国道418号 清水トンネル旧道 後編

公開日 2013.08.28
探索日 2013.03.04

大断面素堀隧道と、塞がれた景観。


2013/3/4 10:11 《現在地》

旧旧道へ迂回すれば、この旧清水隧道を通行することなく先へ進めるのだが、それでは後悔するだろう。
次に来たときにも同じように通行できる保証はどこにもない、廃隧道の“一年生”である。
しっかり胸に刻んで往復したいと思う。

まあ、反対側の坑口前に自転車を乗り捨ててきたので、それを回収する目的もあったが。

なお、左の写真は坑口脇の旧旧道入り口である。
既に道に見えなくなりつつある旧旧道だが、一応は「立入禁止」の措置が取られていた。
そのためのバリケード自体が、率先して廃道化していたが…。




これは、なかなか良 い。

ほんの去年の秋まで、この姿のまま現役の国道を貫いていたというのが、まず素晴らしい。
素掘、すぼり、といいながら、実際はコンクリート吹付けのまがい物も目立つ中、これはワンク“ラ”ック即落石という、ワンクリック詐欺もビックリの危険隧道(=青春)で現役を貫いたのであるから、立派である。最後尾を走っていたつもりが、実は先頭だったというくらい立派だ。

しかも国道隧道の矜持であろうか、天井には一つどころか三つも照明が取り付けられていて、しかもそれが何食わぬ顔をした、いつものナトリウム灯なのがおいしい。
素掘の天井に取り付けるのは、いろいろ気を遣ったであろう。

そしてもう一つ、この純粋なる素堀隧道の素晴らしいと思える点は、無理矢理としか思えない幅の広さである。




これは半ば潜り抜け、西口に背を向けた状態で洞内を撮影したものだが、素掘としては異常なほど扁平な断面をしていることが、ほとんど路面と並行になっている天井からも感じ取れると思う。

この隧道の一番奇妙でかつ凄いところは、前後の道(前は「橋」で後は「崖道」)よりも隧道内の道幅が広い(この逆はよくあるが)ことだと思う。

その理由は分かるのである。
キツいバナナカーブであるために(壁面の矢印反射板が泣かせる)、交通の安全上そうせざるを得なかったのだろう。
大型車(大型のバスも通る)が、このカーブを曲がるには到底1車線幅のままでは無理だし、前後の道が狭いうえに交通量も少なくないので、出会い頭で対向車と遭遇してもある程度離合できるようにしたかったのだろう。

いろいろな地質の素堀隧道を見てきたが、一般に掘りやすいとされる凝灰岩や砂岩質で、この扁平さは自殺行為となる。
これは掘りにくさの代わりに、極めて堅牢で自立性の高い(石灰岩や安山岩のような)地質であるが故に実現出来たものと思う。
完成までには、普通に貫通させることの数十倍の労力を費やしただろうと想像するのである。




ほら〜。

素掘のままにしておくから、たった一冬の放置で早速小さな落石が発生しているよ〜。

ここは西口の眺めである。
外にあるのはもちろん旧清水橋で、その袂(廃道でなければ許されないような位置)に私の自転車が無造作に乗り捨てられている。

橋の道幅は5mとされている(歴史的鋼橋集覧より)が、ここから見ても明らかに隧道内の方が広いのが分かるだろう。
清水隧道内は、直線であれば普通に2車線道路に出来るくらい広かったのである。

自転車を回収して、再びバナナな洞内を通りぬける。

(前回お伝えしたように、県の計画では遠からず旧清水橋を撤去するつもりでいるようだが、そうすると隧道は外へ出ても即行き止まりとなってしまう。特に隧道を封鎖する計画は記載されていなかったが、どうなることやら…)



極端にスキューしているために一層と幅広く、というか、もはや明確に歪んだ形に見えてしまっている東口。

こちらも隧道内の道幅が、外へ出て幾らも行かぬうちに忽ちショボクレテいくのが、よく分かるだろう。
やっぱり旧清水隧道は、隧道内部だけが広いという、かなり珍しい特徴を持った隧道なのである。

といったところで、少し机上調査の成果なんぞを持ち出そうとすると、急にややこしい謎が私の前に突き出されるのだった。
この隧道の緒元(データ)は、今のところ『道路トンネル大鑑』(土木界通信社,昭和43年刊)でしか見たことがない。曰く―

清水隧道 
  竣工年度:昭和7年  延長:38.4m  車道幅員:5.0m  限界高:4.4m

となっている。これは開通当初ではなく、昭和43年時点のデータであることは注意を要するが、問題は竣工年である。
隧道が昭和7年竣工では、隣接する清水橋の昭和33年竣工との間に開きがありすぎるのだ。
この問題については、本編の最後でいくらかの考察を試みたいと思う。



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10:13 《現在地》

清水隧道を後に、いよいよ遠山郷の地へ足を踏み入れるべく前進を再開する。
もちろん今度は自転車も一緒である。

そして100mばかり進むと、清水橋とは較べるまでもないような小さな橋が現れた。
一瞬桟橋かと思ったが、よく見るとちゃんとした川(沢)を渡る橋であった。
ただしこの川というのは、普通一般的な川ではなかった。

思いがけない場所に、何か大きな鉄板が…。




この小さな橋こそ、遠山郷の本当の入り口であった。

橋の下を流れる「布滝沢」が天龍村と飯田市の境界であり、「飯田市」と書かれた標識は、よく見ると文字を貼り替えた形跡があった。
平成17年頃まで、ここには「南信濃村」と書かれていたのであろう。妙に傷んだ支柱は、それを見ていたに違いない。

沢の名前は布滝沢で、橋の名前は布滝橋。
これらの名前の由来となった布滝がどこにあるかは、もう言うまでもない。
ピシャビシャと少量の水が壁を伝って落ちる音が聞こえる。

布滝は、現役の国道に降りかかるように落ちる、貴重な景観を持った滝だった!!




この鉄板や、周りを囲む落石防止ネットが、出来るまでは…!


布滝という滝が往時どのような姿を見せていたのかは、残念ながら資料がないので分からない。
想像するより他に無いのであるが、高さは15m以上、幅は5mくらいか。
その名前から受け取れる通り、あまり多くはない水が岩盤に沿って、末広がりに…布を垂らしたように滑り落ちる滝であったろう。

そういう流れ方だけならば、さほど道路の交通に影響を与えそうにもないのだが、おそらく問題になったのは、強風時に滝の水が大量に飛散して道を濡らし、かつ冬場であれば濡れた路上がスケートリンク状態になることが、容易に想像出来るということである。

遠山郷の入り口にひたたり落ちる優雅な滝も、安全な交通確保という人の利益の前には、形無しもやむを得ない時代があったものと思う。
そしてそうであったならばこそ、交通の束縛から解放された今こそ、本来の姿を取り戻させて欲しい。
不要になった橋をわざわざ撤去するつもりなら、この鉄板やネットもやってほしいものだ。



布滝橋の遠山側の眺め。

こちらの親柱には竣工年が刻まれており、「昭和三六年三月」とあった。
これは旧清水橋竣工のちょうど3年後であるわけだが、これらの橋の間に昭和7年竣工の清水隧道があるというのは、やっぱり納得しにくい。
それぞれの橋の位置に、全く痕跡を残さない旧橋があったのだろうか。

普通に考えれば、隧道も昭和33〜36年の間に竣工したものと思う。




今一度、望遠で清水隧道を覗いてみた。

「スキュー」に「カーブ」に「素掘」という洞内の印象があまり強かったせいか、うっかりこちらの坑門を近くで撮影せずに来てしまったが、「怪しい隧道の3点セット」などと勝手に呼びたくなるような警戒・規制標識の群が直前に立ち並んでいるところや、遠山川と垂直の崖に挟まれた尋常でない隙間に無理矢理道路を通じていることなど、味わいがある。

あと、こちらには坑門に扁額があった事も書き加えておく。
内容は普通に左書きで、「清水隧道」。
この左書きという部分も、戦後の隧道であることを匂わせた。



布滝橋から50mほど進んだ川縁の路肩には、ご覧の奇妙な光景があった。

そこには裸の鉄筋が100本以上も、天に向かって無造作に突きだしていた。

ガードレールの外側ではあるが、昔から鉄筋=転倒したら串刺しという怖いイメージがあって、ここも苦手だった。

鉄筋の錆び方を見る限り、この状態になって数年は経過していると思うが、正体はなんだろう?
私の予想では、路肩のコンクリート擁壁をさらに嵩上げする準備工か、さらに大規模に道を覆うロックシェッドが計画されていたのではないかなどと思う。

そうこうしているうちに別ルートからなるバイパスの建設が決定し、放置されたのではないかと、好きな未成道関係に持っていこうと私は画策している。
誰か答えが分かったら教えて欲しい。


おにぎりが、残ってた!!

何度も言うように、ここが国道に指定されたのは平成5年だから、それから19年という微妙な期間で旧道化&廃道化したことになる。

この風景からは、旧道はともかく、まだ廃道という実感はまるで湧かないのであるが、沿道に取り立てて人家もない旧道で、遠からず橋も撤去されるというのであれば、他に“しよう”があるかと思うわけで…。

廃道になったら、この“おにぎり”は、どうなるんだろう。
回収されるのだろうか。




南信濃村にきたぞ〜!

ここでは、“おにぎり”よりも、こっちにより心を惹かれた。

いいよね〜、こういう…「歓迎看板」とでもいうのだろうか?
旅してるって気持ちにさせてくれるアイテム。
最近は、市町村合併が進みすぎて自治体の境界自体が減ったせいもあるだろうが、道路管理上も路上広告物のようなものに対する管理が厳しくなり、交通標語共々、新作が減り続けているように見えるのが気掛かりである。
日本中を味気ない車窓にはしないで欲しいものだ。カーナビの画面よりも遙かに楽しい、旅窓に見える文字情報は“宝”なりと思う。

看板のレイアウトの際限は少し面倒なので、上から平文で流します。

歓迎 ようこそ 南アルプスの里 南信濃村へ 霜月祭と文化財の里
南信濃村商工会 南信濃村観光協会

で、この奥にももう一本の“おにぎり”が、今度は向こう向きに設置されていた。




10:17 《現在地》

飯田市に入って300m進んだ所で、今まで道の無かった山側に突如、真新しい鋪装をまとった道が出現。
もちろん新道(=現道)である。
全長326mの(新)清水トンネルを抜け出した新道は、すぐに旧道を併合して、遠山川沿いの一本の道になるのであった。
ここは全長1.8kmある十方峡バイパスの終点でもある。
なお、今回紹介した一連の旧道の長さは、約600mであった。

ところで、天龍村側の旧道の入り口は段差やガードレールがあるだけで、通行止めの表示は無かった(物理的に不要であった)が、こちらは見慣れたA型バリケードが立ち並んでいた。
この接合部分は旧道側も再整備がされているので、撤去予定の清水橋の手前までは廃道化させず、引続き山林管理などの目的で(一般外に)利用されるような感じを受けた。




新旧道の分岐地点から振り返ると、新旧道の両方に立っている“おにぎり”を同時に見る事が出来た。

旧道の方はかなり遠いので、よほど注意していないと気付かないだろうが、
一般的にはドライバーの錯誤を防ぐため、こういう位置の旧道側の路線標識は撤去される習わしである。
ここは旧道化して日が浅いために手が回っていないのか、単に遠いから良いと言うことかも知れない。

補助標識の記載内容の違いも、理由は分からない。
「布滝」は小字か通称の地名、「南和田」は前者を包含する大字である。
(国道化以前の県道時代の路線名にあった「南和田」である。)




といったところで、一連の旧道&旧旧道の小探索は終了である。

こうして遠山郷の入り口を攻略した私が、遠山郷に入って何をしたのか、
それはまた別の機会にお知らせしようと思う。





本編の謎として残ったのは、主に次の2つの事柄である。

  • 旧旧橋は、いつ架けられた? (旧旧道はいつの道?)
  • 旧隧道は、本当に昭和7年竣工? (「大鑑」は間違ってない?)

この問題を解決する一番の正攻法は、地元の詳しい人たちに話を聞くことであろうが、これは残念ながら今回できなかった。
次点は信頼のおける町村史などにあたることだろうけれど、「南信濃村史」や「天龍村史」にも、清水橋関連の記述はまるで見られなかったのであった。

こうなると直接的な解決は難しいのだが、なんとか手元にあるもので答えに近付こうとしたのが、以下の内容である。
別に肩肘を張るような内容では無い、ビジュアルに訴えた調査法だ。



歴代の地形図を見較べてみよう〜〜!(どんどんぱふぱふ)
というわけでして、これは入手可能な最も古い版、明治41年測量版である。

この当時、まだ「遠山線」(平岡と和田を結ぶ道は、明治41年に県道に指定され「遠山線」と通称されたことが「南信濃村史」にある)は、現在の清水橋が架かっているあたり(図中の○の範囲)で遠山川を渡っていなかった。
この道は、川の東岸を通る事から「川東線」とも通称していたらしいが、当然「川西線」もあったのであり、近世は寧ろそちらが主流であった。その川西線は遠山川沿いの道ではなく、山の上を通っていた。図の上方に伸びている破線の道がその名残である(京矢峠回り)。つまり、このレポートの初回にサラリと登場した「清水橋」という名の鋼鉄製人道吊橋が、実は一連の清水橋シリーズの初代といえる存在だった(もっとも、その架設位置は変わっている)。

以上、明治末の段階ではまだ旧旧橋も存在せず、当時の「遠山線」(川東線)は車道化されていなかったことが窺えた。


これが昭和26年応急修正版になると、旧旧橋らしき短い橋が出現している。
この道の地図上における描かれ方は「里道」であるが、車両が通行できる道として表現されているので、小型の自動車を含めて、この当時は既に平岡〜和田間に車両の往来があったのだろう。
布滝の下を潜る道も現在の旧道と変わらないが、「道路トンネル大鑑」が昭和7年竣工としている隧道は、描かれていない。
(明治41年と昭和26年の期間内のいつ旧旧橋が架けられたかは、間を埋める地形図を入手していないので絞りきれない。つまり謎の一番目は未解決である)

さらに昭和41年補測調査版と見較べると、旧旧橋から旧橋へ切り替わった気配がある。
位置的には余りずれていないが、橋の長さが若干違うのである。しかし、旧橋に切り替わったのであれば存在していなければおかしい隧道は描かれていない。
これは縮尺の問題だと思いつつも、はっきりしないまま、地形図の調査ではこれが限界であった。



ということで、より直截的なビジュアル作戦として歴代の空中写真国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムに当たると、今度は決定的と言って良い違いが見て取れた。

昭和23年と45年の画像では明らかに橋の位置が違っているし、昭和45年の方はちゃんと尾根を潜る隧道の存在が感じられる!

以上の事から、清水隧道に関する「道路トンネル大鑑」の竣工年(昭和7年)は誤りであると判断したい。
昭和23年の空撮映像に隧道とそれに続く旧橋が描かれていない(旧旧橋しかない)のは、決定的証拠である。

やはりあの大断面素掘隧道は、昭和30年代になって、交通量の増大や、車両の大型化、遠山川の堆砂による河床の上昇などの諸問題より、旧旧道から旧道へ切り替える段になって開通したものなのだろう。

より決定的な情報が入手出来たら追記したい。