2015/3/10 12:43 《現在地》
対岸には、前人未踏の廃道があるかも知れない。
さらに、この道の秘密を記した石碑まであるのかも知れない。
これらの気付きは、くすぶっていた探究心に火を付けた。
せっかく始めたから歩き通そうなどという消極的な姿勢は一変し、岩にかじり付いてでも石碑の前まで辿りついてやろう!という意欲が充ちた。
それは探索者冥利に尽きる、とても嬉しい展開だったが、その後私の表情は緩む間もなく、あっという間に凍り付いた。
なぜなら、「岩にかじり付いてでも」という表現が、単なる表現でなく次の一歩に必須の現実の行為だったからだ。
この写真は、直前に過ぎた場面を振り返って撮影したものだ。私は“ここを”通りすぎた。「マジで?」と思われるかもしれないが、大マジだ。
感覚としては、ここまでの全ての行程の危険をあわせたものよりも大きな危険を、ほんの10mの間に乗り越えさせられた。
あまりに嫌な斜面だったので、途中写真は無い。それに、さほど絵になるような“スカッ”とした岩場でもない。岩場というよりも、酷く風化した濡れ土の斜面だった。対岸のスラブが“明”なら、こちらは“暗”の印象だった。
しかも、ここには目に見える道形が皆無で、ただ正体不明の古ぼけた存置ロープが、歪にねじ曲がった灌木の根を首吊りロープのように転々と伝う、それだけの道しるべがあった。
道しるべは、私を死へと誘う邪悪なものにさえ思えたが、頭の中の冷静な部位で判断し、前進を決定した。要するに私の能力値が、ほんの少しだけこの場面の難度を上回った。ぎりぎりの闘いには高揚感もなく、ただ苦い歯噛みがあった。
突発的に難しい場面が現れたが、それを乗り越えたらホッと一息
――とはなっていなかった。
先の見えない谷底へ下る方向に、存置ロープは導いている。
このロープが張られた斜面の他は、元より歩行不可能に思える。
立ち止まって一息入れようにも、ただ両足を揃えて直立することさえ難しい場面だ。
傾いた斜面に四つん這いに近い姿勢でいるしかない。であるから、止まっていてもじわじわと太腿が痺れてきて、神経がすり減る。長居無用だった。
それにしても、存置ロープの正体は気になる。
見馴れたトラロープであるが、いつのものなのか。誰が設置したのか。
地蔵に草履を供えた先行者か、それ以外の通行人がいたのか。
いずれにしても、今よりはもう少し道の痕跡が残っていた時代に張られたロープであろう。
そう判断出来るのは、ロープが結わかれている木の根の一部が既に枯れ朽ちていたりしたからだ。
もちろん、私はこのロープを道しるべとしてのみ使った。体重を預けるのは自殺行為に思われた。
だが、それでも非常に有意義だった。
もしもこれがなければ、私は完全に道を見失ったと判断し、引き返していただろう。
ロープという、誰かが通路として利用していた明確な痕跡がなかったら、到底ここに「道」を見出す事は出来なかった。
それほどに、壊滅的な荒れ方だった。
ここを下ってきた… →
これは正直、もの凄〜く、戻りたくない…。
上るのは降りるよりはマシだと思うが、それでも出来れば2度と通りたくない「道」だった。
そもそも、本当にこの斜面に道があったのかと思う風景だが、勿論あったからこそ地蔵がいたし、対岸に石垣があるし、地図にも描かれていたのである。
ただ、その道がどの程度の規格を持っていたかについて、正常に判断出来るほどに旧状を留めている場面が見あたらないのだ。
少しばかり悲愴な気分になりながらも、長い長いロープの誘いを辿って行くと、ようやく道としては明らかに非常識的な下りが終わり、微かに道形を見分けられる程度のトラバース(水平路)が現れた。
まだ全く何の油断も許されない状況だが、いくらかマシになったとは思えた。
地蔵があった尾根からオチイ沢に入り込んで、100mほどは来たろう。
おそらくあと100mくらいで、オチイ沢を渡ることになるはずだ。
そんな私の進展を肯うように、眼下に見える白糸のような流れは、だいぶ近付いて来ていた。
先ほどまでは落差が大きすぎ、足元から落ちていく岩場と、谷底からこちらへ向かう岩場の間には目の届かない(落ち窪んだ)領域があったが、今は一つの連続した斜面として見下ろす事が出来ていた。
この先、道は水平に行くつもりのようなので、あとは谷がどのくらいのペースで上ってきてくれるかだ。早く上ってきてくれたら、その分だけ早く、しかも安全な高さでこの谷を越えられる可能性が高まる。
だから今は、怖ろしげに瀑音を響かせる眼下の滝を応援したい心境だった。
(その後に起きた事を思えば、この時の心境は滑稽でしかないが)
鉄製の水道管らしいものが、桟道状に設置されていた。
実は地蔵より前の桟橋地帯でも、これを見ている。
おそらく、この道に沿って水道管が敷設されている。
水が流れている気配はないので、休廃のものではあろうが…。
いずれ、この道を過去に辿っただろう人間の種類が一種類増えた。
この水道管を設置し、維持する為の人間が。
水道管に沿って歩くのも、これまでと引き続いての命がけだった。
なにゆえ、昔人はここまで険しい土地に道を付けたのだろうかと、不思議に、いや、不自然にさえ思った。
だが、前説で述べた通り、かつては大井川の本流を渡って対岸へ逃れる事や、川そのものを通路とすることが禁止されていたのだ。
したがって、川沿いの道がオチイ沢を渡らないという選択肢は無く、その中でどこに道を付けるかを精一杯選んだ結果が、これなのだろう。
もちろん、際限なく迂回することが許されるなら、もっと安全な道も選べただろうが、それはもう「川根街道」では無い。日常的に村々を行商するような職業的旅人が、そんな迂回を毎日選び続けるだろうか。
人間の命の重さが是非もなく現代よりは軽く扱われ、旅が危険であることが常識視されていた過去の時代ならば、これほど険しい場所に生活道路が付けられ、日々往来されることも、またあったのだろう。
そう納得した。
あともう少しで、この死地を抜けられそうだ!
前方に、杉林が見えてきた。
頼むぞー!
12:51 《現在地》
命がけで難場を乗り越えてきたのに、なんか平凡な杉林が広がっていて拍子抜けする。
間もなくオチイ沢を渡るのだろうと思われる、谷底の小さな平地に辿り着いた。
しかも、足元には思い出したように、幅1間くらいの平坦な道形が付けられていて、
それはやはりただの歩きの道ではなく、何らかの車道を思わせた。
今越えてきた部分にも、かつては連続する長い桟橋でもあって、
車道として通用していたのかもしれないが、痕跡は皆無だった。
マジかよ! 橋が架かってる!!
それも、2本!
谷を挟んで両岸に残された、鮮明な平場の列。何らかの車道があったと見るべきだろう。
ただし、その両岸の鮮明な道形を繋ぐ位置に、橋は架かっていなかった。
ここが生活道路であった時代の橋は、とうに役目を終えて失われていた。
対して現在も架かっているのは、先ほどから現れていた鉄の水道管が渡る水道橋と、
水道や送電線の巡視路として架けられたと思われる、鉄の人道橋の2本であった。
“オブローダー”として死力を尽くして辿り着いた先には、地域のインフラを守るための道があった。
今もこの道が巡視に用いられているかは不明だが、毎度思うのは“インフラローダー”恐るべし !!
とりあえず、予想外に頑丈な鉄製の橋が架かっているために、今から私は労せずオチイ沢の対岸へ立つ事が出来る。
正直、ここに来るまでの苦労が苦労であったから、対岸に立てるかどうか不安だったが、そこは無事にクリア出来る。
が、
対岸に行ったところで、先へ進む事は不可能だ。
これは分かっていた。 (分かっていた)
ここをどうにかしなければ、あの石垣の場所には辿り着けない。
正面突破が無理なことも分かっていた。
高巻きも不可能だと分かっていた。
可能性があるとしたら、一つしかない。
先へ進む事は出来ない行き止まりを承知しながら、人道橋に足を踏み入れる。
橋は遠目に見ても分かるほど、過去の落石の衝撃で形を歪めていたが、幸いにもまだ頑丈であった。
轟々という滝の音が響く谷を、人一人分の幅しかない橋で渡っていると、山猿にでもなった心持ちがした。
さて、橋を渡った先である。
地形が険しいため、自由に動き回れる余地はほとんど無い狭い世界だが、そこに幾つもの“見所”があった。
写真の赤丸や緑丸の所にあるものを、これから紹介する。
また、私が辿る「川根街道」は橋を渡ると右へと向かい、前述したとおり、すぐ大崩壊で進めなくなるのだが、巡視路は別の方向へと向かっているようだ(紫の矢印)。
その行く先は気になったが、本題とは無関係そうであるうえ、今の私は相変わらず決死圏にいて寄り道をする余裕が無かったので、探る事はしなかった。
上の写真の“緑丸”の所にあったのは、小さな石仏。
ぱっと見、またお地蔵さまかと思ったが、よく観察すると表情が怒り顔いわゆる憤怒相であった。これは地蔵ではない。袈裟を身に付け、刀を構えた坐像である。
記銘は見あたらず、建立年や建立者は分からない。
今は巡視路を睨んでいるが、下にあるモルタルと丸石で作った台座も含め、川根街道時代のものだと思う。
像の正体についてだが、古くから水行場(水辺の修行場)に、しばしば不動明王像が祀られるというから、これもそうかも知れない。
旅の安全をどこまでも深い慈悲で見守るお地蔵さまに較べ、こちらは地形の険しさや自身のおかれた状況と相俟って怖さを感じた。
もう少しは優しくして欲しいところだ。
もちろん、100円は無し。(自分の命を守るのに、それどころじゃない。)
続いて、“赤丸”の所にあったのは、倒れて落ち葉に埋もれかけた、古い立て札だった。
「この沢は水道水源に使用しているので 汚物毒物の投げ捨を禁ずる 本川根町」
古い町名で、そう書いてあった。
水道管を見ているので、水源地になっているのは頷けるが、わざわざ随分と険しい場所から取水していたものである。
なお、この立て札の所が川根街道と巡視路の分岐地点で、立て札の奥方向へ川根街道が通じていた。
遠目には所々に平場が見え、確かに道があったと分かるのだが、実際に目の前で分岐を見ると、ほんの1mでも立ち入ろうとは思えなかった。
危険過ぎるし、なにより先に見えるものが心を折った。
路盤の未来が絶望過ぎ。
どうしようかと思った。
一応、プランはあった。
@渡河地点からオチイ沢を下って行って、
A例の石垣や石碑(?)の真下辺りから斜面を直登して路盤へ復帰しよう
という、力技といえば聞こえは良いが、猫でも思い付きそうなルート。
でも、それって本当に現実的なんだろうか…。
滝だぞ、この沢は…。
あぁ、雪まで降ってきた。
ゴールまで あと2.6km
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