道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第3回

公開日 2022.07.05
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 違和感が強い? 傾斜した巨大橋梁の跡地


2021/1/20 7:42 《現在地》

発見自体はとても嬉しいが、“謎の橋”だと、私は咄嗟に感じている。

「存在になんとなく違和感がある」などという漠然とした表現に私が頼ったら、現地を知らない皆様にとっては、「そうなんだ」と消極的に受け取るしかないだろうが、経験をそれなりに積んできた探索者として、咄嗟に感じた違和感にはなんとなく意味があるような予感があった。

ここで全ての違和感を文章化すると冗長になるので避けるが、一つだけ大きな違和感をあげると、この橋はなぜこんなにも両岸の高さが違うのかということがある。おそらく明治中期の橋であることは間違いないと思うが、谷川を横断するような普通の立地の橋で、こんなに両岸の高さが違うのはだいぶ不自然だ。普通なら、両岸の道の高さを調整してでも、橋は水平に架けようとすると思う。何かよほど特別な事情があったのでなければ、こんな著しく傾斜した橋を架けそうにないと思ってしまう。あくまでも、私の限られた経験値からの感想だが…。

違和感の話は一旦措いて、橋の袂が分岐になっていた。
右折して直ちに傾斜橋で対岸へ向かう道と、このまま直進する道だ。

橋の規模の大きさからして、この橋を使う右折の道が、県道として誕生した大風沢旧道だというのは、まず間違いないだろう。
迅速測図に描かれた「道路新設予定線」のラインが、この位置で対岸の小谷へ入っていくように描かれているし、偶然の一致だとしたら出来すぎだろう。

では、直進する道は何なのかという疑問は、これもちょっと保留したい。
結構いま私テンパってます。汗。 対岸に“【小さな謎の穴】”を二つ見つけたけど、それも保留していることを忘れてはいないよ。


「発見」が相次いでいて、ややこしくなってきたので、一度地図で整理。(→)

「現在地」は、大きな橋の跡の袂で、ここで道が二手に分岐している。
迅速測図の表記や、橋自体の存在感から、メインのルートは右折して橋を渡るルートだと判断した。
これから橋の跡を横断し、対岸の橋台へ近づいてみよう。




改めて対岸の橋台を見ているが、橋を渡った先の道は、橋上に想定される上り坂をそのまま延長したような傾斜度で、正面の小さな谷を登っていこうとしている。
ここまでは非常に傾斜が緩やかだったが、橋を境に急に登り始める印象だ。
そして、正面の谷にはほとんど奥行きがないはずで、すぐにどん詰りにぶつかりそう。そこに尾根を潜る隧道があった可能性は、非常に高くなってきていると思う。

ところで、写真左下の赤○で囲んだ位置に、何か四角い影っぽい部分が見える。
奥行きはなさそうだが、人工的なものだと思う。 …またしても謎の構造物なの…?




谷底付近に立って見上げた対岸の橋台。
左下に見える影の部分が、前述した“謎の凹み”だ。

露出した急傾斜の岩盤に、小さめのベンチくらいある大きなL字型の凹みが、
鑿痕も鮮やかに、人の手によって削り出されていた。間違いなく人工物だ。
しかし、橋台との位置関係は不自然で、直ちに関連性は見いだせない。

私が思うに、最近の道路の探索で、こんなに謎に悩むことってあまりなかった。
さすがは数々の廃伝説を生み出してきた房総の明治廃道だ…、謎まみれじゃん…。



視界いっぱいの廃橋台、大迫力!

これを明治の道路石垣とひとくくりにするのは容易いが、こいつはその中でもきっと古い部類だろう。
明治16年頃に誕生している可能性が高い。しかも、明治よりも新しい時代に弄られた可能性はほぼないと来る。

石垣としての積み上げ方は、モルタル不使用の空積みで、不定形自然石による乱積み。
この組み合わせは江戸時代以前からずっとある原始的な工法だが、専門技術がなければ難しい伝統的なものでもある。
当たり前だが、積み上げて終わりではなく、そのまま百年以上を耐えている事実こそが、高度な技術の裏打ちといえる。
あと、よく見ると分かるが、下の基部には自然の岩盤を活用している。このセンスも素晴らしいと思う。



特にこのキリッと筋の通った角は美しいですね〜。
角は積み方の一番難しい部分であり、ここのデキが寿命を決定するともいう。

建築分野には、細部の丁寧な仕事の積み重ねが全体の完成度を生み出すという解釈をされる、
神は細部に宿るという格言があるが、形が異なる石の組積によって造り出される構造物にぴったりな言葉だ。
こんな言葉を彷彿とするほど、苔生した森の奥の暗所にあって、なお美しく光りを発する石垣だった。オーラがある。



左岸の橋台下から振り返り見る、右岸の橋台。

先ほど上に乗っていたときには、ほとんど崩れてしまっていると思っていたが、こうして俯瞰で見てみると、左岸ほどではないものの、この右岸の橋台もかなり規模は大きい。
全体的に崩壊が進んでいるが、谷底に基部を持つ末広がりの台形なので、大きな容積を持っている。

オレンジ色の線で描いた部分に、橋台上で分岐した一方の道がある。
その行く先が少しだけ気になるので、軽く追跡してみよう。
でも、ただの山仕事道だと思った時点で追跡はやめるぞ。




うおっ!

ただの枝道、そして山仕事道の可能性大と思っていた分岐先の道だが、しっかりとした石垣が続いている…!

これまで辿ってきた道と同程度の規格で作られている感じがする。
もちろん、明治だろうが大正だろうが昭和だろうが、石垣があるだけで道の年代を判断することは出来ないので、断定的なことは何も言えないが、私の印象として、橋を渡らずに右岸を直進するこの道もまた、明治の車道に見えたのである。



??!!!

分岐した道は、上流側へ少し回り込んでから、切り返してこっちの岸に来ているぞ!
そうなると、分岐のどちらを選んでも、行き先は変わらないってことなのかも…。
同じ峠を目指す関係……? それって…、それってもしや、新旧道の関係ってこと?!

ここで私の中に、“一つの仮説”が結ばれた。

不自然な位置に架かっていたように思えた“巨大傾斜橋”だが、あれは突発的なアクシデントによるルート変更によって誕生したのではないかという仮説だ。




具体的な原因として可能性が大なのは、災害
それも、明治の道路新設建設中に起きた可能性が高いのでは。

ここまで確認した内容を左図にプロットした。
目的は仮説の域を出ないながらも、右岸橋台で分岐した道は、橋を渡った先の左岸橋台で直ちに再合流するのではないかと推測できる状況になった。
だがこの合流へ向けた最後のピースは、行方不明である。



傾斜橋を上流側から撮影した写真を使って、橋を渡るルートと渡らないルートを示す。

渡らないルートは、明治道として見れば自然で無理がない線形だ。
だから最初に整備されようとした旧ルートではないかという仮説を持っている。
しかし、渡らないルートは、この先で岩場に阻まれていて、完全に道がない。

仮に、この岩場にあった旧ルートが岩場ごと大崩壊し、放棄せざるを得なくなったとしよう。
そこで、岩場を回避して最短距離で短絡する傾斜橋が、新ルートとして設けられたのではないか?



この写真と次の写真は、説明のために時系列を無視して、右岸橋台上で撮影したものを挿入した。

失われた旧ルートが横断していたと考えられる辺りの岩場をよく見ると、
微かだが、道の跡のようなラインが横切っているのが分かる。
もちろん、偶然の模様や、ただの地形である可能性は否定しきれないが、
“謎の凹み”の直上であるのも気になるところだ。
先ほど橋台を見上げて撮った【この写真】にも、このラインは写っていた。


これが、ラインの部分を拡大した写真だ。
崩壊があったにしても大昔であれば、見た目で区別は付かないだろうな。

これ以上は判断の材料はないので、私が感じた橋への違和感に関わる
“災害復旧仮説”の結論は出せないが、この説を私は推したいと思っている。



想像は楽しいが、結論が出ない話をあまり引っ張るのも良くないので、先へ行こう。
……が、その前にもうひとつだけ寄り道というか、宿題の回収をする。

この全天球画像の赤○の地点、今いる場所から50mほど下流の左岸岩壁の一画に、
“謎の小さな穴が二つ”開いているのを先に目視しているので、今から近づいて確認するぞ。




7:51 《現在地》

やって来ました。対岸に見えた謎の穴の在処へ。

これが、かなり近づかないと全然見えなかった。
先に対岸の路上から確認していたので行けるが、そうでなかったら間違いなく見過ごしただろう。

そもそも、この穴の場所へ通じている道はない。
適当に林内を歩いて行けるが、道沿いの立地ではないのである。
この段階で、道と関係した穴ではないと断定しても良さそうだ。
また、穴の前の土地もあまり整地された感じがなく、本当にただの岩場の麓といった感じのところだった。




ただ、そんな立地にありながら、それでも間違いなく穴は人工物だった。

写真は上流側の穴の内部で、奥行きという言葉を使うのも恥ずかしいくらい浅かった。せいぜい2m。
でも、入口から1mくらいのところで直角に右に折れていて、「おっ」と思ったその先は1mくらいで終わっているという、不思議なL字の穴だった。

断面は遠目に見た印象通りに小さく、房総に良くある古い灌漑用の手掘り穴である“二五穴”(2尺×5尺)程度だ。
では灌漑用隧道かと言われれば、その掘りかけにしては浅すぎるし、水を引くような水源が近くにないので、違いそう。




ひとつめの穴から4mほど下流側、同じ岩盤の同じ高さにもうひとつの穴がある。
こちらも浅く、奥行きは1mほどだ。ただ真っ直ぐ入って終わっている。
先に見た上流側の穴のL字の先をあと数メートル延長したら、ここに繋がりそうだが。

どちらの穴も全体に手掘りの鑿痕が鮮明で、非常に浅い。
正体についてはやはり不明と言わざるを得ないが、まずは横井戸であるという説を考えた。
横井戸というのは、地下水を得るために山中に掘られる小規模な横穴だ。ただ、この穴の中には全く水気がないので、横井戸なら失敗作、もしくは未成だ。

近くに集落や家屋があった様子もないので、倉庫のようなものでもなさそうだ。
あとは、道路工事に関係した夢のある説として、大風沢旧道の建設時に使用した火薬庫なんてのはどうだろう。明治中期の土木工事でも火薬を用いていた記録はあるし、中途半端に道から遠い位置関係もなんとなくそれっぽい気はするのだが、さすが根拠は乏しいな。
あるいは、外房線の大風沢隧道工事の際に、横坑を掘ろうとしてやめた跡なんて説も、言うだけなら容易いか。

……ごめん、正体不明だ。この穴たちも。
本題の道路以外になると、わからんことだらけだよ。なんだかんだ人間と関わらない場所がほとんどなかった房総の山の身近さと奥深さであり、闇である。
過去の誰かがここで何かをなそうとしたのは確かなんだが…。




謎の穴の近くから、これから進むべき傾斜橋の先の道を遠望する。

左の橋台の位置を起点に、右の谷奥へぐんぐん登っていっている。

登って登って、最後はズドンと隧道じゃないか?

すげー楽しみ。 もうゾクゾクしてきてる…!




 百数十年前の苦労が滲み出ているような坂道


2021/1/20 7:55 《現在地》

見てよこの橋台。
真横から見た“傾斜橋”の左岸橋台だけど、橋台の上も坂道だぜ。
まるで、インクラインの途中にある橋みたいだ。

橋も坂、橋台も坂、その先ももちろん坂。なんというか、坂道が分担できる要素の全てに坂を押しつけているみたいである。
ひとことで言えば、余裕の無さを感じる。
ここから先、短い距離で大きな高度を稼がないと行けないというような余裕の無さを。




だいぶこの場所で文字数を費やしてしまったが、ようやく橋を渡り終えた位置、左岸橋台上に立った。時間的に見れば、橋の周りにいたのは10分少々の出来事だった。

左岸側から元いた右岸の道を見るのは、橋1本分とは思えないくらい高低差が大きく、見下ろすような感じだ。
本当に変わった橋だったと思う。当時の通行人の印象に残っていても不思議じゃないが、たぶん廃止から百年以上経っているからな。生者の証言を得られる可能性はもうない。

では、踵を返して再出発だ。いざ、橋の先の道へ。




案の定、凄く急な上り坂。

現代の道路にもこの勾配の坂道はあるが、エンジンを持たない車を相手にしていた明治の車道に
この勾配の坂道があることの驚きは、単純に現代の車道にあるものと比較できないだろう。

橋、橋台、そしてそれに続く坂道と、その全てが明治車道らしからぬ急勾配になっている事実からは、
この明治の峠道を設計した技術者の、苦労と苦悩が滲み出ている感じがする。

地形的な制約の他にも制約があったのかも知れないが、ここまでは緩やかだった道が、
橋を境に急に急坂となって尾根へ突き上げていくのは、理想的とはいえない設計だと思う。



ごく短い動画を撮っているのでご覧いただきたい。探索の空気感が伝わればと思う。
この動画で思い出したが、結構風が強い日だった。スギ林全体が風に鳴っている。
未だ朝日の届かない谷底は、岩場に囲まれているせいもあって緊張感が強かった。



急勾配、そのうえ、岩場を削る難工事だ。

大きな左岸橋台自体が巨大な岩場を基部にして築かれていたが、その先の坂道も、同じ岩場をL字に刳り抜く切り出しによって造られていた。
だから、坂道の路面には裸の岩場が直接露出していて、なんとも荒々しい。
岩場よりは土を削って道を造る方が容易なのは間違いないのに、それを選択できないことに、この土地の難工事ぶりが現われている。

(チェンジ後の画像)
周りの地形を見ても思うが、この辺りの尾根に近い急傾斜地は全体に表土が浅く、あるいは皆無の露岩であり、道を造るにはどうやっても岩場の切り出しを避けがたかったし、勾配を緩和するすための常套手段である九十九折りを置くことも、こういう岩場では難しかっただろう。
だから已むなく急勾配を甘受して、ほとんど直登に近い形で小さな谷を登っていくようになっている。



まるで隧道の予行演習とでも言いたげな感じで、深く切り立つように削り取られた岩場がカーブの外側に残っていた。
鑿の痕が鮮明に残っているが、風化に晒されやすい地上の岩場では珍しいことだ。
少しオーバーハングしていることや、法面が内巻きにカーブしているせいで風化を免れたか。

もういつ隧道が現われても不思議じゃない地形だと思う。

この先の道に関するほとんど唯一の事前情報は、平成2(1990)年の『歴史の道調査報告書』にあった、外房線の大風沢隧道の内浦側坑口の奥に、「明治の中頃までつかわれていた隧道が崩れてのこっている」という記述くらいである。
ここからこの道に少なくとも1本の隧道が存在していたことが分かるが、上記の坑口と対になる未確認の坑口は、峠のこちら側にあったはずだ。




そしてさらに例の迅速測図(→)の表現を頼りにするなら、峠を貫く隧道は1本ではなく、2本ありそうに見える。

この地図に隧道が描かれているわけではないが、県道の予定線を示す点線はこの先で尾根、谷、尾根を連続で貫いており、小さな谷の両側に鏡のように向き合う2本の隧道が存在していていそうな表現となっている。




橋を渡り終えた地点からほんの50mほど進んだところで、呆気なく道は小谷の底に追いつかれた。
そこで道は初めて機首を蛇行に転じる。まずは築堤で小谷を横断し、対岸の土の斜面に着いたら、そこを切り返しながら登るようだ。
蛇行によって距離を稼ぎ、なんとかこれ以上急な坂道を避けながら登ろうという、そんな道の意思が伝わってきた。

もういつ隧道に達しても不思議のない地形になっているが、手前で妥協すればするほど、長い隧道を要することになる。
明治の技術的水準やコストへの耐力を考えれば、少しでも短い隧道で済ませたかっただろうから、岩場でないところには積極的に蛇行を入れて高度を稼ごうとしたようだ。



上の写真の地点で振り返って見たのが、この景色だ。
岩場を横切りながら直線的な急坂で登ってきたので、橋を渡る前までいた谷底の道が、見下ろすような高度感の中に俯瞰できた。

このような急坂は、馬車や荷車のような非力な車両を通行させることを考えたときに危険であるうえ、労力という意味でも大変だっただろう。
何らかの理由で極端な短命に終わったと考えられるこの道だが、このような急勾配の存在は分かり易い不利要素といえる。




小谷の奥の荒れ果てた植林地に、古い道形が急勾配の蛇行を描いて伸びていた。
とりあえず、矢印の先端までは間違いなく行っていそう。
だいぶ尾根の高さへ近づいてはいるものの、とはいえまだまだ切り通しで越せるような落差ではない。しかも、あそこから上はいよいよ急勾配の斜面が尾根へ突き上げているように見える。

あそこで道が登るのをやめるならば、隧道があるのは確定だろうな。
もちろん、現存しているかは不明だが…。ドキドキするぜ。




あああ…ああ! きたぞ来たぞ。 楽しいなぁ。

未知の明治隧道を探すという機会は頻繁ではない。これは探索者冥利に尽きる展開。

古い道形を無視してスギが植えられており、もう道とは認知されてなさそうな状況であるが、
その登り終える先には、なんとも見覚えがあると思える平坦な土地が存在していた。
なぜ初見なのに見覚えがあるかといえば、それは隧道を掘ったズリで谷を埋め立てて造られる
典型的な坑口前の地形だったから!

平坦地へ到達。




8:04 《現在地》

呼吸が停止。

そのくらい、

格好いい。

坑口の在処する一点へ視線を収斂させる造形が、凄まじすぎる出来映えだ。

なぜかスギもここでは遠慮したように坑口前の直線上には1本も植わっておらず、
坑口の在処が、信じがたいほどに深く尾根の岩場を削って落ち窪んでいるのが見える。
もはやそこに開口部が残っているかどうかさえ些細なことに思えるほど、間違いなくここが隧道。

これが熟成を百余年重ねた廃隧道が纏う、神機なるものの力か……。




沈黙の岩門。

近づきがたい威圧の霊気が、全てを支配しているようだった。


いまあと数刻、我を忘れる時間を過ぎれば、きっと私は本来の私を取り戻して、穴を探しに進むだろう。