以上のとおり、全体として奇妙な線形を見せる国道410号の松丘付近だが、なにゆえにこの様なルートが国道になったのか、その答えを自分なりに探してみた。
まず、これは多くの方が気付いたのではないかと思うが、この“迷走区間”には1つの道の新道と旧道がともに含まれているということだ。
右図は、この松丘一帯の道のつながりを示した概念図である。
画像にカーソルを合わせた時に表示する赤いラインは、青い部分に対する明確な「新道」であり、古地形図や隧道の竣功年度からこれは昭和31年に開通したものと思われる。
変態線形の要である「変則ループ」も、新道が旧道の下を潜っているだけと考えれば、それ自体はことさら珍しい事ではないだろう。
ここまでは異存がないと思う。
問題は、なぜ【このような】(←ここにカーソルを合わせてください)シンプルな形で国道指定されず、【こうなった】のかと言うことだ。
実はこれには、国道410号が性格の異なる複数の県道を継ぎ接ぎして生まれた道だという、複雑な経緯が含まれているように思われるのである。
今でこそ国道410号は房総半島の背骨ルートと呼ばれて間違いなく幹線に数えられるが、昭和40年代までの房総半島には縦貫道が乏しく、県道「千葉鴨川線」が昭和42年に、現在の君津市と鴨川市の境に「鴨川有料道路」を開通させたことで、ようやくそれらしい体裁を得たに過ぎなかった。
そしてこの千葉鴨川線は路線名の通り千葉と鴨川を結んでおり、松丘付近では【このようなルート】を通じていた。
つまり昭和31年頃に開通した「新道」とは、県道千葉鴨川線の新道であり、この時点で松丘を経由していた「旧道」は県道から脱落し当時の上総町道に移管されたものと思われる。
しかし同じ頃、松丘にはもう一本の県道が存在していた。
その事が、この奇妙な国道指定の前座となった。
路線名は県道大多喜三島線といい、千葉鴨川線が縦貫道であったのに対し、同路線は松丘を【このように通過する】横断道であった。
なんか見えてきたような気がしない?
大多喜三島線と千葉鴨川線は、千葉鴨川線の新道が開通する以前には松丘地内で長々と重複していたのだが、新道の開通を契機に旧道の南半分だけが大多喜三島線として残り、北半分は町道に格下げされた。
そして、昭和56年に国道410号が新たに指定された際、素直に千葉鴨川線を国道に昇格させなかったことが、ややこしい迷走を生んだ。
同国道は終点を千葉近傍の木更津に、起点を館山としたのだ。
それは昭和30年に、三島峠をトンネルで貫く林道が開通しており、これを新しい半島の縦貫道路に育てたいという自治体の思惑もあったに違いない。
国道410号は、この松丘で【千葉鴨川線から県道大多喜三島線へと移るように指定された】結果、自分自身を振り返って跨ぐ(潜る)ような変態なルートが出来上がった。
この際に、既に市道(上総町が君津市に合併していたので)に格下げされていた旧県道を再び国道に抜擢することには、全国的な慣例を見ても違和感があったのだろう。不可能ではなかったはずだが、結局そうはならなかった。
全国的に見て、このような「振り返り指定」とでも言うべき線形を持つ国道が少ない事を考えると、その他にも何か理由があるのかも知れないが、とりあえず市町村道<県道<国道という順列に則って考えれば、以上のような理由付けが出来る事が分かった。
なお、平成5年に追加で指定された国道465号は外房の茂原を起点に大多喜を経て内房の富津へ向かうルートであるから、紛れもなく半島横断道路である。この松丘では至って素直にかつての横断県道「大多喜三島線」をなぞっているので、何も変なところは生まれていない。
ちなみに、本編の最後にちょこっと出てきたが、現在国道410号のバイパス工事が進められている。
図中に破線で示したのがその「久留里馬来田(くるりまくた)バイパス」のルートで、全長10.7kmのうち、現在は北側を中心に40%ほどが開通している。昭和60年に開始した事業だと言うから、かれこれ四半世紀も経っているのに、苦労しているようだ。
ともかく、このバイパスが開通した暁には、おそらく右図のように国道の指定は“整理”されてしまうものと思われる。
まあそれでもあの“激狭尾根渡り”や、明治以来の素堀隧道だった四町作第一隧道については国道465号が継承する事だろう。
今のところ、此方にはバイパスの話を聞かないので…。
気持ちよく(あ〜気持ちよかった)タネも明かしたところで、ちょっとだけオマケ。
房総といえば「川廻し」という独特の地形改良術を使って、近代以前から耕地の拡大に勤しんできた。
図中に青く示した部分は、地形図から読み取れた大規模な川廻しの痕跡である。
こうして見ると、房総には川沿いの街道というものがほとんど発達しなかったのも頷ける猛烈な蛇行ぶりである。
中央の「広岡」などは、本当に貴重な河岸段丘上の広い岡だという感じがする。(その割に集落が発達していないのは、周囲を山に囲まれているせいだろうか)
なんか、社会科の教材になりそうな楽しい地形である。
我らが国道410号も旧河道を避けるように通行していたことが分かるだろう。
オマケ2。
恒例となった古地形図チェックをしてみた。
赤い破線の位置に昭和31年頃新道が開通するわけだが、この当時は影も形もなく、今日の変態線形も生まれていない。
君津郡松丘村(後の上総町を経て君津市の一部となる)の長閑な風景の中に、南北を縦断する県道と東西を横断する県道の太い二重線がクロスしている。
これが前述の県道千葉鴨川線と、県道大多喜三島線である。
現状がさほど改良されていないと仮定すれば、当時の県道としては平均的な道々だったと想像されるのである。
なお、本編中で紹介した四町作第一隧道と、開削されて跡地をそれと擬定した四町作第二隧道の他に、当時はもう二つ隧道が描かれている。
いずれも現在の国道465号上にあった隧道で、現状がどうなっているのかを簡単に紹介して、このレポートの締まらない〆としたい
まずは名殿隧道の跡地は、国道465号と県道24号千葉鴨川線(一部を国道に明け渡したが、路線は今も残っている)の分岐地点である名殿交差点のすぐ北側のこの切り通しである。
傍らには大きな隧道のイラストが描かれた看板があるが、当然名殿隧道を偲んでのものでは…ない。
近くの亀山湖にある川廻しの水路隧道に遊覧船で入りませんかという、山行が的にはグッと来る案内だ。
しかし、名殿隧道的には寒い。
「隧道リスト」には記載されているので、昭和40年代初頭までは存在したらしい。
名殿隧道(跡)
全長:18m 車道幅員:5.5m 限界高:4.5m 竣工年度:昭和31年
名殿隧道跡から国道465号を北に進むが、すぐに昭和49年竣功の名殿大橋脇の短い旧道へはいる。
そこで、JR久留里線を短い跨線橋で渡るのだが、橋の上から終点上総亀山駅方面を見ると、そこにはご覧の立派なサイフォンがある。
サイフォン自体は決して珍しいものではないが、これだけ表面に露出していて、しかも分かりやすい形状をしているものは珍しい。
コンクリートの無骨な質感が美しく、思わず見とれてしまった。
…道路とは盛大に関係ないが…。
そして、名殿隧道と国道410号の交差点のほぼ中央に、もう一本の隧道があったようだ。
名殿隧道や四町作第二隧道は開削されつつも掘り割りとして痕跡を留めていたが、この隧道は正式な名前もどんな隧道だったのかも分からない。
ただ、昭和43年版の地形図からは早々と姿を消している。
この場所は現在、小櫃川に沿って階段状に線路と国道が敷かれている。
もの凄く高い国道の法面が、唯一この場所に隧道を欲していた痕跡といえるものだろう。
はっきり言って隧道跡としては物足りない現況だが、
こ こ に は 、 秘 密 が …。
?
法面に、 穴?
しかし… この形は…。
もしや……
オシオキダベェ〜?!
ドクロのマーク?
それより何より、何なんだこの穴は。
中に何がある?
そして、この穴へ繋がる階段の凄まじさは…、おそらく… 究極!
全日本急階段選手権大会道路部門があれば、間違いなくベスト3入りだと思う。
だって、次の写真見てみ。
マジすごいぞこの階段。
怖すぎる…。
この階段は、怖すぎるぞ。
手すりがあるのが最後の良心な訳だが、これに掴まっていないと後ろにひっくり返りそうになる。
そして、万が一ひっくり返って落ちた先は… 無余地の車道…。
登っている最中も、バンバン後ろを車が通りすぎた。
大型車が、私の存在に気付かず幅ギリギリを通り過ぎたときなど、尻が一瞬浮いた気がしたぞ。
3mほど登って、いよいよ見えてきた“洞内“。
なんだか、とっても辛気くさい雰囲気…。
どう見ても墓石みたいな石とか、肉厚な葉っぱがビロビロ出ていて、怪しさ抜群。
次の一歩が、ちょっと重い。
登ったはイイが、前を向いて下るにはとても勇気が要る階段。
普通ならば階段ではなく梯子になりそうな角度だが、それでも敢えて階段。
確かに日本には階段の角度を定めた法律は無いかも知れないが、これは昨今のバリアフリー化とは対極にある、命がけの階段だ。
さて、こんな状況になってまでアクセスされるべき穴の正体とは、一体何だ?
怖い。
よほど信心深い人でなければ、ちょっと瞑想は難しいシチュエーション。
単なる路傍法面の穴に、なぜこれほど沢山の仏像が安置されているのか説明がしがたいが、ともかくわびさびの対極にあるような乾ききった空気、どよめく騒音、土もないのに仏像群にまとわりつくツタ、人が来ていないらしい雰囲気…。
謎のドクロ穴は、
怖かった。