国道418号 清水トンネル旧道 前編

公開日 2013.08.22
探索日 2013.03.04

「山行が」に、とうとう“あの国道418号”の名前が登場するわけであるが、天の邪鬼でマイナー好きな私である。
酷道ファンに知らぬ人のない“あの区間”を紹介するのは、またいずれの時としよう。
ここで紹介するのは、国道418号の中でも国道への指定以来ずっと地域の生活道路として健気に働き、その功績が認められる形でつい最近に生まれた旧道である。

国道418号は、他の一群の国道と一緒に昭和57年に指定された。
しかしこの「遠山郷」と呼ばれる中部日本の秘境と言われる地域に進み出でたのは、それから11年経った平成5年のことである。
その時以来、国道418号は福井県大野市(起点)と長野県下伊那郡南信濃村(終点)を延々250km近い道路で結ぶ、全線走破にますます骨の折れる国道となったのである。

しかし、指定時期の遅い国道の大半がそうであるように、この国道418号も一連の歴史性を持った道路ではなくて、別々の経緯で生まれてきた道々の機械的連結によって出来ている。
したがって、その末端に近い場所を紹介する今回のレポートにおいて、国道418号という「なんかウキウキする」キーワードに大した意味は無い。
酷道という業界の重鎮であるこの路線への敬意を示す意味で、「山行が」初登場の今回にこうした前置きをしたに過ぎず、重要なのはむしろ「遠山郷」である。

遠山というのは天竜川支流遠山川流域の四方を山に囲まれた地域の呼称であり、行政地名としては昭和35年の遠山村解体以来消えているが、今も人心や風俗…そして主に観光の面から使われている歴史地名である。
そして信濃国の南端という、遠山に通じる辺境的地名である「南信濃村」という名もまた時代遅れとなり、現在は飯田市の一角、大字に南信濃を冠する地域が遠山の中核となっているのである。


【所在地(マピオン)】

国道418号の終点側最末端部である天龍村平岡〜飯田市南信濃和田の区間(約9km)が国道となったのは、既に述べた通り平成5年と最近のことである。
それまでこの区間は(国道予備軍である)主要地方道でさえない一般県道「下和田平岡停車場線」と呼称されており、その名は少し古い道路地図帳で確認する事が出来る。

一般県道から一足飛びで国道昇格を果したこの区間は、確かに遠山郷住2000人余りの人々(もちろん昔はもっと多かった)にとっては、文字通りの“生命線”に他ならなかった。
歴史的に見れば、遠山郷のメインストリートは近世よりある「秋葉街道」こと国道152号であったが、この道は平成の今日も南北ともに自動車交通不能(ただし林道へ迂回すれば疎通可能)という悪道ぶりであり、一方平岡には昭和初期に鉄道が通じた関係もあって、遠山川に沿って平岡と和田を結ぶこの谷沿いの道の重要度は時代とともに増大してきた経緯がある。

昭和51年に発行された『南信濃村史 遠山』が、このいわゆる「遠山道」を指して「西南は遠山谷の表玄関でもあり、交通の生命線ともいえる国鉄飯田線平岡駅のある天龍村と境をなし、通じている。」と書いているのは、そんな事情からであったのだし、飯田線(旧三信鉄道)が昭和11年に開業した当初、遠山川の河口近くに小さな停留所「遠山口」駅を設けていた(昭和26年に線路移設に伴い廃駅)ことなどは、その駅名と共に、本道の存在価値を象徴する事実であったといえる。



今回紹介するのは、昭和初期以降、“遠山郷”の玄関口として活躍してきた遠山線の旧道の中でも、天龍村と旧南信濃村の村界部に当る約900mである。

ここの旧道化の経緯は、平成5年の国道昇格に始まる。
昇格当初から、狭隘で迂回路のない村境周辺の改良が検討されており、平成9年に県を事業主体とする国道418号十方峡(じっぽうきょう)バイパス事業が採択された。

十方峡バイパスは全長1.8kmで3本のトンネルがあり、このうち平成17年度に十方峡トンネルを含む区間が最初の部分供用を果した。
次いで平成24年度に(新)清水トンネルを含む区間が供用され、また新たな旧道を生じた。今回紹介の旧道である。
残る藁野トンネルを含む中間部も平成25年度内の開通に向けて工事が進められているから、明治以来の十方峡や清水橋といった難所の過去帳入りは約束されている状態である。

実はこの探索、別の探索の通りがかりに偶然出会ったに過ぎないが、なかなかの味わいを感じた。

(残りの旧道区間も後日公開予定あり)




現道→下りる→旧道→下りる→… 


2013/3/4 9:50 《現在地》

天龍村役場がある平岡集落から国道418号を直進し、長く新しい(新)十方峡トンネルを潜り抜ける。
続いて、いままさに開口せんとする藁野トンネルを尻目に進むと、十方峡バイパスの中では2番目の部分開通区間にあたる清水トンネルの工区に出会った。

この区間は平成24年11月10日に新道の供用が開始されており、探索日はその4ヶ月後であったが、まだ新旧道接続部分の路面に残工事があるようで、片側交互通行を含む工事現場の空気感が残っていた。
そもそも私が探索時に持っていた地図には旧道しか描かれていなかったし(通行するのも初めて)、工事が進んでいること自体知らなかったので、思わぬ新道との遭遇に面食った。

そしてその驚きのすぐあとには、まるで当然のようにムクムクと立ちのぼってくる感情があった。
まだ見ぬ旧道の存在に対する期待感である。




どうやらあれが新道らしい。

現代的な下路ランガー橋が、陽光を一方に受けて白く輝いていた。
そしてその先は直に大口径のトンネルに吸い込まれていた。
汚れのない白い坑門も、その新しさを物語っていた。

なお、これらの橋とトンネルの少し手前にも、別の橋が架かっていた。
それは明らかに人道用と分かる狭小な吊り橋で、対岸はやはり険しい山壁に突き当たっていて人家も無さそうなのだが、橋はそう古びて見えない。


先に現れたのは吊り橋の方であった。

橋が新しく見えたのも道理で、国道脇にある入り口に設けられた少々興醒めするを免れない案内板には、本橋が平成10年に「水力発電施設周辺地域交付金交付事業」という名目で整備された事が表示されていた。
村道清水橋線の清水橋というのが本橋の名前だが、これはまもなく渡る国道の橋と同名だった。

私は自転車を降りて一往復、この鉄網床版の人道用吊り橋を渡ってみたが、揺れは微小で、遠山川の渓谷を見晴らす心地よい視座を提供してくれた。紅葉の時期は特に良いだろう。
なお、橋の先には人が歩ける程度に刈払われた山道が続いており、地形図によると谷京峠という場所へ通じているらしい。実はかなり古い道なのだろうと予想したが、私の目的地とはかけ離れているので引き返した。




路面の整備が完了していない清水橋の袂へ到着。
そのために路肩には様々な障害物が見て取れ、一瞬この橋は本当に供用されているのかという不安を感じたが、迂回すべき旧道への分岐は見あたらず、そうこうしているうちに1台の車が橋から勢いよく走り出てきたので、私はようやく完全に状況を理解した。
欄干に付けられた真新しい銘板によれば、橋の名前は「清水橋」。竣工は「平成24年10月」であるという。

さてさて、手元の地形図に国道として描かれている細い橋や狭いトンネルは、いずこへ行ったのか。

実際に動き回って捜索を始めると、それはあまりに容易く発見された。
ガードレールの外に目を向けるという、最も初歩的なワンアクションだけである。




9:52 《現在地》

うほっ! 良い橋!

現道と繋がっていない道が、路肩のすぐ下から始まっていた。

それは私の地図に平然と描かれている橋や隧道が、廃道となって最初の一冬を過ごした後の姿であった。



現道と旧道とを隔てる斜面は、目に美しい45度の真っ平らな斜面であり、高低差は3mくらいある。
おそらく数年後には、雑草の生い茂るありがちな斜面に変わっている事だろう。

現道側のガードレールとこの斜面によって、旧道を引続き車道として活用する意図のないことが了解された。
そしてそれは私にとって、一目で「いい」という感じがする橋やトンネルを、いち早く“独り占め”出来るという、願ってもないチャンスだった。




旧道化と同時に廃道化したと仮定しても、その期間は僅か5ヶ月、一冬に過ぎない。
だが、その割に道は随分と草臥れて見えた。
これは単に、旧道になる前から“出来上がっていた”ということなのだろう。

ほとんど直角に近いカーブで橋に入っていく線形くらいなら驚きはしないが、ここ数日晴天続きだというのに、堂々と路上に滝が流れ落ちているなどは、既に立派な「酷道」の風体であった。
このまま放置されれば遠からず路肩の溝も埋まり、路上に土砂が堆くなるだろう。




(旧)清水橋。

橋はポニートラス形式で、この形式は現在あまり新設されていないので、それだけで一見の価値がある。

橋の幅は2車線には少し足らないくらいで、大型車の離合は無理だろう。
そんな不十分な道幅と、橋頭の鋭角カーブが災いしてか、両側の親柱が外へ向かって傾斜しており、もう一度激しく接触したら折れてしまいそうだった。
今はその心配こそ無くなったが、晩年は隣でバイパス工事が進む中、ほとんど「使い切り」に近い酷使を受けていたことが連想され、憐れであった。

しかもその傾いた親柱の上に、当初は街路灯を掲げていたであろう鉄柱が残っていたことが、より一層の哀感を誘った。
かつて、都会の大きな橋には、ほぼ例外なくシンボリックに用いられた親柱上の飾り照明。それがこの僻遠の渓流橋に設けられていたとしたら、そこには遠山の新しい玄関口に対する地域の期待や喝采が、念入りに込められているように思えたのである。

お疲れ様でした。 思わず、そんな意味のもっと砕けた言葉が口を突いた。




傾いた親柱の銘板には、流麗な文字が流れていた。

←「しみずばし」

「昭和三三年三月竣工」→

竣工年の“三”並びに注目したい。
パチンコで遊ぶ人がいまほど多くなかった当時であったとしても、ぞろ目のめでたさを話題にした人は少なからずいたに違いない。
想像ではこれ以上話を広げようもないが、こうしたぞろ目の竣工年月を持つ橋だって無限にあるわけではなく、さらに古いものほど珍しいのだから、昭和33年3月はなかなか貴重だろう。

なお、昭和33年当時この道が何と呼ばれていたかは、調べがまだ付いていない。
県道であったことだけは確からしいが、県道下和田平岡停車場線の認定は昭和41年だから、その前は別の路線名であったはずだ。




と、


ここまでならば、心地よくもありがちな旧道風景であったろう。



ニョキッと主塔!

ちょっと大袈裟だが、一瞬だけ風景が「バグ」っているような奇妙な感覚を持った。

なにせそこそこ見慣れた存在である吊り橋のコンクリート製主塔が、

砂利しかない広い河原から、ニョッキリと生えていたのである。



これが世にいう、

旧旧橋ニョッキリ事件である。




数分前に現道の橋頭でしたのと同じように、今度は旧橋の橋頭にて下を覗き込む。
するとそこには、さらにもう一段階旧く、拙い、そんな廃道が人知れずに横たわっていたのである。
この一連の展開を見て突如脳裏に浮かんで離れなくなったのが、有名なロシア民芸品「マトリョーシカ」だった。

清水橋は侮れない歴史を持っている。
3世代の橋が、それぞれ吊り橋、トラス、ランガー(アーチ)という、全く異なる形式で架せられていた。
そしてその共通点と思しきは、それぞれの時代における長大径間実現の手段であったに違いない。
流水に橋が干渉されることを、極度に恐れていたのである。

「遠山谷の全ての水を集めて速し遠山川」が、如何に歴代の架橋者を悩ませてきたかが、よく分かるような風景だった。
ましてや、旧旧世代の吊り橋が主塔の半ばまで河原の砂利に埋没しつつある現状は、遠山川の秘めた激情の凄まじさを容易く連想されたのである。



現道と旧道の落差は3m程度であったが、旧道と旧旧道のそれは、もう少しだけ大きい。
というか、これはもう旧橋から河原へ直接下りてしまうのと大差ない落差である。

こんな場所へ、わざわざ訪れてみようという人もいないのだろう。
両者を隔てる急な岩場の斜面には踏み跡もないので、適当な木々を手掛かりに下った。


旧橋の竣工が昭和33年であるならば、この旧旧道はその時まで使われていたのだろうか。

道幅は旧道よりも当然狭く、小さな貨物自動車がギリギリ通れるくらいしかないだろう。
さらに度重なる増水のためか完全に路盤が洗い流されていて、地面はゴツゴツした削り出しの岩場そのものである。
この場所が増水時に容易く水没する事は、写真に写っている枝付きの漂着物からも窺えるだろう。

路肩に擁壁でもあったらもう少し道幅は広かっただろうが、現状ではとても自動車が通じていた道のようには見えず、さながら明治馬車道の“遺跡”のようであった。
しかしどちらにせよ、川縁の堅そうな岩場からこの道を削り出す労力は、並大抵でなかっただろう。




10:11 《現在地》

旧旧道は30mほどで直角に左折し、そこからは水上に架された旧旧橋へとバトンを渡していたようだ。

現在歩けるのはこの橋頭までだが、その路面から1mほど低い水面すれすれの高さに、コの字型をしたコンクリートの遺物が四方を遠山川に洗われていた。
私は陸から跳ねてそこへ乗りうつることを真剣に考えたが、足場が悪く苔なども生えており、しかも水深の見当も付かないので、臆病になってやめてしまった。

これは立地的に考えて、河川に突出する形で設けらた、旧旧橋附属の築堤兼橋台の土台部分と思われる。

不思議なのは、対岸に見えている主塔がこちら側には存在しない事で、吊り橋には片張り式の物もあるけれど、一般的ではない。
吊り橋の構造中で最も頑丈に拵えられる主塔でさえも、遠山川の度重なる氾濫に耐えかねて、流出してしまったと見るべきだろう。

そして、まるでとりつく島もないような此岸に対し、対岸の表情はまるで違っていた。





ニョッキリ主塔の異様な存在感!



次回、あの主塔を潜って、その先へ。