道路レポート 岡山県道50号北房井倉哲西線 無明谷 最終回

所在地 岡山県新見市
探索日 2019.12.26
公開日 2020.04.01

無明谷に道を拓きし人々の住まう地へ


2019/12/26 8:29 (入谷60分後) 《現在地》

バリケードを通過してからちょうど1時間、今度は逆向きのバリケードを通過した。
これにて無明谷の閉鎖区間を脱出した模様。ここまでの距離は1.3kmほどで、
井原集落までまだ1.1km残っているが、危険地帯を越えたらしい。

振り返る井原側のバリケードも、反対側と同様に厳重な作りで、
もはやこの道を復旧させる意思を、道路管理者は有していないのだと思った。

そして、そんな高いバリケード越しに見る無明谷の風景は、ここから見える部分だけでも既に
ありきたりな道路風景と一線を画していた。ぐねぐねぐねぐねと……細まって……暗く……。
この区間は私にとってどんな遊園地より楽しいところだっただけに、この封鎖は惜しいなと思った。
こんな変わった道路風景、日本だけじゃなく、世界中探したって、あんまりなさそうなのにね。



探索は峠を越えたが、雨の峠はたぶん越えていない。
このまま雨に打たれながら井原集落を目指すことにする。往路は別の道を採る予定だが。

バリケードのすぐ先に、川を渡って対岸へ向かう分かれ道があった。
この分岐の存在が、封鎖地点がここになった理由の一つだろう。
だが、分かれ道も簡単なチェーンで封鎖されていた。
地形図だと、点線の徒歩道として描かれている道だが、実際は車道になっていて轍も見られた。おそらく林道だろう。

なお、分かれ道の入口にある小さな橋には銘板があり、そこから井原川橋という名前が判明した。
無明谷というのは渓谷の名前だが、河川名は井原川であるようだ。



楽しかった。

本当に。

廃道探索としては楽だったが、濃密な1時間だった。

いま、“無明谷遊園地”の裏門を後にする。車通りに面し、沢山の石碑に飾られていた表門と較べれば、本当に静かな裏門だった。
ここまでの内容に心残りはないが、名残り惜しかった。
こんな道なら数時間続いてくれても良かったが、このような特異な風景がいくらでもあるわけではないという現実に連れ戻された感じだ。

バリケードを離れると、後にはどこにでもありそうな、ほどほどに狭い県道が残った。
あの特異な景観は、ものの見事に、バリケードの内側だけにあったのだ。
バリケードの外側からは、内側の世界の凄さを一つも想像できそうになかった。
県は、あんな凄い景色を人に見せることに固執していないようだ。
もしかしたら、このエリアにはもっと凄い場所が沢山あって、わざわざここを見せる必要もないということなのか。



無明谷を脱出し、普通の道と山と川の景色が戻ってきたと思ったが、川だけは相変わらず異常の姿を晒していた。
依然として、水が全く流れていない。探索開始時からずっと土砂降りなのに一滴の流れもなく、川底の一面に大量の落葉が堆積していた。

それどころか!
なんと、川底に陥没したような大穴が口を開けているのを見つけてしまった。
それも横向きでなく、下向き、つまり縦穴だった。人が容易に落ち込める大きさと奥行きが見て取れた。
カルスト地形の縦穴……いわゆるドリーネというやつなのか?

これは、想像以上に恐ろしい川かもしれない。
うっかり川底を歩いたら、突然こんな穴に吸い込まれて、地底世界の住人になってしまうかも。
さっきまでの自分が全く意識していなかった危険を、今になって教えられた感じだ。ゾクッとした。

…かつて、川底が道路だったということには、どうやら、洪水以外の意外な危険も潜んでいたようだ…。




9:39 《現在地》

裏門から700mほど、穏やかな谷沿いの1車線道路を進むと、再びバリケードと分かれ道が同時に見えてきた。

井原側の通行止めの末端は、先ほどの位置ではなく、ここだったことが新たに判明した。
封鎖が長引くにつれて、だんだんと末端部の荒廃が進み、封鎖位置が後退していくことは、廃道でよく見られる現象だ。

しかし、よく見るとここには現役時代の遮断機が(開いたまま)残っており、無明谷で交通規制を行なう場合、まずここを塞ごうというのは当初からの方針だったようである。




今度こそ本当に、県道50号の通行止め区間を脱出した。
バリケードの前と後では、路面の状況がぜんぜん違った。明らかに現役道路の輝きが戻ってきた。県道50号の復活だ!

振り返って、バリケードとそこに並んでいる看板類を見る。
表門にあったものと較べても特に目新しい内容はなく、古ぼけていることが一番の印象だ。
これらの看板の寿命が尽きる日は遠くないだろうが、県道の再開通の日は、遠いどころか永遠に訪れない可能性が高いだろう。

なぜなら、封鎖区間内に改良や復旧のための工事が行なわれた気配が全くなかった。
10年に及ぶ長い封鎖期間を使って、着々と復活への歩みを進めていたということはなく、ただ放棄されたようにしか見えなかったのだ。



前進を再開するとすぐ、前方の谷が開けてきて、久々に民家が見えてきた。
無明谷の峡谷を完全に脱出し、井原集落がある小盆地に辿り着こうとしているのだ。

また、大字レベルの地名も変わり、スタート地点からこれまでずっと哲多町矢戸だったのが、哲多町荻尾(おぎょう)になった。
荻尾という地名は、探索開始直後に目にした、無明谷の道の歴史を詳らかにした碑文の中で、「大字荻尾部落」という形で繰り返し出ていた。
荻尾地区はかなり広く、中心的な上・下荻尾集落の他に、布寄、井戸、井原などの小集落があり、今辿り着いた井原は地区の入口に当たる集落である。

ここに至る道の衝撃度の高さのために、石碑の内容を忘れてしまった人も多いかもしれないが、無明谷を道路化する昭和16年の最初の工事で、総工費の3分の1近い高額の寄付金を地区全体で拠出したり、その後も県道整備推進の様々な場面で中心的役割を果たしたとみられる小河正吉氏の出身地が、この荻尾である。
いわば、無明谷道路の故郷というべき土地に、辿り着いたといえる。



井原集落の直前に、来た道を振り返る向きで看板が立っていた。
内容は、無明谷の通行止めを報じるものだ。

そのすぐ先で、変則的十字路に突き当たる。
この十字路に面した民家の軒下に、古びた工事看板を見つけた。

看板の内容は、平成12年8月21日から9月30日に、阿哲郡哲多町大字矢戸地内で、単県道路維持修繕工事が、岡山県阿新地方振興局建設部の発注によって行なわれたことを示しており、無明谷の県道が当時まだ生きていて、ちゃんと維持管理が行なわれていた証しであった。

平成12(2000)年当時のものだけに看板自体も古びて見えるが、登場する自治体名も県の機関名も古いままで(哲多町→新見市、阿新地方振興局→備中県民局)、懐古の情を呼び起こすものがあった。



8:47 《現在地》

無明谷の入口から2.4km地点、井原八幡宮前の変則十字路に到達した。
井原八幡宮という名前も、冒頭の碑文に登場していたのを覚えているだろうか。昭和18年に完成した無明谷道路の終点が、井原八幡宮だった。

この先、井原集落へ向かう県道の順路は直進だが、そのためには交差点を微妙にクランク状に屈折して進行しなければならない。
こんな交差点の形から察せられると思うが、不通の県道に替わって荻尾地区を貫通する幹線道路として活躍しているのは、交差点を左右に貫く広い市道の方である。

チェンジ後の画像は、交差点の角に建つ石碑群。
この石碑群の内容は、井原川の上流に昭和30年に建設された灌漑用ダムやそれと付随する農地改良事業関係の記念碑だった。
石材業が多い土地柄もあるだろうが、すぐに建碑したくなるのは、この地方の人達の特徴なのか。



同じ交差点から、私の来た道(県道)を振り返って撮影した。
県道がこんなに細くて白線も消えかかっているのに、隣にある2車線道路のなんと凜々しいことよ。
通行止めになって久しい無明谷を迂回する道路が、県道ではないが、別の形でちゃんと完成していた。
地図を見てその現実を知ってはいたが、風景として目の前に突きつけられた。

この立派な道が、県道の迂回路として現地の看板に度々名指しを受けている「市道草月線」である。
冒頭の碑文では、この草月線が険しく不便だから、無明谷にもっと良い道路を整備したという話だったのだが、年月を経て、再び立場は逆転したのだった。




もっとも、市道草月線を今の立派な姿へと変えたのは、阿新広域農道(正式名、阿新広域営農団地農道)という、県道とは別の道路事業の成果である。

右図に、封鎖された無明谷の県道と、その迂回ルートである市道草月線および阿新広域農道の位置関係を示した。

市道草月線は古くからある道だが、阿新広域農道は新しい。
岡山県が公開している資料(pdf)によると、この道路の着工は平成10(1998)年で、全通は平成25(2013)年だそうだ。
無明谷の県道が封鎖されたのは平成21(2009)年だから、その4年後の開通である。
そしてこの広域農道の整備により、従来の迂回路だった市道草月線の東側半分は、拡幅改良されたのだ。

前掲の資料が掲げている広域農道の整備目的に、未改良である県道の代替という内容は出ていないが、県道整備も広域農道整備も岡山県の事業であることを考えれば、このことも念頭に置かれていたことは想像に難くない。
ようするに、実質的な意味での県道50号無明谷区間の道路整備は、平成25年に完成していたと言って良いし、看板に迂回路として指名された市道草月線も、今や主流の座ではない。



この交差点、私的に見所が多くて、なかなか先へ進めないでいる(笑)。
写真は南側の市道から交差点を振り返って撮影した。

青看は、通行止めとなった県道50号の左折の行き先「無明谷」をシールで消しているが、“矢印”は初めからなかったようだ。
こうした表現をすることで、無明谷から先の通り抜けが出来ないことを暗示していたのだろうが、現状の封鎖位置では無明谷の風景をひと目見るさえ出来ないわけで、後から行き先表示を消したのも頷ける。
もはや無明谷は、観光目的だろうがなんだろうが、無いものとして扱われているようだ。

そんな県道に替わって活躍する広域農道を、青看は目立つように書いているが、そちらの行き先「新見川上」も少し奇妙だ。県道33号新見川上線の路線名なのだとしたら、それを案内標識に書くことは、通常の案内標識の地名採用ルールから外れているし、二つの地名を示しているのならば、間にスペースが入るはずだ。



今回の探索の最終目的地(折り返し地点)としていた井原集落へ足を踏み入れる。

地形としては、広大な阿哲台カルスト台地の中にあるごく小さな盆地で、井原川という小河川が、極めて狭い無明谷に流れ込むところで、特に強く堆積作用を働かせた結果、こういう盆地が生まれたのだと想像する。
家や耕地が道路沿いに広がる盆地底は標高370mほどで、無明谷の入口から較べて約100m高い。これがそのまま無明谷の高低差である。無明谷の探索中、あまり上り坂を感じなかったが、実際には結構登っていたことになる。

集落の景観は、平和である。
土砂降りの雲が低く垂れ込めて裏山を白く煙らせてはいたが、それでも平穏な集落そのものであって、あんな奇絶としか言いようがない道路を乗り越えねばろくに辿り着けなかった土地とは思えなかった。
もっとも、普通の人があんな道を計画し、造り、使い、生きてきたということの方が、異星人の仕事だと言われるよりも遙かに興味深い。



井原集落の外貌は、日本中のどこにでもありそうな平和な農村だったが、見慣れないものが全くないわけではなかった。

それがこれ。
このお寺の鐘堂を小さくしたような建造物は、なんだろう?
てっぺんが避雷針みたいに尖っていて、四周には壁がなく、中は板敷き、いくらか物は置かれているが、ただの物置にしては意味ありげな姿だ。

近づいて見ると、柱の1本に古びたホーロー板が取り付けられていて、そこにこんなことが書かれていた。
「米麦の品質向上は筵干 ■■事務所農業協同組合穀物改良組合」

なんとなく戦前のものなんじゃないかと思えるような雰囲気を漂わせた標語と組織名だが、このいかにも風通しの良さそう櫓に筵を敷いて、収穫した米や麦を干すことが推奨されていたのだろうか。
この建物の正体に心当たりのある方は、コメント欄からご一報を。

これは、「吹き放し堂」や「辻堂」「四つ堂」などと総称される、中国地方から四国北部の広い範囲に見られるお堂の一種だそうだ。多くは路傍に建立される壁のないお堂で、祭祀、集会所、農作業、集落共有物の保管、茶接待、そして旅人の休憩用などの用途に、多様に使われたらしい。現代で言えば、公民館に近いものだろうか。
中でも、旅人の休憩用途を重視して、「憩堂」とも呼ばれる物も多かったようで、こういう旅人に優しい文化がこの地方にあることを私は知らなかった。



謎の建物を齧り付くように眺めていたら……
なんかかわいい市営バスキター!

最近では、こういう乗用車が乗り合いバスとして働く姿を目にすることも珍しくないとはいえ、ここで遭遇したのは印象的だった。

というのも、探索冒頭の碑文がかなりの分量を割いて、無明谷を通るバス路線の拡充に関することを書いていたからだ。
曰く、昭和37年に初めて無明谷道路をバスが通るようになり、熊野車庫が終点となった。その後も関係者は路線延伸へ向けた活動を継続し、昭和53年、川と道が分離された年、ついに路線は伯備線井倉駅まで延伸されて、市町を跨がる広域的路線網に組み込まれたのだった。そしてそのことをもって、長年にわたる無明谷道路改良の目的が達成されたと、そう読み取れる碑文であった。

それだけに、集落へ辿り着いた私の前に、まるで出迎えるみたいなタイミングの良さで、1日3往復くらいしか走っていないバスが現われたのは、少し大袈裟ながらも運命的に思えたのだ。
私が訪れるのが少し遅かったのか、地方公共交通機関を誇るには少々かわいい姿になってはいたが、車体に掲げられた行き先表示を見ると、「井倉―熊野―荻尾―萬歳」という、碑文に出て来た地名がずらんと並んでいて……、間違いなく閑散路線だろうに、市が変わっても全線ちゃんと維持されていたことが、とても尊いことに思えたのだ。

市のサイトで径路を確認したところ、井原停留所の先は、広域農道を経由して、県道33号へ抜けているようだ。
おそらく2009(平成21)年に無明谷が封鎖されるまでは、バスも谷底を通っていたはず。



8:52 《現在地》

集落の北で県道は直右折して進路を東へ転じる。
これで無明谷を育ててきた井原川と別れを告げて、荻尾から熊野へ抜ける峠越えへ向かう。
気付けば、傍らの井原川にも当たり前のように水が流れていた。
そして、この角には井原バス停と共に、この県道に立ち入って初めて目にする“ヘキサ”があった。少し大きめの卒塔婆タイプのヘキサだった。

チェンジ後の画像は、曲がった直後の道路風景で、背後には雨に煙る峠が待っている。
道はここからしばらく狭く、いわゆる険道なのだが、その狭さを迂回するために、先ほど十字路で交差した市道がある。
しかし、路線バスは律儀に県道を通っているようで、本当は無明谷も通りたいだろうになと思った。

県道50号の10年間通行止が続く区間を探索する私の試みは、この地点で終了だ。帰りは広域農道と市道草月線を使ってスタート地点へ戻ったが、30分もかからなかった。




今回は、ほとんど机上調査をしていない。
というのも、最近、図書館が開いてないんだよね……。
そんな中で、道自らが歴史を詳らかに語ってくれるという展開はとてもありがたく、こうしていち早くレポート化と相成った。

無明谷が通行どめになったときに、県の担当者からお聞きした範囲では、無明谷を通すということになれば、数十年の年月も要るし、数十億円という経費も要るということで、実質もう将来的に解除する、県道としての解除はなかろうということを聞いております。

新見市議会 平成30年6月定例会(第3号) 小郷昌一議員の発言より抜粋

落石が多発している現状や、新見市議会における上記のような答弁を見る限り、この県道の復活は期待が持てないと思われるが、県も認める植生や風景の素晴らしさはもちろん、長らく交通路として地元のために活躍してきた人文的価値も含めて、多くの魅力があることを鑑みれば、ヘルメット着用の自然観察路のような形での活用も検討されて良いのではないかと思う。
まあ、私は今の姿に一番グッとくるけれども、独り占めするには申し訳ないくらい凄い道だったからね。

また行きたいぜ、岡山県の道!