2021/1/20 8:05
天津神明宮の石鳥居を出発したところから約1時間、距離にしてほぼ1km進んだところで、GPSの画面に表示された「現在地」は、外房線の大風沢隧道の直上にあたる山域を示していた。
そしていま、目の前には、隧道の坑口跡地が現われた。
改めて、現在の地理院地図と140年近く前に描かれた迅速測図を重ねてみると、この“最古の地形図”に描かれた「新設縣道線」の現地点までの正確性に、本当に驚かされる。
隧道こそ描いていないが、この先についても、示しているルート自体は完全に正しい予感がするのである。
さすがは、現在の地理院地図が2万5千分の1を基本としているのに対し、それ以上に精細な2万分の1で描かれただけはある。とはいえ、現在のような航空測量もない時代に、これほどの地図を描いた事実はややオーパーツ染みていて、大日本帝国の基礎情報とするべく陸軍が軍命を以て作成した地図への執念が窺われるようだ。ほんと、道以外の場所の等高線とかも凄く正確そうだけど、どのような体制で調査したんだろう…。
右図は、拡大した地理院地図にここまでのルートをプロットしたものだ。
「現在地」に隧道の坑口跡地があったということで、半自動的にその出口の位置が推測できた。
もちろん推測は推測だが、基本的に明治期の山越えの隧道は直線なので、大きく外れていることはないと思う。
この時点(=坑口跡地が判明した時点)で、大風沢旧道の隧道は1本ではなく2本だということが、ほぼ確定したといえると思う。
『歴史の道調査報告書』の記述により、外房線の大風沢隧道の内浦側坑口の奥に「崩れた隧道」があったことが判明しているが、「現在地」とこの「崩れた隧道」の擬定地を、1本だけの隧道で結ぶことは難しい。
いま目の前にしている“1本目の隧道”で南側の谷へ抜けて、そこから改めて“2本目の隧道”で内浦側に抜けるというのが、この大風沢旧道の峠越えの方法だと推定する。
明治中期以前に造られた隧道が2本も眠っているとか……、“隧道王国”房総半島とはいえ、これは大変なお宝じゃないか!
とりあえずここに2本の隧道があったとして、現時点で正式名称不明であるから、本稿内の仮称として、「大風沢西隧道」と「大風沢東隧道」を用いることにする。
坑口前にある、山中らしからぬ広い平坦地。
これは紛れもなく、隧道工事で発生したズリで谷を埋め立てて造られた、今風にいえば現地残土処分の跡だろう。
当時の峠越えの隧道だと、大抵坑口前にこういう場所があった。
そしてその土地を利用して、開通後には往来相手の茶店が出来たりしたものだが、この道にもあったかは分からない。道が短命だったなら、なかった可能性が高いかな。
隧道が通り抜けられるかどうかを確かめたい気持ちは逸っているが、おそらく見納めになる天津側の峠道を振り返っておくことも大切だ。
写真は、残土処分の坑口前広場の縁より見下ろした、いま上ってきた天津側の坂道だ。
謎多き“傾斜橋”から、隧道前広場までの道のりを、この場所から俯瞰の視点で見渡すことが出来た。
この区間の長さはおおよそ150mに過ぎないが、跨いだ等高線を数えてみると、実に30m以上も上がっているのである。
すなわち、単純計算で平均勾配20%(約11度)に達しており、これは今日ある車道としては最急勾配の悪名が高い「暗峠」などと大差のない勾配である。
利用する車が違う現代の道路と明治の道路を単純に比較できないものの、率直な感想として、隧道が掘られるような道とは思えない急勾配だ。
何か設計の段階で失敗したんじゃないかと疑いたくなるくらい、隧道の存在と、急坂の存在は、ミスマッチに思える。
いわゆる明治車道という言葉で想像されやすいのは、あの三島通庸が良く造ったような九十九折りを執拗にくり返して極度に勾配を緩めた冗長な道だと思うが、ここはもっと遙かにシンプルで短距離だ。徒歩の利用者にはこのくらいがむしろ便利だったとは思うが、車道としては、やはり落第だったのではないかと思える。
短命の理由としては、それだけでも十分な気がしないでもない。
振り返りを終了し、いよいよ隧道突破へ向けた前進を再開する。
坑口がどこにあったか、このうえなく明白な地形であるが、少しでも隧道を短くしたいという気持ちの現われであったろう、常識的に考えればいささか深くし過ぎている坑口前の掘り割りが、百年を優に超えるとみられる放置の間に、大量の土砂や倒木、瓦礫を逃げ場なく堆積させてしまい、肝心の坑口を全く埋没させてしまっているようである。
これはいっときの災害による埋没というよりは、本当にただ砂時計の砂が落ちるような緩やかさで時間をかけて埋められた雰囲気があった。坑口上部の地形に大きく崩れた形跡がないからそう思うのだろう。
しかし、私はまだ諦めていない。
この遠景からの逆転勝利は、まだあると考える。
いままでも、何度もそういうことがあった。
遠目には完全に埋れているように見えても、近づいて見ると人が潜り込めるくらいの開口部が残っているケースは、案外多いのである。
坑口前の路面……とはもう言えそうにない荒れた地面に、思いがけないものが落ちていた。
碍子である。二つまとめて落ちていた。
片方の碍子には、社紋らしきマークと一緒に「1937」という数字が書かれており、製造年の西暦である可能性が高い。すなわち昭和12(1937)年ということであれば、この道が明治期のうちに早々と廃止されたという従来の印象(←確定した情報はないが明治36(1903)年の地形図で既に道が消えていることなどがその根拠である)とは異なり、昭和戦前期まで使われていた可能性を示唆するかもしれない。
おそらくこの道に沿って電線のインフラが敷設されていた時期があったということなのだろうが、だとしても隧道内を電線が通っていたのか、山の上を越えていたのかは分からない。仮に後者ならば、道としては既に廃絶していたとしても矛盾はない。
凄い景色じゃないかこれ! →
いままで真っ正面から見た坑口跡地の切り通しを見てもらっていたが、敢えて軸線を外れて斜めから見ると、こんな景色である。
この方が切り通しの奥行きや高さのスケール感が伝わるだろう。
ただならぬ深さと高さになっているのである。まるで、巨大な地割れのようだと思う。
これほど深い切り通しを設けずに、直ちに地表から隧道としても良さそうな地形に見えるのだが、隧道を短く済ませたいという当時の技術者の願いは、それほどまでに強烈だったのかも知れない。
切り通しは、上部の地表より人海戦術で掘り下げていけばいずれは完成するから、技術的には隧道掘鑿よりも容易いのだろうが、こんなに深くなれば労力としてはより大変だったと思う。しかも地質がほとんど岩盤なんで、ほんと大変そう…。
(←)
それではこれより、坑口へ繋がる切り通しの内部へ進行する。
奥行きは15mくらいあるな。
両側の壁の大半部は岩盤が露出しており、70度くらいの鋭い切り立ち方をしている。
そんなだから重力に任せて落ちてきた倒木も土砂も堆積する一方で、ご覧の有様になってしまっている。
でもまだ諦めてないぞ!
ぐぬぬぬぬ……
無情にも、奥へ進むほど堆積物の嵩は急激に増しており、
サイズ不明の隧道断面が露出する限度を越えているのは明白だった。
しかし、終点のコの字型に切られた岩盤自体にはほとんど崩れている様子がないので、
岩盤に守られた坑口は、堆積物に埋れているだけで崩れず残っていそうな気がするのである。
そして、まだ諦めてない…!
まるで滝のような規模と外観を持った坑口の状況に、神妙な気持ちになった。
滝のように見えても、これをゼロから作り出したのは全て明治の人々の手作業なのだ。
特に坑口直上の正面の法面は高く切り立っており、目測で20mは掘り下げられている状況だ。
これが採石場とかならまだ分かるが、石切鋸ではなく鶴嘴や鑿で削ったに違いないゴツゴツとした岩面は、
隧道を作るという目的のためだけに、ほとんど尾根の近くから掘り下げた凄まじい労力を物語っていた。
まだっ! まだ開口の可能性はあるはずだ…!
あってくれぇ……
無念ッ!
開口部は残っていなかった。
この段階で隧道貫通の可能性は潰え、探索継続のためには、
目前の大変鋭く切り立った尾根を、肉弾戦によって突破する必要を生じた。
決して無理なことではないだろうが、大仕事になりそうだ。
結構、惜しかった感じはするんだけどなぁ……。
8:09 《現在地》
埋没した坑口を背に振り返る、天津側の坑口前空間。
廃絶の推定年代を考えれば、もっととんでもなく分かりづらく埋没していても諦めは付いただろうが、
よもやこれほど、こんなに「惜しいッ」と思えるくらい鮮明に残っているとはな。これは期待以上だ。
だがその分、悔しいな。惜しいせいで、悔しさが強い。
重機でも持ち込んで、ここのさほど硬くもなさそうな土砂を全て撤去したら、
140年前の隧道がペロッと出て来そうな気がするぜぇ?
隧道で町興ししてぇしてぇしてぇよぉー!って人々がいたら、後を任せたいぞ。
まあ、このあとで反対側の坑口へ行って、開口していて、
内部が確かめられれば、いいんだけどな…、どうなるかな…。
…………。
(2分経過)
表層は、落葉。
(9分経過)
表層の下は、柔らかな腐葉土層。
掘っても、掘っても、土の層。
(11分経過)
抜けたッ!
土を突き刺し続けた棒の感触が、唐突に抜けたッ!
地中に空洞が残存していることを、感触により確認した。
(13分経過)
空洞を目視にて確認!!!
この築140年級の隧道は、地中に空洞を未だ温存していることが確定した。
しかも、その空洞までの深さは1mに満たない程度である。
(15分経過)
作業終了のお知らせ。
空洞の存在を確認するために、針穴程度の穴を通すだけなら、道具なしでもこの程度の時間で出来たが、
この穴を拡張し、人間が出入りしうるサイズに広げることは、探索を壊滅させるだけの時間を要するはずだ。
また、仮に穴の拡張に成功しても、単独でこの手の自作穴へ入るのは危険すぎるので自重したい。
(16分経過)
閉栓完了。
せっかくのスルーホールを維持すべく、適切な太さの棒杭を突き刺して現地を離れた。
おそらく数年程度は、この棒杭によって穴が維持されると思う。
8:35 当地を離れることにした。
“沈黙の岩門”その内部に、久方ぶりの光明を注ぐ、
小さな楔を打ち込むことには、辛うじて成功した。
だが貫通に至らず。
振り返って考えると、やはりこのような木の棒だけで内部の空洞を探り当てられたのは、作業時間の短さを考えても、かなり珍しい事象であったと思う。
隧道自体が大きく崩壊していなければ、掘り出せば空洞が出てくる。それは当然のことではあるのだが、だいたいの埋没隧道で坑口を埋めている土砂というのは、落下の衝撃で圧密され続けた瓦礫や、濡れた土砂であることが多く、短時間で1m近く棒を射すということは、まず不可能である。
今回それが叶ったのは、堆積物が乾いた枯れ木や腐葉土であり、それほど圧密されていないせいだった。
やはりこの坑口が埋没した経緯というのは、災害のような土砂の崩壊ではなく、砂時計の砂が落ちるような時間をかけた静かな埋没だったのだと思える。
これならば、重機などはなくても、3人×6時間程度の作業で、洞床に達するまで貫通させられる気がする。(それなりに大きな倒木とかも埋まっているだろうから、1人作業では時間をかけても厳しいだろう)
この隧道への再入洞は、比較的に現実的な挑戦ではないだろうか。次回房総遠征時とか、やってみるかな……。
2021/1/20 8:37 (尾根越え開始1分後) 《現在地》
もう次の行動を始めている。
次にすべき事は、はっきりしている。
埋れた隧道の直上にある尾根を乗り越え、反対側の坑口へ乗り込むんだ!
坑口に通じる切り通しを左に見下ろすラインにあたりを付けて、尾根への直登をスタートした。
下から見上げた限り、向かって左側は傾斜が厳しく登り切れそうになかったので、右側からのルートを選んだ。
今回越えようとしている大風沢西隧道(仮称)の長さ、すなわち辿り着くべき反対側の坑口までの推定直線距離は、約150mである。
これは地形図から推測できる長さで、150mという数字を長いと感じる人は多くないだろうが、明治前半期の道路隧道としては短くない。特に短い隧道が大半だった房総半島においては、長大な部類に属したはずだ。
そして、この150mという乗り越えるべき距離をより難しくしているのが、尾根の高さだ。
今回越えるべき尾根の比高は、最短ルート上で約50mある。50m登って、直ちに同じだけ下る必要がある。
わずか150mのうちに50アップ50ダウンがあるわけで、通常の道路歩きでは考えがたい急勾配をこなす必要がある。登山だな。
この比高については、尾根の低い所を狙って越えることでいくらか縮小出来るが、そのためには迂回する距離が増すので、正解がどこにあるかは難しい所。
今回は地形の見通しが良さそうなので、可能な限り最短ルートでの尾根越えを目指すことにした。
GPSを装備しているので、道なき道を歩いても迷うことはないと思う。
(尾根越え開始3分後)
序盤は切り通しを囲む外壁と競争するように登ったが、それはここで終わりだ。
それにしても、最初からなかなか厳しい斜面だ。
傾斜自体もキツいんだが、斜面の状況が登ることに適していなかった。
これは見通しが良いこととのトレードオフだが、下草がほとんどなくて樹木も疎らにしか生えていないせいで、急傾斜を登るために使えるものが脚力しかなかったのである。余っている手の力を使えない。
しかも、乾ききった土の地面がよく締まっていてグリップが効きづらいうえ、薄く乗った小石や枯葉が滑りやすくて、常に緊張を強いられた。
ひとことで言えば、身も心も疲れる斜面だ。
(尾根越え開始5分後)
別に急ぐ必要はないので休み休みで登っているんだが、全くステップが刻まれていない硬い急斜面を、足の力だけで登るのは腿にキツい。インクラインをよじ登っている時の感触だ。
それに、うっかりスリップしたらどこでも止まれなくなりそうなのが恐ろしい。
まるで巨大なピンボール台かパチンコ台にへばり付いているような眺めだよ。
私が隧道の切り通しにインしたら何点入るんだ。
(尾根越え開始6分後)
完全に周囲から人工物の気配がなくなった。道路レポートとしては休題だ。
しかし、探索レポートとしてはしっかり書かないといけないな。このアルバイトの辛さも。
もう朝も9時近くになっているが、ようやく今日の初日を拝むときが近づいているようだ。尾根に光が満ちて見えるぞ。
その尾根は、右から左へ向かって高くなっており、最終的に越えるべきは左の一番高い辺りだ。
ここからどう登るのが楽かを考えてみるが、やや右に進路を向けて早めに尾根に着いてしまうのが良さそうだ。その方針でいこう。
(尾根越え開始9分後)
うわ、最後がきっつ!!
なんでこんなに尾根のそばが切り立ってんだ……。
なんか60度くらいあって恐ろしいんだが、いままでなかった木の根がたくさん地面に出ているせいで、
これがちょうど良い具合に手掛かり足掛かりになって、どうにか異常に急なラストを乗り越えられた。
というわけで、10分近く使って、尾根の一端に辿り着いた。
8:46 (尾根越え開始10分後) 《現在地》
?!
根っこが凄すぎるぞ……。
こういう状況は、根あがりとか露根と呼ばれ、表土が薄い痩せた土地で起こることらしい。
何度も書いているように、この辺りの地表はそもそも岩盤質で表土が浅いようだが、
そのうえここは尾根で表土の流失が激しいために、こんなおぞましいことになったのだろう。
おそらくこの樹種はタブノキっぽいが、見渡す限りずっと先まで、尾根の上はこんな感じになっていた。
……風景に少し面食らったが、とにかく尾根に到達出来て一安心だ。
次は下りるべき場所を正しく見定めて、続きの道へ辿り着く仕事である。
(尾根越え開始16分後)
5分ほど腰を下ろして息を整えてから、再出発。
尾根を渡る風が海上のように強く冷たく、あっという間に身体が冷却された。
でも日なたなので寒すぎることもなく、爽快だった。
再出発直後、隧道西口がある辺りを尾根から見下ろしたのが、左の写真だ。
ここから真っ直ぐ下って行けば坑口前の切り通しにぶつかるので、どこかで迂回しないと落ちる羽目になるだろう。
影になっていて直接見えないが、考えてみると恐ろしい地形。
背景には、この写真だと白飛びしてしまっているが、房総半島の随分と海に近い分水嶺である清澄山あたりの山地が広がっていた。
(→)
これがその清澄山方面に露出を合わせて撮影した写真。
海抜365mのえらく平べったい清澄山が、雲一つない青空に横たわっている。
まるで高原のように見えるが、実際入ってみると非常に入り組んだ急な谷が至る所にある、一筋縄では行かない山である。(保台清澄連絡道路(仮称)なんて難道もあった)
頂上付近に目を凝らすと、一帯を根城とする清澄寺らしき建物などが目視できた。白くてよく目立っているのは仏舎利塔か。あそこまでは4kmほど離れている。
8:54 (尾根越え開始18分後) 《現在地》
西隧道の直上に存在する無名のピーク(海抜約130m)を乗り越える。
清澄山から太平洋に下りてくる尾根上にある無名のピークの一つでしかないが、頂上は四方へ尾根を伸ばしており、いっぱしの山座の風采を持っていた。房総の木の根山とでも名付けたくなるな。
本稿の主役はあくまでも明治の房総東往還であるが、『歴史の道調査報告書』を参考資料としているように、この道の前身となった近世の街道(伊南房州通往還)があって、それは隧道のない時代の道だから、当然どこかの地点でこの大風沢の尾根を越えて東西を結んでいたはずである。
その具体的なルートがどこであったのか。
それを詳細に調べて報告するのが例の『歴史の道調査報告書』であるべきだが、残念ながら同資料巻末の調査ルート図(右図)において、この大風沢の峠越え区間は点線の表記となっており、ルート不明の扱いである。
これから向かおうとしている東隧道(仮称)の東口らしき「崩れたトンネル」を発見して報告しているくらいだから、この山域の調査はしているはずだが、街道時代の峠越えがどこだったか正確には分からなかったということなのだろう。
本文中でも、「その前は山を越えて天津に抜けていたとのことである」と隧道発見の報告の後に書いている。お前らはそっちを調べるのが仕事だろと言いたいところである(笑)。
私も今回こうして、西隧道の直上の尾根を強引に乗り越えているが、特に古い時代の道路跡や峠らしいものは見つけなかった。
どこを通っていたものだろう。調査済みの方がいたらご教示いただきたいところだ。
隧道直上の無名ピークは樹木に覆われているものの、地形的には360度の眺望が得られる好立地だ。
先に紹介した清澄山の遠望は北西方向であるが、この写真は南方を撮っている。
木々の向こうを埋めているのは海原だ。ここは臨海の山である。
荒海として名高い房総沖の太平洋が果てしなく広がっているのが見えた。
この南方の眺めについて無理矢理にも道路と絡めた話をするなら、明治後半の時期に新たな房総東往還として整備され、この大風沢旧道を短命に終わらせた原因とみられる現在の国道のある位置に造られた新道は、この山があの海へ落ち込む磯に沿って1本のトンネルと一緒に整備された。
そのトンネルは全長180mほどのもので、明治の隧道だがいまも立派に(旧国道として)活躍を続けている実入隧道である。
海岸ルートには隧道が1本で、アップダウンはほとんどない。
対してこちらの山越えルートには隧道が2本(おそらく)で、アップダウンもかなりある。
距離的には少しだけ山越えが近いと思うが、車両による交通を考えるなら、前者の方が遙かに有利そうである。
「……オマエ、負けたんだな。」
思わずそんな共感が口を突く。当代からの落伍者同士仲良くしようぜ。いま俺とオマエは二人きりじゃないか。
こちらは南西方向の眺め。
歪な樹間の額縁に、天津の港町が窮屈そうに納まっていた。
その背後に、鴨川湾と鴨川のリゾート海岸エリアがギリギリ見えている。
隧道直上の誰も知らない隠れ家みたいなところから、身を隠しながら世間をこっそり見渡すのは、影のフィクサー感があって楽しい。
私は風に吹かれながら、無名のピークでも5分間休憩した。
でもな、オブローダーである私に相応しいのは地の底だ。
そろそろ隧道が呼んでいる。
無理矢理に棒杭を突き刺して唾を付けた西隧道の内部が、この足元で140年間俺を待っているはずだ。
地中の末端から、天井に空いた光漏れ来る小孔を覗いて笑ってやりたい。
(尾根越え開始18分後)
大風沢旧道の秘められた第2ステージ、2本の隧道に挟まれた孤立した中間領域への下降を、無名ピークの東側縁にあたるこの位置からスタートする!
なんの目印もないところだが、GPSは本当に便利だ。
行きたい場所の入口をリアルタイムで教えてくれる。
登った分と同じ50mの落差を、これから下る。
これで下っていって何も見つからなければ、自分の道を見る目が落第だったということだ。
(尾根越え開始22分後)
下り始めて4分経過の時点で、下るべき落差の半分くらいを終えた。
地形的にはこの東口の斜面も西口と似ていて、疎林の乾いた急斜面である。なかなか爪先が刺さらずに苦労する。
そして、西口での経験と照らし合わせると、そろそろ目指す隧道に関するものが見えきそうだ。
やっぱり、同じような深い切り通しが現われるのか……?
そんな不安と期待が混じった視線が捉えたのは……
すり鉢状の崩壊地形だった。
……とても嫌な予感がした。
とりあえず、すり鉢状崩壊斜面の周囲は切り立っていると思うので、右に迂回しながら下ることにする。
ただ、大方の進路については、間違ってなさそうだ。
下って行く先に、西口と同じようなスギの植林地が広がっているのが見えた。
あの森の底に道が眠っている予感がする。
(尾根越え開始24分後)
棒杭よ! お前は本当にレアな空間に突き刺さったようだぞ……。
西口の状態からして、淡いよりはもう少し濃いめの期待を寄せていた東口であるが、
箸にも棒にもかからない状況だった。
(尾根越え開始25分後)
でも間違いなくここだな……。
ほぼ下りきった所で、スギ林の中をカーブしながら伸びていく道形が見えてきた。
こちらは案外に状況が良さそうで、その一端が明確にすり鉢状崩壊地形にあることで、
完全に言い逃れが出来ない状況となった。
9:09〜9:19 《現在地》
大風沢西隧道の東口跡地に到達。
おそらく本来は西口同様、岩盤に深い掘り割りを穿ち、その奥の壁に坑口があったと思うが、
西口とは比較にならない量の堆積物によって掘り割りのほぼ全体が埋没していた。
しかも堆積物には大きな岩塊が多く混じっており、人力で隧道を掘り当てるのは無理だ。
しかし、この隧道が廃道として過ごした時の長さを考えれば、むしろこれが普通だと思う。
西口の状況は本当に奇跡的に良好だったと思う。
これでいよいよ西口だけが洞内へ入れる唯一の可能性となったが、
いまから戻って単独での掘り返しを再開する気力はない(山越えに30分近くかかっていた)。
それに、この道の続きが大変気になるので、西隧道についてはこれにて探索終了とする。
この廃道を行けば、200m以内でもう1本の隧道に辿り着くはず。
そして平成2年当時には、その隧道の東側は口を開けていた可能性が高い。
探索は、ここから後半戦へ!
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