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道路レポート 北海道道987号豊似広尾線 カシュウンナイ〜ラッコベツ 最終回

所在地 北海道広尾町
探索日 2023.10.26
公開日 2024.05.21

 野塚ゲート〜中楽古林道分岐 朝霧の再訪


道道987号豊似広尾線に2つある未供用区間を巡る旅は、上野塚とラッコベツの間にある2つ目の未供用区間にて、その迂回路と目していた中楽古林道の予想外の廃道化と時間切れのため、中断と撤退を余儀なくされた。
それから約1年後の2023年10月26日の早朝に、前回辿り着けなかったラッコベツ側から、道道供用区間の末端を目指す小規模な再訪を行った。
これはそのレポートである。

なお、再訪の舞台となったラッコベツ一帯は、楽古川沿いに広がる開拓地である。
ラッコベツという地名も楽古川を指しており(ラッコベツはラッコが流れ着いた川の意(諸説あり))、これは野塚がもとはヌプカ(原野の中を流れる川=野塚川)であったり、カシュウンナイ(狩小屋のある川=カシュンナイ川)と同様に、アイヌ語の河川名が明治以来の開拓の歴史の中で沿川の地名となっているものだ。
つまり、この道道が辿ってきた場所のほぼ全てが、歴史的には似通ったバックグラウンドを共有しているのであり、また風景も似通っている。



これは現在地周辺を描いたSMD24の地図である。
国道336号から楽古川沿いに西進する直線的な開拓道路(町道中楽古道路)を約7.5km走ると、道道987号との交差点があり、探索をそこ(「現在地」の位置)から再スタートする。

それではさっそく現地の景色を見ていただこう。
因縁の道道との再会だ!
ちょっと朝早くから張り切りすぎたせいで、最初のうち画像が暗いのはお許しを。



2023/10/26 5:33 

既に自転車に跨がって行動を開始している。
足元の2車線道路は町道中楽古道路で、この先に見える十字路の左右の道が道道987号である。
交差点を前に青看が設置されており、左折方向に「広尾12km」の案内がされているが、私が向かうのは右折方向だ。
その方向の案内表示はない。

なお、この交差点の左右両側の道道にゲートが設置されている。
道道冬期通行止区間一覧表によると、向かって左側にあるものはラッコ1ゲート、右側のものは野塚ゲートと命名されており、それぞれ11月中旬から4月中旬までの冬季閉鎖が設定されている。



交差点の直前に立つ幅員減少の警戒標識の柱には、「北海道帯広土木現業所」という道道管理者のステッカーが貼られていた。
現在ここは町道なので不自然だが、平成17(2005)年に交差点を左折した先で楽古川を渡る上楽古橋が架け替えられ、それまでは丁字路だった交差点が十字路に変わった。以前の道道は前掲の地図にオレンジ色の点線で描いた経路だったので、この標識のステッカーはその名残である。



交差点から左折(広尾方向)を望む。
前述の通り、まだ新しい区間なので(おそらくこの上楽古橋周辺におけるバイパス工事が本道道で行われた現時点で最後の改良工事だと思う)、どこへ出しても恥ずかしくない2車線道路である。
が、このような整備された道が終点広尾まであと12km続くわけではなく、ここから約3.2km先のラッコ2ゲートから、約7km先の茂寄ゲートまでの峠越えの区間は、狭隘なダート道道として未改良のままに放置されている。それでも“未供用”ではないだけ、マシなのだが……。



これらの画像も、この交差点の左折方向にある標識たちだ。
北海道道に特異のデザインであるヘキサと一緒に路線名を記した大きな補助標識(?)が取り付けられているやつ(起点にもあったが少し配色などが違う)と、異常気象時通行規制区間の予告標識および、この路線上の各地にあるが情報が更新されているようには見えない「通行止」表示の道路情報板も。

道道として真っ当にあろうという意思は、整備された様々な案内施設から感じられるものの、実際の運用がおざなりになっている感じがね……、なんともつらいところ。

……でも本題はこっちではなく、右折した先の道道だ。



ショボくて草www

いろいろ装備がある交差点の反対側との歴然たる対比が、辛い!

道があり、ヘキサがあり、ゲートがある。
本質的には何も違わないのだが、道も、ヘキサも、ゲートも、全てがロースペックである。
特にこのクマ公に囓られたような傷だらけのヘキサは、補助標識類を一切持たないシンプルさと相まって、インパクトが強烈だ。
こんな標識を頼りに行先表示のない道に入るなんて、たとえゲートが開いていたって御免蒙る人が少なくないと思う。

いやはや……、朝イチの寝覚めにはキキまくるな…、このヘキサのある情景は。

でも、この道のある風景自体が、地味に凄く好みである。
広い平原を真っ直ぐ突っ切って背後の丘の明確な鞍部を目指す道の姿は、風景画の教科書に出てくる構図みたいに完成している。
雲一つない黎明の青空は、今日一日の探索の前途に祝福を貰った気分だ。



まあ、そんな雄大な風景とは裏腹に、この探索自体はとてもコンパクトなものを予定しているんだけどね。

この塗装だけはまだ新しそうな野塚ゲートから、SMDや地理院地図がともに道道の色塗りを止める地点までは、1本道の道なりに約1.3kmである。
道自体は無色になってもそのまま続き、野塚川と楽古川を隔てる稜線上の鞍部までさらに0.7km進むと、その峠に前回通行を断念した中楽古林道の出口があるようだ。が、今回その先へは行かない。鞍部で引き返して終わりとする。前回の中楽古林道は、あくまでも道道探索の迂回ルートとして採用しただけで、この手の使われなくなった林道を見つけたそばから闇雲に探索していたら、一瞬で私の寿命が尽きてしまうのである。

というわけなんで、この解放されている野塚ゲートから、約2km先まで行ってピストンしてくるだけのミニ探索のスタートである。恐いのは(特にこの早朝)ヒグマ。近所迷惑もなさそうな場所なんで、最初からバリバリ全開でブザーを鳴らして進むぞ。



ゲートから最初の500mほどは、ただただ真っ直ぐ伸びている。
しかし微妙に上り坂である。
おそらくこの区間も元を辿れば開拓地の区画道路なのだろう。

この朝は放射冷却も効いて非常に冷え込んでおり、主に土の地面の上には薄く靄が浮かんでいた。
チェンジ後の画像は、路上より左手、西の日高山脈方向を撮影した。
朝靄が幻想的な雰囲気を醸している。
しかも周囲が異常な静寂に包まれていて、虫や鳥の声もせず、世界に自分しかないような錯覚がした。



これらは反対に右手、東の海がある側の風景だ。
早暁の草原に様々な樹形がシルエットとなって浮かぶ景色は、子供のころブラウン管越しに何度か見たサバンナの朝の強烈な印象を思い出させた。
ここにキリンでもいたら完璧だが、牛や馬さえ見当らない。

朝の景色に感激しているうちに、道は山の端に着いた。



5:40 《現在地》

「これより国有林 林野庁北海道森林管理局」と書かれた看板があり、そこを境に景色は野から山へと一変。
地形的にはいきなり険しくなったりはしていないのだが、樹木と下草が鬱蒼と茂るだけで、山の中に分け入った感じがすごい。
ますます、未舗装の道道が単なる林道にしか見えなくなった。



間もなく道の両脇が、ある単一の植生によって完全に支配された。
地形を無視して広い範囲に育っている感じからして、栽培ではないように思うが、何の植物だろう。
冬枯れしつつあるその姿は、咲き終えたキク科の植物っぽく見えた。だが一様に草丈が1m以上もあって、その凄まじい密生と相まり、土地を征する威圧感があった。
いつかどこかで、この藪を掻き分ける日が来たらと思うと憂鬱に……。(そんな悩みはお前だけだ…笑)



その後一旦は普通の森の中へ進んだが、またすぐに、そしてより規模の大きな、単一植物大群落と遭遇した。
こういう大味な感じが、北海道っぽいよね。
でも、もし咲いている時期に来られたら、凄い壮観だと思う。

というわけで、しばし枯れ花の野を走っていくと……



地図には名称のない小川に架かる小さな橋が現れた。
親柱も銘板も持たない、コメントに窮するレベルで特徴の薄いコンクリート橋だが、道路標識による最大重量3.0トンの規制が行われていた。予告のない規制であった。

なお、現地には橋名を知る手掛かりも全くないが、以前の回に紹介した2018年度全国橋梁マップにはちゃんと採録されていて、本橋の名前は1号橋(いちごうばし)、竣功年は昭和50(1975)年、延長8m、幅員4.1m、そして路線名はちゃんと道道豊似広尾線になっていて、この地点までは確実に道道の供用区間内だと分かる証拠になっている。




橋を渡ると、周りの景色に遅ればせながらといった感じでようやく勾配が付いてきて、最初の十字路との比高50m程度の鞍部に向かう登り方が本格化する。
とはいえ、以前のカシュンナイから上野塚に越えた峠のような過酷な勾配になることはなく、未舗装ながら路面の砂利もしっかり締まっているので苦労はしない。
紅葉も終わりに近づいた静かな森の中、スカイラインの凹みとして明瞭に目視される鞍部を目指し、淡々と登った。



5:48 《現在地》

野塚ゲート前の交差点から約1.3km進んだ地点に、ちょっとした広場があった。
特段地形に特徴がある場所ではないし、道自体についても、広場の前後で整備状態、広さ、勾配といった様々な要素について、特に変化は感じられない。
ただ、この地点には反対方向から来た通行人に対する、「この先総重量3.0t以上の車輌は通り抜け出来ません。」という、道道管理者の平成22(2010)年までの旧称である帯広土木現業所(現:帯広建設管理部)が建てた看板がある。

中楽古林道が迂回路として機能していない現状、この看板を正面側から先に見る通行人を想像しがたいことはさておき、この広場こそが道道の供用区間末端であることを、看板の存在は物語っているのである。

その最大の根拠は、これまで何度も引用している道道冬期通行止区間一覧表にある。
同資料によると、この道道には「広尾町字野塚988番」という地番から野塚ゲートに至る、全長1.3kmの冬季閉鎖区間があることになっている。
この地番だけではどこを指しているのかはっきりしなかったが、実際に野塚ゲートから1.3kmの位置にこの広場があり、しかもそこに道道管理者が設置した看板があったのは、偶然ではないだろう。

この何の変哲もない広場が、道道の末端なのである。



この道道に5区間ある冬季閉鎖区間の起点や終点のうち、物理的なゲート以外の場所が指定されているのは、この「字野塚988番」だけである。
道はゲートもなくそのまま、路線名不詳の未舗装道路にバトンを渡している。
前述の通り、特に道が荒れているとか狭くなったとかもないが、確かに地図上でもここはもう“無色”の道として表現されている。

また、道道としては供用されていない区間だが、未供用区間の延長が判明している以上、「ここが道道だ」という図面上での道路区域の決定は行われているはずだ。そうでなければ延長を算出できない。(そのような状況は道路区域未決定といい、総延長にも一切計上がされない区間となる)
ただ、実際に道路区域がどこにあるかは、現地に道路区域を明示するようなアイテムは通常存在しないから、道路台帳の図面を確認しないと知り得ない。普通に考えて、ここに実在する道路の位置だとは思うが…。



そして広場から600mほど進むと緩やかな鞍部に辿り着き、そこを浅い切り通しで越える。
野塚川と楽古川の境にある、おそらくは無名の峠である。海抜は約180mだ。
全く見晴らしのない峠だが、ここに着くと初めて、向こう側を流れる野塚川の音が聞こえてきた。
1年前の探索で、無人の川の畔に立って【対岸に見上げた鞍部】に、辿り着いたのである。



5:56 《現在地》

そして峠を越えてほんの僅か下ったところで、道が二股に分れている。
左が中楽古林道だが、案の定入口にゲートがあって通行止の標識が掲げられていた。前年に見た野塚川の【氾濫の傷】はまだ癒えていないのだろう。
中楽古林道は国有林林道で、全長3392mであることが、この起点に立つ林道標識から判明した。



二股の右の道は、地図ではここから更に10km近くも山の中を東進し、最終的には西野塚の国道近くに辿り着くように描かれているが、路線名、通行の可否とも、不明である。
入口の様子的には抜けていそうだが、なにぶん情報がなさ過ぎる。



そして、我らが道道はといえば、おそらく二股のどちらの道にも与せず、おおよそ分岐の中央を割るような形で山野へ分け入り、そのまま眼前の急斜面を40mほど下の野塚川に目がけて下り、さらに渡って対岸の【前年探索末端付近】へ達するように、おそらく“道路区域決定”がなされているかと思うが、再三述べている通り、ここは推定1.4kmほどの道道未供用区間であり、実際に道路らしい形状は獣道すら見当たらなかったので、見知った川の気配は音と景色の明るさに感ずれども、踏み込むことはしなかった。



以上で、道道987号豊似広尾線の2つある未供用区間および、その周辺の探索は終了である。速やかに来た道を下山した。


現地の総評。
探索により、この道道には記録にあるとおり、合計2.5km程度となる2つの未供用区間が存在することが確かめられた。
そのために路線は細切れの3つの部分に分断されており、当然ながら一連の道道としてはほとんど機能不全の状態にあることが分かった。
供用中の区間であっても、通年でゲートが閉ざされ廃道化が進行中の区間があったり、そうでなくても冬季閉鎖や砂利道が当たり前であったりと、極めて限定的かつローカルな利用状態にあった。

その一方で、所々の整備済み区間については完備された2車線道路であり、おそらくは全線をそのような水準で整備する構想のもと、昭和60年代から平成10年代の終わり頃までは整備が進められてきた形跡があった。
だがその歩みも肝心の未供用区間の解消には至っていなかった。

帰宅後に机上調査を試みた。
ただ案の定、この路線についての文献的情報は、とても少なかった……。




 ミニ机上調査編 

道道豊似広尾線が今日の状態に至った経緯を調べたいと思ったが、文献らしい文献が見当らない。
ウィキペディアの記述により、本編冒頭で紹介したような各種諸元(総延長や未供用区間延長、路線認定年など)は分かっているが、こうした“データ”以外の“ストーリー”が語られていないのである。
本稿では、少ない情報を元に、推測を交えながら解説を試みたい。

まず、新旧の地形図を比較してみた。
この道道が認定されたのは昭和55(1980)年だが、それよりだいぶ古い昭和19(1944)年版を見ると、朧気ながらも、その原型となった道が見て取れた。
具体的には、現在の起点である紋別附近から、豊似川を渡ってカシュウンナイの谷を南進し、現在の峠のやや東側で上野塚へ越えて同地の開拓地をしばらく西進ののち、再び南折して野塚川を橋の記号なく横断。そのまま現在の峠と同じ位置でラッコベツへ越える一連の経路が、里道や小径といった規格の低い道の繋がりとしてではあるが、一応見て取れた。


『とかちの国道』より「北海道道路図(昭和26年)」の一部

そして、昭和55年の道道豊似広尾線の認定以前に、その前身となるような道道が別に存在した経緯もないらしく、たとえば昭和26年版の北海道道路図(↑)を見ても、該当するような道道は存在しない。

この道道がいくつもの峠越えをしながら結んでいる各地点は、終点の広尾の市街地を除けばいずれも明治以降の殖民開拓によって拓かれた土地である。
それらは、紋別原野の南西の端にあたるカシュウンナイ、野塚原野の西の端にあたる上野塚、そして同原野の南西端にあたるラッコベツなどで、いずれも各開拓地の基点から遠く離れた僻地であり、開拓の条件にもあまり恵まれてはいなかった。
それゆえ人口も多くはなく、そうした地点同士を険しい峠越えをしてまで横に結ぶ一種の環状線が必要とされるような状況は、あまり生じなかったであろう。
とはいえ踏み分け程度のものは当時から存在していて、それが昭和50年代以降になってから、従来の開拓に留まらない多面的な需要の元に、道道として抜擢されるに至ったものと推測される。

昭和35(1960)年に発行された『広尾町史』には、これら各開拓地の沿革が紹介されている。
いずれの地域でも、明治30年頃に北海道庁による殖民地撰定事業による土地区画が行われ、それを契機に主に道外からの入植者による開拓が進められた。
しかし、土地区画がされたといっても、入植当初は鬱蒼とした山林に斧や鍬で立ち向かう苦労の連続であったという。いくつか証言を紹介しよう。

(上野塚の例)
明治33年にこの地に入地した後藤宗一の語るところによれば
「野塚川左岸のこの地区は川に沿って、2尺から2尺5寸くらいの柏が密生し、その他は草原で馬(道産馬)に乗っても草上に顔が出ないほど、草生の良い土地であった。(以下略)」

また、桜井重正は、
「入殖当時の開墾小屋は笹とヨシで造った拝み小屋が多く、入口にムシロを垂し、樺皮を燃やしてランプ代わりにした。(中略)この頃、道路といえば、曲がり曲がった細道で、馬車で馬鈴薯は10俵も積めなかったし、雨が降ると小学生はツマゴを穿き、ゴザのマントを着て野塚小学校に通学したもの。八線道路が開さくされたのは昭和16年で、それまでは想像することも出来ない苦労をしたものである。この前後から国有林で■(八+十)林、正橘、堀田多助が造林事業を始め、角材にしてソリで広尾まで、搬出し船積みしたものである」と語っている。

『広尾町史』より

(花春の例)
明治43年5月の入殖である。(中略)カシュウンナイ川に沿うて、立ち並ぶ巨木を1本、1本伐り倒し、昼は暑いので、夜になってから積み重ねて焼き払った。あちこちで天に冲して燃えさかる火焔は、壮観そのものであったという。

小野縫之助老は、
「今でこそ、名物の吊橋も立派な橋に架け替えられたが、初めの頃向岸に渉るため、赤ダモの大木で、5日もかかって丸木舟をつくったこともあり、両岸に股木を立てて、八分ロープで吊橋をつくって渡ったこともあった。これまでに、色々な思い出があるが、中でも忘れることのできないのは大正6年5月22日の野火のことである。野塚方面から折からの西南風にあおられて襲来した野火は、一瞬にして12戸の部落全戸をなめ尽くし、紋別河原の方へ疾風のように燃え去った。広尾の蛇沼鍛冶屋に辛抱してつくらしたプラオも、郷里の熊野神社から分枝した花春神社も焼失してしまった。」開拓当初の苦労を以上のように語っている。

吊橋だけが唯一の交通ルートであった花春も昭和33年豊似川に木橋が仮設され、人馬の交通は至便になり、また奥地の木材搬出も著しく便利になって、移住以来50年の悩みを解消することが出来た。

『広尾町史』より

明治33年幹線に花久福松等が入地以来、戸数は40戸に及び特別教授場まで設けられるようになり、また楽古別原野には渡辺忠等の福島団体の移住により、戸数も40戸を超えるようになった。よって村では、寄茂市街、幹線、楽古別間を結ぶ殖民道路の必要を痛感し、道庁に陳情し、道庁では拓殖予算で「村道楽古別間道路」を開さくした。これが村道の始りであって、大正4年12月のことであった。

殖民区割地内の道路は寄茂原野、野塚原野さらに広大な紋別原野にしても、道路予定線は整然としていたが、樹林といばらの道であるから移住者は樹木をさけ、湿地、坂を迂回し或いは歩行に便利な川岸を選んで隣家へ、或いは今の二級国道へ出るという有様であった。各地に村道が開かれるようになって村では昭和4年から道路保護組合を各地区に組織させ、道路の維持と修繕に協力させた。

『広尾町史』より

上記した引用のうち、下線の部分にある道路が、今日の道道の各部分の元になっている。
全体を通して1本の道路として整備した記録はなく、各殖民地のなかでそれぞれの関係者の努力によって整備されてきたことが分かる。
ただ例外的に、広尾から幹線を経てラッコベツに至る区間については、北海道庁の拓殖予算で開削されたことが明らかになっており、他の区間に先駆けて整備されていたといえる。(その区間でさえ未だに未舗装で冬季は閉鎖される現状だが…)

また、重要な気付きとして、明治期の殖民地区画によって開拓されたこれらの原野には、当初から整然とした区画道路があったかのような想像をしていたが、それは誤りで、「道路予定地は整然としていたが、樹林といばらの道である」とあるように、実際には区画だけがされていて、道路として実際利用できるように伐開したのは開拓民たちであったことが分かる。それゆえ、上野塚などでは現在の幹線である8線道路でさえ、昭和16(1941)年の開削となっているし、カシュウンナイではさらに遅く昭和30年代まで車は入れなかったのである。


以上のような開拓当初からの苦労を乗り越えて、昭和35年の『広尾町史』の刊行のだいぶ後の昭和55(1980)年になって、ようやく道道豊似広尾線の認定がある。
だが、その経緯については全く文献的情報を欠いている。
昭和53(1978)年から昭和57(1982)年にかけて『新広尾町史』全3巻が順次刊行されているが、これらの本文を検索しても、豊似広尾線についての記述は皆無であった。

したがって、この時代に豊似広尾線を道道として整備しようとした背景は推測するよりないのであるが、まず一つ、広尾市街に古くから開かれていた広尾港が、昭和40(1965)年に十勝港へ改称され、さらに昭和45年に国の重要港湾指定をうけるなど、十勝地方の代表的産業である農産物輸出の玄関口として大規模に整備された経過がある。これにより広尾町は交通の拠点としての地位を高めたが、広尾に至る道路は海岸沿いを南北に貫く国道1本があるだけで、あとは広尾と帯広を結ぶ国鉄広尾線もあったが、広尾線は昭和50年代から廃止が取り沙汰されていた(昭和62年全線廃止)。

しかも、広尾を含む十勝地方ではマグニチュード7〜8クラスの大地震が、おおよそ60〜80年間隔で発生しており、実際に昭和27(1952)年の十勝沖地震では広尾で180cmの津波を観測している。
海岸沿いの低地を通る道路しかないという状況では、そのような災害時に広尾一帯が孤立する畏れは高い。
ならば、内陸側へ大きく迂回して従来の開拓地を峰越に結びつつ国道236号と広尾市街を直結する道道を整備し、災害時の代替路として機能するようにしようという、現在の道路計画では特に重視されるリダンダンシーの考え方を取り入れて計画されたのが、この路線ではなかったかと思う。

実際、この路線の各所には、道道認定以降の昭和60年代から平成10年代にかけて、2車線舗装路として整備された区間が多くみられ、全線を災害に強い道路として整備したいという意思が感じられるように思う。
だが、実際には道道認定から40年あまりを経過した現在もなお、合計2.5kmの2ヶ所の未供用区間を抱えるほか、未舗装の狭隘な区間も9km近く残っていて、とても災害時の迂回路になるような路線状況ではない。なぜ整備が遅々として進んでいないのか。或いはこれが想定された通りの進捗具合なのだろうか。その辺りについてもはっきりとしたことは分からないが、災害時の代替路という(私が想像した)目的については、別の道路によって解決されつつあるのが現実だ。

その路線とは、国道236号の自動車専用道路として国が整備を進めている帯広広尾自動車道である。
その名の通り、帯広と広尾を結ぶ高規格幹線道路として、昭和60(1985)年に地元自治体が設立した「帯広・広尾間高規格幹線道路建設促進期成会」の活動に端を発しているこの道路は、平成15(2003)年の帯広JCT〜帯広川西IC間の開通を皮切りに順次延伸され、平成27(2015)年には広尾町の隣の大樹町の忠類大樹ICまでが開通している。残る終点・広尾ICまでの約27kmの区間についても、令和4(2022)年度までに事業化が行われており、順調に行けば今後10年程度で開通するのではなかろうか。

そしてその予定ルートは、現在の国道よりも山寄りで、津波への対策が考慮されたものとなっている。
完成すれば、災害時の迂回路としての道道豊似広尾線の役割は、さらに薄くなるものと想像される。
そのような見通しがある中で、ますます今後の道道の整備には期待が持てないというのが私の予想だ。


今回の机上調査編は、調査というより私の推理のような内容が多くなってしまったが、いかがだっただろう。
整備が完了した区間と、そうではない区間のギャップが大きく、しかも両者が複雑に入り乱れているところが、この路線の特徴である。
だが、全線が未整備の都道府県道だって全国には多くあるわけだから、それと比べれば、この道道には大きな大義を与えられ、五月雨式に各所で整備が進められていた“晴れ”の時期があったのだと思う。
惜しむらくは、その時代に完成できなかったことであり、ある意味現状は一種の未成道と言えるだろう。

そんな悲しい道道について、皆さまのご意見も、ぜひお聞かせいただきたい。






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