2009/4/30 7:30 【現在地(マピオン)】
昨日通った国道156号と471号の分岐地点を今日は右にとって156号へ入る。
この辺りは平成合併前の東礪波郡庄川町で、現在の砺波市の大字庄川町小牧(おまき)である。
間もなく庄川の谷を堰き止める巨大なコンクリートダムが見えてきた。
我が国のダム土木史上に燦然と輝く最古参の発電用ダム、大正14年着工昭和5年の小牧(こまき)ダムの姿である。
湖岸を通る国道156号の歴史と無関係でないだろうことは想像出来るが、今はその話しは置き去りにして先へ進もう。ちなみにこのダムをより間近に美しく眺められるのは、対岸の国道471号の方である。
なお、この小牧から先の岐阜県境を跨いだ白川村の御母衣(みぼろ)までが、飛越峡合掌ラインと称されている(らしい)。
そういう(やや古びた)青看が路上に掲げられていた。
県境までだけでもここから30km以上あり、白川村は40km以上の先、御母衣となると更に更に遠いが、本州をほぼ横断して富山県高岡市と岐阜県岐阜市を結ぶ国道156号が中部山岳地帯越えの日本海側経路として選んだ庄川谷の全体称が、飛越峡合掌ラインである。
むろん、この「合掌」とは、この国道がかつて難路の名を欲しいままにしていた頃、一部ドライバーに囁かれていた隠語「落ちたらイチコロ(156)」にかけたわけではなく、五箇山と白川郷にそれぞれある合掌づくり民家の集落にかけたものである。
探索者が合掌されるというのは、冗談でもならないように、注意しなければならない。
短いシェッドに続いて、昭和43年竣功、全長118mという小牧トンネルを抜けると、そこはもう湖畔である。(なお、このトンネルの旧道敷きはダムの管理区域であり、立ち入れない)
この後はほぼ最後まで国道と湖面の高低差は広がる一方なので、純粋な意味で湖畔を通るのは、ダム付近のごく短い区間でしかない。
そしてこの短い湖畔の区間に、小牧ダムを単なる発電用施設ではなく観光地たらしめている施設がある。
かつては様々なダム湖に就航していたものの、現在では相当珍しい存在になっている湖上遊覧船がそれである。
この遊覧船が今まで生き長らえている最大の理由は、単に湖上を遊覧して終わりではなく、その先にこの船でしか行けない(と宣伝された)大牧温泉という温泉があることだろう。
なるほど、確かに大牧温泉は地形図にも描かれているが、国道の対岸にあって直接行く事は出来ないばかりか、現在はその国道が大牧トンネルになってしまい、対岸に温泉を見る事さえ出来なくなっている。
平日と休日を問わず、毎日4往復就航している大牧温泉と小牧ダムを結ぶ遊覧船たち。
湖上遊覧の旅と洒落込むのも良いが、今はまだ動く気配もない。
ちなみに、前説でも簡単に述べた通り、小牧ダム湖の湖上船の歴史は古く、かつ五箇山の生活史に深く関わってきたものである。
昭和52年に大牧トンネルの完成に伴って、小牧〜祖山間が冬も通行できるようになるまで、上流の平村や上平村の人々の生命線となっていたのが、このダム湖をゆく村営の連絡船だった。
当時から大牧温泉は存在していたが、更に上流の「十八谷」という所に上流側の船着き場があった。
さらに古くは、湖畔の国道に代わる存在として湖上輸送が季節を問わず行われていたのであり、人員だけでなく、木材の流送も盛んであった。
庄川とダム開発と木材流送の問題は、一部教科書にも掲載されるほど有名な地域社会的問題であったから、ご存じの方もいるだろう。
昭和5年完成という一際古い歴史を誇る人造湖には、生半可ではない人々との関わりが刻まれていて、現在の遊覧船もその延長線上に受け継がれているものであろう。
小牧ダムから大牧トンネルまで、約6.5km。
そのうちのおおよそ5kmは、このような落石・雪崩避けシェッドの中にある。
ほとんどは昭和40年代後半から、平成に入る前までに整備されたもので、
途中の継ぎ接ぎは多いが、現在では必要な箇所を全て覆い隠すに至っているようだ。
既に述べた通り、国道は大牧トンネル付近を頂点にした上り坂になっていて、小牧からずっと上りが続く。
その高低差は80mほどであるが、距離があるので勾配はかなり緩やかだ。
自転車で走っても苦を感じない。
自転車で走っても苦を感じないというか、むしろ爽快である。
まず、新緑の時期がよかった。そして、天気も良かった。
自動車であればあっという間に走り抜けざるを得ない洞門の窓からの景色や、洞門に挟まれた僅かな明かり区間の風光を、自転車であれば心置きなく味わう事が出来た。
徒歩ではいささか間延びする距離でも、自転車にはちょうどいい。
小牧ダムから1.2km地点には、写真の橋が架かっている。
この橋は昭和49年3月竣功の小杉橋といい、山側に僅かに旧道の痕跡があるが、法面工や谷止工のため原形を留めない。
また、この橋を渡った直後の洞門内が砺波市と南砺市の市境で、旧井波町の領域となる(一応案内標識があるが、目立たない)。古い五箇山のエリアは、もう少し先だ。
そして、小杉橋のやや手前辺りから見えはじめるのが、両岸に相対する巨大で美しい吊り橋主塔である。
昨日も国道471号から、別アングルで同じ橋を見下ろしている。
橋はこれ以降1km強にわたって、車窓を楽しませてくれる。
むろん微妙に距離とアングルを変えながらだから、何度も見たくなるのである。
ただ、それが出来るのは徒歩や自転車の旅人だけだ。
国道にはひたすら洞門が続いていて、さらに細やかなカーブも続く。通行量も決して少なくないから、自動車だとあっという間に走り過ぎざるを得ない。
この橋は、此岸には主塔しかないが、対岸には主塔とそれに続く2連のアーチ橋が現存する。
そしてそのアーチ部を目指した到達作戦が、初見から3日目となるこの翌朝に満を持して(そして我慢の限界で)敢行されることになる。
また、橋の正体についても後日の机上調査で明らかになった。レポートはこちら。
主塔を車窓に見る事が出来る区間の大半は、この長い洞門の中である。
一応、各洞門には名前が付けられていて、入口に赤いペイントで表示されているか、表示されていた形跡がある。
例えばこの洞門は「大橋平2」と書かれている。
ただ、洞門は後年の追加などで継ぎ接ぎが多く、「2」のような通し番号は有名無実になりつつある。
もはや実質的には、この区間はずっと洞門の中で、時々だけ地上に出るという感じなのである。
この国道156号と、同じく富山県〜岐阜県の間の国道41号、そして新潟県と長野県を結ぶ国道148号という3本の北陸〜中部の連絡国道は、わが国における3大“長大シェッド”国道ではないかと思っている。
洞門同士の継ぎ接ぎの様子の一例をご覧頂こう。
「大橋平2」の中にはこのような洞門の継ぎ接ぎが多数あり、他の洞門も同様である。
継ぎ接ぎの部分には、かつてそこが末端であった当時に書かれたであろう、「大橋平1−3」というペイントが見えるが、「1−3」の部分は消された跡があった。
数十年前からは見違えるほどの進歩を遂げているに違いない現在の国道だが、従来の道の拡幅とカーブの緩和、そして洞門の増設が主体であるため、まとまった旧道はあまりない。
だが、旧道時代から路傍に置かれていたであろう石仏の類は、ご丁寧にもコンクリートの壁に孔が穿たれ、その居場所を与えられていた。
供物の造花も煤と埃に覆われ、いかにも居心地が悪そうな場所だが、無人の廃道に置き去りとなるよりは、彼らなりの本分を感じているものだろうか。
そんなことを考えながら、光と影のストライプをしばらく走る。
7:42 【現在地(マピオン)】
大橋平という地名は、洞門の名前に現れているだけで、地図には見えないが、
今は床版の失われたこの吊り橋や、さらにその昔からあった先代の橋に由来するのであろう。
吊り橋…利賀大橋…は、砺波平野から利賀村へ至る、近世以前から昭和前半にかけてのメインルートだった。
大橋平の利賀大橋主塔跡から500mほど進み、振り返ってもそれが見えなくなると、
今度はその代わりという感じで、湖面を横断する華麗な赤いアーチ橋が見えてくる。
あれは現在も使われている長崎大橋で、国道と旧利賀村の長崎集落を結ぶ市道である。
どのワンシーンを切り取っても絵になる、洞門の窓の向こうに隠すのが勿体ないような景色ばかりである。
長崎大橋を通り過ぎて、さらに洞門を潜りながら進んでいくと、この区間内で唯一のまとまった約1km続く明かりとなる。
ここは国道156号にとって五箇山(利賀、平、上平の3か村)の入口となる、下原と栃原の集落がある緩斜面である。
ただ、国道沿いに見えるのは集落というよりも、今は営業を止めてしまった巨大なホテルだけなので、あまり雰囲気はよくない。
そもそも「五箇山の入口」といっても、ここが旧利賀村の領域に入って最初の集落だというだけで、現実にはそういう案内があるわけではなく、国道にとってはただの通過地点である。
それに、利賀村の本体はこっちではなく国道471号の方にあるので、小牧ダム沿いにあるいくつかの集落は、飛び地のような印象を受ける。
栃原にある青看には、五箇山を構成する旧平村と旧上平村それぞれまでの距離が掲げられていて、おまけに合掌民家を模したマークが、両者を代表するかのように表示されている。
何の予備知識も持たなければ、これが何を意味しているのか悩んでしまいそうな唐突さだ。
しかしともかくこの道が、これらの村々の生命線であることを理解させるには十分な青看である。
また、この栃原の国道沿いでは現在(探索当時もこれを執筆している平成26年時点でも)、国道を分岐して庄川を渡る新しい橋の建設が進められている。
完成すれば長崎集落の新たな入口となるだけでなく、やがては利賀村の中心地がある利賀川沿いへと山を貫く3kmクラスの長大トンネルも掘り抜かれ、今の国道471号に代わる完璧な無雪道路となる計画である。
この工事は利賀川上流で国土交通省が進めている利賀ダムの関連道路であり、ダム工事が順調に進めばという条件付きではあるが、五箇山の交通網はまだまだ便利になろうとしているのである。
(この新道をより詳しく知りたい人は、こちら(外部サイト)へ)
8:12 《現在地》
明かり区間の終わりに、久々のトンネルが出現だ。
これは昭和47年3月竣功、全長180mの栃原トンネルで、ここには谷側を迂回する旧道があったとみられる。
しかし、栃原トンネルの旧道があっただろう辺りは、採石されたように山が切り開かれていて、ほとんど道形が残されていない。
どこを通っていたのかも定かではないのである。
この採石は大牧ダムや祖山ダムの建設に関わるものと見るには明らかに新しすぎる雰囲気であり、別事業か。
だが、それでも諦めずに道があっただろう辺りをイメージしながら先へ進むと、ほんの50mほどの距離ではあるが、南側坑門に続く部分に、切り残された旧道の痕跡らしき平場を見つける事が出来た。
ここはまったく往来が跡絶えていて、僅かな踏み跡も感じ取れない。
そもそも、現国道側にもこの旧道と接続する準備がない(洞門の脇っ腹にぶつかる)。
今は時期が良いので歩けるが、盛夏期には丈余の激藪に覆われそうな気配であった。
しかし、それでもここには訪れる価値があると感じた。
な ぜ な ら ば …
眺めがすごく良いから!
洞門に守られた国道を走っているだけでは分からない、
「どんなところに道があるのか」ということを、ここからの眺めは教えてくれる。
洞門たちのありがたさと、その必要たるを雄弁に語る、道を見下ろす数多くの岩場が眩しい。
なお、中央右寄りに見えている大きな橋は、この直後に登場する駈足谷橋である。
栃原トンネルに連なる長い洞門をしばらく行くと、次に現れる明かり区間が…
8:23 《現在地》
その名も怖ろしい、駈足谷橋(昭和51年11月竣功)!
この名前の由来は分からないが、おそらくは駈け足で通過しなければ命が無い、そんな危険地帯を思わせる。
そして、実際の風景がそれを裏付けるものだったのである。 昭和51年までは、国道だったはずの旧道が…。
こんな有り様だよ…。
長さ150mほどの橋に対応する旧道は、山際に迂回する約200mの道である。
その中央には、ゴーロというか滝に等しいような駈足谷の流れがあり、旧道はその前後だけを15mほどの短い橋で渡っていたようである。
ただ、橋は桁は無論のこと、橋台さえ崩壊し散逸し、ほとんど原形を留めていないのである。
今回、この旧道については藪が浅い時期であったために現道から全貌を一望出来たことと、ほとんどまともに歩けそうにないほど崩れ果てていたことから、実際に足を踏み入れる事はしなかった。
詳細に近付いて調べれば、何か見落とした遺構を見出せる可能性は0ではないが、リスクとリターンが釣り合わない公算が大で、辞退させて頂いた次第である。
それはよいとして、旧道としての年季はここよりたった1年短いだけの大牧トンネルの旧道がどんな状況にあるのか。
不安にならざるを得ない、駈足谷の惨態であった。
これまた絵になる方杖鋼ラーメンの駈足谷橋を後にする。
ここまで来れば、大牧トンネルはもう間近(残り700m)である。
さらにもうひとつ、グニャリうねうね洞門を抜ければ…。
8:30 《現在地》
現れました。
昭和52年8月開通の大牧トンネル!! 全長1330m!
このトンネルが画竜点睛となって国道156号の小牧から平村間の無雪化が達成されたという、重要な構造物である。
(平村と上平村の間はそれより早い昭和42年から冬期も除雪されるようになっていたが、上平以南の岐阜県側の除雪は昭和54年で、それまではこの道が冬場の生命線だった)
なお、「大牧とんねる」と書かれた立派な銘板が掲げられているのは、トンネルそのものの坑門ではなく、それと繋がる洞門の入口である。
実際のトンネルが始まるのは、さらに100mほど奥のカーブした先なのだが、私にとっての不安は、この時点でまた一段と深まった。
なんか、旧道が分岐している様子がよく分からないんだ…。
…‥。