静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区 第2回

公開日 2011.7.16
探索日 2010.4.19
所在地 静岡県榛原郡川根本町

川根路橋から旧道を、泉大橋まで



2010/4/19 17:20 《現在地》

渡谷橋を渡ると大井川左岸の大字東藤川に入るが、200mほどで今度は川根路橋(昭和58年竣工)が現れ、県道はそのまま橋を渡って右岸(大字奥泉)に戻る。

この橋の袂に、わずか数軒の家から成る谷畑集落へ下る道が分岐している。
何の標識も見あたらないが、長島ダムや接岨峡および井川(静岡市)方面へ大井川の本流をさかのぼる道は、県道接岨峡線が昭和58年に開通するまで、ここを右折していた。

いまは町道になっているようだが、元は東京営林局の大井川林道であった。




それでは、さっそく入っていこう。

道は集落の奥に見える急な山腹を伝って、大井川をさかのぼっていくはずだ。



あっという間に家並みは途絶え、川と山に挟まれた1車線の登り道になった。

そこに現れた、吊橋の主塔の跡。
附属して何か小屋のようなものが建っているが、その正体は不明。
しかし橋については、昭和27年の地形図に既に【記載】がある。
この吊橋の次世代が昭和37年の奥泉橋(おそらく最初の車道橋)で、その次が現在ある川根路橋だろう。
なお、奥泉橋は長さ180m幅7mの3連ガーダー橋であったこと以外、詳細不明。(『橋梁史年表』より)




主塔跡付近から眺める大井川の景色。
写真中央奥の山がV字に切れているところが大井川の川谷で、そこから対岸の奥泉集落を孕む形で大きく蛇行して眼下に達している。
少なく見積もっても対岸までの距離は150m以上あり、ここに架かっていた吊橋は、人道用であったにしてもなかなか壮大なものだったろう。




更に進むと、小さなコンクリート橋が現れた。

廃道化こそ免れているが、欄干は一部崩れたまま修理もされず、舗装路のくせに顕著な“ダブルトラック”を見せている。
現在の通行量が、舗装に見合わぬ量でしかないことを教えている。



17:26 《現在地》

入口から350mほど進むと、右後方から別の舗装路が合流してきた。
地形図を見る限りこの道は行き止まりだが、行き止まりには神社と日当たりの良い緩斜面が描かれており、おそらくは茶畑があると思う。

私は直進するが、路面のタイヤ痕は右折側が優勢だ。




直進すると、また橋があった。

橋の右に映っているのはタンクで、沢の水をホースで組み上げて溜めていた。
また、橋の前後の路面が濡れているが、このあたりは山がかなり水気を含んでおり、裸のままの法面から自然に垂れて水たまりを作っていた。

この水たまりを踏んで橋の上にタイヤ痕を残した軽トラは、このほんの少し先に停車しており、男性がひとり車の外で何か作業をしていた。
タイヤ痕を見た時点では、車も通り抜けられるのだと安堵したが、その希望はふりだしに戻った。




集落を過ぎてからずっとゆるやかな登り坂が続いているが、おおよそ600mほど進んで来たところで鬱蒼とした森が切れ、視界が一気に開けた。

想像していたよりも高いところまで登って来ていたようで、見晴らしがとても良かったが、中でも大井川の深谷を一跨ぎにする巨大な橋が目を惹いた。

しかも、あれこそこの道の役割を奪い取った張本人。県道388号接岨峡線・泉大橋の勇姿だった。

この辺りの人は橋に赤い塗装を施すのが好きなのか、またしても赤い橋。
そして目の錯覚ではなく、明らかに“右肩上がり”に架け渡された逆ランガーアーチ(←たぶん)である。

この道のとりあえずの目的地が、こうして目視された。




今は通る人も車も稀であるが、昔は幹線的な役割であった名残と思える、路面の滑り止め舗装。(この写真は振り返って撮影)
路上には前半戦の“苔”に替わって、落ち葉と小落石がダブルトラックを作っていた。
どちらも、うらぶれた道だけが身に付ける装飾である。

また、この場所には昔、鋼鉄製の落石覆いのようなものがあった可能性がある。
路肩に地上から1mほどの高さで切断されたH鋼が、3本並んで突き刺さっている。
反対の玉石練積の法面上にはこれと言った痕跡は見あたらないが、この辺りは特に小石の散乱が目立つので、落石覆いがあっても不思議はない。




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この辺りからは、河岸段丘の上に広がる奥泉の街並みを、手に取るように眺めることが出来る。
左の山腹に黄色いラインを示した辺りを、この道は登ってきた。

あのひときわ大きな白い建物は、小学校だろうか。
それ以外は全て控えめな街並みを取り囲むように、濃緑色の茶畑が広がっている。
川根地区(旧川根町、旧中川根町、旧本川根町)で産する茶は「川根茶」と呼ばれ、江戸の昔から宇治茶と共に、最高品質の茶葉として高く評されてきた。

また、前回の前説で見たように、この奥泉という場所は昔から大井川筋と寸又川筋の道が分岐する結節点だった。
だが、これより上流は人の住む集落自体が少なく、大きな交通量はない。
しかも、上流地域の主要産物である木材は代々、大井川や寸又川の流送で運ばれ、後には電源開発の進展と共に建設された鉄道がその任を受け継いだ。
現在ある大井川鉄道はその末裔である。

結局、自動車道路網の整備は昭和30年代後半にようやく始まり、今探索している大井川林道は大井川筋におけるその第一世代(1車線砂利道)である。
そして、その後の観光開発や、再度の電源開発(長島ダム)が、県道接岨峡線のような第二世代(2車線舗装路)を生み出した。




再び道は森の中へと吸収された。

そして、親柱はおろか、欄干さえ持たないごく小さな橋の出現。
写真はこれだけだが、この規模の橋は他にも何本かあった。

路面はついに“ダブルトラック”さえ見えなくなり、シングルを通り越して、一気に“廃舗装路”の匂いを放ち始めた。
怪しいムードに心が躍る。

そして見えてきた、“赤い橋”。




17:36 《現在地》

なにぃ!

繋がって、いないだと!!


現道との間にある微妙な落差…。

旧道は、泉大橋の側径間をくぐって、そのまま向こう側へ抜けているようだ…。





地形図には、また騙されたな。


どう見ても、繋がっているように描かれてるし。

…でも、まあいい。

旧道がここで終わりでないことは、予想出来ていたことだ。

問題なのはむしろ、この先の道。
地形図には崖の記号がずらずらと並んで描かれているが、ここが無事に通り抜けられる状態なのかの方が心配である。




←泉大橋と

谷栗トンネル→

どちらも昭和58年の完成で、これらの開通が県道接岨峡線を世に産み落とした。

接岨峡や井川方面の玄関口として恥ずかしくない、ケチの付けようもない構造物たちである。




橋の下の空間は、立体交差の道路というより、資材置き場のような状態になっていた。
ブルーシートやらガードレールの支柱やら、旧道とは関係の無さそうなものが大量に置かれている。

この状況に一抹の不安を感じながら、橋をくぐる。

路肩のガードレールが続いているので、ひとまず道が続いていることに安堵を覚える。
しかし、それが普通の道の状況でないことも、容易に見て取れた。

山側にもガードレールがあるのは、様子がおかしいぞ。





これは




だ!

この道幅、

どう考えてもトラックは通れない。
すなわち、現役時代の橋ではない。

橋の上なのに、落石がこんもりしてるし。
その先は緑だし。


これは、廃道キター か。




廃道キタ―!






ところで…


私はこのレポートを書いていて、

右の地図を見ている最中に…、


この地図に秘められた、

ある

重大なメッセージに気づいてしまった!!




…じっくり見ていれば、あなたもお気づきになるかもしれない……。






……気になりますか?





それでは、お教えします。





ここに…




!!!!!!



↑大昔はなかったのに…



出来てる!!!




これ、流行るんじゃね?

道路と線路が仲良くセットになって、ハートを作る。

ひとりじゃダメで、ふたりがイイってこと。

奥泉駅で降りて大井神社へ参拝すると、そのカップルは結ばれるとか…。

ありくね?



ハートに包まれたまち、奥泉。 (←キャッチコーピーにどうぞ。)







ブロークンハート言うなよ…。