道路レポート 国道465号 黄和田隧道旧道 第2回

所在地 千葉県大多喜町〜君津市
探索日 2010.02.05
公開日 2023.08.18

 ヨッキれん、許されない!


2010/2/5 8:54 《現在地》

予期せぬ隧道(しかも貫通している!)を発見を喜んだのも束の間で、

坑口直前が、もはや嫌がらせとしか思えないようなヌルっとしたスラブであるのを見た私は、思わず硬直してしまった。

(→)
谷は強烈に深く切れ落ちており、仮に迂回をするとしたら、ここまで登ってきた旧道の高さの大半を放棄する必要があるだろう。
そして、一度降りてしまったら、こちら側の坑口に辿り着くことは出来ないだろう。横断を断念した谷を、よじ登ることは難しい。
その場合、いま見えている坑口を放棄して、まだ見ぬ反対側の坑口を目指すことになると思う。

さあ、どうするか?



8:55
とりあえず、一度は正面突破に挑戦してみようということになり、一歩一歩安全を確かめながらスラブの斜面を進んで来た。
そして、あと一歩というところまで詰めた。
この写真の左上に見える暗がりが、坑口である。もう3mほどで届く。

だが、ここで足が止まった。
ここまでは岩の凹凸を使って進んで来たが、この先へ進むにはどうやっても、濡れと、分解された落葉から出た油分で、黒光りしているスラブに、全身を送り込む必要がある。
ほんの数歩の歩行だが、途中でズルッと行ったら……

チェンジ後の画像に見える“V”字型の谷から、一気に20m下へ“ボッシュート”の危険がある。
一気には滑り落ちなくても、結局のところ一度落ちたらよじ登れなくなり、最後は谷底に連れて行かれる畏れもあろう。

上は【こんな】で、とても高巻き出来ないし……。

う〜〜〜ん……

……




8:56

行っちゃった。

ずいぶん昔のことなんで、いまでも同じ選択をするかは分からないが、

まあ、結果オーライと言うことで。落ちても遠回り&泥まみれになるだけで、助かるとは思ったしね。


いざ、洞内!




見事な五角形断面!

房総名物「観音掘り」久々の登場だ!

しかも、ここまで綺麗に5すみの角が立った観音掘りは、なかなか見られないぞ! 感激……



非常に鮮明な5角形の天頂角を撮影した。
この角の綺麗さは、最も有名な観音掘り隧道である市原市の柿木台第一隧道(明治32年完成と推測されている)を彷彿とさせる。

ここまで綺麗に角を見せることに、構造的な意義があったとは思われない。
そのため、この隧道の設計者や建造者は、多分に装飾的な意味合いで、角の美しさに拘ったのではないかと想像する。
一般的に素掘り隧道は原始的なもので、あまり意匠の介在する余地はないと思われがちだが、完成から百年を越えて保たれていた角の美しさは、そんな現代の常識へのアンチテーゼかもしれない……なんてことを思った。

他の観音掘りの隧道と同様に、この隧道も確実に明治の生まれであろう。
その短さゆえか、歴代の地形図には一度も描かれたことがないようだが、明治36(1903)年の地形図には、この先に続いて存在したと考えられる“峠の旧隧道”は描かれている。
同じ道に連なるこの隧道も、明治36年以前に完成していたはずだ。




隧道の全長は20mほどと短いが、内部に目立つ崩壊がないことも、立地の険しさや、放置された年数を考えれば、特筆すべき点だろう。
ただし、天井の角は洞奥に行くにつれて失われ、出口付近では、全く丸い断面に変わっていく。この変化は完成当初からのものなのかは分からないが、奇妙で面白い。

隧道が穿たれている岩盤は、房総半島に最もありふれた泥岩だが、左右対称の位置に白っぽい砂岩の層が線状に入っていて、本来意匠ではないこの模様がとても印象的だ。
遙かな太古に浅い海底で繰り広げられた単調な堆積と稀に起る何かの変化の繰り返しが、この神妙なる模様を地中に秘蔵せしめ、明治のある日に、素掘り隧道の断面となって、初めて人の世界に触れたのだろう。

洞床は平らだが、静かに降り積もった砂が堆積していて、全体にふかふかの足触りだ。
ひとたび足跡を付ければ当分消えなさそうな地面だが、そこは足跡や轍は全く見られず、孤独な時の長さを思わせた。
おそらく昭和13年に役目を終えたかと思うが、現状はとても見つけづらく、そして辿り着きづらい隧道となっていた。



出口(西口)は、もはや観音掘りといわれてもピンとこないくらい角を失っている。
大規模に崩れた様子はないのだが、柔らかい泥岩の宿命として、風化によって徐々に角が落ち、こんなのっぺりとした丸い顔になったものと思う。
逆に言えば、こういう丸い隧道にも、もとはバリバリの観音掘りだったヤツもあるだろうということになる。

隧道内部はほぼ崩れていないが、地上の状態は良くなさそうだ。
東口は橋の痕跡すらないスラブの谷に面していたが、西口も平穏ではないと察する。
地上へ。

チェンジ後の画像は、坑口に堆くなっている土砂の山の天辺より眺めた前方の様子だ。
道がない。
悲しいかな、道がない。

道が無いよ!



9:00 《現在地》

西口の近景と、チェンジ後の画像は、少し遠景と。

ここまでは、確実に道があった。

崩れや、国道の妨害によって失われている箇所はあったが、

それでも一連の道として追跡できていた。

だが……




隧道から外に出た私の目の前には、

直立する白い岩肌に守られた市町境(旧郡境)の高稜線が、

隧道でなければ突破は許さーん!

と言わんばかりの剣幕で立ちはだかっているのにも関わらず…

(チェンジ後の画像)

隧道があるべき一帯は、

崩土と崖錐によって無残に完封されていた。

直前の坑口から道を辿れたのはわずか5mほどで、

画像の場面より奥に道を見つけることはなかった。




“峠の旧隧道”の大多喜側坑口は、

この辺りの斜面に埋没しているのではなかろうか。


全く痕跡はないが……。




9:03〜9:12

可能性があると考えた範囲の捜索を終え、隧道の痕跡は残っていないと結論づけるために費やした時間は上記の通り。

緩やかな地形なら苦ではないが、明治時代の道に隧道を決断させたほどの地形は崖同然の険しさを持っており、そこにへばり付いての絨毯的捜索は非常にきつかった。
この写真には遙か30mほど下に現国道の路面が小さく見える。
だいたいこのくらいの高さ感を持った道なき斜面を這い回って探したのであり、途中で滑落すればタダでは済まない。

捜索箇所は徐々に高度を上げ、最後はチェンジ後の画像のように主稜線へ手に届きそうな高みまで至ったのだが、このまま尾根を乗り越えて君津市側の坑口捜索へ直行する“近道”は許されなかった。
なぜなら、主稜線までのラスト10mは垂直の崖だった。私には登れなかった。




画像は、登ることを諦めた主稜線を最後に見上げて撮影。
この峠には、最初の隧道が掘られる以前の山越えの道はなさそうだ。少なくとも、隧道直上を越える峠道はない。

苦労して主稜線が越せないと分かった時点で、今度はどうやって安全に国道へ降りるかを考えなければならなくなった。
単純な地形の険しさも問題だが、国道の山側は、ほぼ全区間にわたって高いコンクリートの落石防止擁壁に邪魔されている。

結局、黄和田畑隧道の西口に向けて直上からの下降を行った。
チェンジ後の画像はその時の模様。
脚下に国道の路面が見える。
どこもかしこも切り立っていて、しかも滑りやすく、高度を手放すまで本当に気が抜けなかった。

明治の人が隧道を選ぶ地形は生半可の厳しさじゃないと、改めて確認した。




9:15 《現在地》

約1時間ぶりに国道へ生還。

最大目標である“峠の旧隧道”には蹴り落とされたが、

想定外の観音掘り美形隧道1本との遭遇は大きな収穫だ!


次は君津市側!