2019/2/28 12:22 《現在地》
顕峠(あらわれとうげ)にあった父島最長のトンネル、仮称・顕峠隧道の南口をこれから探しに行く。探索の時系列的には、前回の扇浦スタート時点の前である。
今いる場所は、扇浦から都道父島循環線の小港道路で顕峠を越え、北袋沢へ下る途中にある長谷橋という橋の手前だ。
写真は峠側を背にして長谷橋を撮影した。この橋の完成は昭和46(1971)年である。
@ 大正3(1914)年 | |
---|---|
A 昭和10(1935)年 | |
B 地理院地図 |
右図は、この辺りを描いた3世代の地形図だ。
この3枚の地形図の比較により、扇浦と北袋沢(明治期の扇村と袋沢村)を結んだ顕峠越えのルートの変遷を確認しておこう。
まず、@大正3(1914)年の地形図だが、このときすでに、扇浦から顕峠を越え、小曲を経て北袋沢へ至る一筋の道が描かれている。
少なくとも歴代地形図上ではこれが第1世代の道であり、頂上に「顕レ峠」の注記があったのも、このルートだけだ。
次のA昭和10(1935)年の地形図には、従来の道の東側に並行するように新たな道が登場しており、これを第2世代の道とする。
第1世代と同じく里道として描かれているが、よく見ると第1世代は「荷者の通せざる道」であるのに、第2世代はそうなっていないので、この時点で初めて峠に車道が開通したようだ。
また地形の大きな変化として、洲崎の地に海軍の洲崎飛行場が建設されており(軍事機密のため空白表現になっているが)、広大な埋め立てを行ったことが分かる。
なお、この世代の地図にのみ、今回の探索の主題である特30号の想定ルートをオレンジ色で書き加えている。本来これは昭和15年に認定された路線で、建設もそれ以降のようだから、原図には全く描かれていない。
しかしこの特30号が終戦時点では開通していて、顕峠越え第3世代の道になっていたと考えられる。
そして最後の現在の地理院地図だと、第3世代の道は“怪しい途切れ途切れの道”になっていて、代わりに第2世代の道が再整備されて都道として利用されていることが分かる。
ちなみにここに掲載しなかった昭和43年版の地形図も確認済みだが、やはり特30号の2本の隧道は描かれておらず、第2世代の道が続投していた。
左図は地理院地図の現在地周辺を拡大したものだ。
路線名や地名などいろいろと私が書き加えた情報もあるが、現在地である長谷橋のすぐ南側に、左後ろの方向へ分岐する細い道がある。これはもともと書かれている道だ。
そしてその道こそが、かつての国道特30号だと考えている。
同道は、長谷橋のすぐ上流で、おそらく築堤と暗渠の組み合わせて長谷を渡った後、顕峠隧道(仮称)の南口擬定地へ至る。
それではこれから実際に辿ってみる。
本土復帰から間もない時期に整備された長谷橋。
下を流れているのは長谷川という小さな川だ。
橋を渡ったところに左後ろ方向への目立たない分岐があり、直ちにそこへ向かう予定だったが、この橋上からの何気ない風景観察が、計画に変化をもたらすことになった。
チェンジ後の画像に書き加えた我ながら気色の悪い2つの“アイマーク”は、それぞれ橋の上流方向と、橋の直下方向を眺めましたよという意味だ。
それで見つけたものが、重大だった。
まずはこれ。
橋上から長谷川の上流方向を撮影したものと、(チェンジ後の画像)その中央付近を望遠したもの。
南国っぽい鮮やかな緑の裏側に、隠れ隠れで黒い部分が見えている。
そこには、コンクリートの坑口を有する隧道が見える!
一瞬、マジか!隧道だ!と色めき立ったが、場所は明らかに谷の中だ。水面こそ見えないものの、この穴の正体は、地理院地図にもその存在が示唆されていた、特30号由来の暗渠だと思われる。
暗渠の上に高い盛り土の築堤が被さっており、その天端が道路のようだが、樹木に隠されここからは見えない。
山中の小渓流を橋ではなく暗渠と築堤で越えていくのは、古い時代の鉄道工事でよく見るパターンだ。労働力が安価で人海戦術が土木工事のメインであった時代には、高い技術や細やかな維持管理が必要な架橋よりも、築堤による渡河がコストパフォーマンスに優れることが多かった。
橋上からの発見は、もう1つあった。
橋の真下を見ると――
真下に“旧橋”らしき別の橋がある?!
暗渠と違い、こちらは完全に想定外だった。
旧橋があったとしても、この位置に架かったままで残っているとは、予期せぬ展開。
本題である軍事国道(第3世代のルート)からは明らかに外れた位置なので、もしや、第2世代の道の名残か!
寄り道とはなるが、これは無視できない!
長谷橋の南の袂から、その橋の下へ潜り込むように入る。
ここには道はないが、藪を掻き分けて進んだ。
自転車は、この場所に置いていく。
おわーっ!
アーチ、アチィーッ!!!
思わずダジャレみたいになってしまったが、思いがけないアーチ橋を見て動顛した。
よくぞこの立地にあって、今の長谷橋を架ける際に壊されず残ったな…!
父島では隧道は期待していたが、こんな素敵な橋にも出会えると思っていなかったので、マジ嬉しい。
12:27 《現在地》
見事なコンクリートアーチ橋だ。
空を長谷橋に奪われて薄暗い状況にあるが、驚くほど綺麗に残っている。
これは長谷橋の存在が、風雨や直射日光からある程度守っているせいもあるだろう。
深い緑の支配する谷底に、人知れず残っていた、白みを帯びる美しいアーチ橋。
どことなく、貴婦人というワードが脳裏に浮かんだ。
いま私は橋の南岸、長谷川の左岸下流側から旧長谷橋を見ている。
私が立っている場所は、橋の全景を障害物に邪魔されず眺められる特等席で、
本来は旧橋に通じる道の路上だったはずの場所だが、現長谷橋の左岸橋台が
どっかりと占拠しており、旧道は残っていない。辛うじて路肩の石垣の一部が斜面に
引っかかるように残っているだけだ。また、ここから下流側へ旧道を進むことも、
現都道の道路敷に邪魔されていて無理だ。
ここから見る限り、対岸側も同様の状況になっている。
要するにひとことで言えば、この橋だけが残っている状況で前後に道はない。
橋の前後の旧道は現道とだいたい重なる位置にあったのだろう。
改めて橋の外観をチェックする。
まず、コンクリートアーチ橋としては異例と思えるほど短い橋で、ライズ比(アーチの曲率)の大きいことも目に付く。
橋長は最長でも20mだ。
なぜそう言えるかというと、直上にある現橋の長さが20.5mだと判明している。旧橋とは斜めに交差しているので、単純に「現橋>旧橋」とはならないが、それでも旧橋の方が長いとは考えられない立地である。
直上にある現橋は、プレートガーダーとRC床板を組み合わせた混合桁で、それよりも短い旧橋なら単純なRC桁でもぎりぎり行けそうだが、より強固なアーチ桁を選んでいる。
川幅の割に谷が深いので、途中に橋脚を立てる工法を避けたかったというのは伝わってくる。
なお、拡大したチェンジ後の画像を見ると分かるが、床板の破損した箇所から錆び付いた鉄筋が露出しているのが見える。つまりRC桁である。アーチ部分にも鉄筋が仕込まれているだろうから、正確な型式としては、上路式RC固定アーチ橋だ。
欄干のデザインも印象的だ。
この部材の配置は、大型の木製吊橋の補剛桁でよく見られるもので、もちろんサイズはそれよりも小さいが、頑丈そうだ。
そして何より美観への配慮を感じる。
ラテライトっぽい赤土の地面に左岸橋台は築設されていた。
橋頭部全体に大量の土砂が覆い被さっているのは、現都道の道路下斜面であり、私もそこを下りてきた。
都道側は旧道を完全に寸断する形で橋を架けてはいるが、頑丈すぎるRCアーチ橋をわざわざ撤去するのは避けたようだ。
旧橋の橋頭部は、ほぼ垂直の法勾配を持つ丁寧な石垣になっていて、石質のせいなのか、写真で見たことがある沖縄県の石垣っぽい風味だ。
石垣の断面も見えているが、内地で古くから使われてきた間知石ではなく、枕状の単純な形の石材を積み上げているようだ。隙間にはモルタルが充填されていて、手間がかかっている。
戦前の父島の技術水準を馬鹿にするつもりはないが、おそらくは内地より派遣された熟練の設計者や技術者たちが関わった橋だと思う。
これから橋を渡ってみる。
左岸橋頭部は大量の土砂に埋れていて、せっかく親柱が残っているのだが、何らかの文字が刻まれていそうな面は、土に隠されていた。
ただの土なら掘り返してみたいとも思ったのだが、瓦礫混じりのため一筋縄で行かない。他の親柱を確認することにした。
(欄干の隙間から出ている色鮮やかなシダ植物は、オオタニワタリという。内地の気候だとここまで大きくならないので、南国の印象が強い植物だ。青ヶ島で沢山見た記憶がある。オオタニワタリが橋で谷を渡ろうとしているみたいで可愛かった)
(チェンジ後の画像)
こちらは左岸上流側の親柱。
やはり土砂と枯れ草によって埋れてしまっていて、肝心の面が見えない。
が、こちらは枯れ草メインだったので、少し掘ることが出来た。
上から掘っていくと、やっぱり親柱に文字が彫られている!
狭くて目視がしにくいが、それ以上に撮影は難しかった。
でもとりあえず、最初の二文字が読み取れた。
変体仮名で、「な(奈)が(可+゛)」と書かれているようだ。
すなわちこれは、「ながたにはし」の一部だろうと判断した。
ぜんぶ発掘するのは容易ではないので、ここまでで撤退する。
(→)
左岸側から見る橋上の様子。
…といいたいところだが、橋の中ほど、ちょうど現橋の下に入る位置までは橋上に灌木が密生していて、見通すような撮影は困難だった。それで橋の中央付近から残り半分を撮影したのが、この画像だ。だからすぐそこに対岸がある。
このアングルだとアーチ橋としての美点が消えて面白みが薄いうえに、圧迫感が凄い。
対岸側は本当にギリギリまで現橋の橋台が接近していて、旧道の路面は親柱のところですっぱりと切れている。
その先には右にも左にも道はなく、完全に終わっている。
改めて、よくぞ橋だけを残してくれたと思う。
そして、橋の短さも改めて実感する。
もう半分渡っていることはすでに書いたが、たぶん全長15mくらいしかない。アーチ橋としては本当に短い部類だ。
それに幅も狭い。歩道ではなく車道(ぎりぎり自動車道)の幅ではあるが、余裕がない。幅2.5mくらい。
チェンジ後の画像は、橋上を右岸側から眺めたもの。
橋の上になぜか硬い土砂とセメントが棄てられていて、路面がアンバランスに上昇しているため、部分的に欄干の高さが著しく不足している。なぜそうなっているのかは不明。自然になったわけではなさそうだ。
ぶつ切りの右岸橋頭。
特に上流側の親柱は、現道橋台との間隔が30cmくらいしかなく、むしろ建設中にこれを邪魔だからと撤去しなかった関係者に拍手を送りたい。
なにせこの親柱の下の路床はけずられて宙ぶらりん。欄干によってのみ支えられている状況なのだ。凄いアクロバティックな残り方に拍手!
この旧橋が近代化土木遺産などに登録されているという情報はない。まして本土復帰直後の工事であったから、島民は数百人という少なさで、どんな雑な工事をしても人目に付くことはなかったと思う。
それでも敢えて橋の“顔”を壊さないで残したのは、大戦中の強制疎開から二十年あまりの歴史的断絶を経て、すっかりジャングルと化していたこの地で、島民の帰りを待ち続けていた橋に対する、愛着や畏敬の気持ちであったのかも知れない。
そして、この“奇跡的”と思われるような位置に残されていた親柱がもたらした情報は――
一番欲しかった、竣工年!
キタコレキタコレ!
本橋の竣工は、昭和5(1930)年10月!
特30号の認定が昭和15年だから、それよりもだいぶ早い。
となるとやはりこれは、第2世代の道の名残だ。
今回の冒頭に歴代地形図の比較を行ったが、その昭和10年の地形図に載っていた第2世代の道には、ちょうどこの位置に橋の記号が描かれていた。
(←)これだ。
この図の中央に「垸工橋」の記号がある。
垸工橋は聞き慣れない用語だと思うが、古い地形図の図式に登場する用語で、コンクリート橋のことをいう。当時の地形図では、木橋、鉄橋、コンクリート橋などが記号で区別できた。
昭和5年……、
この瀟洒な貴婦人橋が架けられた当時の父島は、どんな状況だったのだろう。
私が調べた限りでは、概ね平和な時代であったようだ。
内地ではちょうど昭和恐慌の最悪期で、貧しい農家子女の身売りなど悲惨なニュースに溢れていたが、毎月1回程度の定期便で本土と結ばれるだけの島に、直接の影響は及ぼしていなかったようだ。
昭和初期の島のニュースには明るいものが多い。大正15年に東京府が小笠原島庁にかえて小笠原支庁を設置し、振興政策をさらに前進させる体制を整えたし、昭和2年には天皇の父島母島巡幸があって、島は歓迎に沸いた。同8年に父島の玄関口に当たる二見港の改修工事が完成し、内地からの旅行もほんの少しだけ気楽になった。
これより前の大正9年、日露戦争時に露軍のバルチック艦隊が占領を計画し、我が国海軍が重要な根拠地とした父島に、陸軍による父島要塞の建設が計画された。これを受け、内務省は軍事国道特19号を認定している。
すぐさま要塞の建設や砲台の据え付けがはじめられたが、最中の大正11年に、我が国はワシントン軍縮会議にて太平洋防備制限条約に批准、これらの工事を中断した(翌年に父島要塞は未完成のまま開府している)。
我が国が条約から自主的に脱退したのは昭和9年12月で、それから要塞工事や特19号の工事が本格化した。
そして日中、日米開戦へと走っていく。特30号と特31号の認定も行われる。
そんな合間の昭和初年代に、橋は誕生していた。
おそらくこの橋は、東京府小笠原支庁の事業だろう。
島を南洋の楽園とみる向きは当時からあり、昭和初年代はそういう視点が許された戦前最後の時期でもあった。ゆえに、観光を念頭に置いたアーチ型式だったのかも知れない。どことなく公園橋の雰囲気がある。絵葉書に登場しそうな橋である。
だが、この橋を観光で通った人は、きっと少なかった。
(←)右岸側のもう1本の親柱から、橋の名前が判明した。
橋名は、41年後に誕生した直上の現橋に、そっくりそのまま受け継がれていた。
こういうことをことさら強調したいと思ってしまうのは、私の狭隘な国際感覚のためかもしれぬが、この純粋な日本語の親柱が、日本の施政権の外に二十数年間もあったということに、強い印象を持つ。
翻って、今なお取り戻されていない北方の島々にもこういう橋があると思うし、取り戻される謂われのない旧外地にも、いくらかは存在しているのだと思う。
そういうものへの愛惜の気持ちは深い。もし直で目にしたら、泣いてしまう自信がある。
無事に“帰ってこられた本橋”を前にしてさえ、私の涙腺は危なく欠壊しかけたのだから。
旧長谷橋の全天球画像。
美しい姿も、親柱を残した保存方法も、見事の一言!
思いがけない発見だった、旧長谷橋の探索は、これで終了。
次は上流側に隣接して同じ谷を跨いでいる特30号の暗渠を攻めるぞ!
2019/2/28 12:34 《現在地》
“日陰の貴婦人”に別れを告げ、次なる目的地へ向けて移動中。
といっても、この移動は2分もかからない。
今目指しているのは、旧長谷橋の30mほど上流にある、暗渠。
……暗渠は別に興味ないなぁ…… そんな声も聞こえてきそうだが、この暗渠が存在する大きな築堤の主は、我らが軍事国道特30号である。
旧長谷橋から直接特30号の路面へ向かうことも出来ただろうが、せっかくなので、隧道みたいな姿をしてくれているこの暗渠も、探索してみることにした。
しかしそれにしても、高い立派な築堤だ。
谷底と天端にある路面の比高が15mくらいある。斜度は45度くらいか。赤土の自然な山の斜面に見えるが、完全に人工的な地形であるはずだ。すっかり地形に馴染んで、様々な樹木が根付いている。
水の音も全くしないし、本当にただの廃隧道に見える。
ご対面〜。
めっちゃ、廃隧道。
そして、普段からこうなのか、今が特別に渇水なのか、一滴の水も流れていない。乾ききっている。
この暗渠は、そもそも人に見せる前提の場所でないというのもあるだろうが、
これより十はお年を召しているはずの“貴婦人”と比べると、同じコンクリートアーチ構造物として、
断然こちらのエイジングが進んで見える。そもそも表面のモルタル化粧も全くないし。
貴婦人と無理矢理同じ土俵で比較するなら、こちらはまるで老いた砂かけ婆だ。
橋と暗渠では、そもそも種類が違うといえるが、観光道路と軍用道路の違いもあるだろうし、
少なくとも、戦前の構造物と、戦時中の構造物という違いは、間違いなくあるはずだ。
振り返れば、すぐそこに日陰の貴婦人。
それにしても、あの橋が単体で架かっていた時代と、今との周囲の変化の大さが、凄すぎる。
周囲の全てが変わっていて、それでも橋と、橋を支える岩盤だけは不動という。
しかも外からは目立たない。そもそも、父島まで来ないと見つける可能性もないという。
まさしく、秘宝感漂う一橋だ。
12:37
突入!
暗渠の奥行きは30mほどで、路床の代わりに、流水に滑らかに削られた洞床がある他は、
ほとんどコンクリート隧道そのものの外見およびサイズ感だ。高さ3m、幅4mくらいある。
そして、人工的に土を積み上げただけの築堤を潜っているので当然だが、内壁全面に覆工がある。
いくらか人目に付く可能性がある坑口でさえ“ああ”だったのだから、内部の覆工ももちろん荒削りだ。
目地の荒い当て板の模様がたくさん残っているのは当然として、これは主にコンクリートの
質の問題なのだろうが、表面が剥離崩壊したことによる凹みがたくさん出来ていた。
さすがに“目障り”とまで言ったら気の毒だろうが、
今までどう撮影しても“たんこぶ”だった現長谷橋を自然に排除して、
旧長谷橋の瀟洒な佇まいだけを写真に収めうる立ち位置を、発見した。
またここからの眺めは、私がまだ知らない“ジャングルの渓谷”という風景を、
肝心の水がない形ではあるものの、その起伏の有り様で、予感させてくれた。
ちょうど橋の真下辺りに小さな滝のような地形があって、なかなかに険しい。
感じる。新たな景観に出会う予感。
微かな怖気(おぞけ)と共に……。
早くも上流側の出口近づく。
得体の知れぬ何かがぶら下がっているのが、見える。
坑口に泊まる怪しいぶら下がり物体の正体は、幸いにして南洋の妖怪ではなく、
たくさんの木の根が絡み合ったものだった。
ぶら下がってるのも気持ち悪いけど、壁を伝ってる細い根がいやだなぁ…。
つうか、この根の浸食力というか生命力やばいな…。ひとつ前の写真にも、たくさん写ってるし。
(前の写真の部分は、現地だと暗くてこんなになっていると気付かなかった。写真で知った)
暖簾 かよ…。
洞内から出るためには、天井から下がるこの細い根を振り分けて行くしかない。
慣れないものだけに、生半可な廃隧道なんかよりも怖いと感じた(苦笑)。
12:40 《現在地》
こちら上流側です、いらっしゃいましー♪
ってなカンジで、嫌な暖簾を掻い潜って外へ出ると、
巨大な根っこが、いずれは穴を塞いでしまいそうな勢いで覆い被さりつつあった。
だが、本当の驚きは、ここから視線を上へ向けたところに待っていた。
ウボァーーー!!!
あまりの 威容 、そして 異様 に、しばし言葉を失った。
この暗渠がある築堤の上は、我らが軍事国道のあるべき場所だが、オイオイオイオイ!大丈夫か?!道あるか??!
まさしく、ジャングル。
この言葉を最も強烈に象徴するような林相がそこにあった。
このツタとも樹木ともつかないような独特の風体と、気根と呼ばれる根っこが空中で絡み合う怪しい姿。
これは内地にある熱帯園みたいな温室でも見覚えのある樹木だが、天日の下で奔放に生きる姿は、もはや別次元といえる圧倒的迫力を持っていた。
この樹木の名は、ガジュマル。
熱帯雨林のシンボル的な木であると同時に、鉢植えになってたまにリビングにも現われる憎いヤツだ。
日本国内での自生の分布は、九州の屋久島から種子島以南の主に西南諸島であるという。
なるほど、だから沖縄本島に近い緯度にある父島にも生えていると、そう思うじゃないか?
このことは、現地での私もすっかりそう思い込んでいたのだが、帰宅後にそれが正しくない認識だったと知って驚いた。
父島にあるガジュマルは全て、外来種(外から持ち込まれた種)なのだそうだ。
ブログ『小笠原諸島の外来植物』のこちらのエントリを読むと、父島や母島に導入された事情が書かれている。
なんでも、砂糖製造所や農作業小屋に日陰を作ったり、防風用に、明治期から導入されたものだそうで、「太平洋戦争中はトーチカや壕の偽装にも使われた。戦後放置され各所に巨大なガジュマル樹が繁っている。
(同ブログより引用)」というのである。
なるほど……言われてみれば……、
軍事国道沿いに異常密生したガジュマル……。
これは、そういうことだったのか…。
軍事国道を隠すために、軍の手でガジュマルが植えられ、それが自然に育ってこの姿に…?
そう思うと、なんか急に不気味さよりも可愛そうな気持ちになってくるが…。
しかしこのガジュマルの話を知ったのは帰宅後で、現地ではどこまでも小笠原“らしい”の自生植物だと信じ切っていた。
(←)
ガジュマルに制空権を奪われていて昼なお暗い、全く陰森とした暗渠前の谷底。
ここはちょうど長谷川の小さな滝壺で、上流側に高さ2mくらいの滝がある。水は一滴すら流れていないが…。
滝の上に小さな砂防ダムのようなコンクリートの構造物が見えたので、いつのものやらと不思議に思った私は、滝を上ってみた。
滝の上に立つと、そのさらに上に高さ20mくらいの立派なダムが存在した。
確かに地形図にもダムが描かれているが、特に名前が書かれていないので砂防ダムかと思っていたが、もっと上等なダムだった。
調べてみると、これは小曲ダムといい、昭和47(1972)年に完成した上水専用ダムだそうだ。
前回登場した連珠ダム(昭和45年完成、3900㎥)の約4倍に当たる16400㎥の有効貯水量を持つ、父島住民の大切な水がめとのこと。
風景的には渓谷の浸食力を十分感じさせる長谷川に、一滴の水も流れていなかったことのカラクリが、このダムだったわけだ。
この水量の極端な減少もまた、“貴婦人”の周囲にもたらされた大きな変化ということで、ほんと、あの橋の周りの環境の変化はハンパなかったな。
ダムの下から下流を振り返ると、ガジュマル林に半分くらい隠された築堤の残りの部分が見えた。
今度は築堤を登って、天端にある特30号の路面を目指すぞ!
左側に樹木の少ないところがあるので、そこを登る。
12:42 《現在地》
ここが、の跡地だ。
左へ行けばすぐに小港道路へ出られるが、右へ向かってしまえば
顕峠隧道(仮称)の南口擬定地だ。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|