2019/6/26 12:15
前代未聞の隧道だった。
時計を見ると、たった50mほどの隧道を潜り抜けるのに15分もかかっていた。
潜り抜けた先の地上だが、まだまだ崖の途中のような感じがする。
相変わらず緑は濃いが、隧道へ入る前には沿道で見なかったような岩場が、法面と路肩の両側に切り立っているのが見える。
また、50mほど先から向こう側は、太陽の光を燦々と浴びているように明るく見えており、恐ろしかった。
地上へ出て数秒後、GPSの測位が完了して、《現在地》が判明した。
最新の地理院地図では、隧道必須とは見えない地形の描かれ方だったが、実際は隧道なしでは越えがたい険しい地形であった。
そして次なる問題は、この先の道である。
地理院地図に隧道は描かれていなかったが、道自体はこの先にも「徒歩道」として描かれ続けている。
そしてその道は、ここからの数百メートルが最も険しいように描かれていた。崖を意味する櫛形の記号がいくつも並んでいる部分がある。
あらかじめマイカーをデポしてある上市町の中村集落までは、ここからまだ推定約3kmの距離があるが、全区間で一番険しく描かれているのが、ここからの数百メートルである。
ここさえ乗り越えられれば、中村突破の成功可能性は十分に高くなることが期待できた。
右の写真は隧道の南口だ。
崩土が堆積して半分くらい埋れているが、北口に比べれば遙かに状態が良く、坑口周りが土ではなく岩盤なので、まだ当分は形を留めてくれそうである。
だがこの岩盤のおかげで、隧道を迂回して北側へ戻ることは難しそうだ。
もし迂回が容易そうなら、例の竪坑の上部がどうなっているのかを確認しに山へ登ってみたかったが、明らかに険しいし、そんな場所で竪坑をピンポイントに見つけるのは大変だと思ったので、止めた。
これより、“隧道”の向こう側の世界へ突入する!
歩き出してすぐに分かった。
いや、嘘だ。
歩く前から、穴の出口を通して外の景色を一見した瞬間から、察していた。
隧道南側の道は完全廃道だ ――ということを。
中村集落側から隧道を訪れる人が時折でもあるなら、北口にあったような踏み跡が付いていることが期待できたが、それは全然見当らなかった。
これにより、再び深い藪に苦しめられることを覚悟せねばならなくなった。
しかし、藪以上に致命的に恐ろしいのは、崖である。
この坑口前の道でさえ、険しい岩場に危うげに付けられていることを知った。
チェンジ後の画像は、石垣も何もない路肩から覗いた崖下である。
ゴツゴツとした岩場の底に、私の転落死体を永遠に隠し続けそうな深い草の海が広がっている。
このクリティカルな高度感は、隧道以前にはあまりなかった。
ここはまだ、隧道を出た時点でも見えていた最初のカーブだが、
さっそく予想外のアイテムが現れて、私を驚かせた。
それが何であるか、分かるだろうか。
この写真にも写っているのだが、かなり分かりづらいと思う。
ヒントは、道路の路肩側だ。
路肩が、路面よりも盛り上がっているように見えるだろう。
そこに、私を驚かせたものがあった。
答えは――
転落防止用の石垣。
崖に面するカーブ外側の路肩に、小さな堤防のような形に積まれた石垣があった。
見事な苔色に包まれていたが、間違いなく意図的に積まれたものだ。
状況的に見ても、転落防止のために用意された石積だと考えられた。
すなわち現代におけるガードレール、或いはコンクリート製駒止に相当する、転落防護柵のご先祖である。
昔の転落防護柵は、そもそも安全意識が今のように高くなかったことや、移動速度が遅かったことなどから、設置自体が限定的で、さらに設置されたとしても手間の架かる石造より、圧倒的に木造の簡易なものが多くかった。木柵は長持ちしないため、廃道で目にすることは稀なのである。一方で長持ちのする石造の防護柵だが、建造されること自体が稀であったために、目にすることが少ない稀少な構造物となっている。(たとえば、明治馬車道の由来を持つ国道291号清水峠の群馬県側に【見事なものがある】)
この道では今初めて目にしたので、全線に整備されていたわけではないと思うが、隧道があったことも含めて、要所にはしっかり手間と予算をかけて整備された道であったことが窺える発見だった。
放棄される以前は、同時代の他の道路と比べても、よく整備された道路だったのかも知れない(隧道は狭かったけれど)。
で、この石積のカーブを越えた先がまた凄くて……
うおおおぉー!!
見事な緑の片洞門だ!
これは美しいー。
そして、怖い。
解放的な片洞門。
この場所はご覧の通り、高度感から心を守ってくれる緑が薄い。
150mも下を流れる早月川の河原までくっきり見下ろせてしまう、切り立った崖を横断する。
上にも、下にも、実質的に逃げ道がない。越えられなければ、たぶん断念地点になってしまう。
とてもドキドキしながら、接近した。
本当に美しい緑の片洞門!
片洞門内部の路面にも大量の草が茂っており、道幅がよく分からないが、
長い年月を経た片洞門は、相当固い岩盤を穿って掘られたものであるはずなので、
たぶん人が通れるくらいの道幅は、いまも残っていると思う。通り抜けは可能そうだ!
いやはや、驚くべき隧道に続いて、この片洞門の発見も嬉しい成果だ。
本当に、美しいな……。
片洞門内部を進行中。
案の定、固い岩盤に守られた道は、十分な幅を保存していた。助かるー!
ん?
なんだこれは?
上の写真の立ち位置から、そのまま右を向いた位置。
そこには、片洞門の側壁であるオーバーハング気味の岩壁 “だけ” があるはずだったが、
黒い横穴が、半ば崩土に埋れた姿で、小さな口を開けているではないか。
いやいやいや……、 隧道にしては小さいと思うが、なんだこれ?
奥行き…
たぶんないよね。
穴が小さすぎるしね。
――10秒後――
12:20 《現在地》
また穴!今度はでかい!
な?!? 何が起きている?!
入ってみるぞ!
隧道だった!!!
2本目の隧道を発見!
だが、様子がおかしすぎる。
単なる隧道では絶対にないと断言する!
まず、全体的に天井が非常に低い。
上の全天球画像は、座った姿勢で撮影をしているが、
立ち上がれば頭がつかえるほどに天井が低いのだ。
おそらく、高さは1.6mくらいしかないだろう。
そして、断面が全く整っていないのも異常な点。
一応貫通はしていて、先に見つけた小穴が出口だったらしいが、
そこから人が出入りすることは出来ないのである。 その理由は――
←断面が小さすぎるから。
崩れたか、埋め戻されたかで、土砂が高く積み上がっているせい“だけ”ではない。
幅が狭すぎるのである。
もしここにある土砂を全て退かしたら、幅わずか60cm、高さ1.5mほどの、極端に幅が狭い隧道が発掘されるはずである。ようするに、人が一人屈んだ姿勢でようやく通り抜けられる程度のサイズしかない。
だが、隧道全体がそのサイズではない。先ほど全天球画像を撮影した南口から3mくらいの位置までは、幅2mくらいある。だが、そこから右写真のように突如断面が絞られる。そしてさらに3mくらい進んだところが北口だ。
チェンジ後の画像は、内部から見た南口だが、北口とは明らかにサイズも形も違っている。
この広い部分と狭い部分を合計した隧道の全長は6mくらいであり、全体はバナナ様に激しく曲がっている。
これが、先ほどの隧道と同じフォーマットで描いた、2本目の隧道の模式図だ。
極めて特異な形状であることが分かると思う。
そもそも、おかしいのは形状だけでなく、なぜここに隧道があるのかも大きな疑問だ。
隣に片洞門の道があるのに、なぜ隧道が存在するのだろう。
自然に考えれば、どちらかは旧道ということになるのだろうが、隧道は断面が小さすぎて、道としてはさすがに不自然な気がする。狭い道だったんだね、で納得出来る限度は越えている気がするのだ。
私は、探索中という落ち着かない状況の中で、できる限りの沈思黙考をした。
思考に沈み、過去の記憶を掘り起こそうとした。
この小さすぎる隧道の正体は、いったい……。
【 灌漑用地下水路(間歩)の跡では? 】
私のような“道路畑”の人間にはあまり馴染みがない話になるが、我が国の山間地で近世以前から脈々と築かれてきた灌漑用の地下水路には、このようなサイズ感の小隧道がしばしば存在した。
それらはしばしば、鉱山の坑道を指す古語でもある間歩(まぶ、まんぶ、まんぼ、まんぽ)と呼ばれ、戦国時代以降各地で活躍した鉱山師たちが、土地の農民を指導するなど何らかの関わりを持って広まったものと考えられている。
間歩が特に多く残る地方は、北陸の中越地方や房総半島といわれ、いずれも人力によって隧道を掘りやすい地質の地域であるが、全国に点在している。
右の写真は、中越地方でたまたま路傍に見つけた間歩の例だ。
間歩は房総半島において特に「二五(にご)穴」と呼ばれており、これは幅2尺(60cm)、高さ5尺(150cm)という典型的なサイズに由来している。
写真の間歩も、「二五穴」的な非常に細長い断面をしており、これは一人の掘削者がツルハシで掘り進むのに足りる最小限の断面サイズといわれている。
完成後は水路になるので、交通用の隧道のように幅は広くなかった。
この独特の断面が、発見した隧道の南口付近に合致していることが、“間歩説”を唱える最大の根拠である。
仮に、ここがかつて水路だったとする。
その当時は、左図のように岩場を潜り抜ける隧道(間歩)があったのではないだろうか。
だが、あるときこの水路を拡幅して、道路へ改築することになった。それで、チェンジ後の画像のように変化したのではないだろうか。
水路隧道も、最初は拡幅して道路隧道とすべく、南口から途中まで拡幅工事が進められたのかも知れない。だが、何かの不都合があってこれを中止し、隣に片洞門の道を整備することになったのではないか。
それで隧道は途中まで拡幅された状態で放棄されたのでは……。
……これは、話の後半へ近づくほど想像の度合いが大きくなる推論でしかないが、水路隧道説(間歩説)は、現地で私が思いついた唯一の“隧道の正体”だった。
(そしてこの説を採る場合、1本目の隧道もまた、水路を改築したものと考える)
それにしても、今回のこの正体不明、来歴不明、名称不明でスタートした、“仮名の廃道”の探索では、最序盤から“水路”というワードが何度も現れている。
水路(室山野用水)の実際の姿は大日公園で一度目にしただけだし、事実として、現在地は室山野用水とは高度が明らかに異なっているのであるが、行く先々でこんなにも繰り返し“水路”のイメージがチラつくのは、偶然といえるのか……?
果たして皆様は、この穴の存在を、どのように受け止められるだろう。
実は、帰宅後の机上調査で、この道の歴史に関わる重大な情報を手にした。
レポートの完結を、楽しみにしていただければと思う。