鬼怒川温泉の廃観光道路 第2回

所在地 栃木県日光市鬼怒川温泉
公開日 2008. 1. 4
探索日 2007.12. 7

 閉じたゲートの先に 絶壁の廃道が

 楯岩への接近


 地図を見る限り、これから辿ろうという道(赤い実線)は、鬼怒川有料道路の鬼怒川トンネルに対応する旧道のようである。
この道は最新の地形図にも表記されており、途中には短いトンネルが一本ある。
また、トンネルの手前には「楯岩」と呼ばれる景勝地があるが、本道はここへアクセスしうる唯一の道である。

 だが、いざその北側の入口へ行ってみると古びたゲートが閉ざされ、しかも長期間解放されていない雰囲気であった。

 これより、楯岩へと接近を試みる。




2007/12/7 12:22 

 チャリを倒してゲートを潜る。

くぐり終えて体勢を整えると、背徳感がそうさせるものか、いつもの癖で、きょろきょろと辺りを見回してしまう。振り返ったゲートの向こうには、平穏な町並みが、有料道路の高架の向こうに見えていた。
ゲートの下げられた遮断棒には、小さな文字で交通標語を書いた板が付けられている。
表側には「通行・立入禁止」と書かれていたのだが、ゲートの裏側のこの標語は、私のようなゲート破り以外の誰に見せようとしていたのか、大きな疑問が残った。




 すぐに上り坂が始まり、杉林の斜面へ入る。
これで誰かに発見されて咎められる心配が減ったので一安心する。

右上には有料道路の鬼怒川トンネル(780m)が口を開けていた。




 隧道目指して前進する傍ら、この道の素性への探りを深くしてゆく。
こういった廃道における“素行調査”の最大のポイントは、路傍の“証言者”たちの声をどれだけかき集められるかに在る。

 たとえば、この写真のような「意味不明の刻印」(LIF A I 5??)が入った標柱だって…



 裏に回り込んで跪けば、このとおり。

  「昭 39.1」

 昭和30年代の末にはすでに道が存在していたと考えるに足る状況証拠。
さらに探していくと、この沿道には他で見ない同形の標柱が、幾つも発見された。



 また、道路標識の標柱にも重要なヒントが。

それらには、「藤原町 S56」のシールが貼られており、標識類が全て昭和56年に設置されたことを意味する。
これは、謎の石標よりさらに信頼できる、この道の“在った時期”を示しているはずだ。
ちなみに、平行する鬼怒川有料道路の開通は平成4年である。




 路幅は2.5m〜3mと、一車線の道にしても狭い部類に入る。
だが、舗装は勿論、法面の落石除けやガードレール、さらに数多くの道路標識(「徐行」と「警笛ならせ」ばかりだが)が一通り設置されており、町道だったとはいえ県道にも劣らぬ整備状況と思われる。
落石除けは今も良く仕事をしており、落ち葉が積もっている以外殆ど道に障害は無い。

 そういえば、ここを走りながら「どっかで見たことがあるような」と思って盛んに頭を捻ったのだが、思い出した。
神奈川県の不通県道「三井相模湖線」だ。




 ガードレールの向こう側は、かなりの急傾斜で鬼怒川に落ちている。
さらに、道は下流に向けて結構な勾配で上るから、どんどんと水面上の高度は増していく。




12:24 (ゲートから150m地点)

いろいろな発見にいちいち足を止めていたうえに、上り坂なので、わずか150mほどに数分を要した。

この辺りで、沿道の景色が一変する。
杉の植林地を過ぎ、紅葉の盛りを過ぎた雑木林に変わる。
それと共に行く手の視距が伸び、いよいよ険しい斜面がちらつき始める。



 この写真の箇所は、待避所であったようでかなり広くなっていた。
また、前までの写真とガードレールの支柱が変わっている事に注目。
円柱ではなく、角柱になっている。
角柱のものはガードレール設置の最初期にのみ見られたものであって、これについて詳しい資料は手元にないものの、日本で最初のガードレールが昭和31年に箱根の国道138号に設置されて数年間の製造であろう。おそらく、この辺りから先はいよいよ崖が致命的になって来るので、早い時期からガードレールが設置されたものと考えられるのだ。




 もこっ?!

実力行使に来やがったな…。

どうやら、管理行政のこの道に対する態度は既に決定済のことらしく、分厚い堆土(砂利)で私に「帰れ」と訴えてきた。
なるほど、車だったらお手上げかも知れない。
だが、チャリや徒歩にこれは効かぬ。

 しかし、奴らの覚悟を目にしたことにより、いよいよ前途の荒廃が予感された。





 10mほどで埋め戻し区間は終わり舗装が戻ってきたが、今度は落石の散弾を浴び、ズタズタになっていた。

 だが、そんな想像通りの足元よりも、前方の光景に目を奪われた。

向かって左前方。
岩峰出現!




 徐々に険しさを加えてきた右岸の傾斜が極まるところ、突如として双耳の岩峰がそそり立つ。

道路上に見える高さもかなりのものだが、路肩に寄って谷の深さと併せ見るとき、その真価が発揮される。
まさに観光ガイドブックが教える「水面からの高さ100mの巨岩」、楯岩である。


 些か呆気にとられたが、肝心なことは道の進路がどうなるのかと言うことだ。
とてもではないが楯岩の谷側に進路は無いので、これまで通りに斜面伝いにということは出来ない。
そうなると自然、上の写真に写っているスリット状の隙間に入っていくことになるのか…。

…きっとそうに違いないが、凄いぞこれは。

なんというか、うまい言葉が見つからないが…敢えて言うなら、 

 「 いいの?そんなところへ入って? 」

すげードキドキしてきたー。




 そんな楯岩へとグイグイと接近していく道も、ただ事ではない。

…よくもまあ、こんな断崖に道を切り開いたものである。

なにより、一般の観光道路として解放されていたことが、今日的な感覚からは信じがたい。

白く風化し如何にも脆そうな法面が、路面上10m、高いところでは20m以上もの高さで、道に直接接している。
その傾斜は直角を通り越して、ややオーバーハング気味なところが目立つ。
そんな状況であるにもかかわらず、一切の防護設備が見られない!
「打つ手がありませんから」と、開き直った姿にさえ思えてくる。

 当然、自然法則がそんな甘えを許すはずもなく、大小の落石が落ち葉と混ざって路面を埋めていた。

しかし、
これで驚くのは早かった!

 





そこを通るのか!!


予想に反し、そこは隧道でなく、“明かり”だった!!

両岩盤の相対する刃先のような谷底を、道が幅一杯に占拠。


道路管理者最後の良心か?

片側にだけ、堅牢そうなコンクリートの擁壁を有する。

でも、片側だけって(涙)

いったい誰が、
誰が右寄りを走りたいと思うだろうか。




 近づけば楯岩の迫力は凄まじく、頭上に覆い被さるような錯覚を覚える。

風化による崩壊が進行している様子は、岩面の激しい凹凸からも明らかで、直下に“明かり”で道を通そうという判断が、全く理解できない。

 「将来、もし道が崩壊して一人二人死んだとしても構わない。観光道路建設第一だ!」

もしそんな事を考えながら道を作ったなら狂気としか思えぬが、同じ栃木県の近接する塩原町(現:那須塩原市)でアノ悪名高い「塩那道路」の建設が開始された時期と、この道の推定される建設時期(昭和30年代末)は一致しており、邪推を止めることが出来ない。
推測でこれ以上言うのも憚られるが、もう一言だけ付け加えれば、関東近郊の観光地が開発競争に血道を上げたマイカーブームは確かに存在した。それは、廃道となった塩那道路のみでなく、今日利用されている数々の観光道路たちが証明しているではないか。
名山の頂を次々襲った、環境など無視したような“○○スカイライン”の建設は、それ以外どう説明するのだ。






 いささか話が飛躍してしまった。
路面の状況に話を戻す。

当たり前だ。
無事で済むはずがない。こんな道づくりが無事に済むわけがない。

普通車ほどもある大岩が、“掘り割り”というには余りに壮大な右の岩壁から降り注ぎ、路上から人の通る隙間さえ消し去っていた。




 まるで引き込まれるように、核心部へと一度は入ったが、まだ撮っていない景色があることを思い出して少し戻った。

写真は、掘り割りの入口(出口?)から鬼怒川方向を振り返って撮影。

温泉街のホテル群が見えているが、それに較べても相当に高い位置へ来ていることがお分かり頂けるだろう。
両側の黒い部分は、そそりたつ岩盤である。

また、掘り割り部分の道が、それまでより広くとられているのが分かるだろうか。
従来の路幅の隅に一本の標識が立っている。
それより右側は、掘り割り終了と同時にガードレールもなく、そのまま谷底へ消えている。
 もーどんだけー…



 その標識というのが、これ。

さすがにここは「落石注意」の標識だと思わせながら、「待避所あり」だ…。

いや、落石に注意すべき区間はもっとずっと前から始まっていたわけだが…。

写真を見返しても、「落石注意」の標識は無かったようだ。
激しい落石によって初めに殉じたのか、もしそうでないとしたら、「そんなことは見りゃわかるだろ」ということで略されたのか(笑)。

どちらにしても、一通行人としては降り注ぐ落石に対し、何をどうしたら生き残れるのか分からない。
一般車の通行禁止もやむをえないだろう。
むしろ、平成3年まで通していたとしたら、それも凄いが。
いつまで通れたかは不明だ。




 さらに少し戻ってみた。

左がここまでの道。
右が鬼怒川両岸に開けた温泉街だ。
架かる橋はこのレポのスタート地点、国道121号立岩橋である。

こうやって見えると言うことは、橋からもこの道や切り通しが見えていたと思うのだが…。






 これは、西日が少し落ち着いた時間になってから撮影した、立岩橋からの楯岩。
道がどのように見えているのかを、検証してみたい。

もっとも、肉眼では結局見えなかったくらいだから、この小さな写真では見えるはずもない。
めいいっぱい望遠を効かせてみる。




 …見えない。

やはり見えないようなので、さらに画像処理で拡大してみる。

右の画像をクリックしてください。

・・・

 だが、やっぱり道は見えなかった。

なぜかと聞かれても、「さあ?」と言うより無い。
あれだけ派手に岩盤を削った道が続いているはずなのに、断崖絶壁にはそれっぽい横のラインが見えない。

また、道路構造物として想定できないほど巨大な掘り割りだが、ただの“そういう地形”にしか見えない。
いや、実際にそういう地形だったところに、無理矢理道路を通したに違いないが。

これだけ有名な観光地にあって、もし国道からも赤裸々な廃道だとしたら、いままで殆ど知られなかったのが不思議であるから、奇跡的な何かによって、カムフラージュされているのだろう。

橋をそぞろ歩く年間数万の視線、バスや助手席からのそれも含めれば数十万からの視線を浴び続ける楯岩。

その影に、隙間に潜む、忘却の廃道。

 いよいよ、核心部へ再突入。





 楯 岩 中 心 


12:32 楯岩中心
(ゲートから300m地点)

 核心部の掘り割りへ戻ってきた。

ここを通って、その向こう側へと進む。
標高的にはここが峠になると思われるが、距離的に見ればまだ三分の一といったところか。




 頭上にただならぬ気配を感じながら、最大の崩壊部分を進む。
被った赤ヘルで防御できそうな岩塊など、少しも見られない。
頭上の崖の高さを考えれば、ジャガイモ大の石ころだってメットごと頭蓋骨を凹ませるかも知れない。

 こう言うところは、さっさと通過するに限る。


掘り割りは正味40mほどで、その先には濃緑の杉の森と、鏡を失ったカーブミラーが見えていた。
しかし、道の行く末はなかなか知れなかった。
最後まで、巨大な岩が視界を邪魔していた。










あひゃあ。

隧道出た。







 




ここから対向車が出てくる姿って、
ちょっと想像の外じゃない?