道路レポート/廃線レポート 草木湖水没交通遺構群 第3回

公開日 2012.10.01
探索日 2012.09.15
所在地 群馬県みどり市


さて、前回の最後に予告したとおり、今回はここ(←)を歩いてみたいと思う。

場所的には草木橋と東宮橋の中間付近で、渡良瀬川の左岸である。
ダムが出来るまでは、ここを足尾線が通り、また沿線に白浜という集落があった。

現在もダムの水位が下がると、このように足尾線の路盤跡が地上に現れる。
あの路盤に立ったとき、私は40年前の“車窓”を彷彿とするような景色を見る事が出来るのか。

その事を語ろうにも、残念ながら私には旧線に乗る機会が無かった(というか、生まれてない)。
だから、ちょっとイメージを膨らませるために、“ドーピング”をしたい。


ということで、『日本旅行案内 関東篇』の登場だ。
これは昭和5年に初版が発行された鉄道省編纂の旅行ガイド本で、当時ベストセラーになったもの。
鉄道省発行と言うことで、もちろん鉄道旅行のための本だが、当時営業していた国鉄線の車窓ガイド的な内容もあり、居ながら旅行が楽しめる一冊である。

この本から、足尾線の神戸(ごうど)〜沢入(そうり)間を紹介している部分を引用しよう。

駅を過ぎて一トンネル(引用者注:これは琴平隧道をぬけると河中に花崗岩が見え始める。橋を渡って(引用者注:第一渡良瀬川橋梁、すなわちここから先が湖底部分となる)川の左岸に沿い進めば河中の花崗岩に大小の甌穴が見られる。また石材を河原から切り取って居る処が多い。小トンネルを過ぎ(引用者注:これが沢入隧道で、現在線とこの辺りで合流する)右から来る黒坂石川を渡って沢入駅に着く。

車窓の見どころは、河中の花崗岩と、そこに刻まれた大小の甌穴で、河原では採石が行われていたそうである。


それでは、いよいよ現状確認へと参りましょう!



県道から、湖底の白浜集落の跡地へ下降


2012/9/15 6:10 《現在地》

先ほどまでは右岸の国道を北上していたが、今度は左岸の県道343号線を南下中。
白浜付近の湖畔へ下りれるルートを探す。

が、現地にはあらかじめ用意された湖畔下降ルートは見あたらない。
ちょうどこの辺りの下に白浜集落跡があるはずだが、猛烈な葛の藪(マント群落っすよ)のために、路肩から下を見ても地形がどうなっているのかさえ分からないほど。

車を近くに止め、身軽になって湖畔へのルートを模索すること数分…。




上の写真の奥の、路肩に木がこんもりと生えている辺りに、藪の浅い場所を発見した。

目印はこの石材の山だが、なぜここにこのようなものが置かれているのかは分からない。
これ自体は古いものでは無さそうだが、一帯で古くから続く花崗岩採石と関連するものだろうか。

ともかく、この石材の脇をすり抜けて、背後の林へ進むと…。




薄暗い森。
しかし下草が無く、歩きやすい。
また、私と同じ目的かは知らないが、古くから人の通路となっていたのか、踏み固められたトラバースラインが数本走っていた。
私もそのうちのひとつをなぞって、下方の明るく見えている方向を目指した。

思えば、今は路肩下の特に用途がない森だが、かつては集落裏手の“里山”だったはずである。
人との関わりは、元より濃厚な場所である。様々な踏み跡があるのも、不思議ではなかった。




6:12 《現在地》

高度にして20mくらい下降すると地形が平坦になって、同時に好水性の樹木が現れた。
さらにその“帯”を数メートル横断すると、いよいよ“湖畔”と分かる風景になった。

足元に沢山散乱している流木は、ここが比較的長い期間汀線であり続けることを意味している。
すなわち、満水位がこの辺りなのだろう。
これより先は、毎年のように水没と浮上を繰りかえすエリアと言うことだが、進むほど浮上の確率が減っていくことになる。

先に対岸から見たところでは、目指す旧線跡は河床とほぼ同レベルにあったので、まだまだ湖底への進行を止めるわけにはいかない。



更に進むと、眼下に広い平地が見えてきた。
その平地は台地状で、上部は切りそろえたように平らに見える。
この場所に、白浜という集落があった。
草木ダムによる水没家屋220戸のうち、10〜20戸程度がここにあったようだ。

なんとなく、この集落の名前が好きだ。
川沿いの土地で白浜というのは、何か印象に残る。
そして、なぜそういう地名になったのかは予想が付く。

まず、「白」は花崗岩の白だろう。
前回少し上流の東宮橋付近の渓谷を眺めたが、両岸の岩場はみな白かった。あれが花崗岩だ。
この辺りの渡良瀬川沿いの岩場は、みな白い。




そして、「浜」。

昭和27年の地形図をつぶさに見てみると、白浜(濱)付近の渡良瀬川には、この前後には見られない地形的な特徴があったようだ。
そこには大正6年図式による「礫(れき)地」の記号が描かれている。
つまり、上流から流れてきた礫がここに厚く堆積していたのだろう。

渡良瀬川沿いの石は、みな白い。
それらからなる礫が堆積したこの場所は、さぞ白い河原であったろう。
その光景が「白浜」という地名になったと想像する事が出来る。



だが、現在の白浜に白いものは、ない。

ここにあるのは、我が世の春を謳歌する蒼蒼たる野っ原と、ある一定の標高以下の全てを覆い尽くす泥土だけ。
遠景には鮮烈な「赤」も見えるけれど、基本的に白のない世界だった。

なお、白浜集落を通っていたのは足尾線だけでなく、前回探った旧東宮橋に連なる村道もあった。
位置的には線路よりも上位で、まさに家々の間を通過していたが、その痕跡は見えない。
家屋、田畑、道。
結局私は、白浜集落があったといえる痕跡を、なにひとつ見つけられなかった。




湖底地に入ったことを理解する、何よりも分かり易い眺め。

湖面を渡る橋(草木橋)が、あんなにも上に見える。

また、旧国道と足尾線旧線の高低差も、鮮明である。
これらが敢て並行しなかったのは、渓谷の地形的急峻さ故であったと思われるが、
その急峻さがダムを呼び、水平線と“泥”平線によって風景の大部を変える結末となったのだ。
特に低位にあった旧線の方は、遺構の大部分を消失してしまった。



参考までに、視座は上の写真と異なるが、満水時の草木橋の風景をご覧頂こう。

草木橋は、昭和50年にダム工事と関連して架設された、
全長400mの上路3径間連続曲弦トラス橋である。
満水時には計り知れなかったその驚くべき高さを、今回初めて知った。




楽しい楽しい、ヤブ泳ぎ中。

ヤブ漕ぎじゃなくて、ヤブ泳ぎだこれは。
左の写真の場所はまだ浅い方だが、終盤にかけては前が見えなくなる一幕もあった。
しかし、地形的な凹凸はほとんど無いので、事前に見ていた俯瞰を信じて、闇雲に前進した結果が…。




脱出間近!

いよいよ、最低位のエリアが見えてきた。
草も生えていない泥の裸地は、例年は滅多に水面上に現れる事が無い、今回の渇水によって現れた場所と想像される。
そしてまた、1ヶ月も経たずに水没することだろう。

この泥の裸地のさらに向こうには渡良瀬川が流れており、目指す足尾線旧線の所在地としては、この泥地を除いて他に無い。



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県道から、湖底の白浜集落の跡地へ下降


6:18 《現在地》

下降を始めてから8分後、私は湖底を流れる渡良瀬川の畔に立った。
泥土のエリアは遠目に見たよりも意外に広く、そのエリア内にも結構な高低差があった。

肝心の旧線については、矢印の辺りを通っていたに違いないが、泥没のため見えない。
痕跡が明確に現れるのは、正面に見える台地の下に入ってから。




まず初めに見えてきたのは、法面の石垣。

それが、いかにも

“浮上”

という感じで、立ち上がってきた。 …ゾクゾクした。

(で、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のOPを思い出した)

しかしまだ、路盤自体は泥没している。
泥の層がどれほど厚いかは、左の渡良瀬川に削り取られた断面からも伺える。



そこから30〜50mほど前進(北進)すると、
路盤の浮上も更に進み、いよいよ路肩が見え始めた。

だが、それよりも目を惹くのは、法面の予想外の高さだ。
遠くから見た時よりも、格段にその高さを感じる。

しかも、またトウモロコシ!!
…いや、丸石練積みの石垣である。



こりゃ凄い、圧巻。

そして、圧迫

まさしく壁、それ以外の何物でもない。
白浜集落を上に戴きつつ、川べりの狭いところに作られた路盤は、
それ自体が土地の護岸を兼ねていたと考えられる。

旧線とは言いつつも、何十年も国鉄線として現役であり続け、さらには
足尾鉱山や鉱都足尾の膨大な鉱石および副産物を輸送した“重貨物線”である。
そうした“強さ”のようなものを、この重厚な遺構に見る事が出来た。
湖底で過した40年にも、さほどの綻びは見せていない。



巨大な擁壁には、幾筋かの顕著な水平線が刻まれていた。

これらは、草木ダムが通常稼動するなかで中で何らかの意味を持たされた、比較的長期にわたって留め置かれることが多い水位だと思うが、ダムに詳しくない私には、それぞれの水位にどのような理由があるかは分からない。

分からないが、ともかく満水ともなれば、台地上もすっぽり水面下になってしまう事は間違いなく、その水面と遠さと深さを想像すると、息苦しささえ憶えるのだ。

石垣のような単純な構造物であっても、浮力と水圧と重力とという様々な力の変化に晒され続けて無事であるのは、堅牢な証拠と言えよう。

さて、それでは路盤の浮上も落ち着いたようなので、実際にそこへ立ってみよう。




これが、足尾線旧線路盤上の風景。

かつて、運転台や最後尾の窓から見る事が出来た風景から、どの程度変化しているだろうか。
少なくとも、法面だけは昔とほとんど変わっていないはずだ。
それと、このいかにも鉄道らしい緩やかな右カーブ。これも変わりようがない。
あとは、路肩側に木が生えていたかどうかで、雰囲気がだいぶ変わってくると思う。
それ次第では、こんなに見晴らしの良い場所ではなかったろう。




ところで、上の写真に写っている、路肩の大きな岩。
最初見た時は、上から落ちてきたか洪水で流れてきたか、いずれにせよ昔からここにあったワケではないと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。
この岩と、となりに並んでいる一回り小さな岩と、2つの岩の上に不思議なものが取り付けられていた。



← 手前にある大きな岩の上にあったもの(トンボ付き)。

奥の少し小さな岩の上にあったもの。 →

これらは、一体何だろうか。
金属製の中空の棒(つまりパイプ)が真っ直ぐ立てられており(右のものは折れているようだが)、コンクリート製の基礎からは川側へ別のビニールパイプが顔を出していた。

この作りを見る限り、水を通すパイプか何かだと思うが、まさか線路上を跨ぐような構造物があったのだろうか。
だとすれば集落と関わりがありそうだが、正直何のためのものか、全く見当がつかない。


この上に伸びた鉄管は船舶が岩に接触しないための目印で、下の塩ビ管は水位が下がってきたときに鉄管内の水が抜けるようにしてあるのではないかという指摘を読者さまから戴きました。納得です! 
2012/10/2 荒幡光蔵氏のご指摘を受けて追記。


6:26 《現在地》

高い法面擁壁によって明確な痕跡を留め得た旧線は、おおよそ250m続いた擁壁の終了と同時に、再び泥土の世界へ帰っていった。

前方約450mには東宮橋の赤い鉄桁が見えており、前回、目視探索を行った区間とは、これで一応繋がったことになる。
おそらく、この先は草むらの中に続くのだろうが、今回はここまでにしておこう。




さて、と踵を返す。

水没遺構大好きな私としては、この探索は凄く楽しかったのに、楽しい時間というのはあっという間だな。
もっと長く続いてくれたらいいのに…。

名残惜しく想いながら、いま来た道を引き返し始めた。





足尾 →→→ 桐生方向に進行中。


この緩やかなカーブの先に、

まもなく、見えてくる。


その瞬間に、興奮した。




カーブの先に、赤い鉄橋ってイイヨね! ね?




はい! 足尾線水没旧線のハイライトシーン、いただきました!


これ、格好良すぎる。 マジ惚れた。

草木橋が格好いいのはもちろんあるんだけど、視座である旧線の雰囲気も抜群に良い。
周辺が泥土に埋もれている中、ここだけ明確に存在しているギャップも魅力的だし、
白く清潔感さえ感じさせる石垣の法面と、若草の軟らかそうな緑が、凄く似合う。

そしてそして、背景も最高!

…侮れない、足尾山地の山深さ。
この方角には関東平野があるのに、ただならぬ障壁感だ。
足尾鉱山って、随分と山奥にあったんだなぁと、改めて実感する眺め。



これって、花崗岩だよね。きっと。

法面の石垣の一部を、巨大な天然の岩石が担っていた。
この大岩はちょっとばかり目立つ存在なので、車窓の一部として記憶してくれている人が居そうだ。
憶えておりませんか? 何か表面に書いて欲しそうな、この巨石のこと。



戻って来た。最初に路盤跡へ降り立った辺りまで。

ここから先の草木駅までは、見ての通り、泥と土の地平が広がっているばかりである。

もはや、足尾線旧線の探索は、これまでか。



いや、何かある!!