2014/5/31 12:42 《現在地》
飛越橋の下へ戻って来た。
思いのほか手こずった今回の旧道探索も、残る未探索区間は500mばかりとなった。
ここから、朝に遠望した鉄塔までの区間がそれである。
ぶ厚い路盤越しにときおり聞こえるくぐもった自動車の走行音を後に、緑が蔓延る路面へ再び歩み出した。
歩き出してまもなく、異様な光景に出会った。
1本の電柱が現れたまでは良いが、その電柱が立っている場所というのが、どう見てもアスファルトで舗装された道の真ん中なのである。
これは明らかに“廃道化後”に敷設された電柱である。なんのために?
現在も通電しているのかどうかは不明だが、この道に沿って電線が続いているようだ。
なお、皆さまがもしこの廃道を探索されるのであれば、私と同じ5月下旬は避けた方がいいかもしれない。
これは何もこの場所に限った事ではなく、おおよそ全国的に時期をずらしながらある出来事なのだが、この日のこの廃道には、毛虫が大量発生していた。
尻から出した糸で植物からぶら下がりながら拡散するマイマイガの幼虫がほとんどで、少し触った程度ではかぶれることもあまりない種類だが、必然的に多くの草葉と接さざるを得ない廃道探索においては不快なことこの上ない。敢えて写真を見ても愉快になる人はいないと思うので省略するが、それこそ、多い木だと葉っぱ1枚につき1匹以上の密度でいた。探索中、何度ひっつかれたか分からないほどだ。
マジデスカ。
これは、いくら何でも酷いだろ。
もう何回目だよ。 このたった3kmの平成12年旧道で、何度目の全面決壊なんだよ。
↑ 答え:4度目。路面が全て落ちている規模の崩壊だけで、もう4度目だった。
12:45 《現在地》
飛越橋から目と鼻の先といっていい至近距離にもあった、本日3度目の大決壊。
朝遭遇した1度目の決壊だけは、山腹を迂回して越える事が出来たので大決壊ではなく「決壊」に数えたが、それも入れれば4度目である。
これらはいずれも本来の道幅の全幅を川に落としている路盤欠落で、落石による路盤埋没より一般的に踏破が困難だが、そればかりが4度目だった。
また、廃止期間の短さを勘案すれば、これら全てが一度の河川災害…平成16年23号台風による被害と考えられ、旧道にとっては一撃死にも等しい壊滅的災害であったことを窺わせた。
明治以来の長い歴史を有する旧国道あがりの村道「加賀沢小豆沢線」は、ある日未曾有の激流へと変じた宮川の恐るべき暴力により、完膚無きまでに叩きのめされてしまったのである。
…さて、 ど う し よ う か。
明らかにトラバースや高巻きによる突破が不可能な険しい岩場である。
となれば、取り得る手段は下巻きしたかないのだが、直接この不安定な崩壊斜面を下るのは危険過ぎる。
そこで、もう少し安全に河原まで降りられる場所を求めて、一旦飛越橋まで戻る事にした。幸いまだほとんど進んでいないので、戻るのは容易い。
飛越橋の直下には、何者かが河原を目指して切り開いたであろうロープ道が残っていた。
基本的に存置ロープに頼って探索する事は御法度だが、この場所ならばなんとかロープを使わなくても上り下り出来そうだ。
そう判断して、私もこのロープ沿いに下ることにした。
一年中乾ききった橋下の斜面は土砂が脆くなっており、小刻みに崩れる度舞い上がる砂埃で目が痛くなった。
また、遠目に見るよりも落差が大きく、飛越橋の偉大さを改めて感じたわけだが、ともかく私はここから河原へ降りることが出来た。
なお、存置ロープの設置理由も考えてみたが、同業者というよりは、たぶん釣り人ではないかと思う。
そう思った理由は、実際に河原に下りてみると近くに一人の釣り人がいたことと(笑…彼らの踏破力はいつもながら侮れない)、この後でまた道へ上り直す部分には、何ら“手ほどき”の痕がなかったからだ。
考えてみれば、今日のこの探索に入ってからはじめて、攻撃的な意味合いで道を外れている。
これまで来た道を引き返す展開ばかりが続いていたため、少し鬱憤が溜まっていたのを自覚していただけに、こうした谷の上り下りは大変だけど、道無き道を突き進む感覚には興奮した。これがなくちゃな!
そんな私がいる場所は、宮川の谷底である。
すぐ旁らには水の流れに姿を変えた県境がある。
手の届きそうな対岸は岐阜県で、かつて東加賀沢という集落があったらしい緩やかな斜面が広がっているものの、今は一面の樹海で、建物や耕地の気配は感じられなかった。地図によれば、そこにも道があるように描かれているし、このすぐ上流には川を渡る橋もあることになっているが、少なくとも橋は流出したのか跡形も無いようだ。
この見通しの良さならば、既に見えていなければおかしい橋がまるで見えないのだから、そう考えるしかない。
振り返って眺めた、飛越橋と宮川第二橋梁の並ぶ姿が美しかった。
時代や工法は無論、道路と鉄道という違いもあるふたつの橋だが、それらがとても似通ったルートを通っているのは、それが多数の土木の専門家達によって選りすぐられた「いいルート」だからなのだろう。
ただ、道路と鉄道の間には、そのルートを実現するまでに要した時間にだいぶ差があった。
そのことが、このふたつの橋の外見にこれほどの違いを生んでいる。
特に飛越橋が橋脚を少しも川底に立てなかったのは、洪水への防御力という意味で大きな進歩だった。
それにしても、この川原に転がっている岩の大きい大きいこと。
川幅がこんなに広ければ、もう少し砂利に近い小石が多いのが普通だと思うが、この大きな岩は河川による浸食や流下が始まったばかりの堆積物であり、要するに両岸の山々から転げ落ちてきて時間が経っていないということだ。
近年もご近所で崩れまくってるという、暴れ川の何よりの証拠である。
問題の決壊地点の真下までやって来た。
こうして見上げてみても、空中にカテナリー線を描くガードロープさえ無ければ、道の存在がまるで分からない。
そして私はこれを「のほほん」と眺めている訳にはいかず、次はこのどこか適当な場所を登らなければいけないのだ。
ガードロープが緑の中に吸い込まれていく辺りに、次なる路盤が待ってくれているのだから。
斜面の随所に灌木が茂っているため手掛かりは豊富にあるが、土や大岩が露出している場所も多く急なため、どこでも登っていけるわけではない。
今度は存置ロープや踏み跡も見あたらず、オリジナルルートで登る必要がある。
本日の異常な毛虫の多さも考えたら、出来るだけ緑が少なくて、それでいながら地形的に登りやすい場所を探したかった。
13:01 《現在地》
結局、この決壊現場の突破には、最初遭遇したときから15分を要したが、どうにか達成した。
少し息を整えつつ、身体についた毛虫たちを払い落としてから、前進を再開する。
残りはあと400mくらいだろうか。
苦労して登ったので、もう何事も無いといいのだが。
歩き出してすぐに現れたのは、またしても道の真ん中に突っ立った電柱。
なぜ敢えて道の真ん中なのか問いたいが、理由はきっと単純で、路肩に立てるよりも長持ちするのだろう。どうせ廃道で通る車も無いのだから、有効に活用しようというのは理に適っている。
そして私は目ざとく見つけた。電柱に刻まれた「2005−7」という文字を。
おそらくだが、これは2005年(平成17年)7月に建造されたか立てられた電柱という意味だろう。
台風23号によって廃道になったのが平成16年だから、その翌年である。
久々に訪れた、平穏の時。
ここで道は少しだけ川縁の崖から解放され、浅い掘り割りに踏み込んだのだが、
そこには本来の旧道歴12年目らしい風景が広がっていたのである。
そして、掘り割りの出口に見えて来たのは…
後半戦の到達目標としてきた、見覚えある赤白の鉄塔!
遂にゴールが見えてきた!!
私は今回、探索の途中で何度も挫折とUターンを繰り返してしまったが、もし全ての崩壊を自由に突破出来る力があったならば、この鉄塔こそが旧道のちょうど中間目印となっていた。
そして、どちらから来たとしても、ここへ辿りつくために最低一回大きな路盤決壊を横断する必要があるという、本物件の中では最大の秘奥に属すると思われる風景でもある。
遠目には現役のものに見える鉄塔だが、果たしてどうなのか。緑豊かな路面を味わいながら接近する。辿りつくのに苦労しただけに、この平穏な場面の味わいは濃かった。
13:06 《現在地》
無事に鉄塔へ到着。
その周囲は、今日この探索では初めて見るような平和な広場で見通しも良く、私の達成感を満足させてくれた。
無論、この眺めの主役は、天を突く赤白鉄塔の爽快な勇姿である。
ここだけは道路の状態も非常に綺麗なままで、自動車はおろか自転車さえ連れてくることが出来ない場所であるというのが、信じられない。
そしてそのギャップがまた達成感を刺激して、愉快だった。
それはそうと、この妙に辿りつきづらい鉄塔は、果たして現役なのだろうか。
その答えは、おそらくイエスだ。
それも、この地区の中では特に重要な1本であると思う。
なぜならば、この鉄塔は分岐地点なのだ。
2本の送電線がこの鉄塔で分岐して別々の方向へ伸びていたのである。
鉄塔のすぐ傍に、小さなコンクリート製の建造物が建っていた。
飛越橋以来、ここまで廃道上に点々と設置されていた電柱から電線が引き込まれており、これが廃道化後にも生かす必要のある施設だったことが分かる。
こちらの正体は、「打保ダム放流警報10局(弥次郎屋敷)」というものだと、壁にプレートが掲げられていた。
打保ダムはここから17kmほど上流の宮川を堰き止めている関西電力の発電用ダムで、下流各地に点在する放流警報装置の一つが、この人の往来が皆無となった場所にも生きてるのであった。
それにしても、弥次郎さんは随分寂しい場所にお住まいだったようだ。
鉄塔のすぐ先で道は90度以上折れ曲がり、進行方向を西に転じる。
もはや2度と車を映すことのないカーブミラーが憐れだった。
また、地形図や地図には、この場所から対岸に渡る脇道が描かれているが、そのような道は見あたらなかったし、少なくとも宮川を渡る橋は現存していない。
毛虫が多すぎて、藪を掻き分けての調査まではしなかったけれども。
カーブを曲がると、なおも廃道沿いに電柱の列が続いていて、数本先の電柱から引き込まれた電線が、サイレン装置に繋がっているのが見えた。
あそこまでは現在も通電しているものと思われる。しかし、その先の電柱は災害前の遺物に違いない。
13:11 《現在地》
なぜならば、サイレン装置の先には午前の私を諦めさせた大決壊が口を空けていたから。
軽い暇つぶし旧道サイクリングのつもりが、気づけば本格的廃道探索を強いられたこのたびの飛越トンネル旧道探索。
これにて一応その全貌を確認し得たので、探索完了と相成ったのであった。
王道を予感した旧国道レポートにしては、少し崩れすぎていた為に走破の爽快感が乏しかったきらいはあるが、
今後もこうした旧国道のようなオーソドックスな探索は適宜組み入れていきたいので、皆さまからの情報をお待ちしております。
他のサイトさまに掲載されているなどしても、私の頼りは皆さまの情報です。 あなたのオススメの道を、ぜひおしえてください!