2013/3/4 10:02 《現在地》
岩場に削り込まれた旧旧道跡を突端より引き返し、旧道化からまだ4ヶ月しか経っていない旧清水橋から、対岸を目指す。
橋の上は車通りがまるっきり消えただけで、路面状況的には現役にまだまだ劣らない。
しかし今後となると、徐々に荒れていくことは当然としても、その存続自体が覚束ない。
経験則から言うが、現橋の名に「新」が付かず、そのまま「清水橋」を継承したことは、危険な兆候であると感じる。そこには新旧橋を併存させる意図の薄弱が感じられるからである。
本橋に何らかの交通路としての存続意義があるか(これは期待薄)、或いは撤去するに及ばない(予算的な意味も含め)と判断されない限りは、遠からず廃橋として撤去されかねないと思うが、一応考慮されてもよいのは、本橋が土木学会の収集する「歴史的鋼橋集覧」に収録されている点である。
おそらくそれは、現存例が減り続けている道路用ポニートラスの希少性に対する評価からだろうが、いま全国に散っている遠山人の帰郷を助ける“灯台”としても、こうした特徴ある景色が永く残ることを希望したい。例え封鎖によって渡れずとも、架かっている限り、橋は橋であり続けるのだから…。
旧橋の存続を期待したコメントも虚し、現在の県の方針では、旧橋は撤去するつもりのようだ。
補足資料:長野県下伊那南部建設事務所 (国)418号 十方峡バイパス
上記の【事業概要図】中に、「旧橋撤去 L=75.5m」の文字が…。
旧橋より眺める、直前まで私がいた旧旧橋の左岸橋台および旧旧道の痕跡。
この日の水量が、年間の平均のそれと較べて多いか少ないかは知らないけれど、
水が青灰色に濁っているのは、その汚れというよりも、水勢に巻き込まれた気泡や、微細な流砂によるチンダル現象の効かと思う。
上流に2000人余りが暮らしているが、彼らの米の研水を押し流すに十分な量の山水が、四周の高峰から始終もたらされているのだろう。
新旧、そして旧旧までの3世代の清水橋が渡るそのすぐ上流で、遠山川は支川の小河内川を合している。
写真奥の広く見える谷が小河内川であり、水量の多寡によって辛うじて本流の左山陰から来るを見分けられる。
こんなことを不用意に書くと、風景を賞する私の経験と語彙の不足を露呈しそうであるが、
この快活な山峡の景観をして、思わず“南信の上高地”なる単語が浮かんだのであった。
旧旧橋などは見ての通り半ばまで河床に没しているが、さほどの憐れを感じさせないのは、この景色の明るさが第一で、
加えては、ほぼ同じ位置に三世代の橋梁を発展的に継承してきたという、そんな性根のたくましさによるのだろう。
勝ち組なのである。橋としてはもう十二分に。
うぉおおおお!!隧道だ! などと、いきなりここで騒ぐのはちょっと変だよな(笑)。
現道の清水橋に来た時からずっと見えていたのに、目先のことに捕らわれてスルーされ続けてきた隧道。
それだけでも探索的な不遇を託っているというのに、あげく私はここでまた寄り道しようとしているのだから… ゴメンね。
「矢印」の処にある看板に、ちゅ〜もっく!
看板は、山間部の路端でよく見る「土砂流出防備保安林」と表題の付いた地図だった。
この手の地図は設置後に更新されることが稀なうえ、都道府県道や林道などの路線名を注記していることが多いので、探索中の現地情報としてかなり有用性が高いのだが、この看板にも国道指定(平成5年)前の県道時代の路線名「県道下和田平岡停(車場)線」を見つけた。
レポートでは冒頭に机上調査の成果をある程度書いたが、実際に県道時代の路線名を最初に見たのはこの看板だったので、その興奮は大きかった。
なお、地形図で「小河内川」とある川の名だが、ここには「大河川」と書かれていた。
「小」も「大」も「お」の音に違いはないが文字は正反対であり、なぜこんな違いが現れたのか気になる所だ。
橋に視線を戻すと、こちら側にも親柱があって、取り付けられた銘板の内容は予想通りだった(「清水橋」と「遠山川」)。
だがこのほかに、鋼橋ならではの「橋梁銘板」をトラスの端材に見つけることが出来た。
「1958年3月 長野県建造 建示(1955)一等橋 製作 櫻田機械工業株式会社 材質 SS41」というのがその全内容である。
銘板には書かれていない情報も多くあり、例えば「長野県建造」というのは当時から既に県道であった可能性が高いこと(県営林道などもありうるが)を示しているし、「一等橋」は交通量の多い幹線道路用の規格であった。(なぜか前述「歴史的鋼橋集覧」では二等橋としている)
昭和30年代頃の山間部の橋と言えば、まだ木橋が大多数で、永久橋は少なかった。県道は幾分ましであったが、永久橋でも二等橋が大半で、一等橋は国道や主要地方道の特権に近かった。
本橋が一等橋として設計されていることには、設計者の大きな先見の明を感じるのである。
本橋の施工者である「櫻田機械工業」は、大正生まれの中堅橋梁メーカーであり、本橋の外にも多数の“名橋”に名を残す。後にサクラダへ改称するも平成24年に倒産。ある重大架橋事故の当事者になっているが、本橋と事故は無関係なので内容は省略したい。
(旧)清水隧道は、入口から出口を覗ける短い隧道ではあったが、稀に見るきつい曲線形であり、
しかも高さよりも幅が広い扁平な断面であるにもかかわらず、内部は素掘であるところも特徴的だった。
こうして覗き込んでいると、いまにもヒョッコリとカーブの向こうに路線バスの大きな鼻面が現れそうな感じを受けた。
清水橋と共に、この隧道もまた“遠山人”たちの旅窓に、長く郷愁を添えてきたに違いない。 …いい隧道だ。
「いい隧道」なんだけれども、私の気持ちはまだ、こっちに強く引っ張られていた。
隧道へ潜り込まず、橋の袂から河原へ下りる。
砂利が見渡す限り広がる河原に立つと、朝から昼へ変わりつつある強烈な太陽が、ほとんど真上から旧旧橋の主塔を照らしており、こちら側へは黒い影の部分だけを見せていた。
そのために白い河原の中で立ち尽くすさまが一層鮮明に現れていていて、大自然に呑み込まれた小さな人工物の異質を際立たせていた。
橋の残骸として見れば、よく見慣れた橋台や橋脚と何も変わらぬ存在であるのに、吊り橋の主塔は殊更に因果な物だと思う。
なにせ橋台や橋脚が通常は目線(路面)よりも下に居並ぶのに対し、主塔だけは自らが広告塔となって、廃橋の在処を宣伝し続けるのである。
もしも吊り橋でなければ、この右岸から旧旧清水橋の痕跡は既に消失(埋没)していたに違いない。
10:07 《現在地》
遠目には矍鑠(かくしゃく)としているように見えた主塔だが、間近で見ればやはり満身創痍であった。
度重なる洪水の衝撃を受け続けた下半部には、抉り取られたような傷がいくつも付けられていたし、アーチ型の上半部へ繋がる部分は、次に強い衝撃があれば切断されてしまうのではないかと思えるほどに痩せ細っていた。
← 砂利に埋没している深さは、さほどでも無さそうである。
いまならばまだスコップで小一時間発掘作業をやれば、路盤部分が出てくるのではないだろうか。
→ いままで余り意識したことはなかったが、主塔のアーチは、コンクリート隧道の坑門にそっくりである。
共にアーチ構造物なので似ていて当然といえば当然だが、迫石、笠石、壁柱など、古風な坑門工の各部名称を当てはめて呼びたくなった。
どこにも銘板が無いのが、残念であった。
清水橋三世代を、ここで初めて一望する。
旧旧橋が架かっていないのは惜しまれるが、一般法則的な橋梁更新のパターンが、見事に現れている。
新しい橋ほど水面から高くなり、橋長が長くなり、前後の迂曲が小さくなるのである。
橋の形式が変化しているので、径間の長短は単純に比較できないが、間違いなく構造物としての堅牢性も向上しているだろう。
なお、一般的に新しい橋ほど水面から高くなるのは、道路勾配の緩和や線形改良の結果である場合が多いと思うが、本橋については明らかにそれ以外の目的もある。
それは、土砂の堆積による河床の上昇である。
河床が高くなれば、それだけ洪水時に橋が冠水する危険が増し、落橋のリスクに直結する。旧旧橋など既に常時冠水状態に至ってしまったのだ。
谷の幅に較べて広すぎるように見えるこの砂利の河原の標高は、旧旧橋の時代と比較して最低5mは上昇していると思う。
この数字に根拠はないものの、洪水時のセーフティリードはそのくらいあって然るべきだろうという想像である。
それではどうして、これほどに著しい河床の上昇が起きたのだろうか。
その理由は一つではないだろうが、地学者でなくても間違いなく指摘しうる最大の原因は、この下流約3.6kmに存在する平岡ダムだ。
天竜川合流地点の少し下を堰き止めている平岡ダム湖の平時の上端は現在地の1km程度下流にあるが、増水すれば忽ちこの辺りまで伸びてくる。
堆砂による洪水調節能力の低下が社会問題にもなっている天竜川の巨大ダム群であるが、そのとばっちりが罪無き古橋にも忍び寄っているのだ。
もっとも、ダム建設が地域の道路整備にもたらした恩恵が一般に小さくないことを思えば、完全にとばっちりともいえないだろうが、ダム建設より遙か前に誕生していただろう旧旧橋にとっては迷惑千万だったろう。旧橋がダム完成から7年たった昭和33年に架設されたというのも、ダムの運用による河床の上昇を直接の原因にしていたのかもしれない。
(ダム建設の補償工事であれば、ダムの工事と同時に行なわれたであろうが、そうではなかった)
(写真の説明もしよう。右に見える巨大なコンクリリートの躯体は、吊り橋のケーブルを固定するための重力アンカーブロックの跡だ。対岸は岩盤がその役目を果していたようで、アンカーブロックはなかった)
補足資料:【社会資本整備総合交付金 一般国道418号 天龍村〜飯田市 十方峡バイパス】(PDF)
上に挙げた県資料によると、河床の上昇は旧橋の生存にも重大な影を落としていたようである。
直近では昭和58年に河川の増水によって(旧)清水橋が冠水し、通行止めになったことが報告されている。
この道路は当時、天龍村と旧南信濃村を結ぶ唯一の緊急輸送路であったことから、安全な道路が特に求められており、国道昇格を契機に十方峡バイパス事業が採択された。
ダムを原因とする河床の上昇には自ずと限度があるだろうが、今後どこまで進むのだろう…。もう上限に達しているのだろうか。
道だッ!
主塔を背に、アンカーブロック脇の河原を少し進むと、岬状をした岸壁を回り込むようにしつらえられた旧旧道の痕跡が現れた。
先に左岸で見たものよりもさらに狭く、もはや車は一切通行できない幅でしかないが、その表面は崩れたコンクリートで覆われているから、元来もっと広かったものと思う。
さらに回り込んで行くと、旧旧道の痕跡は急激に“離水”し、先にはいままで見えなかった清水隧道の“向こう側”の世界が、ずんずん見え始めた。
私はもう遠山郷と呼ばれた地域に入ったであろうか?
それにしても、この短い旧旧道や旧旧橋が誕生したのは、いつだったのか?
コンクリートと鋼鉄のケーブルを使った吊り橋は大正末期か昭和初期のものだと思うが、それも旧旧道当初のものとは限らない。
この問題は現地では解決せず、机上へと持ち越された(本編文末にて考察を試みる)。
私が既に遠山郷に入ったかという疑問の答えだが、その範囲が現在の行政区域に因って区分されるとすれば、答えはNOである。
現代において遠山郷といえば、旧南信濃村と旧上村の範囲(現在の飯田市南信濃と飯田市上村)を指すので、まだ天龍村である現在地は、該当しない。
遠山川を渡り、トンネルまで潜った(今回は避けているが…)のに、まだ村境には至っていないのだった。
しかし本当の境界はすぐ近くに迫っており、この写真にもそこが見えている。
(遠山郷の範囲は時代とともに変化しており、近世のある時期は現在の天龍村中心部(平岡地区=旧満島村)なども遠山郷に含まれていたという。)
さて、旧旧道探索はこれで全て終わり、スルーされ続けた旧道「清水隧道」の時代が、ようやくやって来た。
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