岩手県道212号雫石東八幡平線 網張工区 第1回

公開日 2011.12.26
探索日 2011.11.05
所在地 岩手県岩手郡雫石町

平成10年11月18日、この日行われた記者会見の席上で増田寛也・前岩手県知事は、それまで県が進めていた一般県道・雫石東八幡平線の建設の断念を発表した。
この道路の開通が地域発展の起爆剤になると信じていた沿道自治体関係者を中心とする建設推進派にとっては死の宣告にも等しい重大発表であったが、知事は建設断念の理由を次のように述べたという。

県内でも有数の規模のトンネルとなり、莫大な費用を要することから、現在のような厳しい経済情勢下では県民の御理解をいただくことが難しいと考えたところでございます。また、観光を主体とした地域振興上の波及効果が必ずしも明確にならないことや、さらに自然と共生する新しいライフスタイルや21世紀を展望した新たな価値観に対応するためにも、このような選択をしたところでございます。    岩手県議会議事録より抜粋

そしてこの代替策としては、環境庁(現:環境省)と県の合同による「緑のダイヤモンド計画」を推進し、県道の既設区間沿いの雫石町と松尾村にそれぞれ観光学習機能を持たせたビジターセンター「森の駅」を設置すること。加えて周辺に自然観察歩道を設けるなどの計画が発表された。
ただし、平成24年8月現在において、「森の駅」が完成したという話しは聞かない。


県道雫石東八幡平線とは、いかなる道路であったのか。
まずは全体像と位置関係を確かめてもらおう。→

右図中に赤線で示したものが県道212号雫石東八幡平線である。
起点は雫石町の中心部、終点は八幡平市の柏台(旧松尾村中心部)で、一般に東八幡平と呼ばれる地域である。
本路線の全長は約37kmで、このうち網張温泉から松川温泉へ至る区間が、海抜1200mを越える高山地帯になっている。
そしてそこは十和田八幡平国立公園の第一種地域に指定される、いわゆる「尾瀬」などと同じ自然保護の“聖域”であった。

自然保護の面から、本路線の建設に対する反対論が出るのは当然のなりゆきといえたが、そうした声に容易に封殺されず建設が相当に進められたのは、この道の開通が地域に与える利便性の大きさなど、建設の妥当性が決して小さくなかったことを裏付けている。

地図を見れば明らかな通り、岩手山の南面に位置する小岩井農場を代表とする高原的観光地と、全国屈指といえる山岳的観光地である八幡平とは、距離的に近接していながら、従来は岩手山の東裾野を大きく迂回する道しかないために、周遊する観光ルートを設定することが難しく、また観光シーズンには道路の渋滞も著しかった。

本路線を語るときについて回る、枕詞のような通称がある。
それは、「奥産道(奥地等産業開発道)」というものだ。
当サイトの読者ならば、この名を聞いて「またか」と思ったかも知れない。
その通りである。
“この道”と同じ時期に、同じ岩手県で未成道となってしまった奥産道が、もう1本あったのである。

奥産道建設の根拠法である奥地等産業開発道路整備臨時措置法は、昭和39年に制定された。
この法律は、従来は交通路の未整備のため低開発低利用に留まっている地域に対し、高率な国庫補助を与えて開発の基幹となる道路(奥地等産業開発道路)の建設を行おうというものである。
当時はマイカーブームが全国的に大旋風を起こしている時期であり、各自治体の旺盛な道路建設熱に応えたものであろう。

岩手県においても、十和田八幡平国立公園の南北を結ぶ網張〜松川間が奥産道事業に認定され、昭和40年に着工した。

しかし、当初から工事は順調に進まなかった。
昭和40年代中盤からは、急速な道路開発に伴う自然破壊への疑問の声も澎湃としてわき起こってきたのであり、国立公園の第一種特別地域を通過する本路線の計画は「無謀である」とする建設反対の運動が、県内外の環境保護団体を中心に展開されたためである。
本路線は旧厚生省時代から「公園車道」に認定されていたのだが(国立公園内に開設することが出来る歩道や車道を予め指定することで無秩序な開発を抑制している)、新たに発足した環境庁は公園車道の認定こそ取り消さなかったものの、昭和46年に県に対して、第一種地域通過の方法やルートについては事前に協議を行うべきという指導を行ったのだった。
この結果、県ではルートを再検討するため、昭和48年頃から工事を凍結しなければならなくなった。

この建設凍結は長期間に及んだが、第一種地域をトンネルで通過する新ルートがようやく環境庁の了解を得たことで、昭和59年に約10年ぶりの工事が再開された。
なお、この間の昭和51年には、県道への認定<当初の路線名は雫石停車場東八幡平線であった>を受けている。

長大な路線であり、建設期間の長期間にならざるを得なかった。
しかし、平成6年にはいよいよ工事が核心部に進行したためか、本路線を環境との共生を謳う「エコロード」とすることが発表された。
当時、建設計画の決定から既に30年を経過しており、開通を待ち望む関係者の「いまか」という声もやや疲れを帯び始めてきたことだろう。
一方では相変わらず「不要論」も息づいていたが、既に全体の8割方完成してしまったという既成事実は重いのであり、こちらも声はやや下火。むしろ、開通後の対処について議論を交わす段階になっていたようである。

だが、こうした既定路線のムードを一変させてしまうような“事件”が、起きてしまった。

平成7年7月に建設予定地において、県の環境影響調査を請け負っていた業者が、資材運搬用道路を開鑿する目的で無許可の伐採を行っていたという事実が8月に発覚。県警による捜査の結果、自然公園法ならびに森林法違反の疑いで県の工事担当者が書類送検されるという、まさに前代未聞の事態となってしまったのである。
この事件を受け、増田知事が直ちに工事の無期限凍結と、破壊された植生の調査及び復旧を決定したことも、世論として無理からぬことであった。

こうして平成8年より、建設推進派にとっては寝耳に水といえる2度目の工事中断に入った時点で、計画全長16.2kmに対する完成部分は13.1km(完成率81%)に達しており、事業費ベースでも62%の46億円が既に投じられていた。未着工区間は3.1kmあったが、このうち約1kmは昭和59年に決定したとおり、トンネルとする計画であった。

無許可伐採のニュースは県内で当時盛んに報道されて県民の関心も高かった。
平成9年に行われた岩手日報社の世論調査では、50.4%の県民が工事中止に賛成していたというから、世論は真っ二つに割れていたのである。
県議会においても、この問題は当時同じように工事の続行か否かで揺らいでいた沢内村(現:西和賀町)の奥産道安ヶ沢線と共に「奥産道問題」として繰り返し議論されていた。

さて、“冒頭”の決着の時期が近付いてきた。

平成9年8月、県の道路検討委員会は、工事継続の可否について種々の検討を行った結果を答申した。
その内容は、環境への影響を考慮すれば従来のルートでも不完全であり、未着工区間の大半をトンネル化する以外にはないというものであった。
すなわち、従来の1km級のトンネルではなく、2km級のトンネル建設が必要であるというわけで、これに伴う工事費は当初の35億円から倍増して67億円と見積もられた。
さらに、両坑口の標高は150m近くも違うため、安全上も問題のあるトンネル計画と言わざるを得なかった。
これがそのまま実現していれば、平均勾配7.5%が2kmも連なるトンネルとなり、“新釜”を彷彿とさせる。

おそらくこの答申が決定打となったのだろう。
平成10年11月18日、知事による“冒頭”の会見(計画中止の発表)と相成ったのだった。
なお、知事はこの年を「環境創造元年」と宣言していた。また奥産道安ヶ沢線についても、平成12年に工事が中断され、17年に中止が決定された)


こうして、たった3kmの未開通区間を残して隔絶されたのは、13kmを越える長大な行き止まりの道であった。

建設中止決定後は、既設区間の活用方法について議論が進められ、平成14年にはそれを最大限に活用する方針が決定した。
(なお、これまでに使われた国庫補助金の23億円についても、現道を活用することで国庫への返還が回避されたという)

そして平成19年6月29日、県道雫石東八幡平線は着工以来43年目にして“全通”して、その供用が開始された。

もっともそれは、未開通区間を従来の登山道に少し手直しをした山道で結ぶという、平成の新たな「登山道県道」の誕生という形であって、小岩井と八幡平を自動車道で結ぶという本来の目的は、全く果されずに終った。





生々しい“現代的道路史”をご覧頂いた。
続いては、今回紹介する網張工区(雫石側区間)の地形図をご覧頂こう。


奥産道の起点は、標高750mの高所に位置する網張温泉附近。
8世紀に発見された長い歴史を持つ温泉場で、藩政期には岩手山信仰の霊場として周囲に網を張って入湯を禁じたことが、名前の由来だという。
岩手山の登山基地として知られ、昭和38年には国民休暇村指定を受けたほか、現在は網張温泉スキー場が整備されている。

奥産道は、網張温泉から緩やかに高度を上げつつ山腹に沿って西進し、小松倉山の尾根を回り込んでから、4kmの地点(標高950m)で大松倉沢を跨ぐ。
5km地点から登りが急激となり、同時に九十九折りが始まる。
なお、このつづら折りの途中から破線の道が分かれているが、平成19年に新設(接続)された“登山道県道”である。

地形図上の終点は、8km地点である。
そしてこの数字は、記録されている網張工区の既設延長と一致する。
終点の標高は1250mに達しており、峠である三石湿原との標高差は僅か30mに過ぎない。距離も直線で700mまで近接している。

はっきり言って、峠越えに関する技術的問題は皆無であったろう。
その気になれば、道はあっという間に峠に達し、湿原を大胆に横断し得たに違いない。
だが、ひ弱な自然環境は守らねばならないというのが、自然保護という今日の「常識」である。
土木は自重を強く求められる。


それにしても、これほど峠の近くに達しながら、峠越えを果たずに終ったという未成道は、珍しい。

…想像してみて欲しい!

東北の屋根というべき奥羽山脈のただ中で、しかも国立公園の核心部である。

どんな“道路の極まれる風景”が待ち受けているのかを!






それでは、前説の最後に旅立ちの風景を。



雫石町の国道46号(秋田街道)からは、晴れていれば漏れなくこんな車窓が得られる。
この姿を晒していて、地域の顔にならないはずはない。

岩手県の最高峰である岩手山には、岩鷲(がんじゅ)山、岩手富士、南部富士、南部片富士、巌手山、磐手山、岩堤山、霧山岳、薬師岳、薬師ヶ天井などの呼び名がある。
標高2038mの複成火山で、最近では大正8年に小噴火が記録され、そして奥産道の工事中止が決定された平成10年から15年にかけても火山性地震が頻発したので、人の無計画に対する山の怒りと評する人もいた。

そして、あの壁のような山並みの裏が八幡平だが、目指す三ツ石湿原がどこにあるかというと、左の隅っこ…。



鞍部と言っても、十分高い!
そして、遠い!!

脚が鳴るぜ!


(三ツ石湿原は、岩手山と奥羽山脈を結ぶ約15kmの稜線(雫石町八幡平市境)中の最低地点である)



雫石を出発して網張温泉へ


2011/11/5 7:05 【現在地(マピオン)】

「脚が鳴る」などと言った手前、ちょっと気が引けるのだが、自動車で失礼します。

手(脚)を抜きすぎだって?
実はいまから11年も昔の平成12年、「山行が」が誕生した年の10月にも、今回とほとんど同じ行程で、この不通県道の終点を自転車で極めようとしたことがあり、その時にさんざん脚を鳴らしています。
だから、マイ・オブルールの「再訪時は楽してヨシ」に則って、今回は車で探索しても良いんです。

前置きはこのくらいにして、「網張温泉」という青看の案内に従って国道46号を雫石で左折、ターゲットの県道212号に入った車は一路北上を開始。
辺りは葛根田(かっこんだ)川の扇状地なのか、或いは前面に峻立する岩手山の裾野なのか、おそらくその両方の要素を持っているのだろうが、起伏の極めて少ない北高南低の地形が飽きるほどに広がっている。

国道と分岐した雫石中心部の標高は約200mだが、不通区間の玄関口となる網張温泉の標高は約800mである。
この間の18kmで600m近い登りとなるわけだが、その標高差は後半に集約されている。

なお、この写真の地点には、「網張温泉まで12km」を示すヘキサがあり、国道から6km進んだことを知ったが、相変わらず周囲には平地と変わらぬ風景が広がっていた。この辺りは、自転車の時もほとんど登りを意識した憶えがない。
物理的には楽な行程だが、この道が遂に到達を果たせなかった鞍部が、前方の視界にずっと居座り続けていた。

未成道にとってこれはある意味、最も苛酷な眺めといえるかも知れないな。

…などと考える時間は、たくさんあった。



【現在地(マピオン)】

風景が平野から山地へと切り替わるのは、国道から11kmも入った玄武温泉附近からだ。ずっと平野の中央にあった葛根田川も、ここまで来ると遂に谷底の広い渓流となる。

が、私はこのまま谷沿いに山奥を目指す訳ではない。
県道は玄武温泉を過ぎるとすぐに、写真の地点で二手に分かれるが、県道212号はここを右折してさっそく山腹へ取り付くのである。

なお、直進する道はここが起点の県道194号西山生保内線だ。
この生保内(おぼない)というのは現在の仙北市田沢湖町の中心部の地名で、これは奥羽山脈を越えて秋田県へ繋がる路線名なのだが、昭和34年に県道認定以来、歩道すら繋がったことのない、県道212号以上に筋金入った不通県道である。

つまり、この地味な交差点は、不通県道同士の分岐点である。

もっとも県道194号は、岩手側も秋田側も末端部まで観光路線として利用されており、不通県道にしては恵まれた、不通をあまり意識させない路線である。
この道の延伸は、白神山地にも劣らないという葛根田川源流地域のブナ原生林保護のため、構想の段階で中止されている。

またさらに話しは脱線するが、この西山生保内線の「西山」も、調べないと分からない謎の地名である。
これは、昭和30年に雫石町に合併して消滅した西山村から来ている。(現在地の大字が長山で、葛根田川対岸の隣り合う西根地区と合わせて、西山村といった)
しかし、県道が認定された昭和34年には既に村名が消滅していたばかりでなく、西山は地名としては一切残らなかった。
ある意味、こういう部分にこそ「不通」の侘びしさが滲んでいる気がする。 路線名が顧みられてないというか…。




気持ちいい!

県道194号と分かれると本格的な上り坂が始まるが、すぐに写真の悠然としたビッグカーブが現れるので、サイクリストもライダーもドライバーも、爽快な気分になること請け合いである。
この道の周囲には牧草地が多く存在し、実際の標高はまだ500m足らずだが、背景の山並みとあわせて高原道路の風情を随所で演出してくれる。

ところで、いきなり写真の季節が晩秋から初秋へと少し“巻き戻った”ことに、お気づきだろうか。
これは11年前の自転車探索時に撮影した数少ない写真である。

遠方正面の帯状に木の生えていない部分が網張スキー場で、そこにある白い建物が、とりあえずの目的地となる網張温泉だ。

そしてここから視線を右にずらすと…、あらステキ!





ドーンと岩手山。

出発時から較べると、いよいよ近付いたという実感のある岩手県最高峰の勇姿。
右の盛岡市方向に下る裾野の撫で肩ぶりは、まさに南部富士と呼ぶに相応しいものだが、
左側の尾根はゴツゴツと鋸歯状をなしており、南部片富士や岩鷲山の別名もまた言い得て妙だ。

この岩手山の山体にも幾筋かのゲレンデが見えるが、それは岩手高原スノーパークである。
そして県道212号は直接網張温泉へは向かわず、まずは岩手高原スノーパークを目指して上っていく。


でも、待って!

ちょっとだけ、振り返ってみようか。




「生まれてきて良かった」と思えるくらいの、好風景。

これは南南東方向の眺めで、私が辿ってきた葛根田川沿いの少し西側の辺りが見えている。
そして、そこに霞むほど遠くまで広がっている原野は、本州最大の牧場として著名な小岩井農場の一帯だ。

言葉が出ないほど美しいが、これを安易に“日本離れした風景”などとは言いたくない。
これぞまさに「イーハトーブ」(郷土が生んだ宮沢賢治の造語で理想郷と解釈される)の世界観を彷彿とさせる眺めであり、岩手が誇る風景なのである。

それにしても11年前の私は、景色的に最も恵まれた一日に探索をしていたようだ。




【現在地(マピオン)】

県道194号分岐から約5km登ると、この岩手高原スノーパーク前の交差点に到着する。

右の道は、雫石の東に隣接する小岩井地区から、小岩井農場を横断しながら登ってきた、県道219号網張温泉線だ。
路線名からも分かるとおり、盛岡方面から網張温泉への順路は、この道が担っている。

なお、平成4年までこの道は小岩井有料道路という県の有料道路だった。
小岩井有料道路は、昭和44年に着工し46年に開通しているが、これはちょうど今から向かう三ツ石越えの道路建設が開始された時期と合致する。
当時の資料は未見であるが、小岩井有料道路は単なる小岩井農場の横断道路として作られたのではなく、八幡平方面への観光バイパスとしての効用が期待されていたのだと思う。三ツ石峠越え区間も当初は有料道路として想定されていたかもしれない。(かつて子供心に、どうしてただの牧場を通る行き止まりの有料道路があるのか。この牧場はそんなに凄い観光名所なのかと思った記憶がある。いま思えば、それはある程度正鵠を射た疑問だったのである)

とまれ、県道212号の順路はここを左折する。私ももちろん左折した。

いくつか補足として書くことがある。
補足1。 玄武温泉分岐〜岩手高原スノーパーク間の県道212号は新道であり、実は旧道が存在している。
地図上で大きな九十九折りを描くのが新道で、それに絡まるようにして小さな九十九折りを連ねているのが旧道と一目瞭然だが、旧道も別荘村の街路などとして現役である。

補足2。
自転車での探索においては、活きの良い当時の脚でも、玄武温泉〜岩手高原スノーパーク間の登攀に約50分を要していた。
しかし、標高は400mから620mへとだいぶ上昇しており、一汗掻くに相応しい爽快な上り坂だったと記憶している。
車だと10分もかからないので、味気なかった。



左折すると再びヘキサ。
補助標識にある行き先表示は依然変わらず網張温泉だが、残す距離は2.4kmと、いよいよ近付いてきたことが分かる。

あと、今さら書くようなことでもない…というか、書かなくても大方の読者さんは勝手に感じてくださっていると思うが、補助標識に県道の路線名が付いている場合、それが不通県道だったりすると、余計に虚しい感じを受けるものである。
思えば、昔の私が「県道でも繋がっていない道がある」という、今となっては極めて当然の事柄に初めて気づき、興味を抱いたきっかけもまた、こうした不通県道のヘキサに取り付けられた補助標識だったと思う。
それがどこの路線だったのかは、今となっては思い出せないが…。少なくともここへ最初に来たときには、もう不通県道の虜であった。



さて、車窓はとても綺麗だが、それでもこの辺りまでは不通普通の県道。
ダラダラとレポートしても仕方がないので、ちょっと指向を変えて、
再訪のメリットを最大限活かすレポートを展開してみようと思う。
すなわち、

11年前と今回の比較写真を取り入れてみようと思う。



まずはここ。

網張温泉の1kmほど手前にある岩手高原ペンション村の辺りだが、
ここの道は平成12年当時、山中にはとても似つかわしくない、ご覧のような4車線道路になっていた。

これには誰もが意表を突かれ、さほど長い区間ではないが、印象に残ったのではないかと思う。
登坂車線のように思えるかも知れないが、そのような表示は見られず、
しかも下りの車線も2車線なので、これは普通に4車線道路なのである。

一体何のために…?



そしてこれが、今回(平成23年)の写真。

謎の4車線道路は、謎のまま、既に表の舞台からフェードアウトしていた。

その必要性がやはり疑わしかったからなのか、別に理由があるのか知らないが、
今回は4車線のうち外側の2車線がガードレールによって無造作に封鎖されており、
隙間から立ち入れない事もないが、ただの不自然な2車線道路になっていた。

センターラインとそれ以外の区画線の色褪せ方の違いが、空しさを倍増させている。
本当にこの4車線道路はなんのためにあったのか、冬の雪捨て場というのでは救いがない気がする。



この部分について、ある読者さまから「小岩井有料道路の料金所跡だったと思う」という情報が寄せられました。
この場所に料金所があったとなると、県道212号の新道を通行した場合、それだけで料金所を通らねばならないことに…。
当時の地形図や道路地図にも、料金所の位置が書き込まれていると思うので、お持ちの方がいたら確認して情報を頂けると嬉しいです。


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《現在地》

そしてやってきました網張温泉入口。
昭和40年に着工した奥産道区間の起点は、この網張温泉入口の交差点だったと思う。

この地の第一印象となるご覧の風景は、なかなか特徴的なのでよく印象に残っていた。
何が印象深いか、道路好きには言うまでもないだろう。
オームのようなかなり特徴的な構造物が、もう見えているではないか。



ここも同じように新旧比較。
何が変化したか、分かるかな?

目立つ建物には、変化は無い。
道路や標識にも、大きな変化は無さそうだ。
(センタータインが引き直されているな)

増えたのは、道路の上にあるウッドデッキみたいな立派な歩道である。
その代わり、工事用の仮設階段は取り払われていた。
これを見る限りにおいて、行き止まりの立地に有りながら、
網張温泉のお客の入りは、なかなかに上々のようである。



私の中で網張温泉の象徴的風景になっているのが、このハーフパイプのようなスノーシェルターだ。
スノーシェルター自体は雪国の道路では珍しいものではないが、その多くが鋼製である。
このフルコンクリート製のシェルターは、採光窓の配置がオシャレで、近未来的な印象である。
スキー場といえば若者、若者といえばオシャレということで、こんな凝ったものを作ったのだろうか?
いずれ、標高800mもあるこの地点での冬期交通確保には、だいぶ役立っていることだろう。


しかーし、

これで驚いてもらっては困る!

或いは、この程度では驚かなかったという人も、次こそ驚いて欲しい。



真の驚きは、このシェルターの出口にあったンだ!

↓↓↓




じゃこりゃ?!


今までいろいろな道路構造物を見てきたが、この半分だけのスノーシェルターはここ以外で見たことがないし、
道路に覆い被さってくるような何とも言えない外見的不安定さは、インパクトが絶大である。

なお、道路に屋根をしないタイプの防雪擁壁は、スノーキーパーと呼ばれているようだ。



この構造物は、長さ100mほどのスノーシェルターの出口から、40mばかり続いて終わる。

終わり方も唐突であり、本当にこれが完成形なのかと、余計な心配をしたくなるほどだ。



見よ! この何かを超越したスタイルを!

私には、これが道路世界における“絶世の美女”に見える。

マジで美しい。




そして、そんな“美女”の歓待を受けた後は、

みなさんお待ちかねの……



現れたのは、広大な駐車場を従えた網張スキー場のゲレンデ&リフト。そしてこれが、この県道沿いにある、本当に最後の建物である。

平成22年にこの先の県道と登山道が連絡され、一応“登山道県道”として全通を果すまで、この先は真に行き止まりの不通区間でしかなかった。


なお、この風景には特に変化が無いと思ったが、写真を見較べて初めて、意外な変化に気付いた。

それが何かお気づきだろうか?(影が2人分あるとか、そういうのではなく…)




←答えはこれ(道路標識)だー!!

上の写真からじゃ分からないよね〜(笑)。

でも、この標識が明らかに変化していた。

左の写真は、今回撮影されたもの。
そして下の写真が、平成12年のものだ。




現地で気付かなかったのも頷ける、何とも微妙な変化である。

盤面自体は同じサイズだが、表面だけを貼り替えたわけでもなさそうだった。
そして、書いてある内容に決定的な変化は見られないものの、全体の印象はかなり変化している。
すなわち、新しい標識は前よりもグラフィカルで、ヘキサが追加されていたり、リフトが描かれていたりと情報量が多く、また色合いも優しい感じがする。
昔の標識も普通の青看よりは柔らかな感じだが、やっぱり無表情だ。

しかし、それでも大きな看板を作り直すほどの内容的変化は無い気がする。
せっかく前は表示していた「通行止」までの距離も、新しい標識では消えてしまっているし、劣化している部分も見られる。
なんで付け替えたんだろう…?
どうせ付け替えるなら、晴れて正規の登山道になったのだから、県道の行き先に「三ツ石山荘(登山道経由)」とか「松川温泉(徒歩のみ)」とか書いてあげても、良さそうなものだ。



とまあ、重箱の隅をツンツンしながらやってきたが、

センターラインもイイカンジに色褪せて参りましてたところで…

ここから、やっと不通県道の楽しみが始まるんだニャン!


無念の工事打ち切り地点まで、あと7.5km!