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2018/4/24 11:00 《現在地》
長々と一所に停滞しているが、その間少しずつ活動範囲を広げており、今や、この目の前にある覆道の上と下と内部まで、ありとあらゆるところに私の軌跡が刻まれつつある。
@のルートは諦めたが、Aを使って先へ進み、今しがたBのルートから戻ってきた。
そして今度は自転車を連れてBを逆走し、最終的な前進を行うことになる。もうこの場所へ戻ってくることはない。
一度は諦めた自転車同伴での区間突破、キナウシ到達を、実現させるときがきた!
自転車のハンドルを両手で支え、ザックを背負い、ここへ来たときと同じ完全装備になった私は、這い出してきた覆道下の隙間へ潜っていく。
空間が狭いので、無理矢理引きずり込まれた自転車は、天井や周囲の障害物に接触しまくった。そんなことはお構いなしである。
むしろ、私と一緒に日本中のさまざまなエクストリーム・ロードを体験してきた愛車が叫ぶ歓喜の悲鳴が聞こえてくるようだった。
先ほどすり抜けてきた覆道内との隙間をスルーし(そこは狭すぎて自転車はさすがに通れない)、そのまま覆道の山側空間を目指す。
自転車と共に覆道下を横断中、間近に、とんでもなく薄気味の悪い光景が見えた。
覆道の下で静かにたゆたう、地底湖のように青い海面が……。
覆道内からは【ごく細い海面】しか見えなかったが、こうして覆道の下へ目を向けると、そこには人間が道路造りのため埋め立ててしまう以前にあった天然の入江が、静かに復元されていたのである。
そしてこの行程は、ごらんのように海面上数十センチというのごく低い陸地を通過する必要があるので、今日のような波のない極めて穏やかな海況で無ければ実行できなかっただろう。
11:05
倒壊した覆道の下を潜り抜けて、初めて自転車と共にその山側へ到達した!
覆道全体が海側へ傾斜していることもあり、潜り抜ける直前は普通に起ち上がった姿勢で自転車を押し進められるくらいの天井の高さがあった。
波に邪魔さえされないならば、これがベストの攻略ルートであろう。
かつての入江の波打ち際にいる。
ここから覆道の上へ登らねば先へ進むことが出来ないが、このまま覆道沿いを進んでいくと自転車同伴でも上手く登っていくことが出来る(逆ルートを一度辿っているので分かる)。
だがその前に、もう一つだけやり残していることがあるので、それをやっつけていきたい。
自転車は、もう一度お留守番して貰う。
11:11
10:46に初めて覆道内へ潜り込んだ地点へと、また潜ってきた。
さきほどはここから“北口”を目指して【閉塞壁】まで行ったが、今度は反対の“南口”を目指して覆道内を限界まで進みたい。
この先には、旧キナウシトンネルが、覆道と接続する形で待ち受けているはずだ。
チェンジ後の画像は、歩き出した地点から、“逆への字”の崩壊地点を振り返り。これを背にして進んでいく。
覆道全体が海側へ激しく傾斜しており、歩行するのに困難を感じるほどだ。
構造物自体は比較的良く原形を留めていることが、余計に傾斜への違和感を強くしている。
しかし、【外観時点】でも確かに激しく傾斜していたので、この状況は無理もない。
そんな傾斜した洞内は、繰り返し高波によって蹂躙されているようで、大量の土石が低い所に堆積していた。
海面からある程度離れたここでこうなのだから、一度高波となると、ここよりも低いいままでの行動範囲は、波が入っていたというレベルではなく、ほとんど海面下といえるくらいに浸水しているはずだ。なんとも恐ろしい。
覆道はユニットごとバラバラに沈下しているが、最も激しく崩れている入江部分から離れるに従って、移動量や傾斜は穏やかになっていく。
それと引き換えに、だんだん隙間から入り込む外光は乏しくなり、最後に完全な闇の世界へ落ちていく。
もともとは、全く外光の入る隙間のない覆道が、現在の閉塞壁の位置からキナウシトンネル北口まで、400m近く連続していたことになる。利用者にとっては、覆道もキナウシトンネルの一部と認識されていたことだろう。実際、道路上の案内もそうなっていたようだ。窓のない覆道と、開削工法などで造られる四角形のトンネルを、内部から区別を付けるのは難しいのである。
気になるのは、この先に待ち受けるキナウシトンネルの北口が、改めて覆道内で封鎖されてるかどうかだ。
同トンネルの南口が地上で封鎖されていることはストビューで確認済みだが、もし北口も封鎖されている場合、外部からの侵入を防ぐという目的に対して過剰な封鎖となる(閉塞区間内にも閉塞壁を設置したことになる)。
この考えを根拠に、このまま同トンネルへ侵入出来ることを、私は期待していた。
11:13
さらに進み、目に見えて傾斜しているユニットは残りあと2つ。
ここまで来ると、頻繁に波が入ることはないようで、洞床には薄く砂や泥が堆積している。
そしてその表面には…… なぜかたくさんのぬこたちの足跡が。
……こんなところで人知れず、道産ぬこたちの会議が開かれているのだろうか……。
コツーン コツーン
コツーン コツーン
コツーン コツーン
洞内は真に静寂で、私の足跡だけが響く。
そしてその響き方には特徴があり、鳴らした音は、必ず1回だけ戻ってきた。
この音の響き方は、真っ平らな閉塞壁に反射してきているときのものだ。
問題は、その壁までどのくらい距離があるのか……。
11:15
ついに覆道は、平穏なる闇に沈んだ。
緩やかな左カーブが始まって、進むほど、曲がりの先に無垢なる闇が解かれていく。
旧道の閉鎖に、覆道の閉鎖、そしてとんでもないことになってしまった覆道の異変。
これらの障害により幾重にも遮られ、多くの探索者の目を退けてきた、旧キナウシトンネルは、この先だ……。
現役当時は特に変哲のない普通のトンネルだったと思うが、いまやおぞましき魔城の主である。
コツーン コツーン
コツーン コツーン
コツーン コツーン
とても近い。 音の反射源は、もう目前の距離だ……。
11:17
残念!
なんと旧キナウシトンネルは、閉鎖された覆道の内部で、さらにまた閉鎖されていた。
これは初めてのパターンではないだろうか。
仮に覆道の一部が波に壊され、隙間が空いたりしなければ、この閉塞壁は、半永久的に誰の目に止まることもなかったはずだ。
そんなところにある閉塞壁は、一体誰のためにあるものか。閉塞区間内に閉塞壁を設置する理由はない。
そう考えると、廃止直後にはこのトンネルの北口と南口だけが封鎖されており、覆道内の閉塞は無かったと考えられる。それだと辻褄は合う。
旧キナウシトンネルの内部へ立ち入る術は完全に断たれてしまったが、最後の最後に四角い断面の覆道から、アーチ断面のトンネルへ変わる姿が見られただけでも嬉しい気がする。
ほんのちょっとだけ、トンネルに入ることも出来る。
断面がトンネル形に変わった直後、閉塞壁の2m手前(矢印の位置)に、
ここまで辿り着いた者だけが見ることのできる、貴重なアイテムが……
なお、閉塞壁に見える【四角い木の蓋】は、この壁を作る時に最後のコンクリート詰めをした名残だ。裏はコンクリートの硬い壁なので、残念ながら取り外しても進めない。
「キナウシトンネル」のトンネル銘板があった。
後ほど確認するが、南口にはこれが残っていないので、旧トンネルが、人間の到達しうる領域に1枚だけ残した銘板ということになる。
銘板の型式や表示内容はいたって普通のものだが、ここに書かれた竣功年の「1983年10月」という表示は、北海道開発局のトンネルリストと言うべき『橋梁現況調書』(昭和63年4月1日時点)にある同トンネルの竣功年「1985年11月」と約2年のズレがある。
その理由ははっきりしないが、本トンネルが単体で竣功した時期と、接続する覆道を含め一連の国道として道路として供用を開始された時期の差かもしれない。201mという全長など、他の数字は一致している。
11:18
これにて、覆道内部に未知の領域は全くなくなった。完全制覇だ。
あとは、自転車と一緒に、ゴールを目指すだけだ!!
閉塞内の閉塞壁より、撤収!!
2018/4/24 11:30 《現在地》
地上へ戻り、覆道の脇を登っていく。
道ではないが、進んでいける。
それから、既に一往復を終えている覆道上を再び進む。いままでと違うのは、自転車があることだ。
砂利道のように乗って進めるところもあるが、そもそも道ではないので砂利は大粒だし、突き固められていないので、歩いた方がマシだった。
ぼんやりと自転車を押し進めながら、気付いたことがあった。
それは、もしも覆道の下を潜れてしまうような大破が起っていなければ、覆道の途中から今いる天井裏の地上へ脱出する手段はなかったということだ。
その場合、旧旧キナウシトンネルを通り抜けるために、さらなる遠回りを余儀なくされたはずだ。即ち、9:23に通過した旧道の始まりから【覆道の上】を延々歩いてくるよりなかっただろう。自転車の有無を問わず。
今回のケースでは、一見すると探索を難しくする障害でしかなさそうな覆道の大破という条件が、探索の可能性と多様性を広げていたことになる。壊れた道でなければ、出来ない探索だったのである。(そもそも、塞がれた覆道内に立ち入ること自体が、壊れていなければ無理なことだった)
11:38 《現在地》
初めてここへ辿り着いたときから約40分ぶりに、旧旧キナウシトンネルの北口へ戻ってきた。
自転車に跨がり、再びのトンネル内へ。
そして、1分後には問題なく南口へ。
ここまでは、探索済み。
この柵を越えたところから、あとほんの少しだが、初見の探索区間である。
11:41 《現在地》
崩れかけた柵を越えて、この探索中で初めてキナウシの地上へ出た。
キナウシという地名の由来は前にも書いたが、ここに人家はなく、最新の地理院地図上には地名の表記もない。ただ、小さな入江に注ぐキナウシ川の名前があるのみだ。国道がこの小川の河口を横断する際に、長大なトンネルの合間、一瞬地上へ顔を出すだけの場所だ。特に道路の分岐も無い。
しかし、これらの長大トンネルが整備されたのは、旧旧道の次にあたる旧道世代のことであり、昭和60(1985)年前後である。
旧旧道時代までのキナウシは、道路の通過地点であることに違いはないが、もっと長い距離にわたってぐねぐねと関わりを持っていた。
初顔合わせとなる、旧旧キナウシトンネル南口。
台形型の突出した坑門は北口と同じ形状だが、老朽化の具合はこちらの方が遙かに進んで見えた。
扁額を取り付けていた形跡はあるが、扁額が見当らないのも北口同様。
坑門そのものの外見以上に印象的なのが、余裕というものが全くない立地条件だ。
崖の中腹を回り込む狭いカーブの途中から急にトンネルが始まっており、そのカーブはトンネル内に続いているので、全然奥が見通せない。
すれ違えない対向車が来たら、どうにもならない線形なのである。
これは、昭和60年代以前の国道229号が抱えていた“酷道ぶり”を、色濃く伝えていると思う。
冒頭でも述べたことだが、平成8年までこの国道には長い不通区間があって、このトンネルを越えて進んでも、珊内の次の川白という小さな漁村で行き止まりであった。不通区間の反対側の積丹町内とは異なり、そこは観光地として著名でもなかったから、よほどの旅行好きドライブ好きでもなければ、現役時代のこのトンネルを利用した部外者は少ないはずだ。
トンネルから出た旧旧道は、キナウシ川を右に見下ろしながら登り始める。
旧道世代になって解消された約6kmもの長い峠越えが、この次の区間に待ち受けているが、その登り方が始まっているのである。
旧旧トンネル内が上り坂であったのも、この峠越えのためだった。
坑口から30mばかり進むと、道を塞ぐために置かれたらしきコンクリートの塊がある。
もとは路肩に埋め込まれていたガードロープの土台のようだが、なんとも雑に転用されていた。
この雑なバリケードをすり抜けると……
11:44 《現在地》
直ちに分岐地点が現れた。
左右の道とも荒れてはいないが、現役らしからぬ廃道感がある。
それもそのはず、この場所も現状では車で乗り付けることは出来ない状況になっている。
それはともかく、分岐を直進すると旧旧道の峠越えで、右折すると海沿いの現国道へ下りることが出来る。
旧旧道と現国道(および旧道)を結んでいたこの道を、「連絡路」と仮称する。
旧旧道時代と旧道時代の航空写真を比較してみると、この連絡路は、旧道が整備された過程に誕生したことが分かる。
旧道の工事を進めるにあたって、ここに連絡路を必要としたことは容易く想像できる。
なお、旧キナウシトンネル内の銘板によると、同トンネルは昭和58(1983)年竣功となっていた。
一方、現在は大森トンネルと呼ばれているウエンチクナイトンネルは昭和60(1985)年竣功である。
これらの連続するトンネルの整備が完了し、一連の旧道として供用を開始されたのは昭和61(1986)年と考えているが、この供用の開始に実際は時間差があって、先に出来たキナウシトンネルだけが一足早く供用されたとしたら、その時期だけはこの連絡路が国道として使われていたことだろう。長くても2〜3年の期間だが。
今回の旧道探索は、もともとキナウシで折り返して一度車へ戻る計画であったので、予定通り、ここでは連絡路へ右折した。
直進した先の旧旧道は、今後のレポートで紹介したい(同日中に探索済み)。
という流れで最後に紹介する連絡路であるが、やはり年代が新しいだけあって、旧旧道より上等さを感じる。
未舗装ではあるがゆったりとした道幅で、路肩のガードロープが未塗装なのも新しさを感じさせる特徴だ。
急流であるキナウシ川の谷底へ蛇行しながら一気に下って行く。
11:47
そしてキナウシ川を短い橋で渡っていたはずだが、平成5年の航空写真には写っていた橋は、跡形も無くなっていた。
対岸にも大きく崩壊した形跡がある。
最新の地理院地図も、この状況を反映し、道路をここで行き止まりとして描いており、あとちょっとのところだが、現国道には繋がらない。
とはいえ、徒歩や自転車であれば、ここまでの展開と比較しても、ここは難しい障害ではない。
行き止まりから、下流を見ると――
――そこに真新しい2段式の砂防ダムが谷を横断して架かっているので、上側のダムを横断すればヨシ。
それさえ面倒なんであれば、このまま右岸の草むらを下っていっても現国道に出られるだろう。
まあ私は律儀なんで、砂防ダムを横断して対岸へ向かった。
このダムに取り付けられた【銘板】によれば、平成28(2016)年の建造となっていた。
治山工事後に道が復旧されなかったのは、既に役割を終えたものと判断されたからだろうか。
とはいえ、ダム上にわざわざ【歩廊】が整備されているので、車道として復旧されなかっただけで、道自体は復旧済みという判断かも知れない。
11:52 《現在地》
9:12以来だから、実に2時間40分ぶりに現国道へと降り立った。
この間、たった1.2kmしか前進していない。だが、過程で行き来した距離の合計は3kmを越えただろう。それにしても、時間を掛けすぎた感はある。
まあ、過去に類例のない鮮烈な体験が出来たので、探索成功と締め括りたい。
左折すると、直ちに大森トンネル(平成19年竣功、全長2509m)の北口である。
この坑口は旧道時代のウエンチクナイトンネル(昭和60年竣功、全長1011m)と同じ場所に造られており、坑道も相当奥まで共有しているという、北海道に良くあるトンネル内分岐による更新が行われたトンネルだ。
経緯としては、平成16(2004)年台風18号が巻き起こした高波によって、トンネルを出た先の大森大橋が落橋するという、これまた前代未聞に近い出来事に起因する。
そして、はっきりとした記録は見つかっていないものの、歴代の航空写真などを比較検証してみたところ、今回探索した覆道の大破壊も、同台風による高波が原因となった可能性は高そうだ。
現在のキナウシトンネルの開通によって覆道が廃止されたのは平成15(2003)年である。したがって、もしこの台風が原因だとすると、たった1年の違いで、国道229号が負う傷は遙かに大きなものになっただろう。
これを「幸い」というのも申し訳ない感じはするが、道は時々こういう因縁めいた偶然をやって私を驚かせる。
締め括りは、ストビューでの予習がこの探索の動向を左右することにもなった、因縁の眺め。
3世代の坑口が3次元的な展開を魅せてくれる、キナウシトンネル南口の景である。
交通史資料館の展示品のような風景。
3本のトンネルが、こんな間近に並んでいるだけでも珍しいが、樹木など視界を遮るものがなく、良い具合にワンフレームに収っている配置は芸術的だ。
サイズも綺麗に大中小と年代ごとに並んでいるが、各トンネル間の竣功時期は30年と離れていない。
行き止まりの寒村へ通じるだけだった超地元向け“獰道”改め“酷道”が、積丹半島一周道路の野望を胸に面目を一新した旧道を経て、北の大地の厳しい自然環境に適応できる最終進化形とも言うべき最新世代まで、現代交通史が辿ってきた道路造りの変遷を縮図にしたような3本のトンネルだった。
本区間の探索終了!
この後、スタート地点の車の前へ戻ったら、良形の箱ぬこがこの顔をして待っていた。
どうやら待たせちまったようだが、探索大成功。