2010/2/5 9:15 《現在地》
国道465号黄和田隧道の旧道が峠を越える位置に設けていた隧道の東口(大多喜側)は、残念ながら大規模な斜面の崩壊に埋没したのか、跡形もなくなっていた。跡地と呼べる痕跡の一切を見つけられなかったが、直前までの旧道は確認出来た。旧道の著しく荒廃した現状を味わった直後だけに、隧道が開口していなかったことも、やむを得ないと理解した。
近づいても見つけられなかった東口は、現国道からは、なおさら見えるわけがない。
写真の端に「擬定地」を示したが、直前までの旧道の位置から、「おそらくこの辺りだったろう」と推測しうる場所を示したまでだ。
直前までの旧道の位置を根拠に、旧隧道の東口は、現在の黄和田隧道東口の50mほど北側にあったと推測された。標高的にも20mくらい上だ。
ここで一旦、スタート地点まで国道を歩いて戻り、置き去りの自転車を回収してきた。
それから改めて黄和田隧道を潜り抜けて西口(君津市側)へ進行することに。
本編冒頭の解説で、現国道の黄和田隧道のスペックや特徴を簡単に説明しているので、改めてのレポートはしない。
しないが、昭和40年代初頭に編纂された『道路トンネル大鑑』に、主要地方道南総天津小湊線の黄和田畑隧道が昭和13(1938)年竣工として記録されており、この年に初めてこの位置の隧道が出来たのだろう。今探している旧隧道を“初代”とすれば、“2代目の隧道”だったとみられる。
一方で最近の資料だと、黄和田隧道の竣工年は昭和49(1974)年とされている。おそらくこの年に、全長と高さはほとんど変えずに幅を4.5mから7.5mへ大幅に拡張する工事が行われたとみられる。同じ位置にを共有しているとはいえ、掘削の量を考えれば、実質的な“3代目の隧道”と言って良いように思う。両坑口のコンクリート坑門や、内部のコンクリート吹付け施工もこのときと思われる。なお、県道から国道465号へ昇格したのは平成5(1993)年とさらに最近のことだ。
9:34 《現在地》
隧道を出て50mほど進んだところだ。
市役所からは30km以上も離れているが、隧道を境に君津市へ入った。
道は緩やかな下り坂になっていて、あと500mも進めば黄和田畑集落が現れる。
半島の二大水系を分ける峠という実感は得がたい、なんともささやかなアップダウンであるが、それでも間近な“名のある山”の存在をアピールするものが目に付いた。
「石尊山」と手書きの文字が書かれた小さな立て札がある。
そこには小さな文字で、「古の祠・名山・北口参道」の文字も見える。
地形図を見ると、ここから900mほど南東に石尊山(せきそんざん)がある。三角点がある山頂は347.8mだが、現在地も200mくらいあるので、ささやかな山ではあろう。
大多喜町側からは山頂直下まで車道が延びており、電波塔が設置されているようだが、信仰の山らしく昔からの徒歩登山の道も残されており、その一つがここから始まる。立て札の言葉を借りれば、「北口参道」登山道か。地形図にも徒歩道としてしっかり描かれている。
峠の旧隧道の西口擬定地へ近づくのに、この登山道は使えそうだ。
このことは今思いついたわけではなく、探索前から地図を見て漠然と思っていたが、先に東口に通じる旧道を確かめたことで擬定地がさらに絞り込まれることになり、一層とこの方針が強くなった。
再び自転車を置いて、入山開始だ!
最近のストビューを見ると、立て札はボロボロで今にも落ちそうで、いよいよこの登山道は忘れられつつあるのかも…。
(→)
いきなり崖のような急坂で登山道は始まる。というか、道路の法面である、この最初の崖。
で、そのすぐ上に平らな道のようなラインが見える気がする。
早くも旧道の続きに辿り着いたかなと思ったが、それはおかしいことに気付く。先の東口では現道と旧道の落差は20mくらいあった。それがトンネルを潜っただけでいきなり5m足らずになるのは不自然だろう。
登ってみると案の定、平らに見えたのは錯覚で、やや広い緩斜面が広がっていた。旧道はなく、にあまり明瞭ではない登山道が北東方向へ登っていくのを認めた。これはおおよそ地形図に描かれている通りの道だ。
ならばこれを道なりに登っていけば、遠からず、旧隧道へ通じる旧道に出会えるはず。
決着への期待感と、東口とは一転して穏和な展開に、足取りは自然と軽やかなものとなった。
9:37 《現在地》
道だ!
隧道を潜ってきた旧道の続きに違いない!
しかも、地形に隧道間際の雰囲気を感じる!!!
国道から数分登ると、登山道の行く手に鮮明な平場のラインが現れた。
やはり、旧道は君津市側に伸びてきていた。
これで峠を潜る旧隧道の存在はいよいよ確定的となったが、問題は、開口しているかどうか。
せめて、隧道があった明確な痕跡に出会いたい。東口は酷すぎた。
辿り着いた旧道らしき平場の行く手に、市町境の分水嶺が一気にせり上がっているのが感じられる。
地形図を見ても、隧道西口の擬定地点は間もなくだ。
決着は間近と見た!
辿り着いた旧道の路上に立って、後で探索する麓方向の道を撮影した。
こちらも探索はする予定だが、その前に峠の隧道にケリを付けたい。
再会した旧道の様子は、東側とは一転して穏やかそうだった。
大きいのは地形の違いだろう。
東側は全線にわたって険しい崖の中腹を横断していた。すぐ下に国道があるので、地図上では険しさが感じづらいかもしれないが、相当の険路だった。
一方でこの西側の道は平穏なスギ植林地にある。
国道からも少し離れているので干渉を受けていない。
もっとも、廃止されてから経過した時間については、東西で大きな違いは無さそうだ。
路上にも太いスギが育っていて、近年に車と名のつくモノが出入りした気配は皆無だ。
同じ地点から、峠の方向を撮影した。
登山道がほんの一瞬、30mくらいだけ旧道と重なる。
すぐに離れてしまうが、
旧隧道の擬定地は、本当に間近だ。
下手したら登山者から見えるんじゃないか、隧道がもし開いていれば…。
…………
…………というかですね、
すでに穴が見えてませんか?
現地の私にはこの状況で抑える者はなかったが、レポートでは一旦地図を見て状況を整理しよう。
ここは、やや、複雑だ。
現状、国道から「登山道」(緑色)を上って「現在地」まで来た。
上ってきた道とは別に「旧道」があり、推定される未探索部分を赤い点線で描いた。
事前の地図調べの段階では、国道から「現在地」までの「登山道」が「旧道」である可能性も意識したが、実際はそうではなかったことが分かった。
また、峠の東側の「旧道」は探索が終わっているので、そこで発見した1本の隧道とともに赤の実線で描いている。
面白いのが、チェンジ後の画像「明治36(1903)年地形図」との比較だ。
この地形図には、「現在地」のすぐ先に目指す旧隧道が描かれている。
そして、「現在地」から右に分岐して稜線伝いに石尊山へ通じる道も描かれている。
なにぶん古い地形図だから、細かい地形の表現や道の曲がり方を最新の地形図と比較すると大雑把に見えるが、“坑口前で石尊山へ通じる道が右に分岐していた”という状況は、現在の「旧道」と「登山道」の関係に引き継がれているのである。この登山道は確かに古いものらしい。
なんとなく、思いを馳せてみる。
マイカー登山なんて考えられなかった古い時代の登山者の情景と、彼らが目にした風景に。
この旧道をバスが通ったとは思えないので、おそらく最寄りの上総亀山駅(国鉄久留里線の終着駅、昭和11年開業、約7km離れている)辺りから、えっちらおちら歩いて来たというシチュを想定して、ロールプレイング開始。
ああ、峠の隧道が見えてきた……。
たばこ屋のおばさんに教えて貰った、石尊山は隧道前から右へ行く道だと…。
ここに良い木陰がある……、一休みしよう…。
ああ! いけない。麓で水をくみ忘れてきた……。
ここに水場があったらいいのにな…。
房総の山は水場が少ないのが弱点だよな。
登山道が旧道より外れていく地点より、登山道のゆくえを撮影した。
ここまで国道から約100mで、ここから山頂までは約1000mある。
登山道はこの先すみやかに市町境の小櫃・養老の分水稜線上に登り、あとは稜線伝いに石尊山頂を目指すようだ。
純粋に“道形を辿る”歩き方をしていると、ここでは登山道よりも旧道の方が遙かに太いので、登山者がそちらへ“迷い入り”そうな立地だが、特に道案内はない。
まあ、ここで道を外れても大事はないという判断か、それとも常連しか来るまいという判断なのか。
これを書くにあたって石尊山について登山情報系のサイトを少しチェックしたが、この山の名はそれなりに知られているようで、登った報告も沢山あった。
そこには、清澄山〜石尊山〜大福山と続く分水嶺の縦走記録が多く、石尊山の単独登山についても今いる道を選んだ記録は決して多くなかったが、皆無ではなかった。
そんな、数少ないこの道を選んだ登山者は、マイナーな道が好きな者の注意深さゆえ、やはりどうしても見つけてしまう――
この“穴”を!
旧隧道開口!!!?
… … … … … …
(……なんか小さいし位置も不自然じゃね、なんて言い出せる雰囲気じゃない!)
……近づいてみよう。
左に、穴がもう一つある!
ってか、そっちが本物の隧道!!!
峠の隧道の西口の開口を確認した!
スン……
キター!!!!!!
この私の感情の落差には、例のネットミームを思い出して笑ってしまったw
つうか、やっぱり比べるとでかいな。道路のマジモンの隧道はよ! カッケェー!
しかし、こんなあからさまに開口しているのに、
旧隧道としてはあまり知られていなかった(探索当時)のが、またおかしかった。
思うに、房総半島のこのエリアはとにかく“穴”が多すぎて、目についても、敢えて見過ごされてきたのかも知れない。
それに、現国道のトンネルでさえ名前を明かされずに働き続けているほどだからな。
その旧隧道なんて、そもそも意識が向けられる機会が少なかったのかも。
人は、名前を意識しないようなものに意識を向けることは、苦手なものだ。
目当ての旧隧道は見つけた(いま絶賛大喜び中)が、
← この穴がなんなのかも、当然気になる。
人が入るには明らかに天井が低いし、なんとなく外観からも道路のトンネルではない雰囲気を醸している。
が、峠の稜線の直下であり、川も遠いので、房総の穴の最大派閥である農業用水路隧道(いわゆる“二五穴”)ではなさそうだ。
こんな峠の近くに穴を掘ったら、自然と貫通を意識してしまう。
まさか、旧旧隧道?!
はたまた、掘りかけた未成の隧道?
こんなふうに文字にすると、凄くワクワクしてくるが、果たしてその正体は…… 入洞
即終了。
例の画像を逆再生。感情のジェットコースターが続く。(これは東口の旧道探索の始まりからずっと続いている。上げて、落して、上げて、落して、また上げて、また、落とす。弄ばれて性癖歪む)
ごくごく小さな穴だった。
斜面を落ちてきた土砂や落葉で、下半分はすでに埋れているようだが、そうでなくても小さな穴。奥行きは2mないくらい。
そして、穴の周囲の岩は水が這ったように滑らかな曲線を描いている。雨が降れば、水が流れるだろう。
穴は、そういう場所に掘ってあった。
滑らかな地上の岩面から一転し、内壁は一面に人のテボった苦闘の痕が。
そして、奥行きの最も奥の壁に、何か特徴的な窪みが掘られていた。
窪みの下側は土に埋れているが、この窪みはなんだろう。
【窪みの正体】レポを書き終えてから、言及し忘れていたことに気付いた。この窪みは正体不明。小さな水神碑を安置していた?をうんぬんする前に、この小穴全体の正体だが、これは――
横井戸 だと思う。
横井戸というのはその名の通り、普通の井戸のような上下方向ではなく、横向きに掘った井戸のことだ。
当然、起伏のあるところに設けられる。
目的は井戸と同じで、水を得ること。
右写真は、現在地から7kmほど離れた同じ君津市内の廃道沿いで見かけた、原形をよく留めた横井戸跡だ。
横井戸にも規模の大きなものがあり、それは地中を浸透して流れている地下水を集めるが、このように浅いものの目的は、地表を流れる雨水を集めて溜めておくことにある。山の地表付近の水を集めて使うことを“絞り水”と呼ぶ。雨水を直接に桶やタライで集める“天水”より大量に集まるし、保存もしやすいことから、小さな穴を掘りやすい房総半島では、生活用水、灌漑用水どちらの獲得手段としても一般的なものだった。水道や水路が発展した現在では、あまり生活や農耕に使っている現場は少ないと思う。
あっ! あの穴は横井戸か!
おお! まさしく! なみなみと水が……
ゴクリ! これは甘露!!
いやー、助かった。ありがたい。ありがたい。
脳内のいにしえの登山者は、こうして喉を美味なる房総水に潤し、清め、同時に仄かに肌を撫でる隧道から流れ出した冷気で汗を落としてから、石尊の頂を目指していった。
さて、この場所に横井戸が作られた目的としては、隧道のあるこの道の利用者や牛馬の喉を潤す目的にあったと推測する。最寄りに住宅や農地は跡も含めて見当らないので、消去法的にもそうなると思う。
したがってその整備された時期も、隧道と同時期ではないかと思うのだが、残念ながら証拠といえるほどの根拠は持ち合わせていない。
さて、次に目指すはもちろん、
旧隧道よ、いざ!
2010/2/5 9:41 《現在地》
これが、旧黄和田畑隧道の西口だ。
ただ、現役当時にどのように呼ばれていたのかについては、残念ながら分からない。そしてこれは後の机上調査でも未解明だ。
現在使われている、昭和13年推定竣工、昭和49年推定改築の隧道が黄和田畑隧道と命名されているので、明らかにその先代であるこれを“旧黄和田隧道”と称するのが良いと思うが、先に東口の近くで長さ20mほどの【小隧道】を発見しているので、発見順序から向こうを“旧第一黄和田隧道”、こちらを“旧第二黄和田隧道”と仮称するものとする。「仮称」の二文字を取れるような今後の机上的発見に期待している。
探索当時、本隧道の存在はネット上でまだ報告されていなかったと私は記憶している。それでも探索決行直前に、まきき氏より「発見した」との情報提供を戴いていたが、こうして訪れてみると、東口とは異なりこの西口の発見は意外に容易いことを知った。しかし、それにも拘わらず知られていなかったことに、この国道465号黄和田畑隧道の旧道が持つマイナーな生態があったと思う。ふつう、旧国道の隧道なんて、真っ先に見つけられそうなのに!
探索の裏話はこのくらいにして、ここからは隧道そのものの観察に注力しよう。
坑口は房総の山らしい丸みを帯びた泥岩の岩盤に開口している。最初は角ばった坑口だったろうに、長年の風化を受けてまるで自然洞穴のように角が取れた姿だ。
加えて、細面(ほそおもて=縦長)な印象を受けた。鉄道隧道なら分かるが、道路隧道で背の高いものは多くない。天井の崩壊によって本来の断面を失っていることが危惧された。すでに東口の埋没を確認しており、貫通は絶望的であるが、洞内の状況もあまり良くはなさそうな印象を受けた。
坑口に立って、洞奥を覗き込んだ。
出口は見えない。
鼻につくかび臭さと土臭さ。かすかにケモノの匂いもする。コウモリがいそう。
空気はひんやりとしてはいるが、閉塞隧道にありがちな淀んだ空気だと感じる。
もともと縦長の隧道だったのかは分からないが、目の届く範囲はやはり天井が高い。
その壁は全般に滑らかで、人が削ったときの荒々しさがすっかり消えて土の風合だ。そして、先の第一隧道でも目にした水平な砂岩層の模様が、洞奥に視線を誘導するように何本も走っていて美しい。
第一隧道では印象的だった五角形の断面も、今のところ判別出来ない。
そして洞床は凸凹が激しい。
かつて利用した車の轍や人の足跡を探せる状況にない。元の洞床は、堆積した瓦礫や土にひととおり覆われている。
そして良くないことに、洞内は奥へ向けてやや下り勾配なのか、洞床に水が流れ込んだ痕跡が鮮明に刻まれていた。
いまは流れていないが、これで非貫通となると、洞奥での水没が非常に懸念される……。
入洞開始!
おおっ! かっこいい!
壁の模様が、だいぶSFチックだ。
人造と天造の合作たる土木構造物ならではの美を感じる。
洞床は相変わらず流れ込んだ土砂によって乱れているが、左右の壁面は完成当時の雰囲気を留めている。やはり地中は地上よりも保存環境が良い。ほうきで掃いたような鑿(のみ)による線刻模様が、側壁の一面に残っていた。小さな道具と人の手だけで、これほど平らな面を広く作り出した技術力と根気に乾杯したい。
しかし、天井部にはそのような鑿の痕が全く見えない。
痕を残さず掘り進める方法があったとも思えないので、本来の天井は重力で剥がれ落ちてしまったものと推測する。それゆえ天井が高くなったというのは、道路トンネルらしからぬ背の高さの解釈としてあり得るだろう。
チェンジ後の画像は、坑口を振り返って撮影した。
鑿の痕が残る側壁と、アーチでもなければ五角形でもない天然風の歪な曲線を見せる天井の対比が強烈だ。
やはり天井は全体的に崩れて広がっているように思う。
この想定の上に、元の断面がどのようなものであったかを想像する余地がある。
また、坑口が少し高く、そこから洞内に向かって下り勾配である様子も、この画像からは分かると思う。水が流れ込んだ形跡も鮮明である。この水の行方が気になる…。
9:43 (入洞2分後)
坑口から40mほど進んだが、出口の気配はない。
これよりも低い場所にある現隧道も全長は160m足らずなので、旧隧道はそれよりも短い80〜100mの長さと推測される。貫通していれば最初から出口が見える長さだ。明治の隧道が内部で曲がっていることも少ないのだし。やはり閉塞しているのだろう。
しかし、内壁のうち側壁の状態は依然として凄く良い。
対して天井は、崩れたにしては滑らかに見えるが、側壁のような鑿の痕が全くないので、全体的に薄く剥がれるように崩れた後だと思う。
問題は洞床で、相変わらず大量の泥が半ば乾いた状態で埋め尽くしている。本来の洞床を1mは埋め立てているように見える。そのせいなのか、あるいは天井の崩れ方のせいかなのかは分からないが、入洞直後に比べて、明らかに天井が低く感じられる。これは、泥流のような流動性の非常に強い土砂が、どちらかの坑口から一気に流れ込んだものと思われる。おそらくこの辺りは全長の中間に近い。どちらの坑口から流れ込んだにしても、大規模な泥流だったと思う。
で、矢印の部分には……
奇妙な、角が、あった。
一瞬、鉄道トンネルによく見られる待避坑をイメージしたが、そういう形はしていない。
これが何なのか考えたが、古い素掘り隧道にはしばしば見られる誤掘進の痕跡だと思う。
考えられるパターンは、ここまで掘り進めたときに少し左へ進行方向がずれていることに気付き、一旦掘進をやめて、ここから正しい方向へ掘りなおしたという説。
もう一つのパターンは、両側から掘り進めた切羽がここで結合したが、その際に少し左にずれていたという説だ。
どちらにしても、掘り間違えた痕ということだと私は解釈している。
そのうえでなお興味深いのは、この誤掘進の痕らしきものが、左の側壁部分にだけ残っていることだ。
この痕が天井部分にまで続いていないのは、隧道としての全断面を、同時に掘り進めた(全断面工法)のではないことを示唆しているように想像出来る。
この物言わぬ謎の窪みは、房総半島に多数見られる五角形断面(観音掘り)の隧道や、それに近い断面を持つ素掘りの隧道が、どのような手法で建築されたのかという、私が従来から持っていた疑問を解き明かす一つの鍵になるものかもしれない。
左の画像は、2015年に刊行された『素掘りのトンネル マブ・二五穴』に掲載されている図だ。
ここに描かれている五角形断面の隧道は、房総の素掘り隧道からは遠く離れた新潟県佐渡島の佐渡金山において元禄期に開削された南沢疎水坑である。この坑道は高さ幅とも2m程度あり、大量の坑内排水を流すために(当時の坑道としては)大規模な断面を持つ。そのため掘削時に断面を4分割し、4人の鉱夫がそれぞれ順序よく掘り進めたと考えられるという。(このことも、洞内に残された誤掘進とみられる掘り痕から推定された)
実はこの南沢疎水坑が、観音掘りという用語が生まれた原点である可能性があり、現在調べを進めているところだが、まだ結論が得られていないので言及は保留したい。そして、道路トンネルの断面としては房総半島にほぼ特有である五角形断面もまた観音掘りと呼ばれているが、両者に技術的な繋がりがあるのかもはっきりしていない(調査中)。
現時点での個人的印象としては、佐渡のような鉱山で使われた江戸期の古い坑道掘りの技術が房総半島の明治期の道路トンネルへ伝播するなら、途中で経由した他の地域に五角形断面の隧道がほとんど見られないことは不自然であることや、佐渡と房総は地質条件が異なっており適した掘削方法が異なると考えられること、さらに房総は金属鉱山が皆無で鉱山技術が伝播するきっかけが乏しいとみられることなどから、房総の五角形断面の隧道は房総に発祥があり、たまたま形が似た坑道の断面と技術的な繋がりはほとんどないのではないかと考えているところだ。
しかしそれでも、房総の五角形隧道においても左図のような4分割やそれ以上の分割による掘削が行われ、その結果、上記のような“謎の窪み”が出来た可能性は十分にあると思う。
過去に探索した房総の五角形隧道の中には、今回発見した“謎の窪み”とは異なる形の“謎の窪み”を有していて、やはりそこから掘削方法の推測が可能なものがあった。
右画像は平成20(2008)年4月に探索した「保台清澄連絡道路(仮称)」で発見した、第一隧道(仮称)および第七隧道(仮称)の五角形断面の頂上部分に残されていた“謎の窪み”である。(当サイトが初めて「観音掘り」という用語を用いたレポートでもあるが、単純に古い五角形断面の隧道をそう呼ぶという又聞き程度の知識で書いており、その意味や意義、由来について、深い追求はしていない)
レポートでは机上調査をしなかったが、後の調査でこの道路は明治20年頃までに千葉県の許可を得て地元の人びと整備した「遠沢新道」という道路であったことが判明しており、開通式には千葉県令船越衛も臨席したという。多数の隧道を開削することで清澄山系の最短横断を目指した道路であった。
この遠沢新道の隧道にも五角形断面のものが多いが、その天辺部分にしばしば見られたこの“謎の窪み”は、おそらくここに最初の導坑を開削し、そこから下へ掘り広げていったこと(頂設導坑先進工法)を意味していると思う。この工法と、さらに前述した4分割掘進が、ともに行われていた可能性もある。
そして、この導坑とみられる部分の特徴的な縦長の小断面は、房総半島において“二五穴(にごあな)”と呼ばれ、近世以前より当地方に多数開削されてきた灌漑用水路隧道の断面を彷彿とさせる。
“二五穴”はその名の由来が、幅2尺高5尺という鉱夫一人で掘り進める最小断面の穴である。
右の画像は、前回紹介した横井戸の近くで目撃した“二五穴”の内部だ。
房総半島の山間部は河川の下刻浸食が進んでおり、多くの農地が隣接する河川よりもかなり高い段丘上にある。そのため最寄りの河水を使うことが出来ず、横井戸の掘削とともに、上流から引水してくる長大な水路隧道の掘削が多く行われ、これらはいずれも穴を掘る技術を必須としたことから、房総半島における古い道路トンネルの技術的根底は、鉱山技術よりもこうした灌漑用水路隧道にあるのではないかと推理しているところである。
房総の古い道路隧道に特徴的な五角形断面が“観音掘り”と称されるようになった経緯は現在も調査中であるが、房総に多数見られる五角形断面は、いずれも“二五穴”的なものを用いた頂設導坑先進工法に起因しているのではないかと考えている。五角形は単純な矩形より地圧に対する耐久が有利であるから(矩形<五角形<半円形)、明治期に“二五穴”の技術がある房総半島一帯に広がったが、五角形断面は煉瓦やコンクリートを使った覆工が難しい欠点があるとみられ、やがて全国共通に見られる半円形断面に吸収されていったのではないだろうか。今のところ、大正時代以降にこの断面の隧道が掘られたという記録を見たことがない。
“観音掘り”や“二五穴”については、まだまだ語り足りない謎が多いが、今回はこのくらいにしておいてやる(ハァハァ)。
さらに少し進むと、コウモリが現れだした。
まだ冬眠しているようで、光を当ててもほとんど反応がない。
洞床にフンの山がないので、コロニーとしては小規模、あるいはこの隧道を根城にしてからの期間が余り長くない……もしくは、フンの山を洞床ごと覆い隠してしまった大量の泥流の侵入が最近の出来事であったと考えられる。
最初の天井の高さはもはや完全に失われ、天井に手が届くほど低くなった。
これは非常に不自然で、実態は天井が低くなったのではなく、地面が高くなったのだろう。
相変わらず洞床は一面の泥で、水気が少ないために泥濘んでいないのは助かるが、おそらく2m以上も堆積していると思う。
これほどの土砂を流入させる崩壊は、私が入ってきた西口にはなかったから、閉塞済の東口が原因かと…。
また、相変わらず天井部分は落盤があったようで、ちょうど砂岩の白い層を境に、鑿の痕がある凸凹面と、崩壊によって露出するに至ったとみられる平滑な面が隣接している。
五角形断面は、その力学的な特徴から、天頂の角の部分に両側からの強い地圧(圧縮力)が集中し、その周囲が下に押し出されることで、剥離崩壊が起りやすいと推測される。
このことと砂岩層という不連続な地質構造が重なり合って、天井の部分がことごとく剥離崩壊したように見える。
それでも隧道全体の崩壊に結びついていないのは、良き地質のなぜるわざだろう。間に砂岩層のようなものがあっても基本的に泥岩の一枚岩の安定感があって偏圧に強く、隧道を圧壊させるほどの大規模な亀裂を生じる余地が少ないのだろう。
ズラーリコウモリ
からのー……
アウトー。
押し寄せる、固まった泥流。
きっとここが、地上側からは痕跡さえ見つけられなかった東口の埋没崩壊地だ。
すなわち、洞内側から初めて発見が出来た東口といっていい。
9:45 (入洞4分後) 《現在地》
西口から推定90m。
地図上から推測される隧道の全長をほぼ獲得したところで、
埋没した東口の裏側とみられる閉塞地点に到達した。
土砂の中に木の枝が大量に混入しており、地表側の土砂崩れに巻き込まれる形での閉塞とみられる。
コウモリのフンの山が洞床にないことから、崩壊は数年から10年程度の新しい出来事の可能性が高いと思う。
もう少し早く訪れていたら、通り抜けが出来た可能性があると思うが、こればかりは…… ね。
地上へ、戻ろう。
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