が立っていた丁字路から約900m進んだ地点にいる。
ちょうどこの辺りが、さっき越えた峠がある谷の正面にあたるので、牧場越しにその地形を見ることが出来たが、深い森に隠された道道は見えなかった。
そして、この目の前に広がる牧場の敷地内を、道道の未供用区間が右から左に横断しているはずだが、最新の航空写真を見にもそれらしい道は見当らない。
これから、SMD24の地図上で道道が復活する地点を紹介する。
14:31
ここは看板がある丁字路から“中区画”をちょうど3つ分、1650m西に進んだ地点である。
位置的にかつて中区画を区切っていた基線と基号線の交差点に違いないこの十字路で、道の様子が一変する。
ここまではセンターラインもある立派な2車線道路だったが、正面はほとんど使われていなさそうな狭い草道で、左は舗装はされているが狭い。残る右の道は、広さはあるが未舗装である。
ここを右折する。
再びの砂利道。
地理院地図はここまでの舗装路に引き続き、この砂利道も道道として描いている。
しかし私はそれは正しくないと思っている。
この道の現在の路線名は不明だが、元は野塚原野を区分していた基号線の一つであろう。
しかし、かなり山に迫ってきているために、この直線が次の基線がある550m先に達することはない。
そのちょうど半分の距離に、次の十字路が待っていた。
14:32 《現在地》
砂利道をほんの270mほど進むと、再び広い舗装路が現れる。
よく見るとここも十字路になっているのだが、右の道はともかく、正面の道はほとんど植林地に埋れていた。実際、SMDも地理院地図も、ここを一本道にある直角コーナーとして描いている。
だが、お待たせしました。
この舗装路が、道道987号豊似広尾線の(確実と言える)続きである。
その何よりも明白な証明として――
ヘキサあり!
一連の径路上では、【花春3ゲート】以来のヘキサである。
しかし、土地勘も地図も持たず、現地の案内や勘だけを頼りに、春花3ゲート前からこの場所へ辿り着くのは、途中のなんの脈絡もない直角の右折が3回もあったので、相当難しいと思う。
しかし、ここにも律儀にヘキサが設置されているのが、なんとも嬉しい。
ここにある道道は、前後を未供用区間に挟まれていて、しかも他の道道や国道と接続しない、地図上においては“黄色い離れ小島”のような存在である。
しかも、その距離もとても短い。
改めて地図を見ていただこう。
SMD24において、この離れ小島的道道は、ただ1本の直線だけで終わるという、インパクト絶大なものである。
その長さは、ここから約1.6km。
一方、地理院地図では、未供用区間の長さがだいぶ短く表現されていて、その分だけ離れ小島的区間もだいぶ長い。
そして、これまで繰り返し言及してきた、どちらの地図がより正解に近いかという疑問だが、私はSMD24の方が正しいと思っている。
そう考える根拠の一つ目は、この路線に存在するとされる未供用区間の全長との近似だ。
本編の導入で述べたように、この道道には2538mの未供用区間が存在することになっている。
これは2ヶ所ある未供用区間の合計延長だが、この上野塚にある未供用区間は1.2km程なければ、数字が合わないのである。
しかし、地理院地図にある“断絶”は、あまりに短い。
そしてもう一つの根拠が、私の手元にある様々な道路地図との比較である。
次の3枚の地図を見て欲しい。
北海道道路図 (平成元(1989)年) | 北海道広域道路地図(人文社) (平成9(1997)年) | スイスイ走りやすさマップ全国版(武揚堂) 平成20(2008)年 |
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ここに掲載した発行元も発行時期も微妙に異なる3枚の道路地図。
いずれも小縮尺なので詳細さは期待できないが、SMD24と地理院地図のどちらに近い表現がされているかといえば、全て前者である。
特に、未供用区間をちゃんと点線で描くという、他の道路地図にはあまり見られない表現方法を持っている武揚堂の地図において、峠を下り終えて上野塚に出る辺りから点線区間が始まり、南西に進んで現在地の角からまた実線の供用区間が始まっていることは、強い根拠になると思う。
これらの根拠をまとめると、上の地図に赤い点線で描いた辺りに長さ1.2kmほどの未供用区間があるものと考えた。
これだと花春3ゲート辺りの現道が少し経路から離れてしまうが、ゲートまで行ってから「現在地」の角へ戻ってくるのは少々経路として不自然なのでこう描いた。しかしそこには強い根拠がないから、ゲート付近で折り返して牧場内を横断してくる経路の可能性もあるだろう。
いずれにしても、現在稼働中である牧場の敷地を横断する形にならざるをえず、この辺りに道路整備が進まなかった理由の一端があるのかも知れない。
なお、ヘキサがあるこの角(本当は十字路)から振り返ると、私が未供用区間を想定した方向に伸びる(地図にはない)道がある。
実際に入ってみると(チェンジ後の画像)、まるで2車線の道道をそのまま延長したような幅の未舗装路が真っ直ぐ続いていて、ドキドキした。
14:35 《現在地》
そんな道は150mほど真っ直ぐ続くが、一軒の開拓農家の前で終わっていた。
状況的にこの行き止まりの道は、道道を整備しようとした名残のようにも見えるが、はっきりしない。
というのも、この位置は明治時代に野塚原野の開拓を行った当時から、中区画を六等分する小区画の区分線があった場所なので、由来を判断しがたいのである。
最近の航空写真だと、農地の利用状況が変化していて分かりづらかったので、昭和52(1977)年版の航空写真を掲載した。
道道は昭和55年の認定なので、それ以前の風景であるが、「現在地」を東西に貫く区画線の存在が明確である。
本来はチェンジ後の画像に描いたような6つの小区画があった名残だが、山際なので北側の小区画は切れている。
ゴチャゴチャといろいろな可能性を述べたせいでまとまりを欠いてしまって申し訳ない。
この茫漠とした広がりを持つ明治以来の開拓地に、昭和も後半になって入り込んできた広域交通を担うべき道道という存在が、地形的困難さが全くない中にありながら、未だに明治時代の区画線を少しも打ち破ることが出来ず眠っていることの力のなさが印象的であり、ついしつこく語りたくなってしまった。
引き返して、道道の続きへ進む。
14:39
ヘキサから始まる道道区間。
見ての通り、どこまでも真っ直ぐだ。微妙な起伏も意に介さず直進していく。
周囲にはカラマツの植林地や雑木林が広がっており、これまでの牧野的風景からは一変しているが、航空写真ではこの先にも550m刻みの区画線の存在が見て取れ、もとは野塚原野の開拓地として区画されたのだろう。長い年月の間に、条件の悪いところから離農され、林地になったのだろう。
道は立派な2車線舗装路で、道道認定後に改良されたようだが、センターラインはほとんど消えてしまっていた。
現状、この区間を道道の路線名のように豊似から広尾へ行く過程で通行する人は皆無である。
この道は野塚川の上流へ続く、山入りの道としてのみ使われている。
14:41 《現在地》
ヘキサから1.1km、ちょうど中区画二つ分を進んだ地点で、舗装が途絶えた。
道幅も半減するが、前方にはなお直線道路が続いている。
傍らに幅員減少の警戒標識があり、その標識柱には「北海道帯広土木現業所」と書かれていた。これは現在の北海道帯広建設管理部の旧名称で、道道の指定管理者だ。したがってこの地点までは確実に道道であるといえるだろう。
再び砂利道に入ってなおも進む。
もうこの離れ小島的供用区間の終わりは近づいている。
14:44 《現在地》
未舗装になってからさらに中区画一つ分550m進むと、道が二手に分れる。
ほぼ全ての轍が右の道へ向かっているのだが、道道はここを左折して…… というところまでで供用が終わっているようにSMD24では描いている。
一方、地理院地図ではここを左折して100mくらいのところまでを道道として描いているが、その先は一緒だ。
どちらにしても、道道はここを左折し、それから間もなく約1.4km続く第二の未供用区間となるようである。
左折する。
信じられんほどショボくてひょろい道だ!
道道であるなしはともかく、どの地図でもこの道は僅か300mほどで野塚川に突き当たって行き止まりのように描かれている。
そんな道に入っていく動機がある人が、ほとんどいないのは自明である。
むしろ、ここに刻まれている僅かな轍の動機が気になる。
14:46
この道も、元を辿れば開拓地を区切る基号線であったのだろう。
位置的に合致するし、ちゃんと直線になっている。
でも現状では道と森の境目が曖昧で、そのことがポ○モン並みのカジュアルさで藪からヒグマが飛び出してきそうな恐怖を感じさせた。
自分が奏でるガサガサ音にさえ緊張しながら進んでいくと……、やがてせせらぎが聞こえてきて。
14:48 《現在地》
野塚川にぶち当たった。
原始的な姿のまま嫋やかに流れる野塚川は、徒渉さえ許されそうな河況であるが、いまだかつてここに橋というものが架けられたことはあるのかどうか。現地には全く痕跡がなかった。
明確に道はここで終わっている。
地図によると、対岸やや右手の鞍部になっているところまで道が来ており、直線距離ならここから350mほどの至近であるが、高低差が50mほどある。
自転車を持って川を渡って対岸の道を目指すことは、時間をかければおそらく成功するだろうが、その時間があまりないので厳しい。
当初の計画通り、ここからは迂回路を選んで、対岸の道を目指そう。
なお、ここに真っ当な道道を整備するとしたら、上り坂を兼ねた長い橋で野塚川を横断し、切り通しとして掘り下げた鞍部を目指すような道が想像できる。かなりの大工事も予想され、需要も弱いところで着手出来ずにいる感じだろうか。
14:57
現在、迂回作戦中。
迂回ルートは、【直前の分岐地点】を右折し野塚川林道に入り、3.1km上流で野塚川を渡り、それから折り返すように中楽古(なからっこ)林道を3.4km辿ると、“例の鞍部”に辿り着ける。
道道であれば600mほどの区間を、その10倍以上もある6.5kmで突破する迂回ルートであるが、これより近い道はない。
分岐でまた基線の方向は変わったが、相変わらず林地には550mおきの区画がある。
地形が許す限り、どんなに麓から離れても開拓を止めなかった熱意というか、執拗さのようなものを感じる。さすがは国が威信をかけて望んだ拓殖事業。
これらの元開拓地も林地として活用されていて、最近伐採されたところもあった。
写真は、そんな皆伐跡地を透かして、対岸の中楽古林道のラインを撮影。
道が近くに見えているが、3kmも川を遡らないと対岸に行けない。
遡ると言うことは当然上り坂であるし、時間も体力も消耗した。
15:07 《現在地》
単調な直線登りからやっと解放される!
海抜190mの地点(最後の分岐から3kmで50m登った)でようやく野塚川を渡る橋(昭和46年竣功、橋名不明)に達した。
この橋を待ち望んでいたのだ。
橋を渡れば、そこに中楽古林道を左に分ける丁字路があるはずだ。
丁字路がないんだが…。
地図に丁字路が描かれている辺りには、野塚川林道に真新しい巨大な護岸擁壁がある。
傍らに、平成30年度災害復旧云々と書かれた標柱もあった。
ヤラレタッ!!
中楽古林道は、廃道化している!
中楽古林道の入口には、水害の傷痕であるおびただしい流木が山積し、その奥に森の切れ目(道の名残)は察せられるものの、分岐自体が復元されていない現状から読み取れる林道の将来は廃滅しかない。
私は、ここで悩んだ。
現在時刻は既に15時をまわっており、今の季節ならあと1時間半で日没だ。
そして、私が戻るべきクルマはスタート地点の豊似にある。
今から荒廃している可能性が極めて高い中楽古林道に入り込むと、明るいうちに迂回を終えられない畏れがある。暗くなってから道道に辿り着いても虚しいし、その後の豊似への帰路も非常に長いものとなる。正直、考えただけでうんざりだ。
よし。
名残惜しいが、今日はここまでだ。
撤収!
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