道路レポート/廃線レポート 草木湖水没交通遺構群 第2回

公開日 2012.09.27
探索日 2012.09.15
所在地 群馬県みどり市

これまでの探索(というか観察)により、平成24年9月15日の草木湖の水面は、右図の範囲にまで縮小していることが判明した。
湖は満水時半分程度の長さしかなく、草木橋よりも上流には渡良瀬川のせせらぎが復活していたのである。

水没した旧国道と旧線の探索は、ここからが本番といえそうである!!

さっそく眼下に見えている旧国道を探索してみたかったが、今回は残念ながらこの後仕事が控えているという事情があるので、全てに優先順位をつけて行動したい。
これより上流にはどのような遺構が存在しているのかということを予め目視で確認し、全体像を把握した後で個別の探索を行うことにした。

ちなみに探索終了のタイムリミットは午前7時30分で、現在時刻が午前5時38分。待ち合わせ場所のここへ午前9時に集合するには、それでも結構ギリギリだ。




遂に足尾線旧線の浮上を確認!


2012/9/15 5:44 《現在地》

引き続きの目視確認作業は、視座を草木橋の上流750m右岸にある寒沢の駐車場へと移動させた。

この辺りの旧国道は、現国道と概ね同じ高さにあったので、廃道という形では残ってはいない(と思われる)。
ここで目視したいのは、足尾線旧線の方である。

まず上の《現在地》を見てもらいたいが、この辺りの対岸川べりには、白浜という集落がかつてあった。
そして、足尾線は集落と渡良瀬川の間を通っていた。

こうして対岸を見晴らすと、確かに水面よりも少し高い所にやや広い平地が広がっており、集落があったと言われても違和感はない。
しかし、建物などの具体的な集落遺構は特に見あたらないようだ。
旧線についても、特に痕跡が無いのかと思いきや……。



浮上確認!

来ましたよ、旦那。

ようやっと足尾線が浮上してきた。

もっとも、“浮上”と言っても水面から現れてきたのではなく、完全に泥の地表からモゾモゾと這い上がってきた感じである。

驚いたよ。
こんなにも湖底に土砂が堆積してやがったのか…。
水面より上にある土の層は全て堆積物だろうから、その厚さは5mくらいありそうだ。
これでは草木駅のプラットホームなど、ほとんど絶望……。
今まで中々路盤が見えなかったのも頷ける。

探索の優先順位としては、先ほどの旧国道と、あそこに見える旧線跡。
この2つはぜひとも実踏したいと、そう心に刻んだ。



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東宮橋付近の複雑な遺構群に混乱


5:47 《現在地》

さて、草木湖視認大会が最後にやって参りましたのは、ダム湖の上流端から1kmほどの所に架かる東宮橋。
この辺りまで来ると、特に渇水ではなくても湖畔の探索が出来るので、タイムリミットがある今回は、敢えてここに長時間滞在するつもりはなかった。
しかし一連の流れとして、旧国道と旧線の上端部がどのようになっているのかを確認しておきたかったのだ。
よって、ここはサラッと目視確認で終らせるつもりだったのだが、予想外に複雑な状況が出現しており、私を大いに混乱させた。

今見えているのは、東宮橋のやや下流側左岸である。
おそらく旧線跡と思われる平場が、橋下を左右に通じているのが見えたが、この時期は緑が濃すぎて、路盤上の状況は不明である。




続いて視線を下流へずらし、左岸下流方向の眺め。

奥の渡良瀬川が曲流している左の台地が、白浜集落があった場所。
よって、旧線跡はあの台地の下辺りからずっと左岸伝いに伸びているはずだが、緑が凄まじくて見えない!

また、この辺りの旧国道は再び現国道よりも低い位置にあり、東宮橋よりも低い位置で右岸を通過していたはずだが、その痕跡はやはり緑が凄まじくて見えない!

いや〜〜ん! ちょっと9月に探索する場所じゃないな。
緑が落ち着いた時期に再訪する事を誓いつつ、今度は橋の直下を見てみると…。



東宮橋の直下はいかにも架橋地点らしく、両岸に白亜の巨石が門戸のように突出して川幅を狭めていた。
そしてその左岸側の巨石には、まるで小さな城郭のような橋台が、どっしりと根を張っていたのである。

橋台は、左岸側にしか見えない。
右岸のそれは本橋の真下になっていて見えないだけなのか、破壊されてしまっているのかは、定かではない。
いずれ、橋台の作りを見る限り、先代の東宮橋(旧東宮橋)は、上路トラス形式だったようだ。
幅の狭さがいかにも昔の橋だが、草木ダムの建設に伴って廃止・撤去されたのだろう。

これが先に「複雑だ」と断った原因であるが、東宮橋付近には旧国道と旧線の他に、歴代の東宮橋を架していた旧東村道(東村の村道のこと。明治22年から平成18年まで、当地は東(あずま)村に属していた)が存在していたのである。

よって、先に見ている左岸の平場も、旧線跡と即断できないことになる。

この辺りの確定は、緑が落ち着いた時期に、実際に歩いてからになるだろう。

→【レポート製作予定】

さて、今度は同じ位置から上流に目を向けてみよう。




不用意に画像にカーソルを乗せてしまって、大量に現れた書き込みに驚いた人も居るだろう。

廃モノが、超密集してやがる。

まず、廃線跡は大部分が目視できないが、藪の中に確かに存在していそうである。
そして、この廃線跡の推定直線をそのまま東宮橋の右に伸ばすと、この辺りの位置に来る事になる。

問題は、旧村道だ。
なんと、東宮橋の旧橋よりもさらに旧いと考えられる橋台が、存在していた。
旧旧橋に他ならない!



これが架設年・廃止年共に現状不明な、旧旧東宮橋の橋台だ!
天然の岩盤を巧みに抱き込む形で緻密な石垣が設けられており、橋台の形状からは木製の方杖橋が連想させる。

しかし、この形式ではさほど径間を長く取れないはずであるにもかかわらず、右岸側の橋台は見える範囲に存在しない。橋脚があった様子もまた、ない。
経緯が不明である以上、少々大胆な仮説と言わざるを得ないが、しかし私はかなりの確信を持って、右岸側の橋台は地形ごと撤去されたと考えている。
そのような大規模な地形改変が行われた原因として考えられるのは、ひとつはダム工事に関わること。
もうひとつ(より可能性が高い)は、このすぐ上流に接している(上の写真参照)沢入発電所の建設絡みだ。
昭和56年に完成した沢入発電所の放水口が近くにあり、橋台を有する岩盤が存在すれば、放水の流れに支障したことが想像されるのである。

あと、忘れちゃならない…何か見えるよ。(○の中)
なんか、短い木製桟橋が折れ曲がりながらも、架かったままになっているような気がするのだが…。 ムッシュムラムラ!



だがしかーし!!


コイツ↑のおかげで、

私は一生、あの桟橋にも橋台にも、辿り着けないかも…。

橋の規模に較べて、何と巨大な橋台だろう。
こんな橋台を拵える労力とお金があれば、ちょっと長い中古プレートガーダーを
国鉄から買って架けた方が楽だったのではないかと思うが、
もちろん私はこの橋台が大好きである。
ひと目見た瞬間に惚れ込んだと言って良い。

まるでトウモロコシみたいなので、トウモロコシ橋台と呼ぼう。



ところで、昭和27年の地形図を見てみると、東宮橋は旧旧橋の位置に描かれていた。
そして昭和40年版では橋の表記が一旦消え、昭和56年版から現在の位置に描かれている。
昭和40年版に橋が無いのはおそらく誤謬だと思われるが、旧旧橋の供用期間がうっすらと見えてくる気はする。

なお、渡良瀬川は現在でも大きな川に違いはないが、ダムなどで水量が調整される以前は、現在よりも遙かに“暴れ川”であった。
すぐ上流に煙害のため禿げ山だらけとなった足尾銅山があために、ひとたび雨が降ると忽ちのうちに激流となって流れ下った。
そうした事情を反映してか、昭和40年代まで東宮橋の下流には、10km以上もまともな橋が架けられていなかった。

村道としては過剰なほどに立派な橋台は、東村の東西を結ぶ貴重な幹線であった故かもしれない。




続いて、上流河心方向の眺め。

沢入発電所の敷地や建物が旧線跡に重なっているが、発電所は旧線廃止後に建設されているので、矛盾はない。
そして発電所の向こう側には現在線の鉄橋が見えており、そこはレポート済みだ。

先に述べた“旧旧橋右岸橋台撤去説”を採らなければ、いかにも不自然な位置に左岸橋台があることが、お分かりいただけるだろう。
旧橋よりも旧旧橋が遙かに長いなどということは、兄より優れた弟の実在以上に、簡単に是認することはできないのである。
きっと大規模な地形改変があったんだ。




東宮橋からの“オールラインレポート”のトリを飾る、上流右岸側の眺めである。

が、この方向もがとても旺盛で、沢入集落へ続く旧国道は、1本の橋が辛うじて見えているだけで、ほぼブラインドされていた。

時期を改めても、ここを歩き通すのはかなり大変そうだ…。

とにかく今回は時ではない。
東宮橋からの観察を終えた事で、草木湖水没以降の遺構の全体像は、だいたい把握出来た。
いよいよ“実踏”を開始しよう。


まず目指すのは…



白浜の足尾線旧線!