2019/12/26 7:58 (入谷29分後) 《現在地》
県道の路傍に、何食わぬ顔で、鍾乳石に彩られた洞窟が口を開けているという、尋常ではない光景を目の当たりにした。
附近に案内板など全くないところが、「無明谷ではこれは普通のこと」「岡山県では珍しいことではない」……という不敵なメッセージのように感じられた。
このとき、探索開始時点からの雨は強さを増しており、土砂降りの状態であったから、このまま乾いた洞窟内に雨宿りをすることも考えた。
しかし、これは通り雨では無さそうだったし、強雨の無明谷に長居する行為の方が、危険ではないかと考え直した。
既に全長2.4kmといわれる無明谷の入口から0.8kmの地点まで入っており、残りを速やかに突破してしまおうと考えた。
槍のような雨を突いて、再出発した。
(なお、この辺りからカメラのレンズに張り付いた水滴を撮影の度に拭き取るのが面倒になってしまい、そのためピンボケ写真を量産する羽目になった。レポートでは出来るだけマシなものを選んでいるが…)
再出発から間もなく撮影した写真。
谷を煙らせる強烈な雨は、ゴアテックスの鎧を無視して、私を景色に同化させようとしていた。
谷の全てが濡れていた。
しかし、水の流れる音は聞こえない、不可思議の世界だった。
両岸は恐ろしく切り立った断崖だったが、特筆すべきは、単純な崖の高さではなく、谷の深さと幅の比の大きさだろう。
この谷は、険しい峡谷を形容する表現としてしばしば表れる“V字谷”というのとも、明らかに違っているように見えた。
もし同じような表現をこの谷に当てはめるとしたら、“I字谷”ではないか。
地形学的には、カルスト地形に形成される谷を総称してカルスト谷と呼び、様々な特徴ある地形に分類されるという。
両岸が極めて切り立っていることや、地表を流れる水量が少ないことなど、無明谷もカルスト谷に共通する特徴を備えている。
無明谷を含む新見市中南部から真庭市西南部に広がる広大なカルスト台地は、阿哲台と総称されており、ウィキペディアの同項目には、無明谷について次のような解説があった。
矢戸地区へ抜ける小規模な河川が下降侵食され、河道が涸れたものでカルスト谷と呼ばれる地形である。
読者様のコメントで、この谷が太古の大鍾乳洞だったのではないかとか、この谷の地下には大量の水が流れる大鍾乳洞が形成中ではないかというものがあって、興奮した。
右図は、カシミール3Dを使って表示した、無明谷の立体的な地図画像だ。
画像には高さを強調する加工を施していないのだが、まるで地割れのような深い谷が見て取れる。
上流の井原集落付近では至って平凡な小川なのだが、流れ下るにつれて急激に両岸を切り立たせ、おおよそ2kmにわたって、深さ50mを越す峡谷を形作っているのである。
峡谷の立体地図は、国土地理院のサイトで、全国の著名な峡谷のそれを見ることが出来るが、左図と比較してみれば、無明谷の切り立ち方が際立っていることが分かると思う。
井原集落を含む大字荻尾の人々は、かつてカルスト台地を上り下りする草月線という道を利用して外部と連絡していたが、カルスト谷である無明谷を改造することで、自動車の通れる便利な道路になることを発見し、県の助力を仰いで見事に実現させたのだった。
地図だけで判断すると、こんな深くて狭い谷を道路になどできるはずもないと考えてしまいそうだが、実際の河川勾配は緩やかで、しかもほとんど水の流れていない涸れ川だったから、以後、半世紀以上も長く活躍する便利な道路が出来た。
おおお〜!!
谷底が、平らな一枚岩になっている!
いままでは、【こんな風に】砂利を敷いたような渓相だったが、ここで初めて基盤層が露出した。
両岸と同じ石灰岩だと思われるが、河床附近は水流に洗われるせいなのか、より白っぽく、まるでセメントのような色合いを持っていた。
また、ここで初めて谷底を流れる水を目視した。
土砂降りの中であるにしては、やはり極端に少ない水量だった。
この一枚岩の滑らかな河床を見たとき、探索開始直後がからひとときも忘れることがなかった、「世にも珍らしい川と道兼用
」というワードが、一層現実味を帯びて浮かび上がってきた。
もしかしたら、この辺りからそれは始まっていたのかも知れないとも思ったが、確証を得られる材料はなかったし、最終的にも、ここではないと考えるようになった。
次のカーブでは、流れが物凄く狭くなった!
ここは今までで一番谷が狭くなっており、また勾配もキツかった。
川の流れが、わずか1mほどの水路に収められていた。
この水路は、道路側の側壁と谷底をコンクリートで固められており、勾配も強いので、まるでウォータースライダーのように見えた。
上流の少なくとも10平方キロ以上ある山河の水を全て集めて流れているはずが、水量はこれだけだった。
この奇妙な景色は、短いカーブ一つ分だけで終わったが、新たな展開が始まっているのかも知れないと感じた。
ここまで、谷は進むほど狭さを増していた。
そしていまや、1.5車線の道路を確保した残りが、これだけになってしまっているのだった。
その事に意識を向けた瞬間、私は感づいたのだ。
この狭まりの極限の形が、“道と川の兼用”なのではないかと。
極めて狭隘な右カーブを抜けると、谷幅も勾配も元に戻った。
途端に、ガードレールがいなくなり、またデリニエータだけになった。
おい管理者! 油断するなよ〜(苦笑)。
ところで、廃道としてはここまで特に困難を感じる場面はない。
しかし、10年間封鎖されねばならなかったほどの危険度の高さは、既に実感できていた。
道が狭いことや、見通しの悪いことまでは、まあありがちな“険道”であるが、ここまで入谷からわずか30分ほどの間で、なんと二度も……
(↓次の動画をご覧下さい↓)
二度も、落石に遭遇したのだ!
動画の中で語っているとおり、採石場を見上げた辺りで一度目が、そしてここで二度目が。
いずれも規模は小さく、直撃の危機感を覚えるほど近くでもなかったが、破裂音が耳に届くような距離で起きている。
普段、いかに「落石注意」と表示された路上であっても、直に落石を目にする頻度は多くない。この道の30分で2回というのは、雨という悪条件を差し引いても、この道の落石リスクの高さを物語っていた。
この写真は、振り返って撮影した。
改めて路上を見回すまでもなく、落石の痕跡は至る所にあった。
路面全体を覆っている落葉の堆積にカモフラージュされているが、
そこかしこに石が転がっていて、しかも特定の場所に集中していることもあまりなく、
逆に言えば安全地帯などどこにもないようだった。
確率で致死性の引き金を引かれるロシアンルーレットのような道――、
それが現実。
確率に勝利し続けなければ、死ぬかもしれなかった。
8:06 (入谷37分後) 《現在地》
直線ではないものの、いくらか見通しのよい場所へ出て来た。
GPSなしでは現在地の特定が難しい谷底だが、ここはちょうど入口から1kmくらいの地点であった。
行く手の景色と、背後の景色を見較べてみると、切り立つ崖の高さのピークは過ぎているようだった。
依然として険しいが、石灰岩の岩壁は、土と濃い緑の樹木に隠されつつあるようだった。
驚くべき場面が、近づいていた。
路肩の擁壁が大きく倒壊し、道幅の4分の1が失われていた。
ほとんど水流の影響を受けていなさそうに見えたこの道だが、
何らかの水の作用が働いて、道路を壊したのだと考えられた。
だが、その事に目を奪われて、ほんのいっとき、
私は、前方への注視を欠いた。
結果、
気付いた時には入り込んでいた。
道と川の兼用区間。
かつて(昭和53年まで)、そうであったとしか思えない、
谷のほぼ全幅を道が覆っている光景だった!
未体験の世界……!
驚愕すべきは、道の片側にほんの申し訳程度の幅(0.5〜1m)で残っている凹みを覗いてみても、そこには一滴の水も流れておらず、流れた痕跡さえ見えなかったことだ。
路肩の縁にはデリニエータが並んでいるが、これなら完全に埋め戻してしまっても良かったのではないか。
この幅では、四輪車は転落したくても無理で、二輪車や歩行者だけが転落の危険を有するが、完全に埋め戻せば、わずかの危険さえ無くすことが出来たはずなのに。
しかし、この直前まで谷底には多少の水が流れていたのに、あの水は、どこから現われたのか。
少し引き返して、改めて、“道・川・兼用部分”の直前の水の在処を確かめてみたが、道の下に暗渠と化した川が埋められているような構造は見えなかった。
ここでは伏流しているようで、もう少し下流から湧き出るように水は現われていた。
しかし、ちょうどこの路肩が崩落しているのは、暗渠の出口がここにあったことを示唆するように思われた。
どこかに水の通路を別途用意することで、道と川を分離した。そういう工事が、昭和53年に行なわれたと解釈しており、ただ道路で谷を埋立てただけではあるまい。
このカーブに入って2つ目のカーブミラーが近づいてきた。
ここは、90度にカーブしたトンネルと同じレベルで全く見通しのきかないカーブであり、
カーブミラーの存在は極めて重要であったはずだが、果たして、初めてこの景色を前にしたドライバーが、
カーブミラーを確かめながら進むことを冷静に考えることが出来たか、甚だ疑問である。
岡山県民くらいしか、こんな道を経験したことがある人はいないはずである。
地図上では、普通に集落と集落を結んでいる少し狭い県道くらいにしか見えなかったのに、
予告なくこんな道が現われて、冷静に対処できる人は限られていると思う。
なんか、この手前に警戒標識とか、そういうメッセージ性のあるものが何もないのも、
ほんと、岡山県ではこれが普通ということなのかと、私を唖然とさせた。
何か注意するだろ普通は。見通し悪いよとか、狭いよとか、何かさ!
動画。
動画のために声を発したら、それが巌根に響くことが楽しくて仕方がなかったご様子。
これぞ、未知を知る道の魅力の神髄であると、奇絶の道に笑いが止まらなくなった。
(ちなみに、動画ではライトを点灯させている。それほど薄暗い)
2つ目のカーブミラーの背後の崖には、3つの穴が開いていた。
おそらくこれらも鍾乳洞ではないかと思われるが、近づく術がない。
道路脇に鍾乳洞という大ネタを、一度ならず二度三度と繰り出してくるとは…。
変態ぶりが、突き抜けている。
穴の前に立つと、道の行く手には3つ目のカーブミラーが佇んでいた。
結局このカーブは、見通しの全くない状態のまま、150度近く旋回して出口へ向かうのだった。
風がないせいか、激しい雨は狭い谷底にいる私を容赦なく濡らし続けた。
これほどの雨の中、流れる水がどこにも見当たらないのは、本当に奇妙な感覚だった。
まるで、谷の全てがスポンジで出来ているみたいだ。
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8:16 (入谷47分後) 《現在地》
長いカーブの終わり際に立つ3本目のカーブミラーの前に立って撮影した全天球画像がこれだ。
この道でしか見たことがない異様な道路風景が、全天球画像にすることで、
余すところなく、通常の写真や動画では体感できない密度でご覧いただけるはず。
こんな道、初めて見る。
このシンプルな感想を迷いなく口に出来る道との遭遇は、
20年以上各地の変な道を巡り続けてきた私にとって簡単ではなくなりつつあるが、
この遭遇は、本当にかけがえのない興奮を与えてくれた。
右図は現在地周辺の最新の地理院地図だが、正確ではないと指摘しなければならない。
正しくは、チェンジ後の画像のように、このカーブ周辺の河川記号(水線)を除かねばならない。
だって、等高線が描き出す谷の地形は確かにあるが、その底に流水はない。あるのは道だけなのだ。
重箱つつきのついでに言うと、現在の地形図の製図ルールを厳密に適用した場合、無明谷の底に水線を描くべき場所は、ここまでほとんどなかったと思う。
1本の水線(1条河川という)を描くルールは、平水時の川幅が1.5m以上5m未満とされているが、ここまでそんな川幅で水が流れている場所はなかった。
代わりに「かれ川」という、平時は水流が見えない河川を表わす記号があるのだから、それを利用すればより正確だったはずだ。
写真は振り返って撮影した。
全天球画像はどうしても明るめに写るのだが、狭い谷底の実際の明るさは、こんな感じで大変心許ない。
この谷の“無明谷”という名前も、実景を知らなければ、渓谷にありがちな大袈裟な名付けを疑いたくなるが、これほど景色の特徴を言い当てた地名はほかになく、本当にすばらしい。
ところで、この長いカーブ内で撮影した写真は、どれも同じように見えるかも知れないが、確かにその通りだと思う。
しかし、その事もまた、特筆に値する特徴であると言わねばなるまい。
こんなグネグネとした回廊状の谷底を、道が占拠して進んでいくという異様な風景が、ある程度の長さにわたって続いていることは、本当に驚きだった。
途中にカーブミラーが3つもある見通しのきかない長い左カーブを抜け出すと、短い直線区間が待ち受けていた。
しかし、谷幅はわずかに広くなった程度で、道路脇に常に川があった探索序盤とは明らかに状況が異なっている。
依然として谷底はこれまでの最狭水準で、道が占拠していた。
この短い直線部分には、車両がすれ違うための退避スペースがあった。
スペースは、直前のカーブまで(申し訳程度に)残されていた道路右側の水路部分を、ボックスカルバートに置き換えることで確保されていた。
つまり、ここに至って初めて、谷底の幅の100%が路上と化した光景を目の当たりにすることになった。
さらに、私はここで興味深いものを見つけ出した。
待避所の構造を近づいて(振り返りながら)撮影したのが、この写真だ。
待避所のスペースが、ボックスカルバートによって確保されていることが分かると思うが、その手前の水のない川底に、見るからに古そうなコンクリート構造物を見つけたのだ。
それは、谷底から1.5mほどの高さにある道の土台のようにも見えるが、果たして初めからその目的で作られた構造物だろうか。
もしかしたら、昭和53(1978)年に“道と川を分離する工事”が行なわれる以前の、川底にあったとされる旧路面の一部ではないか。
例の碑文を目にしたときからずっと気になっていた“道と川の兼用”に繋がる物証が、ここにあるのではないか。
そう思った私は、この不思議な構造物を、もっと近くで観察したくなった。
探求のための路外逸脱を開始。
土砂降りのなか、逃げ場に乏しい水路内へ踏み込むなど、通常では許されない危険行為だが、降り始めから数時間を経過してなお一滴の水も流れていないこの水路には、実態としての水路の機能は乏しく、差し迫った洪水の危険はないと判断しての行動だった。
とはいえ、上流に何があるか分からないし、長居は禁物だ。
私は水路に降り、さらにボックスカルバートの中にまで入って、構造の正体を確かめようとした。
そして得られた私の結論――
ここが、かつて道と川が兼用した区間であり、低い位置の古びたコンクリート面は、旧路面の路肩だった。
決め手は、下段のコンクリート面と上段のコンクリートの間に、同時期の施行とは思えないほどの経年の度合いの差が感じられたこと。そして、下段の縁の部分が盛り上がっており、これが(極めてささやかながら)車両転落防止の工夫だと考えられたからだ。
かつての路面は、ほぼ河床の高さにコンクリート板という形で築造されていて、少なくとも片側の縁には水が流れる(そして地下に流れ込む)余地が設けられていたのだろう。谷底全てをコンクリートで固めなかったのも、洪水を防ぐための知恵であったと思う。
なお、これは昭和18年の開通当初の構造ではなかったかも知れない。しかし、道と川が分離される直前の構造は、この想像で間違いないと思う。
日本中探しても、ここにしかなかったかも知れない特異な道路の痕跡は、僅かながらも、目に見える形で残ってくれていたようだ!
帰宅後、昭和50(1975)年に撮影された航空写真を見てみた。
当時はまだ、川と道の分離工事は行なわれていなかったはずである。
にもかかわらず、無明谷の谷底を通る道は、同じ谷底にある河原と区別が出来る。
つまり、当時から大半の区間では、道と川は分離されていたのだ。
道と川の間に現状あるような高低差が付けられるようになったのは、昭和53年の工事によるのだろうが、昭和18年の開通当初から、道と川を分けられるだけの幅がある部分では、簡単な構造(おそらくコンクリート舗装)によって分離されていたと思う。
道と川が真に兼用していたのは、谷幅が極めて狭く、それらを隣り合わせて配置が出来ない場所だけだったろう。
そう考えたとき、現在地の周辺だけが、それほどまでに狭かった。
ほぼ直上から撮影した航空写真でも、現在地の周辺だけは、谷底が見えていない。これは谷の狭さを示している。
この辺りの谷の極端な狭さは、航空写真を見るまでもなく、現地の景色からも明らかだ。
ここには、道と川を隣り合わせに並べて配置するスペースはない。
道と川の兼用区間は、現在地の前後おおよそ200m程度の長さだったと考えている。
(←)
私が旧路面の発見に色めき立った位置から、15mほど水路内を前進すると、再びボックスカルバートの入口が現われた。
高さ幅とも1mほどの狭苦しい暗渠内にそのまま進んでみたが、入った直後は出口が見えず、右方向へカーブしていた。
暗渠内部も乾ききっていて、一滴の水も流れていない。土砂降りの地上とは別世界のようだった。
かつての路面はこの高さにあったのだろうと想像を働かせたが、周囲に何も見えないのではさすがにイメージは広がらない。早く地上へ戻りたいと思いながら、カーブをなぞって進むこと少し、10mほど先に出口の光が見え出した。
私はそれを合図として引き返し、最初に水路内へ降りた場所から再び路上へ復帰した。
今度はちゃんと暗渠の上にある路面を通って、先へ進むことにした。(→)
(←)
ここのポールが倒れているのって、やっぱり……、車両がうっかり転落した跡だろうか?
一応、視認性向上のためにデリニエータがあるとはいえ、この先の見通し激悪なカーブを、向こう側から下ってきたドライバーにとって、ここで唐突に道幅が狭くなるのは、なかなか悪質な罠じみていると思った。
対向車が来ているとかで端へ寄る意識が働いている時だと、なおさら危ない。
しかも万が一、こうやってデリニエータが倒れたままの状態で放置されていたら、夜間の危険度は想像を絶する。
自転車で路端を下ってきたら、気付いた時には既に落ちていたなんてことがありそうだった。くわばらくわばら、である。
で、この次のカーブが、今回のクライマックスシーンだった!!!
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谷底全部、道!
一つ前のカーブには残っていた、自然の河川に対する最後の遠慮のような
ほんの少しの溝も、ここでは暗渠として完全に姿を消していたために、
本来は水が流れていなければおかしな谷底、水が悠久の年月をかけて作り出した谷底の
全部を道が占領しているという、出発前には考えもしなかった奇異の風景が完成していた。
もしこれを人が一から造ったのなら、完全にふざけているとしか思えないような、
異様にグネグネとした見通しの悪い切り通しだった。勾配もほとんどなく、意味が分からない。
しかし、この全てが川の流れの再利用。大地の彫刻品のリサイクルだった。
川が道になったという、常識を越えた割り切りの風景が、ここに極まっていた。
この全天球画像1枚に、無明谷道路の非常識の全てが集約している!
こうして低い視線で眺めると、ここは何に見えるだろうか。
おそらく、人が掘った切り通しのワンシーンに見えると思う。
便利を考えて掘ったのなら、なぜこんなカーブしているのか少し訝しくは思うだろうが。
しかし、こうして視点を上に向けると、切り通しとしてはあり得ない法面の高さに驚くはずだ。
樹木のため肉眼で見通せる範囲は限られているが、【地形図】によると、
この両岸の崖の高さは50mを越えている。
高さ50mの崖に両側を挟まれた、幅僅か4mの切り通し。
これは人が造る切り通しではない。人なら隧道を掘る深さだ。
この谷底の路面を蟻のように移動しながら、私は思った。
上空20mほどの中腹から、鳥になってここを見下ろしてみたいと。
きっとこの道の特異さを最も強調した風景を見ることが出来るはずだ。
しかし、両岸とも尋常でなく険しく、よじ登って行って見下ろすなんてことは、私には無理だ。
もしドローンがあれば実現出来るかもしれないが、私は持っていない。
無明谷の中で、このカーブ部分の幅が一番が狭かったと思う。
しかし、道路幅に切りそろえられたようなこの美しい両岸は、どこまで天然なのだろう。
昭和18年に車道を完成させた工事は、この峡谷にどの程度の改造を行なったのだろうか。
残念ながら、初期の工事に関わる情報は例の碑文のほかになく、
谷の両岸を拡幅するような掘削工事がどの程度行なわれたかは不明である。
開通から時間が経過した今日、両岸壁面の苔生した表情に人造の気配は窺い知れない。
したがって、人が手を加える以前の原初の無明谷の状況を想像することは、難しい。
狭い右カーブを抜けると、水路部分が復活。しかし水が一滴も流れていないのは相変わらず。
依然として谷は狭かったが、その割に遠くまで見通せることに驚いた。そこにあったのは、
物凄く小刻みなS字カーブだった!
地形に寄せた小さなカーブ群に、慎ましさを感じた。
このカーブに限ったことではなく、無明谷では、地形に最低限の手を加えて、
車が通れる最低限の道を仕立てるという、ある種のエコが徹底されているように感じた。
行なったことは大胆だが、元の地形を生かすという意味で、地形への干渉は慎ましやかだった。
とはいえ、谷底が道と化した無明谷を評価するにあたって、自然環境という尺度では不利だろう。
特殊な地形を活用して道路を切り開いたという文化的側面の価値ならば、もっと語られても良さそうだ。
また、単純な景色の面白さという尺度でも、現役時代に有名なドライブコースではなかったことが
不思議に思えるくらいには突出していると感じたが、現役時代はそうでもなかったのだろうか。
雨と廃道という要素が、この道を一層印象的にした部分は確かにあったと思う。私は幸せ者だ。
8:27 (入谷58分後)《現在地》
通行止め区間へ入って約1時間、見覚えのある姿のバリケードが現われた。
と言っても、ここへ来るのはもちろん初めて。井原側の封鎖地点に到達したものらしい。
ここまで入口から約1.3kmであり、全長2.4kmと書かれていた無明谷の全長の半分強であるが、地形図を見てもこの辺りまでの谷が最も険しく描かれており、この先は次第に緩やかな地形に変わっていく。
落石の危険を理由とする封鎖がこの地点までなのは、険しさを避けるという意味で合理的なように思われた。
(→)
そんなわけで、ここは誰もが少し気を緩める場面だと思うが、実はゲート手前の左側の崖の中腹に、鍾乳洞らしき大小の穴がいくつも開いている。
それに気付いた私は、この楽しかった地を離れがたい気持ちもあって、わざわざ斜面をよじ登って一番大きな穴を覗いてみた。それがチェンジ後の画像だ。
案の定、これも鍾乳洞で、おそらく奥行きは大したことがないと思うが、頭上に辿り着けない縦穴がいくつもあって、ドキドキした。
という具合に、最後まで地形を楽しんで、封鎖区間を脱出した。
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