2015/3/10 13:01 《現在地》
それでは、上図で示した“迂回作戦”を
開始する!
これに成功できなければ、おそらく前進できる可能性は失われ、
結果、これまで辿ってきた、極めて危険な道を戻るハメになる。
そうならないよう、そしてこれ以上“没ネタ”を増やさないよう、
ここが今回の踏ん張りどころだぞ!!!
まずは、橋の近くから岩場伝いに谷底へ降り立った。
この時点で両岸をぐるりと取り巻く路盤との高度差は10m程度であるが、これから先しばらくのあいだ、私はこの数字を増やし続けることになる。
おそらく、MAXで50mくらいまで離れる羽目になるだろう。
そして、その後で降りた分は全て上らねばならない。
そこまで成功させて、ようやく今やっている行動に、「道路探索上の」意味が生じることになるのだ。
ごく近い未来への投資と思って頑張ろう。
見上げる対岸の路盤跡は、微妙に登りながら100mほど先に見える岩尾根の裏側に消えている。
例の石垣やら、石碑らしいものが見えていたのは、あの岩尾根よりもさらに先で、ここから200mくらい離れていると思う。
現時点で見えている対岸は、全く取り付く島のない踏破不可能エリアであり、この圧倒的な閉鎖主義がどこで解放へと転じるのか、その時が来るまで私は雌伏して沢を下り続けるしか無い。
ああ(涙)… 早速か…。
谷底の水際を進む私の前に、先ほどまで足元で怖ろしげな音を轟かせていた滝の一端が現れ始めた。
地図上では300mの流長で90mも下る谷である。滝があるのは織り込み済み。
現れたのが特別高い滝ではなく、小さな滝の連瀑だったことは、まだ救いといえたが、ロープはもちろんのこと、今回沢靴の用意もしていなかった私には、滑りやすい苔の岩場を滝伝いに下るというのはリスクが大きすぎた。
やむを得ず、滝を見送りながら下流方向へとトラバースをするが、その先どうなるのかは予想は出来た…。
やっぱり…
下りるしか無くなりますよね…。
分かっていたのだ。
最終的に目指しているのは対岸の遙か上方なのだから、これ以上こちら側の岸辺でウジウジしていても、はじまらない。
どんどん谷底は下っていき、私から離れようとしている。
私もいい加減この谷底に分け入って、連瀑に付いていかなければ、今回の迂回作戦は絶対に達成されない。
行くしか… 行 く し か な い … !
この岩場にはほとんど木が生えておらず、下るのには事欠く状態であったが、どうにかこうにか一点突破の場所を見つけ出し、冷や汗と一緒に5mほど下った。
そうして私は連爆地帯の中ほどに入り込んだ。
右の写真は、谷底に降り立った地点から振り返った上流方向の眺めだ。
(カーソルオンで足元を表示)
これは沢歩きをする人がいかにも喜びそうな眺めだが、基本的に廃道歩きのシーンで水辺の岩場というのはごく一部で、大抵は落ち葉や土や倒木の上を歩くため、濡れた岩場には特効作用があるものの、落ち葉や土や倒木の上では大幅に不利となるフェルト敷きの沢靴を選ぶのは無理がある。また、靴を二足以上持ち歩くのも、装備交換の手間や(濡れた靴の)重量の問題から、あまり現実的では無いと考えている。出来れば早くこの沢からオサラバしたい。
ともかく、これで目的に向けて一歩前進した。
が、同時に、引き返す場合の生存率は一段下がった。
いうまでも無く、後者の方が重大な意味を持っているため、総合して私のテンションは下降した。
ああ…、
目指すべき路盤の高さは、あんなに遠くになってしまった…。
まあ、実際には路盤が見えているわけではなく、この辺りは救いようの無い大崩壊のため何もかもグチャグチャになっているが、これまで見えていた路盤の高さからして、大体あの辺だったろうというのは分かるのだ。
ああ… 離れていく……。
目的地は上にあるのに、相変わらず底の(終わりの)見えない連瀑を、私は下って行くより途が無い! この辛さよ!
この写真はちょっとスケール感が伝わりづらいと思うのだが、足元にゴロゴロしている黒っぽい岩は、一番小さく見えるものでも私の身体くらいはある大岩だ。
写真の中の一番遠い場所は50mくらい先であり、要するに、この写真の中の空間には小さな体育館がすっぽり入るくらいである。これで伝わっただろうか?
文字通りの道無き谷を、先の結果も分からぬ状況で下って行く行為は、精神的にも肉体的にも非常にきつかった。
皆さまは、この探索が何らかの“成功裡”に終わることを確信しているであろうが、それが現実の探索中に出来るなら、どんなに幸せなことであろう。
この写真、谷底が映ってないが、撮影者の気分を良く反映している。
今は、上るために、下っている。
頭ではそのプランの意味を理解しているが、気分はそれに乗っていない。
ここでは下った分だけは必ず上らなければ生還できないという事実が、私の自由を縛り付けている。
もしもこのまま上り直す機会を得られずに延々下って行ったら、やがては大井川の合流地点に出るだろうが、
その先はどこにも行く宛が無い。引き返すか、干からびるしか無いだろう。
それが分かっているから、私の事情を嘲るように自分勝手で下り続ける谷が憎たらしく、
目で追い掛けることすら苦痛だったし、本音を言えば前進にも気乗りはしなかった。
それでも進んだのは、引き返すよりはまだ進む方が、自分に楽だったからだ。
私がいつだってDVDの中のように意気揚々と探索していると思ったら、大間違いである(苦笑)。
13:13 《現在地》
橋のところから谷沿いに100mほどは下って来れただろうか。
谷底のためGPSも測位不能になっていたが、周りの地形から《現在地》を推測した。
写真は下りてきた谷を振り返り気味に対岸を撮影しており、
この大迂回の元凶となった大崩壊のおおよそ半分くらいが見えている。
残り半分は、崩壊で鋸歯のようになってしまった岩尾根の裏側である。
さっきから私の周りには、白い空域が付かず離れずしている。
私のいる場所には何も降っていないのに、対岸の上の方には、
少し目を凝らせば一つ一つの粒が見えるほど近くに、雪が降っていた。
しかもその降り方は猛烈で、もしこのまま1時間も降っていたら、
進路が雪に埋もれそう。(絶対死ねるから勘弁しろ!)
…私の知識として、この辺りは真冬でも滅多に雪は積もらないし、
3月にもなって積雪するほど降ることは、全く想定していないのだが…。
タノムカラ、これ以上私の進路を危うくしないでくれよー…。
なんてことを祈っていたら、僅かその3分後には、
探索開始時を思い出させる明るい日射しが谷底に降り注いできた。
何なんだこの天気。俗に言う狐の嫁入りか? なんか変な感じだ。
が、とりあえずこの“迂回作戦”の前半行程(@)は達成出来そうだ。
そうなれば、今度は写真の★印の辺りから登ろうというのが、後半行程(A)である。
崩れきった尾根の裏側には、表土が落ちたつんつるてんのスラブが、
ほんの少し前まで大雪を浴びていた遙か上方まで続いていた。
スッキリ爽快な眺めだが、ここを登れるわけが無いと再度実感させられる。
もちろん、川根街道の路盤はその中腹を堂々と横断していたはずで、
おおよその位置も右端に見えてきた“件の石垣”の位置から推定できるが、
具体的にラインが見えるのかといわれれば、答えはノーだ。
完全に路盤は失われてしまっているようだ。
13:21 (迂回開始から20分後) 《現在地》
やっぱり、“石垣”だけは現実の光景だ。
これまでのショボイ路盤と比較して、圧倒的な規模である。それもあんな場所によくぞ…!
だが悲しいかな、40分ほど前に谷越しであれを見たときよりも近付いているということはなく、
むしろ下から見上げているだけに見通しは悪かった。もちろん、“石碑”なんて見えやしない。
(石碑が見えないのは、単に、あれが石碑では無かったからなのかもしれないが…。)
あと1行程。
これさえよじ登ったら、俺の勝利だろ!
目指すは、あそこに見える巨大な石垣だ。そこに道が続いていると信じる。
ここからの正確な高低差を知る由も無いが、地形図が正確であれば、おおよそ60m。
目測でも、やはりそのくらいはありそうに見える。
実際に上り始める前に、どのルートが“最後まで”上れそうかというプラニングは十分にする。
一旦斜面に取り付いてしまったら、周辺の状況はよく分からなくなるはずだ。そして、途中で進路を修正するめの余計な移動をするのも避けたい。
私のこれまでのオブローダー経験を総動員し、1本のルートを求める。
一発で成功させるためのルートを…
決した!
私が「ここだ」と決めたルートは、本当のことをいうと、選択の余地なんてものはほとんど無かった。
特に谷底からの最初の「取り付き」の部分は、完全に1箇所しか無かったと思う。
その1箇所の左側は猛烈なスラブで話にならないし、右側に数メートルずれると、今度は回廊状の垂壁が立ちはだかっていた。
つまり、その“1箇所”があったというのはラッキーでしか無かったのだし、色々表現を工夫しても、結局のところ探索は行き当たりばったりであった。
そもそもオブローディングなんてアンラッキーではやってられない。多少のラックを期待するのは、事前にお地蔵さまにお願いしておいたのだから、織り込み済み。
最初の取り付きが1箇所なのだから、その先のルートも選択の幅は狭い。
最短距離で上るのが基本のルートで、行き当たりにそれが難しい場合のみ、最小限度でルートを左右に振った。
それを繰り返しながら、上へ、上へ、上へ。
取り付きから2分経過で、この写真くらいの高さを上った。
分かっていたことだが、序盤は特に急傾斜で手がかりになる木も余り生えていないうえ、全体的に風化した土混りの岩場であるため、一歩一歩に非常に慎重にならざるを得ず、登攀のペースは遅々たるものであった。
だが、この斜面で一番難しいのが、今いる序盤であるはずだ。
渓水の浸食圏から離れるほどに傾斜は緩まり、木々の密度も増えていくのが普通である。
ここさえ無事に突破すれば、後は体力勝負の攀じ登りで、クリア出来ると踏んでいた。
そういう算段があるだけに、少し前までの不安と臆病に晒されながら沢を下っていた時よりは、遙かに気力が充実していた。
ここを上るのは、苦しくも爽快な行為に感じられた。
登攀中、左を向けばいつでもスラブの大岩盤が見えた。
今回の大迂回の全ての元凶であるだけに、こうしてその脇を直登していくことには、何ともいえないカタルシスがあった。
これは、厳しい修行の末に師匠を越えてゆく場面の爽快感に通じる。
←
登り始めて6分経過の時点で、この高さに到達していた。
40mくらいは登ったと思う。
ここまでが、本当に厳しかった。
全く気の抜けない登攀だった。
→
だが、ここで遂に傾斜がやや緩まり、樹木が多く生えている樹林帯に到達した。
ここまで来れば、登攀成功は目前!
というか、成功は確約されたといってもいい!! やった!!!
あとは、漫然と斜面をよじ登るだけでも大丈夫だ。
そしてさらに数分後、
乱れに乱れた自身の呼気が白く渦巻くその先に、ぼんやりと
現れた!
かれこれ1時間前に初めて対岸に見つけた、あの石垣が、
遂に現実の足元に!!
………本音を言えば、
今さら石垣なんて、どうでも良かった。
“アノ石碑っぽい石”は、どこだ!!
↑おおおおおお−
本当に石碑だ!!!
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
ななななな、何が書いてあるんだ!!
ここここの石碑は!!!
はぁ… はぁ… はぁ…
…ちょっと落ち着こうか、俺。
13:40 《現在地》
オチイ沢に架かる橋からここまでは、普通に道が続いていれば多分200mくらいだが、
今回その迂回に要した時間は約40分。谷を50m下って、崖を60m登るという、大試練だった。
そして気付けば、あの不気味な白い空域が、今度は私の周囲を取り巻いていた。
熱を持った頬にも、冷たい濡れた塊が、ぴっとりと幾つも張り付いてきた。
絶壁の縁から見下ろす白黒の谷底は、今や白いノイズの向こうに隔離され、幻想の別世界のようだった。
しかし、耳内に残る瀑音と、熱汗の下に残る冷や汗の不快さは、この身を削った現実世界のものだった。
断崖絶壁の中腹に、労作極まる石垣によって辛うじて拵えられた、小さな現在地。
集落方向を振り返っても、人気のあるものは一つと見えない。
今の今まで、地球上の全人類から見棄てられていたような、そんな空間。
ただ、私と石碑だけが、立っている。
さあ、読むぞ。
“慰霊塔”
“昭和十一年十一月建”
私とは縁もゆかりも無いと思うけど、この立地を憐れに感じた私は、まず黙祷を捧げた。
対岸から遠望した瞬間に、これが本当の石碑であることを、ほぼ確信していた。
立地的に、そんな気がした。理由はそれだけ。
そして、碑の正体については、慰霊碑、造林記念碑、そして道路の開通記念碑のどれかだろうと予想していた。
3分の1で高確率で道路開通記念碑!だったからこそ、ある程度のリスクを冒してでも、辿り着きたかった。
結果、私の“第2希望”だった「慰霊碑」(慰霊塔)だったのであるが、誰よりもこの立地の厳しさと、淋しさを思い知った状況で、独り佇む荒廃した慰霊碑を目にしたとき、“第何希望”などという軽率な期待感で対面した自身を恥じた。
慰霊碑が、年月の経過に伴う関係者の死去や、立地環境の変化によって忘れ去られ、あるいは物理的に消えることは、避けがたい現実であろう。その事に対する非難が許されるのは、何らかの関係者だけだと思う。やむを得ず失われた慰霊碑は全国に膨大にあるに違いないし、これからも増え続けるしかない。
だが、こうして偶然の顛末とはいえ、私はこれを発見した。もう全くの無関係者ではない。
そのうえで私に出来る事は、この碑が実在するという事実を、少しでも多くの人の目に触れるように記録しておくことだ。
なお、慰霊碑としては珍しいことだが、この碑には死没者の人数や氏名はおろか、建立者の氏名も、事故や災害の件名も、全く記録されていない。
碑自体はこの場所までよくぞ運び込んだと思われる大石材で、3段の台座や献花筒を完備した豪壮なものだが、刻まれた情報は奇妙なほどに少ないのである。
昭和11(1936)年建立というのは、本碑の記す唯一の背景情報である。
果たしてこの碑は、この場所で、誰の霊を慰め続けてきたのだろう。
全ての答えを知るためには、生還する必要がある。
道はまだ、遠い。
ゴールまで あと2.4km
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|