11:23 《現在地》
廃道化後の100分間を見渡すと、川原にいた時間が60分、路上にいた時間が40分くらいかと思う。
そして川原にいた時間の全ては、チャリに乗れていない時間だ。
チャリを“運ぶ”というのは、かなりの重労働である。
「押し進み」と「担ぎ」という2つの方法を使い分けるが、押しはこの写真の足元のように障害物が小さい場所で、担ぎは大きい場所で主に使う。
出せる速度は同じくらいだが、体力の消耗は押しの方がいくらか楽。
押しで進めないような場所も多くなってくると、いよいよ「チャリにとって不向きな廃道」と評価出来る。
いずれどちらの方法を用いても、本来はそれなりに重い自重を運動エネルギーに変えて転がす鉄とゴムの塊を、それ以外の手段で“運搬”するというのは、骨が折れる作業である。
何が言いたいかと言えば、もう疲れた。
しかも、今回の“川原歩き区間”の後半は、岩のサイズが大きかった。
より疲労する「担ぎ」をしなければならない、嫌な場面だった。
そして、チャリ担ぎをする度に思う事がある。
チャリにもっとお金をかけて、もっと軽いものを持ってくれば良かったと。
さらに、担ぎにも限界がある。
この上が次なる路盤だが、こんな段差は担ぎ上げることも出来ない。
ここは仮に無荷でもよじ登れなかったと思うが。
ということでさらに川原を迂回するより無いが、いよいよ足元がおぼつかない。
濡れた大きな川石を飛び石のようにして歩くとき、チャリを担いでいると危ない。
危ないが、他に手はない。
さらに、チャリを担いでいる最中は両手が塞がっているので、首のカメラを使うことが出来ない。
写真を撮ろうと思えばわざわざ頭を垂れてチャリを降ろさなければならず、また担ぐときに余計な体力を消耗する。
それでも私は信念的に記録を残したく、何度も何度も頭を垂れた。
ここでの「体力」とは、命と等価である。
体力切れは自力下山の不可化を意味し、携帯もつながらぬ現状では危険である。
あと追加するなら、ここでは捻挫一つでも終わりうる。
一見緩やかな川歩きが、私の体力と気力をじわりじわりと奪っていった。
どうやってもよじ登れない大岩を恨めしく見ながら、その周囲に点在する河中の飛び石を伝って進む。
落ちて怪我をすることもそうだが、カメラを壊してしまうことの方が怖かった。
一応はサブのカメラも持ってきているが、同時に2つ壊すこともあり得る。
そうして苦労して回り込んだ大岩の先に、久々に美しいと思える廃道の場面が待っていた。
丸石積みの巨大な路肩の擁壁が、見事なアーチを描いていた。
こんな形でも存在できているのは、如何にアーチというものの物理的な特性の素晴らしいかを示している。
当然本来のアーチではないので石の積み方とかは滅茶苦茶だが、それでも保っているのだ。
さらに面白いのが、この天然アーチ(?)が私の進路に味方してくれたと言うことである。
つまり、この下をくぐり抜けて背景の路盤へとスムースに復帰することが出来たのである。
これはナイスな通路だった。ちょっとした廃道名所といっていい。
またしても美しすぎる道が出現。
こう言う場面転換が繰り返している感じがするが、世の中の大半のことは繰り返すものであって一度しか起きなかった事などほとんど無い。
廃道ももちろんそうで、相対的に見て荒れているところとそうでないところが交互に現れる。
交互に現れないときは、単に似た状況の連続したものを区別できていないだけなのだ。
そんなことを考えながらこの場面を漕いだということが、動画として残っていたので報告する。
現地ではこれをよほど素晴らしい気づきだと思ったのだろうか…。
11:32
乗れる乗れる。まだ乗れる。
廃道区間が始まって以来、最も長い乗車可能区間である。
川岸から少しだけでも離れることが出来れば、これだけ状況は改善するのだ。
歴史としては、まだ新しい廃道なのだと言うことを実感する。
右の写真は、途中にあった謎の標柱。
木製で白く塗られている。文字のようなものは見あたらなかった。
2〜300m続いた平和だったが、川の奔放な蛇行にいともあっさり打ち切られた。
また川原を歩くしかない。
この先の崩壊地は、決して険しいようには見えないものの、破壊の規模は大きそうだ。
山肌全体が滑って来て道を押し潰したように見える。
黄色いラインが、見える範囲内で唯一の路盤だ。
でも、だんだんとこの道のパターンは分かってきて、これからも本当に進めなくなるような“絶壁”は現れなさそう。
とにかく、時間と体力を消耗させる作戦のようである。
あと2kmくらいか……。
苦手な飛び石伝いの“河行”を、またも余儀なくされる。
底がフェルト張りになった沢靴を持ってくれば良かった。
車の中には積んでいるのだが、川原を歩く時間がこれほどとは思わなかった。
履き慣れた長靴という選択は、今回に限って言えば襷に長し帯に短しのバッドチョイスだった。
登山靴ほど陸場での駆動性が良くないし、沢靴ほど水場で役に立たなかった。
水際に散乱した丸石擁壁の欠片を踏み越えると、まだ原形を留めたそれが現れた。
数メートルの斜面を這い上がって、その上の路盤に復帰。
ここの水位は妙に高く、擁壁の下をそのまま歩いていけなかった。
嫌でも復帰せざるを得なかったのである。
苦労してよじ登ったのに、20mほど進んだところでこちらも閉塞。
まあ、崩れていることは分かっていたのだが、通り抜けできないほどだとは思わなかった。
写真では大したことのない斜面のように見えるかも知れないが、そこは仮にチャリが無くても入りたくないくらいの、猛烈なブッシュであった。
崩れた時期がだいぶ古いのか、最近は崩れることを止めているのか、森に還ろうとしていた。
その姿を一目見てゲッソリしてしまって、うっかり写真を撮らなかった。
ここにチャリを突っ込めばたちまち絡め取られ、にっちもさっちも行かなくなるのは明らかだ。
とてもじゃないが直進は出来ない。
かといって、こんな時に限って堅牢な擁壁は意外に高い。
下手に飛び降りれば怪我をするかもしれない。
そこで目に付いたのが、矢印の位置の大岩だ。
大岩を真上から見下ろした眺め。
ちょうど大岩の右側が淵のようになっていて、迂回せざるを得なかったのが分かるだろう。
一方、左側には上手い具合にスロープ状に傾斜した土砂山がある。
本来の擁壁の高さは水面まで3mくらいもあるが、大岩の天辺までなら半分くらいだ。
これを飛び降りれば、あとは下まで降りることが出来る。
…つうか、この大岩が無ければどうしたんだろう俺。
森茂峠で100円を供えてきた効果が出たのか、かなり有り難いラッキーだった。
ただし、ラッキーの効果範囲は私だけ(笑)。
チャリを大岩の上に落として、運悪く右に落ちたらどうしてくれる!
それより怖いのがチャリが衝撃で壊れることだ。
ここでチャリが自走できないくらい壊れたら、冗談抜きで遭難しかねない。
ということでいつになくチャリへの優しさに目覚めた私だったが、ロープを(必要がないと思って)持ってこなかったので、猛烈ブッシュをロープ代わりにして緩降下を試みた。
写真はその最中の1枚である。
このチャリを下ろす馬鹿らしい作業に、4分も掛かってしまった。
まあ、ロープを取り出して、チャリに結んで、下ろして、自分が下って解いて、回収して、仕舞って…なんてやったとしても、同じくらいは掛かっただろうが。
そしてこれが、川原から見上げた大崩壊現場である。
その全体の規模は、おそらく二又谷の大崩壊にも匹敵するほどである。
ただ、何度も言うようにこちらは時期が古いようで、既に森の一部になっている。
この写真だけを見て、この擁壁がかつて林道の路肩だったと思う人がいるとは思えない。
ただの治山工事跡のようである。
10分以上を要した水際の接戦を制し、再び穏やかな森林の区間へ向かう。
だが、森の様子がちょっと変だ。
すげー笹藪…!
うんざりしたが、川原を担いで歩くのはもっとうんざり。
ここは藪を我慢して進むことにした。
道があるようには見えないかも知れないが、写真中央をずっと奥まで真っ直ぐ伸びている。
木が生えていないのでそれと判別できるのだが、より直接的な物証もあった。
分かるだろうか。
黄色いものが藪の中に横たわっているのが。
それは、黄色と黒の縞々のポールと、それに取り付けられたカーブミラーである。
カーブミラーなんて、廃道になる前から一箇所も見た憶えがないが、何故ここにあったのか。
考えても詮無いことだが、少なくともこの古風なカーブミラーは、取り残された車道の記憶そのものだった。
ここを重い車が疾駆した、そう遠くはない過去の。
そして、一見したところではたちまち跳ね返されてしまいそうな笹藪だったが、そこに一筋の“浅み”を潜めていたことに気付いた。
それはもう面白いくらい、チャリに乗ったまま、ガサガサと音を立てて進むことが出来た。
微妙に下り坂になっているせいもあろうが、やはりここにはかつての轍だった、堅い路面が隠れているのだ。
全く目に見えない路面を車輪越しに信頼しつつ、遅れた時間を取り戻そうと懸命に漕いだ。
この時に走りながら撮影した動画を見ると、如何にハイテンションになっていたかが分かる。
チャリに乗れるだけでこんなに嬉しくなるのは、過酷な廃道ならでは。
苦笑。
その意味は先の動画を見て貰えば分かると思うが、問題はそっちじゃなくて…
こっちだ。
久々に発見された指道標の赤テープ。
動画の中でも1本見つけてるので、ここに連続して2つ見つけたことになる。
私は密かに期待した。
もしかしたら、このテープを取り付けた主は森茂からではなくて、反対側の六厩の方から入山してきたのではないだろうかと。
だとしたら、この先には幾分はまともな踏跡があるのではないかと。
冷静に考えれば、ここはまだまだ六厩よりも森茂が遙かに近く、現実性の薄い期待だったかも知れないが、少しの光明を見たのは確かだ。
少なくともこのテープの主はここまで来ているのだ。
こんなものに人の温もりを感じたと言えば、あまりに臆病だろうか。
…“喜びの森”を出で、また新たな場面が展開する…。
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11:49 【現在地特定困難】
これまでにない高い岩壁と、長い石垣とが一挙に現れた。
久々に道への傾倒を思い出させる、良い景色!!!
核心部分の拡大写真。
そこに小さな橋が2本、連続して架かっているのが見えた。
この辺の道が崩れ落ちていなかったのには、本当に救われた。
ここは何かあっても迂回できなかったと思う。
当然のことながら下流に進むにつれて川の水量は増えており、
もはやおいそれと両岸を行き来できる感じではなくなっていたのだ。
不可能とは言わないが、半身ずぶ濡れを覚悟しなければならない。
それは嫌すぎる。
この石垣を連ねた絶壁下の道は、その地形上やむを得なかったのだろうが、これまでよりもかなり狭い感じがする。
特に2箇所ある橋の上は幅3mにも満たないと思う。
写真はそのうちの1本目だが、久々に舗装された路面というのを見た。
そう言えば、こんなに川べりを通ってきたにもかかわらず、橋は廃道化地点に一本架かっていた以来である。
親柱も何もない、欄干さえないごくごくシンプルな橋である。
橋上にチャリだけを残して撮影。
橋の上だけが前後の路盤より30cm以上も高くなっていて段差がある。
橋以外の路盤は増水でだいぶ洗い流されてしまったのだろう。
平水時でこれだけ川に近いのだから、年に何度も喫水していると思う。
そして、このような水面との比高の異常と言えるほどの小ささが最初からだったとは考えにくい。
林道が沈降するはずはないので、川の水位が上がったのだろう。 堆積によって。
これまでの森茂川の顔とは明らかに別人の、燃え上がるような絶壁。
そしてその下に、いかにも居心地悪そうに続く細道。
崖と水とに挟まれた回廊状の道の風景は、この廃道の始祖…林鉄の時代を彷彿とさせる。
これまで具体的な遺構が無かったので触れる機会がなかったが、森茂集落下からここまでの森茂林道は、全線が林鉄の跡地利用と思われる。
中でも最近よく見る丸石積み石垣の中には、林鉄時代のものが混ざっている可能性もある。
全てはくり返し… くり返す…。
また現れた、森の道。
だが、まったく同じ場面が二度あるはずはなく、今度は何か白い板が木に付いているのを発見。
そこには、大変久方ぶりの
文字情報が!!
「歩道入口」って、
……。
一体何なんだ。
なんなんなんだ。
なんなんなんなんだ。
理不尽だ。
この山に向かって、何が「歩道入口」…。
道なんてどこにもないんだが……。 罠?
タヌキ・キツネ・ムジナの手練に掛かるわけにはいかないので、華麗にスルー。
林道をそのまま進んだ。
そして、この辺りから空色が本格的に気持ち悪くなってきた。
いよいよ佳境と思われるが、風雲急を告げるを地で行くつもりなのか。
空が暗くなってきたというだけじゃなく、風が、冷たい風が、下流から恒常的に吹くようになってきた。
西から天気が下り坂という予報への合致が、私を不安の淵へまた引き寄せる。
それに明らかに対岸ではあるが、凄まじく険悪な地形が見え始めていた。
12:00 正午。
上の写真と同地点にて、何気なく振り返ってみて良かった。
私が森に潜っている間に、対岸に合流してきた大きな支流があったのだ。
これは地形図と照らして現在地を確定させるための、大きなヒントになるはず。
祈るような気持ちを込めて、恐る恐る地図を見る。
…もう昼だぞ。
そろそろ六厩川橋到着への目鼻くらい付いてくれないと、大変なこと(敢えて口にしたくない…)になってしまう。
よしッ! ヨシッ!!
来てる!!
間違いなく、
近付いている!
いま背後にしたばかりの対岸の大きな支流は、やはり地形図にも名前が載るくらい大きな支流の「伊丸谷」に違いない。
ここまで来れば、御母衣湖の喫水域が間もなく始まるはずだ。
そうなれば、いつ見えはじめてもおかしくないはず…
六厩川橋!
ハァハァ…
上の写真から30mほど進んだところ。
もとより広かった川幅が、いまはさらに広がっていて、もうどこから湖底が始まっても不思議ではない感じである。
そしてここには遠近両方に、
興奮の種(アイテムではない)があった!
ハァハァが止まらんのだが…
まずは…
まずは「遠」から行くか、 “矢印”は後だ。
対岸50m先を末端とし、500mの上空を発端とする、
氷河のようなザレ(小石や砂利の崩壊地)谷が、
無人境の天上天下を縦(ほしいまま)としていた。
この景色を前に、言葉など出るはずもない。
人が作り上げた傑作の巨大橋を見に行く道すがらで、
格の違いを見せつけるつもりか、コノヤロウ。
一つどうでも良い疑問を持ったのだが、人が関わり合わない場所で起きた崩壊も「災害」というのだろうか?
もっとも、残念なことにここは我々と無関係とは言えない。
ここで発生した膨大な土砂が御母衣湖を埋め戻してしまうという“災害”は、
きっといつか私たちの誰かを悩ませることだろう。
そして「近」の発見の、「遠」に比してなんと慎ましやかなことだろう。
これこそが、私が廃道で常日頃探し求めるものの一つである。
道が使われていた当時の「文字情報」というのは、たとえそれが言葉足らずでも、いまは意味が分からなくても、過去の有り様の何かを語る、貴重限りない遺物である。
宝物のように愛おしい。
また、埋もれかけていたそれを見過ごさなかった自分の洞察を、褒め称えたくなる。
この地点に「古川営林署」の設置した「関係車両以外通行禁止」の表示があった理由は、後でまた考えてみたいと思う。
呼吸を整えるほど休む間もなく歩き始めると、まず現れたのはご覧の立派な掘り割り。
峠の次に深い掘り割りだが、林鉄時代からのものと思う。
緩やかなカーブに面影がある。
そして、これを抜けた先は…
???
突然川原みたいな広場に出たので、思わず呆けた。
ここは…
アレ…?
ここから湖底がが始まっているっぽいぞ。
で も、 道はどこ?
ぐふっ…
目指す六厩川橋まで、あと1.5km。
日没まで、あと5.0時間。
本当の苦難は、これからだった…。
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