2010/5/18 14:37
緑の草原に分断された道の先に現れた光景は、何とも理解に苦しむものだった。
土の中からニョキニョキと生えている洞門。
本来ならばトンネルを疑うべき光景だが、“出口”などどこにもない。
…遅すぎると言えば遅すぎたかもしれない。
だが、この時はじめて私は、
目の前にある洞門の、最期の場面を想像することが出来た。
突然の土砂崩れによって幕引きを余儀なくされた、「災害廃道」だったのではないか。
そう考えれば、妙に新しげな洞門も一緒に放棄されていることや、すぐ隣とはいえ、まったく同じ場所に現道が“復旧”されなかった事の説明も付くではないか。
改めてこの場所を現在の地形図を見てみる。
現道の山側に広がる、不自然といっても良い空き地。
それが旧道のあった場所である。
一部に「擁壁」を示す記号が描かれているが、実際にそこにあるのは“土ニョキ”の洞門である。
カーソルオンで私の動線(紫線)と、現存する2本の洞門を表示する。
“土砂崩れによる廃道”という想像が真であるならば、この2本の洞門はひとつのものであったか、そうでないとしても、それぞれがもっと長く両者は接近していた可能性が高い。
とりあえず、次に行くべき場所は決まっている。
あの、“土ニョキ”の場所へ行かねば。
なお、その手前の低い柵で囲われた2箇所は、温泉を汲み上げるポンプであった。
経緯はしらないが、この場所からは温泉が出るらしい。
洞門の中を通って接近しようと思ったが、それは出来なかった。
なぜなら、この洞門も前回紹介した北側の洞門と同様に内部が車庫として使われており、柱と柱の間など、隙間という隙間は全てメッシュ状の板で塞がれていたのだ。
そのため私は洞門の庇(ひさし)の下を通って、問題の地点へ近付いた。
大抵の廃道にはいくらかの既視感を感じるようになっている私だが、今回はちょっと先が読めない。
辺りには全く人影の無いにもかかわらず、突如誰何の声がかかるのではないかという不安を感じた。
何かにビクビクしていた。
私の不安を他所に、誰に邪魔されることもなく辿り着いた、“土ニョキ”のポイント。
遠目には単なる土の山に見えていた部分の正体は、コンクリート製の“謎の構造物”だった。
「正体=謎の構造物」 というのもいい加減すぎる話だが、とりあえず現状での私の認識はそれしかない。
正直いまからふりかえると、この場面での私は、少々想像力を欠いていたと反省をする。
もうすこし「小谷村の過去」について、考察してみることがあっても良かったのではないか。
私の“鈍さ”が、まもなく訪れる“驚愕の瞬間”の前提となったことも事実なのであるが…。
柱と柱の間を塞いでいたメッシュ板が、末端の数本前でようやく途切れたので、ここから内部に進入する。
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ぞくっ…
「廃」だ。
この区間では最初の「廃」。
核心…だ。
左に行くことは出来ない。
無機質な波トタンの壁が、密閉するようにきっちりと塞いでいた。
これより右側だけが、人の手放した、廃の領域ということになる。
出た・・・。
洞門が、押し潰されてる…。
さきほど見立てた通り、
大規模な土砂災害が、
この屈強な洞門を一撃で駄目にしてしまったのか。
当然、私の足はここで止まらない。
物欲しげに口を空けた、崩壊洞門の内部へ…。
!
意外なことに、
洞門自体に目立った破損は見られなかった。
外壁もアスファルトの路面も、なお現役といって通じそうな風合いである。
これはワンスパンの洞門が、ただ土中に温存されているようである。
ただし、
上の画像にはひとつだけ 嘘 がある。
次は唯一の嘘を糺した、真実の画像である。
傾斜洞門。
この結末は完全に想定の範疇外だった。
いままで数多くの廃洞門を目撃してきた。
中には、いままさに落石に押し潰されんとしている洞門(※)や、ダム湖に水没しかかっている洞門(※)など、変わり種はたくさんいた。
しかし、今回のような物は初めて見る。
すなわち、圧壊するでもなく形を保ったまま、倒伏しているのである。
この写真を見てもらいたい。(→)
右に写っている柱は正位置だから、それより奥の洞門がほぼ45度の角度で右側に倒伏していることが分かるだろう。
今度は倒伏した洞門の内部から、北側の(正位置である)洞門をふりかえって撮影している。
私は見たこともない廃道風景の中に身を置き、そのとてつもない興奮の捌け口を、ひたすらカメラのシャッターに求めた。
俄には信じがたい光景だった。
洞門は確かに崖の下にありはしたが、路肩が弱そうな不安定な場所ではない。
地面が陥没したのでない限り、こんな姿に変わり果てるはずがないのだ。
しかし、これは現実の光景なのである。
当初予想したような結末ではなかったことは間違いないだろう。
つまり、崩れ落ちてきた岩塊にしたたかに打ち据えられたのではない。
もしそうなら、圧壊こそすれ、地面にめり込むなどと言うことがあろうはずない。
これはもう、地面の陥没しか考えられない。
洞門は、最も浅いところでも1m以上本来の路面から沈下しており、そこには切断された路面が無残な断面をさらけ出していた。
私はようやく、下寺洞門崩壊の真相の糸口を掴んだ感じを持ったが、結局最後まで自力で正解に辿り着けなかった。
それほどまで現状と旧状の乖離は大きく、地形そのものが変貌を遂げてしまっていたのだ。
深いところは地表から5mも沈んでいる“傾斜洞門”の内部へと潜り込んだ。
そこで見るあらゆる景色は、私の平衡感覚をこてんぱんに嘲った。
眼前に立ちはだかる、斜度45度の路面。
常識外の風景だが、
そこに見慣れたアスファルトと白線が敷かれてる異様。
埋もれた洞門はワンスパンで、その長さは約10m。
この写真は北端部分だが、大量の土砂で塞がれており、人が通れない僅かな隙間で地上と繋がっていた。
ありきたりな「落盤閉塞」ではない。
こちら側が“堕ちた”ので、地中に潜り込んでしまった。
放棄された電信線が、あり得ぬ方向から虚空を走っていた。
このあり得ぬ眺めは、記録写真に徹する私が写真心を動かされるほど、フォトジェニックだった。
大小2つの入口からのライティングを含め、全てがお膳立てされているかのようだった。
無個性な洞門が破壊された瞬間、
おそろしく芸術的な何かを現出させた。
しかし、その要素は洞門自体に胎蔵されていたのだと私は思う。
だからこそ、私は道路とその眷属に強く惹かれる。
要はひと言、
美しい。
しかし、美しさに骨抜かれている場合ではない。
私はオブローダーである。
この洞門に何が起きたのかを私なりに観察し、推測し、道路として迎えた最終場面を想像したい。
その重大なヒントは、最も地中深くに埋没してしまった路肩側にあった。
空気の流れの乏しいその部分は、周辺に較べてひときわ土の匂いが濃く、廃隧道の闇を隠していた。
居心地の悪い場所であったが、あえて身を潜らせる。
本来は地上であるはずの洞門の庇の下の空洞。
そこは当然閉塞していたが、末端部につまっていたのは土砂ではなく、大量の枯れ木であった。
洞門がズブズブと地中に埋没しただけならば、この場所に空洞ができるはずはない。
そして、大量の枯れ木などあろうはずもない。
ここで初めて私は、「土砂崩れ」→「陥没」と来た推測を、より正しい方向へと向上させることが出来た。
地中に埋もれた大量の枯れ木は、おそらく川の流れが運んできたものだ。
この洞門の最後の場面には、きっと「川」が絡んでいる!
改めて地上にある洞門の柱を見ると、激流に触れた痕跡を発見した。
柱にこびりついた泥は、天井に達するほどの勢いで筆を叩いたように飛び跳ねていた。
次に地上に戻り、傾斜した洞門の屋根に取り付けられた作業用の足場を通って、上へ登ってみた。
洞門ワンスパンが本来あるべき山腹接線を離れ、姫川の方向に45度弱傾斜している状況が見て取れた。
特に山が崩れてきて押し出したような痕跡も無く、やはり路肩が自壊したということなのか。
ここから姫川の川べりまでは、広場と現国道を挟んで50m以上も離れている。
そのため姫川の氾濫が直接洞門を破壊したとは考えなかった。
前回紹介した北側の洞門の前にある擁壁も、やはり洞門を受けるための壁だった。
そしてこれは後日に一帯の管内図を見て分かったことであるが、ここに建ち並んでいた洞門は合計2基で、北側が「下寺1号洞門」、南(手前)側が「下寺2号洞門」といったそうだ。
区切りの位置がどこであったかはよく分からないが、両者は近接していた。
山裾に連なる洞門は作り自体が古くないため、遠目には「廃」を少しも感じさせない。
そもそも地形的に見れば、なぜ洞門が必要になるほど山際に道を通したのか理解できない。
現国道の位置でも良いし、せめて私が立っているこの辺りまで道をずらしていれば、洞門ではなく雪崩留めの擁壁だけで済んだのではないか。
こんなツッコミを真顔でするほど鈍感であった私を恥じるが、これだけ広大な平地が“天与のもの”ではないとは、正直思わなかったのだ。
今度は南口に行ってみよう。
その先は下寺集落だ。
「山行が」生まれ。ヨッキれんが執筆に加わった本たち。
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廃線探険を提唱 |
14:50 《現在地》
なにやら出口もおかしげな事になっていた。
坑口の前には分厚いコンクリートの擁壁が、道を押しつぶさん勢いで傾斜していた。
しかし、今すぐ倒れてくる危険は無いと判断されているのか、特に立入を禁止している様子はない。
これも災害によるものか。
銘板のない坑口から、無事である洞門へ入る。
予めワンスパン先で封鎖されているのが見えた。
堅い扉で封鎖された洞門内には、先ほども側面から覗いたとおり、大量の除雪車輌が出番を待っていた。
ここからはカーブの先の「閉鎖地点」は見通せないが、約100mある。
そのすぐ先が「傾斜洞門」であるわけだが、そんな死の風景とは無関係を装うようにして、生き長らえた数スパンの洞門たちが余生を送っているのである。
私には、この平穏を破ることは出来なかった。
数年前までは現役の国道であった洞門が、まだ新しい姿のまま交通網から切り離されている。
これぞ「災害廃道」の象徴的な風景といえるだろう。
洞門に限らず、道路というのは連続性があってこそのものだけに、一部の廃止がまとまった量の廃止を連鎖する。
人はそこにものの憐れを憶えはしても、顧みることは多くない。
これまた、所詮はインフラであるものの宿命なのだろう。
“謎の傾斜した擁壁”を残火のように留めた下寺洞門(1号/2号)も、これにて終わり。
唐突に新しい装いをまとった「旧道」が割り込んできた。
この先にあるのが下寺の集落であり、綺麗に平行する現道と旧道の間に「道の駅小谷」があって、ドライバーたちの憩いの場となっている。
現代の“塩の道”を守る、ロードサイドの小集落である。
この区間の探索はこれにて終了である。
結局私は、現地において下寺洞門の最期の場面をリアルに想像してやることが出来なかった。
私の想定を超えた事象が起きたと思うより無かった。
そして、
その答えは、
後日、一冊の本が教えてくれた。
いまから15年前の平成7年7月11日。
その日に撮影された「下寺洞門」南口の写真には、「扁額」が写っていた。
路上は既に泥濘に沈み、通行できそうにない。
見ている私にも、災害現場の緊迫した空気が伝わってくる。
下寺洞門の最期の姿だった。
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