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2023/10/27 10:10
見事な枯れ色となった道が、山の斜面を斜めに横切りながら登っていく。
既に谷の気配は遠くなり、空が近くに感じられる。
とても爽快で気持ちが良い。
「囚人のうめきと血に染まった死の道路」(山と溪谷社『北の分水嶺を歩く』)という言葉には言い知れぬ迫力があったし、駆り立てられるものがあった。
その現場が旧道となり、ついに廃道へ成り果てた状況とは、どれほど鬱々とした、或いは険悪さを感じる道であろうかと身構えていた。
だが、偶然にも鍵が開いていた“緑の監獄”の甘さにも助けられつつ、私は予期を大きく覆すとても爽快な気分で歩けている。
高度が上がったことと、谷の出口近くへ戻ってきたことで、遠くの視界が開けてきた。
いま見えているのは、目指す峠とは反対の湧別川下流方向、北見方面の風景だ。
内地であれば、青々としたスギの植林地であったり、道路のライン、鉄塔、電波塔など、いろいろな人工物が見えそうななだらかな山々だが、見える人工物は、山腹を横切る走る旭川紋別自動車道だけだった。今朝利用したばかりの奥白滝ICの案内標識が見えていた。
この道の建設に従事した囚人たちの見た風景も、大差はなかっただろう。
しかし、彼等が収監されている網走集治監からこの場所は、150km以上も離れている。
そしてこの隔絶は全て、彼等自身が切り開いた中央道路の道のりであった。
自身とその同胞の血と汗で開いた道を辿って、新たな現場へ入り、そこに道を造る。
その営々とした繰り返しによって、網走からこの峠の麓へ至る道も、峠を超える道も、僅か1か年のうちに造られた。
10:14
谷底からずっと上に【見えていた】のは、この辺りだろう。
尾根が近づき、視界の中から自分より高度のある土地が減ってきた。
とはいえ、この優越感はかりそめで、まだ越えるべき峠の方を向いていないがためである。
間もなくこの尾根を回り込む場面が来て、新たなステージへと私を導くであろう。
10:15 《現在地》 海抜670m
最後の切り返しから、やや長々とした約400mのトラバースを脱し、取付いていた尾根の先端を回り込む場面となった。
入口から約1.7km、海抜670mの地点である。
これで完全にスプリコヤンベツ川を離れ、道は次なる峠よりの使者、右ノ沢川に面する斜面に入っていく。
峠まで、残すところ推定3.0km。
高度差は、おおよそ200mである。
距離についてはまだ残り3分の2だが、高度は残り半分ほど。
したがって、残りは比較的に緩やかな勾配で淡々と山腹を横断する道路であり、ゴールの峠まで九十九折りなど主張のある線形は一切なく、地図上においてはほとんど等高線そのものだ。語弊を恐れずいえば、単調そうな道である。崩壊の多発など、難しい地形ということも取り立ててはなさそう。
尾根の先端を回っていく長いカーブも、枯れ笹が作り出す金色の野と化していた。
探索にあたる難度としては、これは本当に恵まれた「イージーモード」を引き当てたと思う。
しかも、数十年に一度という頻度でしか生ぜぬ貴重なイージーモードだ。
もしここまでの枯れ笹の場面、直近おおよそ1kmが、全てバリバリの青笹であったとすると、体力的にも時間的にも、心境の点からも、さらには見通し不良による熊との不測遭遇の危険性という点からも、全てにおいてもっと大変であったはず。
もしかしたら、この大きな優遇があるおかげで、私は先行探索者が踏破に失敗したとされる北見峠の旧道を意外に容易く踏破出来てしまうかもしれない。
それはそれでどうなんだろうという気持ちがゼロではなかったが、とはいえ藪は好きではないし、ここまで来て踏破出来ずに引き返すのが非常にキツイ展開なのは間違いないから、イージーモードが許されるのは小学生までだとしても、私も許されたいというのが気持ちの大部分であった。
10:18
尾根を回り込んだ途端、一気に展開が悪化して「グエーッ!」となるのが定番だが(?)、今度ばかりはそういう悪運を引くこともなく、相変わらず笹は枯れていたし、その枯れ笹すらない本当に綺麗に原型を止めた道が現われて私をさらに喜ばせた。
車道としては相も変わらず構造物は僅少で、明治道のイメージのまま淡々と山を削っているだけだから、遺構発見的な面白みは乏しいが、とにかく歩き易いし、景色も良いしで、本当に快調だ。
チェンジ後の画像は、この道が手にした新たな眺めだ。
眼下に広がる巨大な谷が右ノ沢川で、奥に見える石北国境線から流れ来ている。
越えるべき峠もその線にあるが、地形に隠され見えてはいない。
正面中央のどっしりとした山も、国境線に聳える山で、海抜1445mのチトカニウシ山である。固定の登山道はなく、主にスキー登山の対象であるらしい。
10:30 《現在地》 海抜690m
尾根を回り込んでさらに10分後、入口から約2km地点。
依然として極めて順調。
笹の藪も所々にはあるが、全体的に低背で、密度も低く、かつ枯れているものが大半だった。
路面は土道だが乾いており、仮ににここまで自転車を持ち込めていたら、走行も可能であっただろう。
ただし、この10分間の前進で、私は以下の二つのものを見ていた。
う〜〜ん。
荒けてらっしゃる!
木に登りたかったのかな…?
爪が痒かっただけ?
こんなに歩き易い道、ケモノたちだって利用しない道理がないよね。
あ〜〜ら、大きなお足跡。
俺より大きい裸足の五本指は、誰かしらねぇ……。
……
…………
賢いAIに質問すると、必ずこう言う。
熊の足跡を見たら、近くに居る証拠だから、すぐに引き返せと。
いや、分かるよ。熊に遭わないことが目的なら、その通りだろう。
だが私の目的は、「熊に遭わない」という体験をするために山に入っているわけではない。
熊がいる山に入らないと探索にならない。
そしてこれは違法でもなんでもない。私は探索がしたいんだ。
人間の存在を知らせる鳴り物は全て使っている。
もしこれで積極的に襲ってくる個体がいたら、あとはもう腰に付けたスプレーで渡り合うしかない。納得してやっている。
足跡があろうが、実物が現われようが、追い立てて進むぞ。(今回はまだないが、現にこれまでもずっとそうやってきた)
10:32
変化だ。
変化がある。
何が変化したか、分かります?
この先、道の周囲にある笹は、枯れていないようだ。
幸い、路上には繁茂していないが……。
チトカニウシ山の見え方が、また少し変わった。
手前の山との取り合わせが変わったせいもあるが、山脈の中に際立つ主峰の感じがより強くなった。
しかし、この北の大地においては既に晩秋も終わりかけだというのに、頂の周りが季節感の乏しい青さに満ちているのは、そこが一面の笹原だからだろう。それゆえ、夏山登山の記録がないのだとも思う。
10:36 《現在地》 海抜730m
あ…
私に与えられた優遇ボーナス、遂に使い切ったかも……。
入口から約2.3kmの地点だった。
私の藪アンテナ、即座に察する。
これはヤバいかも…。
(最近レポートしたばかりの、未だ忘れることができない敗地を思い出した…)
くッ!
2023/10/27 《現在地》 海抜730m
前回最後の場面から。
遂に枯れていない笹藪が行く手を高く遮った。
見通せないので奥行きは分からないが、近づく過程で見えた範囲だけでも100m以上はありそうだった。
おそらく、私の前に探索した人を多いに苦しめ、踏破を断念させたとされる北見峠旧道最大の障害が、私にも牙を剥き始めたものと思う。
藪など、所詮は進路を妨害し進行を遅延させるだけの障害物でしかないだろう。
時間をかければ誰にでも越えられるものであるから、これがために未踏破というのは、些か真剣味を欠いているのではないか。
それは、雪があるからエベレストは登頂できないと言っているようなものではないのか。
もしかしたら、そのように考える人は多いかも知れない。藪漕ぎの経験がなければ、なおさらそうだろう。
かくいう私も、基本的にはそのような考え方である。
これまでいろいろな廃道で藪に敗北して撤退している私だが、藪のために引き返すのは、他の原因の場合よりも悩ましく、悔しく、腑に落ちていないことが多い。この選択は、本当に自身の限界であったのだろうかと回顧し、後悔を含みがちである。
ただし、北海道における藪は、他の地域の藪よりも格段に危険が大きいと私は考えている。
その理由は、見通しの利かない藪の中で、ヒグマと近接距離で遭遇するリスクである。
もちろん、私が藪の中を静かに歩くことは出来ないから、盛んに移動している限りは、相手の方から避けてくれる可能性が高いと思っているが、それでも周囲を見通せないうえに、まともに身動きもとれない藪の中で猛獣に襲われる想像をするのは非常に苦痛であるし、現にいま藪へ突入しようとしている私の足元に大きなヒグマの足跡を見つけたことで、動揺をしているのである。
10:38 …………突入。
顔面の前に次から次へと掛かってくる笹の大葉を、両手を使って払い続けなければならない、ガサゴソの忙しい藪だ。
藪の丈は背を遙かに超えており、手を上に伸ばしても外からは見えないであろう。
こんな場所で四つん這いの猛獣が突進してきたら、確実にアウトだ。スプレーを噴射する暇も与えては貰えなそう。
そんな恐怖があるだけに、出せる音は全部出しながら、相手にも考える時間を与えるイメージで、急がず慌てず進んでいく。
幸いにして(?)、笹藪としては、これはまだまだ序の口だ。
高さがあるから一見派手に見えるが、地表近くには明瞭にケモノが身体を通せるだけのスペースがあり、人間も下半身にはあまり抵抗を感じずに前進できる。忙しいのは主に上半身だ。
ただ、このことが余計にケモノとの鉢合わせの恐怖を助長している部分があった。誰もがこのケモノ道を通るだろうからな。
10:41
3分ほどで路上の藪は突然消失し、また歩き易い土道が始まった。
一度は覚悟を決めたつもりであっただけに、多少の拍子抜けはあったが、もちろん嬉しい気持ちが大きかった。
また、【大正13(1924)年地形図】には、ちょうどこの辺りに水準点(標高721.66m)が描かれていた。
旧道入口にも水準点が描かれていたから、そこから約2km進んでいるわけだ。
そのことを意識して標石がないか探しながら歩いたが、やはり見つからなかった。路上はともかく路肩は笹が繁茂している場所が多かったから、単に見逃している可能性は十分あるが。
10:43
そして、またすぐに次の笹藪は降りてきた。
しかも……
10:45
先ほどよりも格段に濃い!!
前との大きな違いは、足元までみっちり藪が詰まっていて、ケモノ道となりそうな空間が存在しないことだ。
この場面で遂に、“囚人道路”は完全に“ミチ”としての機能を喪失し、周囲の山野と変わらぬ空間になったことを感じた。
もちろん、なおも平坦であるという点において、ただの山野よりは遙かに救いがあるのであるが……。
10:52
これはキツイ!!!
これは前の写真のシーンから7分後の風景だが、この間一度も藪が明けることはなく、それどころか、過去経験した中でも最凶レベルの凶悪な藪へ変化してしまった。
非道い!
文明社会を生息域とする人類は、こういう場所に適応した進化は遂げていない。
当然のことながら、私の進行する速度は無残としか言い様がないほど遅くなった。
GPSでリアルタイムに現在地を知ることが出来るのだが、2度目に藪に突入した地点から約7分を費やして、100mしか進めていない!
分速14mの世界だ。あまり考えたくないが、峠まで残り2kmが全てこの藪だとしたら、休憩なしでも到達に140分を要する計算である。
……いや、まあ、残りの距離がこのくらいだから、他人事なら「行けよ」と言われそうな時間ではあるんだが、きついぜ、2時間以上これを続けるのは……。
ここが簡単に迂回できる場所であったり、入山の直後であったなら、たぶん撤退を選択しただろう。
こういう藪が2kmではなく5kmも続く危険があるとしたら、私なら絶対に撤退した。
最大でも2kmだという状況が、撤退より前進を決断する最大の根拠となっていた。
これはもう心を無に、楽しいとかツマラナイとか考えるのをヤメテ、ただただ2時間作動する藪伐開マシーンの動作を続けるという覚悟を決める。(覚悟=心は無ではないというツッコミはヤメテ。意志無くこの藪に入れるのは、ケモノでさえないマシーンだけだよ…)
10:58
唐突に藪が明けることを夢見ながら歩いているが、あれから何分か経っても藪は全く明けない。
ただ、ここに僅かに上半身を出せる場所があったから、息継ぎをするように休止をしているところだ。
四方八方の全てが高さ3mの笹藪で見通せないから、自分以外の誰かの立てる音に敏感になっている。今のところは他のケモノが近くにいる気配はないが。
というか、これは全く学術的に根拠のある話ではなく私の勝手な願望込みの予想なのだが、このくらいの激藪の中は、ヒグマ避けのシェルターとして機能するのではないか。
彼等はいくら力が強いと言っても人間以上に太いし、地表近くにこれだけ笹の稈が密生していれば、タケノコの生える時期でもない限り、敢えて中に入ろうとは考えないのではないだろうか。
これが私の提唱する、極端に密生した笹藪の中は熊避けになるのではないかという仮説だ。
皆さまはどう思います?
11:00
おおっ! 久々に見る、日本電信電話公社の標石だ。
前回見つけたのは踏切跡を過ぎたばかりの9:31の地点であったが、同じものがまたあった。
ただ少しだけ表示内容は変わっており、前回は「N22」であった正面の表示は「N20 A1」と2行に増えていた。意味するところは依然として分からない。
11:11 《現在地》 海抜750m
マジでキツイです。
最凶レベルに濃い笹藪が、何度も何度も波状攻撃のように押し寄せてくる。
波と波の間も笹藪なのは変わらずで、もうかれこれ30分近くは路面を見ていない。
地形図を見ても、峠の最後まで変わらない淡々としたトラバースである。
地形に沿って道にカーブはあるが、尾根も沢も変わらずの笹藪で、見える景色にも変化が全く感じられない。
GPSで現在地を知ることが出来ているから、変化がない中でも一応前進していることが分かるが、これがなければ耐えられないだろう。
11:12
ここからしばらく、私はYABUマシーンに専念するために、ものを考えることをやめるので、レポートの本文では、我が国の土木史上でも稀有な例である“囚人道路”の工事に関し、おそらく多くの読者も疑問や興味を感じるであろう事柄について、私の知る文献を拠り所に語ってみたいと思う。
探索についてはしばらく、時刻と画像だけを表示するのでね……。
<“囚人道路”のここが気になる(1) 工事中に逃亡した囚人はいないのか?>
広大な屋外、それも物陰が多い山野での土木作業中、逃亡(脱獄)を考える囚人がいても不思議ではないと思うが、どうだったんだろうか。
以下に紹介するのは、この工事に看守部長として携わった丸田俊夫氏の回想『網走監獄沿革史』からの引用だ。
逃走する者も相当おりました。しかし、山の中に入り込んでも方角を失って食物もないところをさまようばかりですから、結局大部分は舞い戻ってきて捕まりました。一組から毎日一人くらいは逃走者が出ました。
やはり、逃走を企てる囚人は少なくなかったそうだ。
しかし、大部分は現場から大きく離れることが出来なかったという。当時この地方は数十里圏内に他の道が全くないような状況で、土地鑑がない人間が道から外れてどこか他の人里まで逃走することは、まず難しかったのであろう。逃亡を企てることは容易くとも、成し遂げるためには体力も気力も幸運(悪運?)も必要だった。
だが当然、監獄側もみすみすそのようなチャンスを与える意図はなく……。
野を這うごとく移動してゆく北辺の“動く監獄”外役の規律は厳存して緩むことがなかった。やる方もない悲痛な囚徒の心情も充分に察しうる。しかし絶望自棄の極に追い込まれた凶悪囚が一度逃走を為した場合の、善良な周辺住民はどうなることか。(中略) 無理は承知、あくまでも突貫工事の反復で終始したのである。
このように、突貫工事の連続によって極限まで囚人を疲労させることで逃亡の力を奪うことが企図された。単純に工事を速成することだけが過酷な工事の目的ではなかった。
さらには、逃亡を難しくするための物理的対策も行われていた。
これは、中央道路の建設を物語のモチーフにしている高倉健主演の人気映画『網走番外地』(第1作)にも描かれているので、ご存知の方もおられると思うが……。
11:20
当時の監獄則は、「若し、やむをえず外役に服せしむるときは鉄鎖を用いて囚人二人を連判し……」とあり、2人の囚人がおのおのの腰に巻いた鎖を足首まで垂らし、それを連結したもので連鎖と呼ばれるものであった。
さらに……
看守は銃撃で(逃走した)囚人の足をとめ、連鎖でつながれた2人を追いつめ抵抗者を斬殺する。これを「拒捕斬殺」といい、看守の権限とされていた。拒捕斬殺された者は足に鎖をつけたまま埋葬されたが、これは官吏に抵抗し、社会に迷惑をかけたことに対する一般への見せしめのためであった、とされている。
このような事情もあって、後年に鎖が付いたままの囚人の亡骸が路傍に発掘されることがあったし、そうでなくても鎖を身につけたまま過酷な労働を行った末に死亡した囚人たちを弔うために、中央道路の沿線には「鎖塚」と呼ばれる埋葬地が複数あった。
このような対策があったうえで、いったいどれくらいの囚人が生きて逃亡に成功したのであろうか。
当時の監獄側の記録として、工事に従事した囚人の総数や、工事中の遭難死者、或いは拒捕斬殺に処された人数などを知る手掛りはあるが、外役中の行方不明者として計上された者はいない。
それが一人として逃走に成功しなかったことを意味しているのか、監獄側で遺体を確認しないまま死亡と計上したのかは定かでないが、おそらく囚人の一部は確かに現場から逃げ果せ、そのまま官吏の追跡も逃れたが、しかし山野のどこかで人知れずに遭難死したものであろう。それほどまでに当時の北見・網走地方は、人煙のまれなワイルドエリアであった。
11:29
<“囚人道路”のここが気になる(2) なぜかくも多くの囚人が亡くなったのか?>
中央道路の建設に携わった囚人の死者数とされるものには、いくつかの資料がある。
これは中央道路の工事が、明治22年から24年にかけて順次、空知集治監、釧路集治監、網走集治監という複数の監獄からの外役によって区間ごとに行われ、また同時期に中央道路以外の炭鉱作業などの外役に関わる死者もあったために、死亡地や原因に複雑な部分があるためだ。
だが、このうち最大の工事規模を以て明治24年の4月から12月にかけて行われた網走集治監の外役による網走〜北見峠〜中越の工事(現在探索地を含む)については、211人が囚人の死者数として伝えられている。またこの工事を監督した看守も6名が亡くなっている。(『丸瀬布町史』ほか)
中でもとりわけ犠牲者が多かったのは、明治24(1891)年9月から12月の期間に進められた、安国〜北見峠〜中越(現在探索地を含む)18里1町(70.8km)の工事であった。
この工事には1115人が出役したが、うち186人が死亡しているから、6人に1人は生きて帰れなかった。
工事距離1q当り2.7人、すなわち380mに1人の割合である。
おそらく我が国の道路では最多ワーストの殉職者数ではないかと思う。(この不名誉な記録を競いたがる道を他に聞いたことがないが…)
では、なぜこれほど多くの死者が出たのか。
この理由ははっきりしている。
この年(明治24年)10月21日空知教誨師の留岡幸助は、病監に当てられていた瀬戸瀬の九の小屋に至ったが、その著『羈旅漫録』のなかで、「此小屋、水腫病ノ為ニ罹病セル囚徒凡ソ七十二名、同ジ病ノ為ニ悩メリ。苦悶ノ声尤モ憐レナリ。覚ヘズ一片ノ熱祷ヲ囚徒ノ為ニ天父ニ捧ゲタリ」と、凄惨な一端がうかがわれ……
網走集治監の公式な記録においても、8月17日から11月30日の間に1916人が水腫性脚気に冒され、うち156人の死亡が記録されている。
工事中の不慮の事故死や、前出の拒捕斬殺、自殺、さらには同囚による殺害などがあったが、圧倒的多数は、この水腫性脚気による病死であった。
これはビタミンBの欠乏によって生じる病で、衛生環境の悪さもあるが、最大の原因は食糧供給の不備にあった。
9ヶ月の工事期間中、平均出役1000人とすれば延べ27万人日に達するが、明治23年の網走郡全体の耕地は僅か34町5反に過ぎず、ここから27万人日分の食糧を供給することは不可能で、内地から船で運び込んだ主食や野菜を山中の現場まで荷馬車などで運び込んだが、この間に野菜の鮮度が落ち、圧倒的なビタミン不足となったものである。もしも周辺の山野に目を向ければ山菜の宝庫であり、コゴミなどいくらでもビタミン類を補給する食糧はあったが、規則のため一切利用することはなかったとされる。
このために、看守も含む多数が犠牲となった。
11:30
YABUマシーンに言語コア再接続。
また見つけた、電話線の標柱。
「N19 A2」とあり、番号的に前回見つけたものの次の番だろう。
また、これまで見つけた標柱では苔のために気付かなかったが、側面に「昭28.12」という文字が2行に分けて刻まれていた。
昭和28(1953)年12月の設置ということであろうか。だとすれば、この峠道が一級国道39号に認定されて間もない頃である。
11:31
おおおっ?! 連続して発見があった。
今度は、管渠だ。
ごく小さな渓流(藪で全く見通せないが)が、苔生したヒューム管によって道の直下の浅い場所を潜っていた。
年代的には、一級国道時代のものだろうか。
このヒューム管の辺りから、藪の中に道らしき空隙が、おおよそ45分ぶりに見て取れるようになり……1分後、
11:32 《現在地》 海抜790m
うっひょぉぉぉおおおおおお!!!!!
アクムノヨウナヤブガアケタ?!
北見峠“囚人道路”の鎖されし激藪区間を、遂にヨッキれん作YABUマシーンが乗り越えた可能性があるぞ。