今回の県道の不通区間にはいくつか特徴があったが、その最たるものは、不通の距離が短いことだと思う。
現在、赤磐市と和気町の境界付近は自動車では通り抜けできないが、その距離はわずか500mほどでしかなく、かつ両市町側から車道の終点までは自由に通行可能である。(狭かったり、やや荒れていたりはするが、封鎖がない。)
そのうえ、車道の両端には、それぞれの市と町の側から不通の解消へ向けた車道の作設がいくらか進められた痕跡まであった。
道路の不通区間というのは、短ければ短いほど、「あともう一歩で開通だから」という後押しが働いて、開通に至るケースが多いだろうことは容易く想像できる。
したがって、水域への未架橋を理由とする不通区間を除けば、極端に短い不通区間というのは、国道や県道のような格式を持った道路では、あまり見かけることがないのである。
統計を取ったわけではないが、感覚的に、不通区間の長さが1kmを下回ることはかなり少ないはずだ。
今回、この短い不通区間を実際に歩いて踏破したが、廃道化した古い歩道が存在しており、それなりに険しいものの、現代の感覚ではトンネル1本分の長さでしかなく、不通区間を挟んで対峙する稲蒔と津瀬という集落間がおおよそ4km離れていることと比べれば、あと500mというのは、「あと一歩のところ」まで来ていると感じられる距離だと思う。
こんな、「あと一歩」の県道が、いまの状況に至るまでにはどんな歴史を辿ってきたのか。
机上調査を試みたが、マイナーな県道であり、得られた情報は多くはなかった。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和47(1972)年 | |
B 昭和7(1932)年 |
まずは常套手段から。歴代地形図を比較してみた。
昭和47(1972)年版だと、案の定、不通区間が現在よりだいぶ長かったのではないかと思われる表記になっていた。北側は稲蒔集落の外れまで、南側は津瀬集落の外れまでが「軽車道」の表記で、そこから先の約4kmの内訳は、3kmほどが「徒歩道」で、1kmほどは全く表記がなかった。
ウィキペディアによると、県道和気吉井線の県道認定は昭和48(1973)年12月14日であるとのことで、県道昇格後に不通区間を解消するための車道整備が本格化したというのは、想像しやすいストーリーといえる。
そこからさらに大きく遡って昭和7(1932)年版になると、今回の現地探索で目にした不通区間内を結ぶ廃道(歩道)らしき道が、「小径」という最も低規格の道路を示す記号で現われる。
しかし、「小径」として描かれているのは、現在でも車道がない500mほどの区間だけであり、その前後はいずれも「里道」として表現されていた。
稲蒔側は、里道の中では最も低規格である「間路」、津瀬側は里道としては中規格の「聯(連)路」として表現されているが、これらの表記の分け方は当時の道路法と無関係に行なわれたものらしく、この時期の書き分けの基準ははっきりしていない。
しかし、この時代から既に津瀬と稲蒔を結ぶ全区間に道は存在していたことが分かると共に、特に現在も車道が開通していない市町境付近の500mは、前後より規格の低い道だったことも窺える。
ちなみに、現在の赤磐市と和気町という自治体の名前も時代ごとに変遷しており、現在の市町境が町境や村境、そして郡境であった時期もある。
地形が人々の生活圏を区画する最も基本的な要素であり、自治体の境界がそれを倣うものである以上、たった500mの不通区間になっている境界付近は、古くから大きな障害として人々には認識されたのだろう。
『改修赤磐郡誌』より
次に私は、国会図書館で見つけた『改修赤磐郡誌』という文献を読んだ。
これは昭和15(1940)年に赤磐郡教育会が刊行した郡誌を、昭和55年に再版復刻したもので、内容は昭和15年のものである。
各地の郡誌の慣例に漏れず、同書には「交通」の章があり、そこには平成19年に全所属町村が消滅した赤磐郡の交通網の概要が解説されていた。
郡内に存在した国道および県道の一覧も掲載されていたが、そこに今回探索した県道と重なるものはなかった。
つまり、昭和15年当時、県道和気吉井線はもちろん、その前身と言える別名称の県道も存在しなかった。
だが、巻末に掲載されていた昭和15年12月現在と注記のある「最新赤磐郡地図」に、ようやく稲蒔と津瀬を結ぶ道路の表記を見つけることができた(右図)。
凡例によると、道路は「国道」「県道」「主要道路」の3種類に区分されており、当該路線は「主要道路」として表現されていた。
この「主要道路」が当時の旧道路法におけるどのような道路を示しているかは明示されていないが、県道と市町村道の間にかつて存在していた「郡道」相当の幹線道路を、郡制廃止後、便宜的に表現したものではないだろうか。
当時は、吉井川を境に西側が赤磐郡、東側が和気郡と綺麗に分かれていた。
現在は市町村合併によって和気郡が川の西側まで入り込んでいるが、長い間、川で分かれており、郡内交通路の完成を他郡の道路網に委ねたくないという自然な考えから、吉井川の西岸にも道路が必要だと考えたことはあったと思う。(東岸には古くから津山街道と呼ばれた幹線道路があり、昭和15年当時は県道だった。現在の国道374号である)
おそらくこの西岸の道路は、大正時代に旧道路法が制定された時期に、赤磐郡の東縁を走る郡道として指定されるも、郡制廃止後はさほど重視されず、郡道から県道への昇格を果たせず、佐伯北村と佐伯本村を結ぶ村道へ降格したのだと思う。
しかし、地図をよく見ると、先ほどの昭和7年の地形図がそうであったように、村境の前後だけが点線で描かれている。
この点線は凡例に説明がなく、また図中の他の場所にもみられない特別な記号である。
だから、意味は想像するよりないが、「未整備」「未開通」あるいは「建設中」、これらのどれかの意味であろうとは想像できる。
また、津瀬集落の北の道路沿いに「バッテン」の印がある。
この印も凡例に説明がないが、いわゆる鉱山の記号であろう。
現地では気付かなかったが、今回後半戦で探索した沿道に、何かの鉱山があったらしい。
その位置はおそらく……、川べりの路傍に【墓石】が立ち並んでいた辺りだ(左写真)。
この位置に鉱山があったとすれば、西岸に道路を整備する原動力となった可能性がある。
どのような鉱山であったかを調べようとしたが、郡誌には記述がなかった。
しかし、昭和27(1952)年2月の『日本鉱業会誌 764号』に、含銅硫化鉄鉱床として「津瀬鉱山」の名前が出ており、「吉井川の右岸の峭立したるところ」に鉱床があることが出ていた。
また、地質調査所が昭和40(1965)年にまとめた『地質図幅説明書「周匝」(すさい)』には「佐伯鉱山」の名前があり、「佐伯町津瀬北方約2kmの地点にあり」「明治初期からベニガラの原料として開発され、昭和17〜19年に270t、昭和29年に17t出鉱したが、現在は休山している」とあった。
さらに、『角川地名大辞典岡山県』の津瀬の項にも、「明治20年頃から津瀬鉱山が開かれ、鉱夫30人で銅鉱を現地製錬し、粗銅を小串や大阪へ送った。大正期まで継続されたが、第一次大戦後閉山」とあった。
おそらくこれらは同一箇所で稼行された鉱山であり、初期には銅、後期には酸化鉄の一種で赤色顔料として広く利用されたベンガラ(ベニガラ・紅殻)を採取していたようだ。
ただ、あまり規模は大きくなかったようで、西岸に車道を貫通させるには至らなかったのであろう。
それでも、津瀬集落と現地を結ぶ“片側白線”の激狭道路(右写真)は、鉱山経営の生命線であったはずで、鉱山経営の初期に開発されたのではなかったか。
鉱山関係で道路整備が行われた部分があったと想像はできるが、明確な資料はなし。
ほかに、吉井川で昭和初期まで盛んに行われていた高瀬舟を用いた舟運との関係も探ってみたが、道路整備との関わりは明確ではない。
吉井川沿いに片上鉄道が全通した昭和6(1931)年まで、沿川の物流の大半はこの舟運が担っていたようだ。だが鉄道の開業によって舟運が廃れ、さらに並行する国道の整備や、鉄道建設の原動力だった柵原(やなはら)鉱山の衰退によって、鉄道も廃れた。最後に残ったのは国道で、県道は全通せずにいまに至っている。
「これだ」という決め手がないのでもどかしいが、一つの道路がいまある姿になった過程をつぶさに説明できることなんて、本当は稀なのだ。
誰が、どういう目的で、いつ整備したか、そういう記録が残っている道路ばかりではないし、仮にそういう情報がどこかにあったとしても、私がそれを手にする手段は少ない。
次に、西岸の道路が県道和気吉井線に認定された後の整備についても調べてみた。
まず県道認定の時期だが、ウィキペディアは昭和48(1973)年12月14日、和気町の公式サイトにある年表では、昭和49年の欄に「町道和気吉井線県道に昇格」と、「県道津山備前線国道374号に昇格」が2つ並んで書かれていた。
吉井川の両岸の道路がそれぞれ町道から県道に、県道から国道に昇格したのが同じ年だとすれば、これはおそらく偶然ではなく、競願か併願か分からないが、両者の請願活動に関わりがあったことを感じる。
そしてその後についてだが、「県道和気吉井線整備促進期成会」が存在していたことが判明した!
現代における地方の道路整備は、基本的に行政への陳情によって実現している。
この陳情は、個人個人が行うよりは、関連する自治体が整備促進期成会のような任意団体をつくり、その代表が行うことが普通である。
世の中には不通区間を抱えている道路が沢山あるが、その全てに整備促進期成会のようなものが存在するわけではなく、これが存在するということは、自治体としての一定の本気度を示すものといえるだろう。
我らが県道和気吉井線についてこうした団体があったということは、現地でいろいろな部分から感じた“仄かな未成臭”が全くの偽臭ではなかった可能性が高いことを意味している。
全通へ向けた具体的な活動が、あったはずだ。
県道和気吉井線整備促進期成会は、赤磐市議会議員・知徳義明氏のブログの記事によると、「県道和気・吉井線を早急に改良整備し、地域経済文化の発展と住民福祉の向上に資することを目的として、平成元年に発足
」しており、2015年当時の構成員は和気町と赤磐市の町長および市長、議長、産業建設委員長などであったそうだ。
活動内容として、メインの陳情活動の他、毎年1回程度の総会や、現地の視察なども行っていたことも分かった。
文書『今後の道路行政についての意見・提案の提出について(回答)』より
また、平成20(2008)年といえばまだ最近だが、この年に和気町長が国土交通省道路局長に提出した「今後の道路行政についての意見・提案の提出について(回答)」という文書がある。
これは各地方自治体が道路整備について国に直接陳情を行う絶好の機会であって、和気町でも国道374号の整備促進、老朽化している和気橋の架け替え、主要地方道岡山赤穂線のバイパス整備などを要望しているが、そこに「県道和気・吉井線の整備促進について」という項目があった。
曰く、「本路線は国道374号線の対岸を走る県道で、和気町と赤磐市を結ぶ地域間連絡道路として、また、国道374号線の迂回路として必要不可欠であり、地域間の連携を深め、広域的な生活圏を形成する上で、その整備が地域の活性化に果たす役割は非常に大きいものがあります
」と、その意義を強調した上で、「しかしながら、和気町津瀬地区で未供用区間があり、また、幅員狭小箇所が多数存在しており、通行に支障をきたしているのが現状であります
」として、「和気町津瀬地内の未供用区間の早期完成
」を要望しているのである。
まあ、こういう陳情を国交省の担当者は果てしなく読まされているだろうから、「これは真に重要そうだから採択しよう」とはならなそうな平凡な陳情だ。対岸に国道374号があるので、その迂回路になるというくらいのメリットじゃなぁ…。
まあ、この時期まで、整備促進期成会の構成員でもある地元自治体が、不通区間の開通を諦めていなかったことの証明にはなった。
だが、さらに調べを進めていくと、この県道にとっては最後の希望とも思えた整備促進期成会が、平成28年9月30日をもって解散していることが判明…。
平成28年の和気町議会定例会会議録によると、この年の8月8日に最後の総会が開催され、「当初の目的を達成した会は本年度を以て解散すること
」が承認されたそうな。
えっ、当初の目的を達成した?!
開通してなくない?
素人の私ならそう思うが、そこは海千山千の政治世界の話なのだ。
どうやら、いつの間にか(本当にいつの間にか)、整備促進期成会の目的は、全線開通ではなくなっていたようなのだ。
赤磐市議会の平成28年9月定例会の会議録に、県道和気吉井線の整備に関するやり取りがあった。
なんでも、平成10(1998)年の激甚災害で大きな被害を受けた稲蒔地区の堤防を、県道和気吉井線と一緒に県で整備することになっていた。
しかし、それから18年もの間、地権者との問題などがあって進展せず、それがようやくこの年に解決して、整備完了の目途が立った。
期成会の初期からの会員だという議員が、こう発言している。
「私もこの中で県道和気吉井線の期成会へ最初から入っております。今回初めてこういうことができるということで、期成会も来年の3月には解散ということになりましたが、それもいたし方がない、事業進捗できて、これで所期の目的はほぼ90%ほど解決できたんではないかということなっとります。本当にありがとうございました。
」と。
……90%も解決できてるかなぁ…。
ピンと来た人がいるか分からないが、レポートの序盤、稲蒔地区で私が目にした奇妙な県道の風景(右写真)は、この話に繋がっていた。
この部分の堤防と県道を一挙に整備しようとしたが、地権者との交渉が長引いて、おそらく計画を何度かいじってようやく現在の(見た目にやや不自然さがある)道路ができた。
これが、期成会が「90%ほど解決できた」と自負する18年の成果であったのだ。
果たされなかった不通区間の解消は、残りの10%に押し込まれた。
期成会は平成28年度末に解散した。
いよいよもう、この県道の整備を声高に訴える政治家はなくなっただろう。
終わりだ。
負けだ。
……なんて書くと、弱小道路を愛してしまう私の判官贔屓も度が過ぎている。
ぶっちゃけ私だって分かっているさ。こんな道路まで全て整備していたら、国が破綻してしまうとね。
少し地図を見れば、もう充分だと分かるよ。
確かにこの県道は繋がらなかったが、少し広域に目を向ければ、本県道の4kmほど西側の山中に、高速道路と見紛うばかりの自専道である「美作岡山道路」の整備が進んでいて、遠からず全線開通の予定なのだ。
これが国道374号の迂回路としては格好の存在だ。さすがに、いまから中途半端にしょぼい県道の不通区間を何百億円もかけて解消する必要はない。
しかし、いまの決着に至るまでには、いろいろな曲折があったことは、現地の風景から透けて見えたりする。
右の写真の所もそうだし、不通区間の両端にあった短い工事跡なんかも、たいへん想像を掻き立てる。
こういうところが、道路探索のたまらなく面白いところだと思っている。
@ 昭和22(1947)年 | |
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A 昭和39(1964)年 | |
B 昭和50(1975)年 | |
C 昭和55(1980)年 | |
D 平成2(1990)年 | |
E 平成6(1994)年 | |
F 平成17(2005)年 | |
G 平成23年(2011)年 |
最後に、これをどう使うか少し持て余し気味な、やり過ぎた感のある歴代航空写真の比較を紹介しよう。
昭和22(1947)年から平成23(2011)年まで、全部で8枚の航空写真を重ねてみた。
やったことのある人は分かると思うが、縮尺も角度も異なる航空写真を重ねるのはなかなか根気のいる作業で、8枚ともなると2時間くらい作業した。
机上調査では分からないことも多かったので、航空写真の暴力で解決しようとしたわけだ。
こうしてずらずらと眺めると、見えてくることがいくつかある。
たとえば、津瀬鉱山(佐伯鉱山)の位置だ。
@とAの地図にはそれらしい地肌が写っていて、確かに墓石があった辺りの山だと分かる。
また、DとEの間で、赤磐側の車道末端付近の道路が明らかに鮮明に見えるようになったのは、この時期に「重機を使った」末端部の工事が行われたからかも知れない。
そこへ通じる道全体も、重機を通すために刈り払いなどを行って、それで鮮明に見えるようになったのかも。
ちょうど期成会ができたすぐ後くらいで、一番熱意を持って活動できた時期でもあろうしな。
それにしても、不通区間で見た【「岡山縣」の標柱】は、いつ整備されたものなんだろう。
「縣」の字を使っているから、古いもののように思ったけど、県道に認定されたのが昭和48年だとすると、それより前ではないだろう。
まあ、字体だけで古いものだと判断するのも、乱暴な話かも知れないがな。
もしかしたら、今回まだ見えていないストーリーがあって、県道に認定されたことが2回目だった可能性も、ゼロではない。
地元の方からの情報提供も、お待ちしております。
やはり遠くに住んでいると、市町村史なども入手の難しいものがあり、マイナーな路線だとなおさら机上調査が難しいです。でも、少ない手数で調べるのもまた楽しかった。