平成7年7月11日、小谷村。
朝から梅雨前線の影響で、小雨が降ったり止んだりする生憎の天気だった。
そして、この日の午後3時頃から本降りになった雨は、まもなくバケツをひっくり返したような豪雨となって、
ほぼ夜通し降り続いた。
そして、翌12日午後に雨脚が弱まるまでの24時間雨量が400mmを超えるという、「集中豪雨」となった。
「7.11豪雨災害」といわれるこの豪雨による死者は2人(いずれも小谷村外である)。
10000人以上が避難を余儀なくされ、
被害地域が山間急傾斜地であったことから、特に鉄道や道路などの破壊は甚大で、復旧に数年を要した。
「下寺洞門」が永遠に地図から消えたのも、この日である。
本災害の報告書としては、「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」と「小谷村梅雨前線豪雨災害の記録」が刊行されている。
今回は前者に掲載されている写真を借りて、下寺洞門の被害状況を時系列順に見ていこうと思う。
@
「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
キャプションには「国道148号下寺洞門倒壊前」とある。
左山右谷の地形から南口(下寺側坑口)と分かるが、
山が崩れて大量の土砂が坑口前を埋め尽くしており、この時点で通行不能は明らかだ。
だが、実はこの写真が撮影された時点で、既に内部の倒壊が進んでいた。
同時刻に撮影された次の写真(キャプションは同じ)が、それを明らかにする。
A
「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
川がッ!
濁流となった姫川が路肩を浚い、
いままさに洞門を流し去ろうとしている!
この写真は私にとって衝撃的であった。
災害が起きるまでの国道は、姫川と山の間の狭い隙間の、動かしようのないところを通っていたのである。
これで私の疑問(旧道は何故こんな山際にあるのか)のひとつは、完全に解決した。
と同時にもう一つの疑問(洞門が陥没した状況が分からない)も、解決した。
真相を語るに十分すぎる写真だった。
B
「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
キャプションは「下寺洞門の倒壊(12日李平より写す)」である。
見てお分かりの通り、これは対岸に姫川右岸から撮影した写真である。
既に数スパンの洞門が流出しているのが分かる(矢印の箇所)。
今回私が潜った「傾斜洞門」は、一番左の赤矢印の1スパンだが、
それ以外の(最低)3スパンはどこへ消えてしまったのか…。
この通り、現地にないことは確かだ。
「傾斜洞門」は、半ばまで流出しつつもなんとか陸地に残った、
まだ幸運な1スパンといえるのかも知れない。
そして先ほども書いたとおり、旧状と現状を比較した際の最大の驚きは、
姫川の川岸が50m以上も後退しているという事実であった。
温泉のポンプがある空き地と国道敷は、かつてすべて河中であった。
それが、災害復旧工事の課程で埋め立てられたのである。
国土地理院発行5万分1地形図(昭和50年編集)「小滝」より転載
昭和50年当時の地形図を見ると、確かに国道と姫川は隣接しており、空き地は無かったことが分かる。
山の膨らみが川の流れにぶつかる位置が下寺洞門の所在地であり、そのような地形の特徴として崖の記号も描かれている(この崖は現在も描かれている)。
前出「災害記録誌」の記述によれば、「姫川水は李平の大月平に当り、その反動でスノーセット南口に直角にあたるようになった」とある。
つまり、地図上に赤い円で示した崖の上が大月平であり、ここに反射した流れが高くうねって、ピンクの円で示した洞門一帯の岸を浸食したということである。
この流れ方は長い間変わっていなかったが、7.11の洪水は200年に一度と推定される規模だったという。
参考までに、現在の地形図に見る下寺洞門一帯の様子。
現在の国道が通っている位置はかつて川の中だったが、災害当時建設省が建設を進めていた国道148号「塩坂バイパス」は、河川堤防を兼ねる築堤となって平成9年に完成した。(災害の2年後)
その際にルート自体の計画変更があったのかは不明だが、下寺洞門の多くのスパンがまだ新しかったことを考えれば、おそらくルートも変更されたものと考えられる。
(なお、小谷村内の国道の被災箇所はここだけではなく、随所に多大な被害を及ぼしたが、ここでは触れない)
引き続き「災害記録誌」の写真や記述を参考にしつつ、洞門被災の顛末を見ていこう。
C
「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
これは表紙に使われていた写真ゆえキャプションがないのだが、状況から判断して、前出3枚(@〜B)の写真よりも後に撮影されたものと判断できる。
川がだいぶ減水しているので、13日以降に撮影されたものではないだろうか。
これが@やAの写真と決定的に違うのは、「傾斜洞門」のある中央部分の倒壊だけでなく、南口(坑門)のワンスパンが流出しかかっていることである。
洞門の下は洗掘されて空洞となり、手前の路面からは既に切断されている。
傾斜洞門とは違ってほぼ水平を保ってはいるが、移動した距離は5m近いのではないか。
本来ならば地山に深く埋められている「控え壁」も坑門左側に広く露出し、洞内の路面も破壊されてコンクリートが覗いているという、惨憺たる状況である。
Cの写真を現状と比較すると、坑口前に所在なさげに並んでいた傾いたコンクリートの擁壁が、実は2スパン分の洞門の一部であったことが判明した。
左右の写真の赤く着色した部分が、同じ箇所である。
そして、カーソルオンでピンクに着色されている部分は、コンクリートの風合いが周りと異なっているのだが、復旧工事の支障になったという理由からだろうか、人為的に破壊されてしまったようである。
ゆえに下寺洞門南口に掲げられていた扁額は、所在が分からない。
D 「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
キャプションは「島側から見た下寺洞門」とあり、減水直後の「傾斜洞門」と思われる。
現在は埋め戻され、内部にはいることは出来ても地上に現れていない部分だ。
洞門の崩壊は、まず中央部分から始まったらしい。
11日夜9時頃に付近の浸水した工事現場から重機を避難させるため、一般車両の通行が途絶えた洞門を通行した工事関係者が、「ミシミシと云っていた」のを聞いている。
崩壊の瞬間は目撃されていないが、翌朝には既に崩壊していた。
続いて南口坑口が倒壊しはじめたのは、12日の午前7時頃と記録されている。
(@とAが撮影されたのは、それ以前の12日早朝であるようだ)
こうして下寺洞門が不通となったため、再び減水して川原に仮設道路が出来るまで、小谷村の南北は完全に寸断されてしまった。(対岸のJR大糸線も寸断)
「災害記録誌」には、まだ雨の止まない時間に命がけで崩れゆく洞門の屋根を伝い、山裾を這って行き来した村人の話が掲載されていて、背筋が凍る思いがする。
E
「7.11 北小谷豪雨災害記録誌」より転載
キャプションは「国道148(下寺地区)道路復旧工事」であり、「災害記録誌」に掲載されている下寺洞門関連の写真では、最も後に撮影されたものである。(写真右下のプリント日が「96.6.9」とあるので、災害発生11か月後と思われる)
既に川原を大々的に埋め立てての復旧工事が進んでおり、アスファルトが敷かれている所が仮設道路、その右側の重機が多数見える平場が現国道の建設現場である。
この時点では「傾斜洞門」の現存は確かめられるが、南口の崩壊した坑口は現状同様に切り崩され、奥の流出した洞門の所在も見えなくなっている。
片付けられたのかも知れない。
そしてこれが今回私の撮影した、平成22年5月現在の下寺洞門である。
ACEの写真とほぼ同アングルの写真だ。
レポの本編中で、私は自分の想像力の欠如をしきりに嘆いた。
しかし、写真の中の変化を見れば、無理からぬ事と慰められる気がする。
現状の風景からは、河畔で濁流に没した“洞門の最期”を想像することは難しい。
こんなコンクリートの壁が洞門の一部だとは思わなかった。
(南口に隣接して存在する、2スパン分の残骸)
災害は、地域とそこに暮らす人々に、有形無形の様々な傷を残す。
それらの遺構を嬉々として観察する自分に、後ろめたい所が無いと言えば嘘になる。
しかしこのような「災害廃道」は、
その規模や、元来の公共性という観点から見ても、
災害の記憶を継承すべき最大の適任者であると思う。
あなたの「記憶」は無駄にはしない。
だから、どうか安らかに。