2013/3/4 9:50 《現在地》
天龍村役場がある平岡集落から国道418号を直進し、長く新しい(新)十方峡トンネルを潜り抜ける。
続いて、いままさに開口せんとする藁野トンネルを尻目に進むと、十方峡バイパスの中では2番目の部分開通区間にあたる清水トンネルの工区に出会った。
この区間は平成24年11月10日に新道の供用が開始されており、探索日はその4ヶ月後であったが、まだ新旧道接続部分の路面に残工事があるようで、片側交互通行を含む工事現場の空気感が残っていた。
そもそも私が探索時に持っていた地図には旧道しか描かれていなかったし(通行するのも初めて)、工事が進んでいること自体知らなかったので、思わぬ新道との遭遇に面食った。
そしてその驚きのすぐあとには、まるで当然のようにムクムクと立ちのぼってくる感情があった。
まだ見ぬ旧道の存在に対する期待感である。
どうやらあれが新道らしい。
現代的な下路ランガー橋が、陽光を一方に受けて白く輝いていた。
そしてその先は直に大口径のトンネルに吸い込まれていた。
汚れのない白い坑門も、その新しさを物語っていた。
なお、これらの橋とトンネルの少し手前にも、別の橋が架かっていた。
それは明らかに人道用と分かる狭小な吊り橋で、対岸はやはり険しい山壁に突き当たっていて人家も無さそうなのだが、橋はそう古びて見えない。
先に現れたのは吊り橋の方であった。
橋が新しく見えたのも道理で、国道脇にある入り口に設けられた少々興醒めするを免れない案内板には、本橋が平成10年に「水力発電施設周辺地域交付金交付事業」という名目で整備された事が表示されていた。
村道清水橋線の清水橋というのが本橋の名前だが、これはまもなく渡る国道の橋と同名だった。
私は自転車を降りて一往復、この鉄網床版の人道用吊り橋を渡ってみたが、揺れは微小で、遠山川の渓谷を見晴らす心地よい視座を提供してくれた。紅葉の時期は特に良いだろう。
なお、橋の先には人が歩ける程度に刈払われた山道が続いており、地形図によると谷京峠という場所へ通じているらしい。実はかなり古い道なのだろうと予想したが、私の目的地とはかけ離れているので引き返した。
路面の整備が完了していない清水橋の袂へ到着。
そのために路肩には様々な障害物が見て取れ、一瞬この橋は本当に供用されているのかという不安を感じたが、迂回すべき旧道への分岐は見あたらず、そうこうしているうちに1台の車が橋から勢いよく走り出てきたので、私はようやく完全に状況を理解した。
欄干に付けられた真新しい銘板によれば、橋の名前は「清水橋」。竣工は「平成24年10月」であるという。
さてさて、手元の地形図に国道として描かれている細い橋や狭いトンネルは、いずこへ行ったのか。
実際に動き回って捜索を始めると、それはあまりに容易く発見された。
ガードレールの外に目を向けるという、最も初歩的なワンアクションだけである。
9:52 《現在地》
うほっ! 良い橋!
現道と繋がっていない道が、路肩のすぐ下から始まっていた。
それは私の地図に平然と描かれている橋や隧道が、廃道となって最初の一冬を過ごした後の姿であった。
現道と旧道とを隔てる斜面は、目に美しい45度の真っ平らな斜面であり、高低差は3mくらいある。
おそらく数年後には、雑草の生い茂るありがちな斜面に変わっている事だろう。
現道側のガードレールとこの斜面によって、旧道を引続き車道として活用する意図のないことが了解された。
そしてそれは私にとって、一目で「いい」という感じがする橋やトンネルを、いち早く“独り占め”出来るという、願ってもないチャンスだった。
旧道化と同時に廃道化したと仮定しても、その期間は僅か5ヶ月、一冬に過ぎない。
だが、その割に道は随分と草臥れて見えた。
これは単に、旧道になる前から“出来上がっていた”ということなのだろう。
ほとんど直角に近いカーブで橋に入っていく線形くらいなら驚きはしないが、ここ数日晴天続きだというのに、堂々と路上に滝が流れ落ちているなどは、既に立派な「酷道」の風体であった。
このまま放置されれば遠からず路肩の溝も埋まり、路上に土砂が堆くなるだろう。
(旧)清水橋。
橋はポニートラス形式で、この形式は現在あまり新設されていないので、それだけで一見の価値がある。
橋の幅は2車線には少し足らないくらいで、大型車の離合は無理だろう。
そんな不十分な道幅と、橋頭の鋭角カーブが災いしてか、両側の親柱が外へ向かって傾斜しており、もう一度激しく接触したら折れてしまいそうだった。
今はその心配こそ無くなったが、晩年は隣でバイパス工事が進む中、ほとんど「使い切り」に近い酷使を受けていたことが連想され、憐れであった。
しかもその傾いた親柱の上に、当初は街路灯を掲げていたであろう鉄柱が残っていたことが、より一層の哀感を誘った。
かつて、都会の大きな橋には、ほぼ例外なくシンボリックに用いられた親柱上の飾り照明。それがこの僻遠の渓流橋に設けられていたとしたら、そこには遠山の新しい玄関口に対する地域の期待や喝采が、念入りに込められているように思えたのである。
お疲れ様でした。 思わず、そんな意味のもっと砕けた言葉が口を突いた。
傾いた親柱の銘板には、流麗な文字が流れていた。
←「しみずばし」
「昭和三三年三月竣工」→
竣工年の“三”並びに注目したい。
パチンコで遊ぶ人がいまほど多くなかった当時であったとしても、ぞろ目のめでたさを話題にした人は少なからずいたに違いない。
想像ではこれ以上話を広げようもないが、こうしたぞろ目の竣工年月を持つ橋だって無限にあるわけではなく、さらに古いものほど珍しいのだから、昭和33年3月はなかなか貴重だろう。
なお、昭和33年当時この道が何と呼ばれていたかは、調べがまだ付いていない。
県道であったことだけは確からしいが、県道下和田平岡停車場線の認定は昭和41年だから、その前は別の路線名であったはずだ。
と、
ここまでならば、心地よくもありがちな旧道風景であったろう。
ニョキッと主塔!
ちょっと大袈裟だが、一瞬だけ風景が「バグ」っているような奇妙な感覚を持った。
なにせそこそこ見慣れた存在である吊り橋のコンクリート製主塔が、
砂利しかない広い河原から、ニョッキリと生えていたのである。
これが世にいう、
旧旧橋ニョッキリ事件である。
数分前に現道の橋頭でしたのと同じように、今度は旧橋の橋頭にて下を覗き込む。
するとそこには、さらにもう一段階旧く、拙い、そんな廃道が人知れずに横たわっていたのである。
この一連の展開を見て突如脳裏に浮かんで離れなくなったのが、有名なロシア民芸品「マトリョーシカ」だった。
清水橋は侮れない歴史を持っている。
3世代の橋が、それぞれ吊り橋、トラス、ランガー(アーチ)という、全く異なる形式で架せられていた。
そしてその共通点と思しきは、それぞれの時代における長大径間実現の手段であったに違いない。
流水に橋が干渉されることを、極度に恐れていたのである。
「遠山谷の全ての水を集めて速し遠山川」が、如何に歴代の架橋者を悩ませてきたかが、よく分かるような風景だった。
ましてや、旧旧世代の吊り橋が主塔の半ばまで河原の砂利に埋没しつつある現状は、遠山川の秘めた激情の凄まじさを容易く連想されたのである。
現道と旧道の落差は3m程度であったが、旧道と旧旧道のそれは、もう少しだけ大きい。
というか、これはもう旧橋から河原へ直接下りてしまうのと大差ない落差である。
こんな場所へ、わざわざ訪れてみようという人もいないのだろう。
両者を隔てる急な岩場の斜面には踏み跡もないので、適当な木々を手掛かりに下った。
旧橋の竣工が昭和33年であるならば、この旧旧道はその時まで使われていたのだろうか。
道幅は旧道よりも当然狭く、小さな貨物自動車がギリギリ通れるくらいしかないだろう。
さらに度重なる増水のためか完全に路盤が洗い流されていて、地面はゴツゴツした削り出しの岩場そのものである。
この場所が増水時に容易く水没する事は、写真に写っている枝付きの漂着物からも窺えるだろう。
路肩に擁壁でもあったらもう少し道幅は広かっただろうが、現状ではとても自動車が通じていた道のようには見えず、さながら明治馬車道の“遺跡”のようであった。
しかしどちらにせよ、川縁の堅そうな岩場からこの道を削り出す労力は、並大抵でなかっただろう。
10:11 《現在地》
旧旧道は30mほどで直角に左折し、そこからは水上に架された旧旧橋へとバトンを渡していたようだ。
現在歩けるのはこの橋頭までだが、その路面から1mほど低い水面すれすれの高さに、コの字型をしたコンクリートの遺物が四方を遠山川に洗われていた。
私は陸から跳ねてそこへ乗りうつることを真剣に考えたが、足場が悪く苔なども生えており、しかも水深の見当も付かないので、臆病になってやめてしまった。
これは立地的に考えて、河川に突出する形で設けらた、旧旧橋附属の築堤兼橋台の土台部分と思われる。
不思議なのは、対岸に見えている主塔がこちら側には存在しない事で、吊り橋には片張り式の物もあるけれど、一般的ではない。
吊り橋の構造中で最も頑丈に拵えられる主塔でさえも、遠山川の度重なる氾濫に耐えかねて、流出してしまったと見るべきだろう。
そして、まるでとりつく島もないような此岸に対し、対岸の表情はまるで違っていた。
ニョッキリ主塔の異様な存在感!
次回、あの主塔を潜って、その先へ。