2013/3/4 10:11 《現在地》
旧旧道へ迂回すれば、この旧清水隧道を通行することなく先へ進めるのだが、それでは後悔するだろう。
次に来たときにも同じように通行できる保証はどこにもない、廃隧道の“一年生”である。
しっかり胸に刻んで往復したいと思う。
まあ、反対側の坑口前に自転車を乗り捨ててきたので、それを回収する目的もあったが。
なお、左の写真は坑口脇の旧旧道入り口である。
既に道に見えなくなりつつある旧旧道だが、一応は「立入禁止」の措置が取られていた。
そのためのバリケード自体が、率先して廃道化していたが…。
これは、なかなか良 い。
ほんの去年の秋まで、この姿のまま現役の国道を貫いていたというのが、まず素晴らしい。
素掘、すぼり、といいながら、実際はコンクリート吹付けのまがい物も目立つ中、これはワンク“ラ”ック即落石という、ワンクリック詐欺もビックリの危険隧道(=青春)で現役を貫いたのであるから、立派である。最後尾を走っていたつもりが、実は先頭だったというくらい立派だ。
しかも国道隧道の矜持であろうか、天井には一つどころか三つも照明が取り付けられていて、しかもそれが何食わぬ顔をした、いつものナトリウム灯なのがおいしい。
素掘の天井に取り付けるのは、いろいろ気を遣ったであろう。
そしてもう一つ、この純粋なる素堀隧道の素晴らしいと思える点は、無理矢理としか思えない幅のである。
これは半ば潜り抜け、西口に背を向けた状態で洞内を撮影したものだが、素掘としては異常なほど扁平な断面をしていることが、ほとんど路面と並行になっている天井からも感じ取れると思う。
この隧道の一番奇妙でかつ凄いところは、前後の道(前は「橋」で後は「崖道」)よりも隧道内の道幅が広い(この逆はよくあるが)ことだと思う。
その理由は分かるのである。
キツいバナナカーブであるために(壁面の矢印反射板が泣かせる)、交通の安全上そうせざるを得なかったのだろう。
大型車(大型のバスも通る)が、このカーブを曲がるには到底1車線幅のままでは無理だし、前後の道が狭いうえに交通量も少なくないので、出会い頭で対向車と遭遇してもある程度離合できるようにしたかったのだろう。
いろいろな地質の素堀隧道を見てきたが、一般に掘りやすいとされる凝灰岩や砂岩質で、この扁平さは自殺行為となる。
これは掘りにくさの代わりに、極めて堅牢で自立性の高い(石灰岩や安山岩のような)地質であるが故に実現出来たものと思う。
完成までには、普通に貫通させることの数十倍の労力を費やしただろうと想像するのである。
ほら〜。
素掘のままにしておくから、たった一冬の放置で早速小さな落石が発生しているよ〜。
ここは西口の眺めである。
外にあるのはもちろん旧清水橋で、その袂(廃道でなければ許されないような位置)に私の自転車が無造作に乗り捨てられている。
橋の道幅は5mとされている(歴史的鋼橋集覧より)が、ここから見ても明らかに隧道内の方が広いのが分かるだろう。
清水隧道内は、直線であれば普通に2車線道路に出来るくらい広かったのである。
自転車を回収して、再びバナナな洞内を通りぬける。
(前回お伝えしたように、県の計画では遠からず旧清水橋を撤去するつもりでいるようだが、そうすると隧道は外へ出ても即行き止まりとなってしまう。特に隧道を封鎖する計画は記載されていなかったが、どうなることやら…)
極端にスキューしているために一層と幅広く、というか、もはや明確に歪んだ形に見えてしまっている東口。
こちらも隧道内の道幅が、外へ出て幾らも行かぬうちに忽ちショボクレテいくのが、よく分かるだろう。
やっぱり旧清水隧道は、隧道内部だけが広いという、かなり珍しい特徴を持った隧道なのである。
といったところで、少し机上調査の成果なんぞを持ち出そうとすると、急にややこしい謎が私の前に突き出されるのだった。
この隧道の緒元(データ)は、今のところ『道路トンネル大鑑』(土木界通信社,昭和43年刊)でしか見たことがない。曰く―
清水隧道
竣工年度:昭和7年 延長:38.4m 車道幅員:5.0m 限界高:4.4m
となっている。これは開通当初ではなく、昭和43年時点のデータであることは注意を要するが、問題は竣工年である。
隧道が昭和7年竣工では、隣接する清水橋の昭和33年竣工との間に開きがありすぎるのだ。
この問題については、本編の最後でいくらかの考察を試みたいと思う。
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10:13 《現在地》
清水隧道を後に、いよいよ遠山郷の地へ足を踏み入れるべく前進を再開する。
もちろん今度は自転車も一緒である。
そして100mばかり進むと、清水橋とは較べるまでもないような小さな橋が現れた。
一瞬桟橋かと思ったが、よく見るとちゃんとした川(沢)を渡る橋であった。
ただしこの川というのは、普通一般的な川ではなかった。
思いがけない場所に、何か大きな鉄板が…。
この小さな橋こそ、遠山郷の本当の入り口であった。
橋の下を流れる「布滝沢」が天龍村と飯田市の境界であり、「飯田市」と書かれた標識は、よく見ると文字を貼り替えた形跡があった。
平成17年頃まで、ここには「南信濃村」と書かれていたのであろう。妙に傷んだ支柱は、それを見ていたに違いない。
沢の名前は布滝沢で、橋の名前は布滝橋。
これらの名前の由来となった布滝がどこにあるかは、もう言うまでもない。
ピシャビシャと少量の水が壁を伝って落ちる音が聞こえる。
布滝は、現役の国道に降りかかるように落ちる、貴重な景観を持った滝だった!!
この鉄板や、周りを囲む落石防止ネットが、出来るまでは…!
布滝という滝が往時どのような姿を見せていたのかは、残念ながら資料がないので分からない。
想像するより他に無いのであるが、高さは15m以上、幅は5mくらいか。
その名前から受け取れる通り、あまり多くはない水が岩盤に沿って、末広がりに…布を垂らしたように滑り落ちる滝であったろう。
そういう流れ方だけならば、さほど道路の交通に影響を与えそうにもないのだが、おそらく問題になったのは、強風時に滝の水が大量に飛散して道を濡らし、かつ冬場であれば濡れた路上がスケートリンク状態になることが、容易に想像出来るということである。
遠山郷の入り口にひたたり落ちる優雅な滝も、安全な交通確保という人の利益の前には、形無しもやむを得ない時代があったものと思う。
そしてそうであったならばこそ、交通の束縛から解放された今こそ、本来の姿を取り戻させて欲しい。
不要になった橋をわざわざ撤去するつもりなら、この鉄板やネットもやってほしいものだ。
布滝橋の遠山側の眺め。
こちらの親柱には竣工年が刻まれており、「昭和三六年三月」とあった。
これは旧清水橋竣工のちょうど3年後であるわけだが、これらの橋の間に昭和7年竣工の清水隧道があるというのは、やっぱり納得しにくい。
それぞれの橋の位置に、全く痕跡を残さない旧橋があったのだろうか。
普通に考えれば、隧道も昭和33〜36年の間に竣工したものと思う。
今一度、望遠で清水隧道を覗いてみた。
「スキュー」に「カーブ」に「素掘」という洞内の印象があまり強かったせいか、うっかりこちらの坑門を近くで撮影せずに来てしまったが、「怪しい隧道の3点セット」などと勝手に呼びたくなるような警戒・規制標識の群が直前に立ち並んでいるところや、遠山川と垂直の崖に挟まれた尋常でない隙間に無理矢理道路を通じていることなど、味わいがある。
あと、こちらには坑門に扁額があった事も書き加えておく。
内容は普通に左書きで、「清水隧道」。
この左書きという部分も、戦後の隧道であることを匂わせた。
布滝橋から50mほど進んだ川縁の路肩には、ご覧の奇妙な光景があった。
そこには裸の鉄筋が100本以上も、天に向かって無造作に突きだしていた。
ガードレールの外側ではあるが、昔から鉄筋=転倒したら串刺しという怖いイメージがあって、ここも苦手だった。
鉄筋の錆び方を見る限り、この状態になって数年は経過していると思うが、正体はなんだろう?
私の予想では、路肩のコンクリート擁壁をさらに嵩上げする準備工か、さらに大規模に道を覆うロックシェッドが計画されていたのではないかなどと思う。
そうこうしているうちに別ルートからなるバイパスの建設が決定し、放置されたのではないかと、好きな未成道関係に持っていこうと私は画策している。
誰か答えが分かったら教えて欲しい。
おにぎりが、残ってた!!
何度も言うように、ここが国道に指定されたのは平成5年だから、それから19年という微妙な期間で旧道化&廃道化したことになる。
この風景からは、旧道はともかく、まだ廃道という実感はまるで湧かないのであるが、沿道に取り立てて人家もない旧道で、遠からず橋も撤去されるというのであれば、他に“しよう”があるかと思うわけで…。
廃道になったら、この“おにぎり”は、どうなるんだろう。
回収されるのだろうか。