平成10年11月18日、この日行われた記者会見の席上で増田寛也・前岩手県知事は、それまで県が進めていた一般県道・雫石東八幡平線の建設の断念を発表した。
この道路の開通が地域発展の起爆剤になると信じていた沿道自治体関係者を中心とする建設推進派にとっては死の宣告にも等しい重大発表であったが、知事は建設断念の理由を次のように述べたという。
県内でも有数の規模のトンネルとなり、莫大な費用を要することから、現在のような厳しい経済情勢下では県民の御理解をいただくことが難しいと考えたところでございます。また、観光を主体とした地域振興上の波及効果が必ずしも明確にならないことや、さらに自然と共生する新しいライフスタイルや21世紀を展望した新たな価値観に対応するためにも、このような選択をしたところでございます。 岩手県議会議事録より抜粋
そしてこの代替策としては、環境庁(現:環境省)と県の合同による「緑のダイヤモンド計画」を推進し、県道の既設区間沿いの雫石町と松尾村にそれぞれ観光学習機能を持たせたビジターセンター「森の駅」を設置すること。加えて周辺に自然観察歩道を設けるなどの計画が発表された。
ただし、平成24年8月現在において、「森の駅」が完成したという話しは聞かない。
県道雫石東八幡平線とは、いかなる道路であったのか。
まずは全体像と位置関係を確かめてもらおう。→
右図中に赤線で示したものが県道212号雫石東八幡平線である。
起点は雫石町の中心部、終点は八幡平市の柏台(旧松尾村中心部)で、一般に東八幡平と呼ばれる地域である。
本路線の全長は約37kmで、このうち網張温泉から松川温泉へ至る区間が、海抜1200mを越える高山地帯になっている。
そしてそこは十和田八幡平国立公園の第一種地域に指定される、いわゆる「尾瀬」などと同じ自然保護の“聖域”であった。
自然保護の面から、本路線の建設に対する反対論が出るのは当然のなりゆきといえたが、そうした声に容易に封殺されず建設が相当に進められたのは、この道の開通が地域に与える利便性の大きさなど、建設の妥当性が決して小さくなかったことを裏付けている。
地図を見れば明らかな通り、岩手山の南面に位置する小岩井農場を代表とする高原的観光地と、全国屈指といえる山岳的観光地である八幡平とは、距離的に近接していながら、従来は岩手山の東裾野を大きく迂回する道しかないために、周遊する観光ルートを設定することが難しく、また観光シーズンには道路の渋滞も著しかった。
本路線を語るときについて回る、枕詞のような通称がある。
それは、「奥産道(奥地等産業開発道)」というものだ。
当サイトの読者ならば、この名を聞いて「またか」と思ったかも知れない。
その通りである。
“この道”と同じ時期に、同じ岩手県で未成道となってしまった奥産道が、もう1本あったのである。
奥産道建設の根拠法である奥地等産業開発道路整備臨時措置法は、昭和39年に制定された。
この法律は、従来は交通路の未整備のため低開発低利用に留まっている地域に対し、高率な国庫補助を与えて開発の基幹となる道路(奥地等産業開発道路)の建設を行おうというものである。
当時はマイカーブームが全国的に大旋風を起こしている時期であり、各自治体の旺盛な道路建設熱に応えたものであろう。
岩手県においても、十和田八幡平国立公園の南北を結ぶ網張〜松川間が奥産道事業に認定され、昭和40年に着工した。
しかし、当初から工事は順調に進まなかった。
昭和40年代中盤からは、急速な道路開発に伴う自然破壊への疑問の声も澎湃としてわき起こってきたのであり、国立公園の第一種特別地域を通過する本路線の計画は「無謀である」とする建設反対の運動が、県内外の環境保護団体を中心に展開されたためである。
本路線は旧厚生省時代から「公園車道」に認定されていたのだが(国立公園内に開設することが出来る歩道や車道を予め指定することで無秩序な開発を抑制している)、新たに発足した環境庁は公園車道の認定こそ取り消さなかったものの、昭和46年に県に対して、第一種地域通過の方法やルートについては事前に協議を行うべきという指導を行ったのだった。
この結果、県ではルートを再検討するため、昭和48年頃から工事を凍結しなければならなくなった。
この建設凍結は長期間に及んだが、第一種地域をトンネルで通過する新ルートがようやく環境庁の了解を得たことで、昭和59年に約10年ぶりの工事が再開された。
なお、この間の昭和51年には、県道への認定<当初の路線名は雫石停車場東八幡平線であった>を受けている。
長大な路線であり、建設期間の長期間にならざるを得なかった。
しかし、平成6年にはいよいよ工事が核心部に進行したためか、本路線を環境との共生を謳う「エコロード」とすることが発表された。
当時、建設計画の決定から既に30年を経過しており、開通を待ち望む関係者の「いまか」という声もやや疲れを帯び始めてきたことだろう。
一方では相変わらず「不要論」も息づいていたが、既に全体の8割方完成してしまったという既成事実は重いのであり、こちらも声はやや下火。むしろ、開通後の対処について議論を交わす段階になっていたようである。
だが、こうした既定路線のムードを一変させてしまうような“事件”が、起きてしまった。
平成7年7月に建設予定地において、県の環境影響調査を請け負っていた業者が、資材運搬用道路を開鑿する目的で無許可の伐採を行っていたという事実が8月に発覚。県警による捜査の結果、自然公園法ならびに森林法違反の疑いで県の工事担当者が書類送検されるという、まさに前代未聞の事態となってしまったのである。
この事件を受け、増田知事が直ちに工事の無期限凍結と、破壊された植生の調査及び復旧を決定したことも、世論として無理からぬことであった。
こうして平成8年より、建設推進派にとっては寝耳に水といえる2度目の工事中断に入った時点で、計画全長16.2kmに対する完成部分は13.1km(完成率81%)に達しており、事業費ベースでも62%の46億円が既に投じられていた。未着工区間は3.1kmあったが、このうち約1kmは昭和59年に決定したとおり、トンネルとする計画であった。
無許可伐採のニュースは県内で当時盛んに報道されて県民の関心も高かった。
平成9年に行われた岩手日報社の世論調査では、50.4%の県民が工事中止に賛成していたというから、世論は真っ二つに割れていたのである。
県議会においても、この問題は当時同じように工事の続行か否かで揺らいでいた沢内村(現:西和賀町)の奥産道安ヶ沢線と共に「奥産道問題」として繰り返し議論されていた。
さて、“冒頭”の決着の時期が近付いてきた。
平成9年8月、県の道路検討委員会は、工事継続の可否について種々の検討を行った結果を答申した。
その内容は、環境への影響を考慮すれば従来のルートでも不完全であり、未着工区間の大半をトンネル化する以外にはないというものであった。
すなわち、従来の1km級のトンネルではなく、2km級のトンネル建設が必要であるというわけで、これに伴う工事費は当初の35億円から倍増して67億円と見積もられた。
さらに、両坑口の標高は150m近くも違うため、安全上も問題のあるトンネル計画と言わざるを得なかった。
これがそのまま実現していれば、平均勾配7.5%が2kmも連なるトンネルとなり、“新釜”を彷彿とさせる。
おそらくこの答申が決定打となったのだろう。
平成10年11月18日、知事による“冒頭”の会見(計画中止の発表)と相成ったのだった。
なお、知事はこの年を「環境創造元年」と宣言していた。また奥産道安ヶ沢線についても、平成12年に工事が中断され、17年に中止が決定された)
こうして、たった3kmの未開通区間を残して隔絶されたのは、13kmを越える長大な行き止まりの道であった。
建設中止決定後は、既設区間の活用方法について議論が進められ、平成14年にはそれを最大限に活用する方針が決定した。
(なお、これまでに使われた国庫補助金の23億円についても、現道を活用することで国庫への返還が回避されたという)
そして平成19年6月29日、県道雫石東八幡平線は着工以来43年目にして“全通”して、その供用が開始された。
もっともそれは、未開通区間を従来の登山道に少し手直しをした山道で結ぶという、平成の新たな「登山道県道」の誕生という形であって、小岩井と八幡平を自動車道で結ぶという本来の目的は、全く果されずに終った。
生々しい“現代的道路史”をご覧頂いた。
続いては、今回紹介する網張工区(雫石側区間)の地形図をご覧頂こう。
奥産道の起点は、標高750mの高所に位置する網張温泉附近。
8世紀に発見された長い歴史を持つ温泉場で、藩政期には岩手山信仰の霊場として周囲に網を張って入湯を禁じたことが、名前の由来だという。
岩手山の登山基地として知られ、昭和38年には国民休暇村指定を受けたほか、現在は網張温泉スキー場が整備されている。
奥産道は、網張温泉から緩やかに高度を上げつつ山腹に沿って西進し、小松倉山の尾根を回り込んでから、4kmの地点(標高950m)で大松倉沢を跨ぐ。
5km地点から登りが急激となり、同時に九十九折りが始まる。
なお、このつづら折りの途中から破線の道が分かれているが、平成19年に新設(接続)された“登山道県道”である。
地形図上の終点は、8km地点である。
そしてこの数字は、記録されている網張工区の既設延長と一致する。
終点の標高は1250mに達しており、峠である三石湿原との標高差は僅か30mに過ぎない。距離も直線で700mまで近接している。
はっきり言って、峠越えに関する技術的問題は皆無であったろう。
その気になれば、道はあっという間に峠に達し、湿原を大胆に横断し得たに違いない。
だが、ひ弱な自然環境は守らねばならないというのが、自然保護という今日の「常識」である。
土木は自重を強く求められる。
それにしても、これほど峠の近くに達しながら、峠越えを果たずに終ったという未成道は、珍しい。
…想像してみて欲しい!
東北の屋根というべき奥羽山脈のただ中で、しかも国立公園の核心部である。
どんな“道路の極まれる風景”が待ち受けているのかを!
それでは、前説の最後に旅立ちの風景を。
雫石町の国道46号(秋田街道)からは、晴れていれば漏れなくこんな車窓が得られる。
この姿を晒していて、地域の顔にならないはずはない。
岩手県の最高峰である岩手山には、岩鷲(がんじゅ)山、岩手富士、南部富士、南部片富士、巌手山、磐手山、岩堤山、霧山岳、薬師岳、薬師ヶ天井などの呼び名がある。
標高2038mの複成火山で、最近では大正8年に小噴火が記録され、そして奥産道の工事中止が決定された平成10年から15年にかけても火山性地震が頻発したので、人の無計画に対する山の怒りと評する人もいた。
そして、あの壁のような山並みの裏が八幡平だが、目指す三ツ石湿原がどこにあるかというと、左の隅っこ…。
鞍部と言っても、十分高い!
そして、遠い!!
脚が鳴るぜ!
(三ツ石湿原は、岩手山と奥羽山脈を結ぶ約15kmの稜線(雫石町八幡平市境)中の最低地点である)