国道156号 大牧トンネル旧道 中編

公開日 2014.06.09
探索日 2009.04.30

北口脇から、大牧トンネルの旧道へGO! 


2009/4/30 8:30 《現在地》

これが、大牧トンネル南口付近から見た、旧道の姿である。

確かに道があったという痕跡は見て取れる。
路肩の擁壁や、その先に続く微妙な平場の断続的連続など…。

だが、直前に見た駈足谷橋の旧道で恐れていた展開は、現実のものとなった。
現道開通後、おそらく速やかに放棄されたと思われる旧道は、豪雪の山腹に放置されること30余年にして、その国道であった過去をまるで喪失してしまったように見える。

良かろう。
望むところ。
季節的には、今がベストシーズンであるはず。
現道がトンネルで失ってしまった庄川峡の車窓を独り占めに出来るのならば、苦労のし甲斐もありそうだ。




とりあえず「大牧とんねる」の扁額が掲げられた坑口から洞門に入り、急な左カーブで90度近く進路を変えると、正面に洞門とは異なるオレンジ色の空間が見えてきた。
出口まで見通す事が出来ないそれは、全長1330mを誇る大牧トンネルである。

そして旧道の分岐は、その本当の坑口の直前にあった。
一応自動車でもここを曲がって、旧道のある“外”へ出る事までは出来るし、禁止もされていない。
ただ、後続車がいたら追突されそうで怖ろしい。

いよいよ、旧道探索が始まる。




初っ端から、これである。

遠目に見た時から予感はしていたが、やはり旧道は完全に廃道化しているようだ。
地形図に描かれていなかった時点で、十中八九分かっていたともいえる。
問題は、その状況如何である。

まず、自転車についてはこの時点で持ち込みを辞退させて頂くことにした。
無事に探索が終わってトンネルの反対側に脱出出来たら、トンネルを歩いて回収しに来れば済むことだ。
多分、この状況の廃道を自転車を持って無理やり突破するより、結果的には短時間で攻略出来ると判断した。
(一番やってはいけないのは、ダラダラと途中まで自転車を持ち込み、回収にまで手こずる羽目になることだ)



早速の道の見失いっぷりに驚かされるも、崩れ落ちた上に突き固められた土砂の山の根本、本来の路面があった辺りに目をやれば、ちゃんとその痕跡を見て取ることが出来た。
見覚えがあるギザギザの構造物は、明らかに路肩の駒止めである。

間違いなく、ここに小さな暗渠を渡る道路が通っていたのである。
これに小さく励まされ、いざ単身、先へ進む。




この先想定される旧道の全長は、大牧トンネルの両坑口がある標高280mの等高線を忠実になぞって山腹を進むと仮定した場合、1.8kmほどになる。

状況によるが、廃道での1.8kmは侮れない距離である。
また、全長1.3km強のトンネルに対する旧道としては、さほど距離を短縮出来ていない印象を受けるが、このトンネルの眼目は距離の短縮ではなかったのだろう。そもそも。




土砂の山のてっぺんに登り、その反対側に広がる旧道敷きを見下ろしている。

ひどい有り様だ。これを見るまでもなく自転車を置き去りにしたのは、良い判断だった。
歩いて行くのが精一杯だろう。これではな。
人工物のまるで見えない、平場の成れの果てへ降り立つ
8:41 前進開始。



これは廃道を、少し通り越した風景のようだ。

どこからどこまでが路面であったのか分からないほどに崩れている。
崩土が道を埋め尽くしたのか、路肩が崩れてしまったのかも知れないが、
ともかく道があったはずの高さには一面、ゲレンデくらいの斜度の斜面が横たわっていた。

時期がよいので見通しがあるが、これで訪れるのがもう1ヶ月遅ければ、遙かに大変だったろう。
新鮮な若草の匂いと、干し草の匂いを感じながら、ぽかぽか陽気の斜面をザックザックと渡っていった。
道の状況は悪いが、転落の危機を覚える傾斜ではないから、なかなかに良い気分であった。
山菜として世に知られている植物も、色々と目にすることが出来た。




「おいおい。本当に旧国道なんてあったのか?」

そんな不安に駆られ始めた、出発から8分くらいも経過したところで、ようやく断続的にではあるが、路面跡と思しき平場が現れ始めた。
この間、ほとんど道と分かるものを見出せなかった。

なお、この一連の大崩壊は様々な記録を見る限り、旧道になってからのものと考えられる。
また、一度の崩れでもないであろう。
しかし、現在は一通り“崩れきった”ようで、安定に近付いた斜面の森林化が進んでいた。

このような自然による反発の大きい場所に、道を維持し続ける事の大変さは、生半可でなかっただろう。
まして、洞門のような強力な防具も持たずである。
冬期閉鎖を強いられていたのも無理はない。



なんとか路盤らしき物が現れだしてからも、道を埋め尽くす崩壊の跡はたびたび現れた。
だが、進むにつれてその頻度も減ってきて、次第に路面の状況は改善してきた。
ようやく、旧道がどのような道であったのかについて推し量る情報が得られそうだった。

そもそも、この道が旧道となったのは昭和52年8月に大牧トンネルが開通したときであるが、開通はといえば、それよりもだいぶ遡ることになる。
国道156号の建設や改築に携わった建設省北陸地方建設局富山工事事務所と、富山県土木部が企画監修した『秘境五箇山に新しい道を』(以下『秘境五箇山』と略)という、昭和56年発行の記念誌があるのだが、それにこの道路の歴史が事細かに記録されている。

それによると、今探索している旧道を含む小牧〜平村(下梨)間の車道がはじめて建設されたのは、大正4年から8年にかけてのことで、これは関西電力による小牧ダムと祖山ダムの建設計画を念頭に置いた、庄川沿いの最初の車道として計画されたものだったという。
だが、それは車道とは名ばかりの非常に脆弱なもので、ダム完成後の往来は専ら湖上交通に依っていたという。



とはいえ、この大正8年に開通し、同年に(旧道路法の制定にともなって)郡道下梨青島線として認定された道こそが、現在の国道156号のベースになった。同路線はそれから間もない大正12年、郡制廃止に伴う県道移管があって、県道下梨青島線となっている。

昭和に入ると五箇山にはじめて自動車が出現する。
だが、それは昭和2年に開通した八幡道路(現在の国道304号の旧道にあたる細尾峠)によりもたらされたもので、庄川沿いの道路は未だ自動車の通える状況には無かった。

県道下梨青島線の本格的な改築は、昭和23年の「庄川沿岸道路促進既成同盟会」の結成に始まり、北陸と太平洋側を結ぶ連絡道路の重要な一線として国の整備計画へ組み込むための熱心な陳情活動が行われた。
昭和28年の現行道路法制定に伴う国道の一次指定において、二級国道156号岐阜高岡線の指定が行われたのは、その結実といえる。

国道指定後は整備が本格的に行われ、まずは夏場に自動車が安全に通れるレベルを目標とした一次的な改築が進められた。
前回見た駈足谷橋の旧道や、この大牧トンネルの旧道は、昭和28年から29年にかけての整備状況を反映している。

改築後、昭和33年からは路線バスも通ったが、「危険だから」という理由で数年を待たず運転が中止されたという。まだまだ安全な道ではなかったのである。
そして、次の段階として五箇山住民悲願の“無雪道路化”が、現状のトンネルと洞門による完全防備した姿へ道を変化させていくのである。
この第二次的な改築は昭和40年代後半に始まり、昭和52年の大牧トンネルの完成によって一応の完成をみた。
前回走り抜けた区間にあった各種構造物の竣工年が、どれもこの時期のものであったのは、偶然ではないということだ。



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旧道を歩き進めていると、全くの静寂に包まれていた湖面に、エンジン音を伴って移動する船が現れた。
大牧温泉から小牧ダムへむけて湖上を走る、今日朝一番の湖面遊覧船の涼やかな姿であった。

甲板に人影は見られなかったが、ここから見えると言う事は、船の方から私を見る事も出来たのだろうか。
ここがどんなふうに見えているのか、いつかあの船に乗ってみたいものだと思った。



9:00 《現在地》

旧道出発から18分が経過していたが、前進できた距離は僅かに300mほどで、特に前半に多くの時間を要していた。

しかし、ここに来て突然前方の視界が開豁となり、これまで進んで来た距離と同等以上を見渡せるようになった。

これはなかなかに爽快で、そして愉快だった。



見晴らしの向こうにある、200mくらい先の道である。

もの凄い崩れ方をしていた。

ここまでの、いわば“枯れた”ような古い崩壊ではなく、今も連綿と崩れ続けている、躍動の気色があった。

旧国道が現役当時に相手にしていた敵の大きさ、強さを、今さらながら実感する。
これは確かに、「(地下に)逃げるが勝ち」であったのだろう。
さすがに地上では道の分が悪そうに見える。

とはいえ、これまでの区間では見られなかった大規模な斜面の治山施工が見て取れるから、かなり健闘はしたのだと思うが…、手に負えなかったっぽい。
旧国道とともに、これだけの投資が人知れない場所で放棄されてしまったのだと思うと、勿体ない気もするが、仕方ないのだろう。
勝ち目の薄い戦いに明け暮れるよりは。




この辺りからは、新緑よりも深い碧色を湛えて蛇行する庄川のずっと奥を見通すことが出来た。

遠くの対岸、周りに集落など全くない山中の一角に、一塊の人工物が集まっていた。
巨大な白い建屋を中心に、いくつかの建物と、鉄塔が集約されているそこは、関西電力の大牧発電所である。

此岸との間に橋もなく、傍目にはどうやっていくのか分からないような立地だが、地形図によると対岸にも一応林道らしきものが通じていて、よく見れば斜面にそれらしきラインがある。
この大牧発電所は、国道がトンネル化する事で失った車窓の中で、二番目に目立つ存在である。
一番は、まだ登場していない。



もう間もなく、先ほどから見えている酷い崩壊現場に立ち入るわけだが、そんな前方の確定的な険悪を余所に、今の路面状況はうっとりするほどにステキだ。

もちろん、季節限定。かつ、徒歩限定。
今の干し草の道は、奇跡的に歩きやすく、そして朗らかだった。
そして、そんな道の周りには、戦い敗れ去った老兵たちの亡骸が、若草に慰められるように埋もれていた。
路肩、法面、そして小さな無名の橋。
それぞれが全力を傾けた戦いの名残だった。

これは私のイメージの中だけの話しではなくて、『秘境五箇山』に収録されている座談会のページに、この旧道の改築を行った富山県土木部の元課長のこんな発言が収められている。

大牧トンネルのところは特改一種でやったことがありますね。あのとき改良したあとが全然残ってないわけです、崩れて。それでこれはやっぱりトンネルで抜くべきじゃないかと言う事で、47年ですか急遽それに切り替えました。温泉が見えなくなるのが残念でしたけれども。

…まったく、仰るとおりでした。あなたの判断は、さすがプロ!




この辺りは、相当に旧道の状況が良く残っているのではないだろうか。

道幅も広いし、確かに一時期は路線バスも通っていたというのが頷ける。

ただ、路面は完全に未舗装だし、ガードレールや駒止めは全く見あたらない。
道路標識なんかは仮にあったとしても、全て雪崩と豪雪で押し流されたであろうけれど。
やはり、国道というにはあまりにも貧弱な、“酷道イチコロ”に相応しい風景であった。


いよいよ、酷く崩れた場所が目前に。

道はこの谷を橋ではなく、太いコルゲートパイプの暗渠を路面に埋め込むことで越えていたようであるが、この選択は結果として大きな破壊を招いたのかも知れない。

ここは地形の変容が特に著しい。
地中にあるべきコルゲートパイプは素っ裸で中空に架け渡されていて、水を呑むべき一方の口は、深い崩土の地中に埋もれていた。
また、流れ出る水を流すコンクリート製の立派な水路は虚しく乾き、旁らには遙かに深い天然の流水路が出現していた。

そして最大の問題は、ここに私が通れる余地がどれほどあるかということだった。



4月末だというのに、道の法面に沿って、巨大な雪の塊が残っていた。
白く見えているのはほんの一画で、枯れ草の下にその本体が埋もれている。




さて、ご覧の有り様である。

道は谷を横断する箇所で、暗渠ごと消失していた。
その延長は2〜30mにも及んでいたが、先へ進む上で問題となるのは…



ずばり、この最後の数メートルである。

ここは、地面が脆い土の斜面であることと、手掛かりや足がかりとなる樹木がほとんど無いので、見た目以上に難しかった。
斜面横断の途中で滑ろうものなら、5メートルほど下の水が流れている谷底まで一気に落ちるだろうから、怪我をしかねない。
高巻きや下から巻くことも地形的に難しいから、最終的には、慎重に手掛かり足掛かりを選んで斜面を横断することにした。



9:08 《現在地》

無事に難関を突破!!

しかし、まだ旧道を進んだ距離は600mほどで、残りは倍近くある。

果たして、私はこの道を無事に制覇できるだろうか?!