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道路レポート 旧県道満島飯田線 “竜東線探索” (田本〜門島 区間) 第3回

所在地 長野県泰阜村
探索日 2023.04.11
公開日 2024.01.25

 田本駅〜大恵曽集落 


2023/4/11 8:41 《現在地》

階段から戻ってきた。さっきは右から来たので、今度は左へ。そこが竜東線の続きである。



田本駅を離れる前に最後にもう一度、住宅地図ベースの大縮尺地図に駅と竜東線の位置関係を示しておこう。
赤線で描いた部分だけが、原図にはなく私が書き加えた道だ。
ここは確かに廃道ではあるが、それでも擁壁の裏のようなイレギュラーな場所を経由しつつ、比較的容易に通り抜けられるのが愉快だった。現状では、ここに道があると気付くことの方が難事だと思う。

そしてもう一つ注目したいのが、住宅地図には「青い矢印」で示した部分に道が描かれているという事実だ。
この部分の道は地理院地図からは抹消されているが、ここから500m先の大恵曽集落まで線路上に並行する形で描かれている。位置的にも竜東線の名残とみて間違いないだろう。
探索前にこの事実に気付いていれば、旧版地形図に惑わされて線路より下まで探しに行く行程は省けたかも知れない。



おおっ! 思いのほかしっかりとした道形が現れたぞ!
険しい斜面を断ち切るように、幅2.5mほどの道形が明瞭に残っている。
道幅の半分以上は草や灌木に邪魔されているが、ちゃんと刈り払われた部分があって、歩き易いし見通しも良い。

どうやら、線路の直上という立地条件が、この道を捨て置かせないようだ。
道路として通行させる目的以上に、鉄道を土砂災害から守るという目的のために、この空間は活用されている。
法面に落石防止ネットが張られているのもその一環に違いない。残念ながら現状の竜東線には過ぎたるものだ。



道としての通行よりも、直下の線路の安全が優先されていることの最大の証しが、まるで嫌がらせのように路上を何度も横断しているワイヤーロープの存在だ。
数メートルおきに、ピンと張られたロープが地上15cmほどの高さで路上を横断していて、これは本当に注意しないと確定で転ぶヤツだ。
さすがに設置者も危険と思ったのか、目立つようにケーブルの表面に赤くペンキで塗色してあるが、はっきり言って目立ってない。

このケーブルの目的は言うまでもなく、路肩より下の線路沿いの斜面に張られている落石防止ネットの緊張である。



8:43 《現在地》

おお〜〜! 格好いい景色!

このまま灌木に目隠しされたままで進んでいくのかと思いきや、突然大きく視界が開けた。
まるで天竜川の峡谷に挑みかかるように、鋭い岩場の凹凸を“噛んで”、この道は延びていく。
路肩には当時のものであろう石垣も所々に残っている。

おおよそ4年の月日と、莫大な資金を費やし、下伊那郡の威信を賭けて建設されたとも言われる、偉大なる竜東線。
鉄道におおよそ四半世紀を先駆けて、天竜川峡谷の平定に最初に挑んだ、画期的近代的交通路である。
その難工事ぶりを容易に想像させてくれる道路風景だ。かっこいい!



おおぉぉぉ〜〜!! 凄まじい崖の真下に線路がある! ゾクゾクッ

竜東線も凄いが、やっぱり飯田線もすげーところにある!
これは田本駅から数えて2本目の大恵曽第1トンネル南口を見下ろしている。このトンネルの坑口は、駅のホームからも田本第3トンネルの短い闇越しに見えるが、こういう崖下に開口していたんだな…。かっこいい。

日本屈指の山岳鉄道である飯田線だが、特に地形条件が悪く難工事だったと伝えられている区間がいくつかある。当地を含む温田〜門島間はその一つだ。そう聞けば、ぜひとも険しさを目の当たりにしたいと思う人がいるだろう。
だが、そうした難工事区間の多くは、未だに線路の近くを通る車道がほとんどないため、従来は駅から見える範囲を観察するか、列車の車窓しか視座がなかった。しかし当然ながら車窓から見えるのは線路からの景色だけだ。したがって、このように険しさの中に滞在する線路を客観で眺める視座は貴重だと思う。

そして竜東線の所々にはこんな知られざる飯田線観察の特等席が存在している。
竜東線が線路よりも高所を通る区間は全体を通じても珍しいが、そんな区間は特に特等席になりやすかった。



意表を突く構造物が現れた。
架かっている橋……、鉄パイプと足場材で組んだ、工事現場でよく見る安全通路のような小さな橋だ。
間違いなく、竜東線として使われていた時代の橋ではない。
幅も大人一人分しかないし。

既に足元の鉄道はトンネルに入り、直下には存在しないけれど、それでもこの区間の竜東線跡は工事や保線関係で維持されているらしい。道理で道の状況が良いわけだ。



でも橋の先のこの石垣なんかは、間違いなく竜東線当時の構造物だ。新旧渾然一体である。



8:37 《現在地》

分岐があった。
トラロープのヒョロヒョロ手摺りに導かれるように、崖同然の急斜面へ入り込んでいく脇道との分岐。
この脇道の行方は分からないが、まず生活に根ざしたものではあるまい。竜東線より上にも鉄道を災害から守るための何らかの施工現場があり、そこへ通じていたのではないか。そんな予想を裏付けるような“ポスター”が、トラロープに括り付けられているのを見つけた。(↓)



「1.28 墜落事故を忘れるな!」

世間に報道された出来事なのかは不明だが、少なくともこの現場の関係者にとっては忘れがたいような重大な労災事故が、この通路の先の現場で起ったことを想像させる内容だ。
ここには、工事現場特有の緊張感がある。部外者がこれを見ることは、おそらく想定していなかったと思う。この道は立入禁止を明言されていないが、地形図にはなく、散歩のついでに何気なく踏み込むような場所でもない。



今朝から竜東線を歩いているが、その中でも特にここは状態が良い。自転車でも通れそうな道だ。地形図に描かれていない区間の中では、たぶん今日イチの良さになるのだろう。ほんと、竜東線の道の悪さの平均から見れば、ここは間違いなくハイウェイ級。他は酷い区間が多い……、それはまた後日の機会にご覧いただくつもりだが……。

実はこの日の探索は、普段以上に時間に気をつかって動いていた。
今朝は明るくなると同時に温田駅より竜東線の廃道探索を始めた私は、予定よりも少し遅れて田本駅を過ぎ、いまは次の門島駅を目指しているが、その先の門島駅から唐笠駅までは2013年に探索済なので、そこだけ飯田線の電車に乗ってワープするつもり。具体的には11:56に門島を出る電車に乗る予定だ。それを逃してしまうと13:59まで待つ羽目となり、時間的に本日中の唐笠〜天竜峡の探索完遂は不可能になる。
これは、まるでアポ先を定刻通り巡らねばならない出張セールスマンばりにタイムスケジュールされたオブローディングだ。不慣れな動きである。そしてこういう探索本来のものではない行動原理が入り込んでいるときは危ない。労災……ではないが、注意が必要だ。しかもここまでの区間で既に予定より遅れていることを自覚しており、少し気が急いている。危ない。

……といったような探索者の内部事情もあって、この久々に歩き易い区間は競歩ばりの早歩きで進んだ。



集落だ!

眼下にトンネルから生まれ出てきたばかりの線路を見つけると同時に、前方が明るくひらけ、緩やかな斜面に点在するいくつかの人家を見る。
これは田本駅から約500m天竜川沿いを遡ったところにある、大恵曽(おおえぞ)という竹林に囲まれた小さな集落だ。
距離的には田本集落よりも田本駅に近い最寄りの集落だが、竜東線が歩かれなくなったいまでは、駅→(坂道上って)→田本集落→(坂道下って)→大恵曽集落という風に、4倍の2km以上も迂回しないと来られない。

またここは竜東線にとって、温田〜門島(約7km程度)の途中で出会う唯一の(人がいまも住んでいる)集落である。他の集落はどれも移転後の竜東線……すなわち現県道1号沿いにあるし、それが近世以前からの伝統的な集落配置だった。むしろ竜東線こそが、従来の交通の流れを無視して天竜川沿いに造られた明治時代の新道なのであって、それも昭和初期に飯田線に置き換えられてあまり長くは生きなかったからなのか、沿道の集落は乏しい。



これは同じ場所から撮影した望遠写真。
大恵曽集落ではなく、天竜川の対岸の阿南町は富草地内にあるどこかの人家が見えた。

このあたりの対岸は、川沿いには集落も道も全くなく、山腹の高所にだけ小さな集落が点在する。
逆に対岸からこちらを見たとしてもほぼ同様の状況で、低地ながら陽当たりのよい緩斜面が広がる大恵曽は数少ない例外だ。
天竜川峡谷の底の近くは、昔の人が自然に住まい、岸辺に道を維持するには、あまりにも過酷な地形だったのだろう。そこは舟運や炭焼きなど、平穏な丘の上のムラでは完結しない営みとの関連から初めて利用されるような、辺鄙なところであったと思う。



いま来た道……大恵曽から田本駅へ通じる竜東線の跡……を振り返った。

眼下の線路は、大恵曽第1トンネルから同第2トンネルの間のここに一瞬顔を出すが、大恵曽集落はトンネルで潜り、その先も第3、第4と一瞬の地上をサンドイッチしながらトンネルが続く。人呼んで、「三信地下鉄道」とは開業当初の新聞記事などで盛んに呼ばれたあだ名だ。日本初の(旅客用)地下鉄道として昭和2年に帝都を潜る東京地下鉄道(現東京メトロ銀座線)が誕生しているが、そのわずか数年後には、信州の山奥にも“地下鉄道”が誕生したと当時は盛んに囃されていた(しかも三信鉄道は最初から電化されており、この点も“地下鉄風”だった)。



8:55 《現在地》

集落を見つけてまもなく、舗装された道路にぶつかった。
この車1台分の幅の舗装路は村道大恵曽線といい、県道1号と大恵曽集落を隔てるおおよそ150mの高低差を約1kmの道のりで結んでいる。ここは行き止まりである道の終点にほど近いところだ。
私は田本駅のホームを最後に出てから30分でこの場所に辿り着いた。もし竜東線を使わなければ、この時間で駅から大恵曽へ来ることは出来ないはずである。このとき、「信州秘境駅殺人旅情〜“三信地下鉄道”田本駅1分停車の華麗なるアリバイトリック〜殺人犯は廃道探検家?!」というワードが私の中に浮かんだ。

そんなわけで、ここを右折すれば県道1号へエスケープできるので、予めこの場所に自転車を運び込んでおけば竜東線探索の中間ゴールにすることが出来たが、今回の私の中間ゴールはさらに竜東線を進んだ門島駅にあるので、まだ前進を続ける必要がある。目の前の村道を突っ切って、その奥の民家の駐車スペースのような場所へ進む。平らではあるが、正直道っぽくはないと思った。

――次のステージへ――




 ミニ机上調査編 〜田本駅周辺に関する記録〜 


次の区間へ進む前に、ここまで(第1回〜第3回)の区間について、少し振り返りつつ、短い机上調査を報告したい。内容は主に田本駅に関することだ。
今回探索した区間の竜東線は、廃道化する直前まで田本駅へのアクセスルートの役割を担っていたことを現地で推測したが、これを文献的に確かめたいと思う。


まず探索の振り返りだが、今回の区間で、私の事前予測を大きく覆したことがあった。
それは、竜東線が田本駅の周辺で、飯田線よりも上部を通過していたことだ。
これは、竜東線と飯田線の両方が描かれていた昭和26年版の旧地形図を覆す発見であった。



これは昭和23(1948)年と令和4(2022)年の航空写真を比較した。
これを見ると、かつて山の木々はいまのように鬱蒼と生い茂ってはおらず、そのために山肌を横切る細い道もよく見えることに驚く。
そしてそこには、今回探索した道がはっきりと見えている(赤線)。まだ命脈を保っていた竜東線の姿に他ならない。確かに線路よりも高い位置を通っていたのだ。
これについては、旧地形図の誤りと断定して良いかと思う。

現代社会は破壊された自然の上に成り立つものというイメージは強いが、少なくとも山野の緑に限って言えば、日本の国土は間違いなく半世紀前よりも緑化しているし、樹木が多く茂っている。かつての山に樹木が少なかった最大の理由は、木炭として日常的に消費されていたことにある。耕地に恵まれなかったこの地方の第一の産業が木炭生産であり、そんな時代は昭和30年代(燃料革命)まで続いていた。




田本駅ホームと竜東線を結ぶ旧通路とみられる階段跡

田本駅に関係する大きな発見としては、駅ホームと背後の竜東線跡を結ぶ長さ50mほどの石階段の存在が挙げられる。
机上調査においては、この階段に関する記録や、利用者の証言を含め、田本駅と竜東線の関係性を示す情報を探した。

まずは、田本駅の開業当初の記録として、昭和12(1937)年に三信鉄道株式会社が発行した『三信鉄道建設概要』を見たところ、田本駅についてはも他の駅共々、構造物としての種々のデータが記録されていた(「停車場表(一)(二)」)。

それによると、開業当初の田本駅は田本停留場が正式名称で(貨物を扱わない旅客扱いのみの駅。両方扱うものを停車場と呼んだ)、全長120mの石造ホーム1面のほか、ホーム上に2.5坪の広さの待合所1棟があったが、貨物積み卸し場、本家(いわゆる駅舎)、便所、ポイント小屋、車庫は、いずれも設置されなかったことが分かった。(“階段”の存在については、項目自体がなく不明)

現在の田本駅はJRの駅としては珍しい駅舎のない駅だが、この状況は三信鉄道の開業当初からのものであったことが分かる。極めて狭隘な急傾斜地に設置された駅であるため、必要最小限の施設であったのだろう。(もっとも、開業当初の三信鉄道は、全29駅の過半数がこのような待合所だけの駅だった)




『川の旅』より、
田本駅周辺で撮影された炭焼き小屋と、ダムの影響で水深が浅くなった天竜川

開業後の記録もいろいろ探したが、今のところ“階段”の存在に直接言及したものは発見できていない。
古い時期の田本駅の情景を描いた文献としては、昭和36(1961)年に有紀書房が発行した『川の旅』(毎日新聞社サンデー毎日編集部編)に、次のような記述を見つけた。

田本駅で下車。無人駅だ。切符は車掌さんに渡す。片方は落石防止のコンクリートで固められた絶壁。もう一方は、天竜を見おろす崖っぷちである。あたりに人家はない。プラットフォームの待合室の片隅に、「雨のときにご利用下さい」と書いた小箱があり、番傘が2本きっちりと納っていた。管理者がいなくても、盗難にあう心配はないらしい。川沿いの細い道をたどると、紫色の煙がただよっていた。炭焼き小屋だった。……

『川の旅』より

当時の世中を広く見聞していた新聞記者にとっても、田本駅に感じた特別険阻な印象は、現代人とあまり変わらなかったようだ。まだ秘境駅というワードはなかった。駅の周辺に人家がない様子も変わらない。だが、少し川沿いを歩けば、炭焼き小屋の煙が立ち上る場所があったという。(現在の竜田橋付近であろう)
炭焼きという仕事の消失は、山に豊かな緑を返却した一方で、数百年続いてきた森と人の関わりに一線を引くことになった。


これより新しい記録は一気に時代が進み、インターネット上の訪問記が中心となる。
秘境駅の提唱者である牛山隆信氏の「秘境駅へ行こう!」に掲載された田本駅のレポートは、平成11(1999)年9月の訪問記である。これによると、当時の田本集落や県道沿いには全く田本駅の案内がなく、住人に教わって“村道田本停車場線”を発見し、ようやく駅に辿り着いた。「10分程歩いたところで、“田本駅”がトンネル上のポータルから見えてきた。」と書かれていることや、撮影された写真から、当時既にホームへ降りるには“旧階段”ではなく、現在と同じ階段が使われていたことが分かる。

この「山行が」にも、平成14(2002)年6月に田本駅を目指した読者様より大変興味深いコメントが寄せられた。「おぶこめ」より以下に転載する。

20年ほど前、車道から田本駅へ歩いてる途中で道を間違え、北側の大恵曽の集落へ降りてしまったことがあります。今は知りませんが当時は住民がいて、庭仕事をしてる御婦人に田本駅の道を尋ねたところ、案内してくれました。飯田線の線路へ降り、線路脇ではなく真ん中、私の前を歩いていきます。トンネルに入ると「暗いからってJRが付けてくれたんですよ」と言って内壁の右側にあるスイッチをオンしました。トンネルの照明がついて、引き続き線路を歩き田本駅へ到着。私がホームへ上がるのを見届けると、トンネルの中へ戻っていきました。
…と、ここまで書いて当時の写真を調べたら2002年6月。

「おぶこめ no.53381」

大恵曽集落の親切な住人が、集落から田本駅まで彼を先導して道案内してくれたという内容だが、驚くのは線路をそのまま歩いていることで、なんと途中のトンネルには住人の通行のためにJRがスイッチ式の照明を設置していたという。しかも凄く昔の話かと思いきや、平成14(2002)年のことだというから2度驚いてしまった。
逆に言えば、私が今回歩いた竜東線跡は、この当時既に大恵曽の住人が駅へ行くには使いづらい状況だったのかもしれない。



駅ホーム待合室横の鉄柵部分を乗り越えて進む大恵曽集落住人の女性。

旧階段を上る場面。現在よりも明らかに落石が多く、石段がほぼ見えない。後に復旧されたことが窺える。


足場の悪い竜東線跡をいとも容易く進んでいく女性の姿。現在よりも明らかに状態が悪い。


この画面で「獣道」として紹介しているルートが、今回探索した道である。
「テレビ東京「空から日本を見てみよう」「天竜川 南アルプス天空の秘境」より

だが、沿線住民に対する特別な配慮と思われるこのようなJRの対応も、現在までには終息しているようである。

平成23(2011)年に放送されたテレビ東京の番組「空から日本を見てみよう」の「天竜川 南アルプス天空の秘境」の回(U-NEXTで配信中)には、大恵曽集落に住む菊地陸子さんという女性が、田本駅から自宅へ歩いて帰るシーンが登場する。女性は、毎週1度この道を歩く田本駅の数少ない利用者として紹介されているのだが、その中で歩かれているのが、まさに今回紹介した旧階段&竜東線のルートだった!

これも読者様からのタレコミで知ったことだが、まさか地上波の人気番組にあの階段が登場していたとは驚いた。
もっとも、番組中では旧階段や竜東線についての説明はなく、それぞれ単なる急斜面と“獣道”という扱いだった。

そのうえ、登場した旧階段も竜東線も、明らかに現在より荒廃しており、これは意外なことだが、これらの道は最近再整備されたことが窺えた。
おそらくだが、現地に最近行われた【形跡】がいろいろあった鉄道関連の落石対策工事のために、これらの道が再整備されたのだと思う。
道は死んで廃道になったらもう二度とは甦らない…… とは限らない。


長野県南信州地域振興局の職員が地域の様々な魅力を紹介するブログ「南信州お散歩日和」のエントリ「魅力満載のローカル線!飯田線(11)驚天動地の信州最強・秘境駅「田本」その2」は、平成25(2013)年に田本駅周辺を詳細に調査された記録であり、とても読み応えがある。
そしてここには、田本駅のホームで偶然出会った“田本駅を利用する唯一の地元の人”(年輩の女性)が登場し、駅や周辺の昔のことなど大変貴重な聞き取りがなされている。証言の主な内容を抜粋して示す。なお「 」括弧内は原文のまま。

  • 「昔はこの裏に出口があって、駅の上に道があったんですよ」
  • 駅を利用している地元の方が他にいるかとの問いに答えて……「昔は10人位いたんだけど、今は私ぐらいだと思う。だからテレビの取材とかあると、私が紹介されるんですよ。他に使っている人がいないから」
  • 昔は駅周辺に住宅や商店があり、竜田橋近くには旅館もあった。だが、やがて新しい道が出来て、駅近くの旧道も無くなった。近くの集落の住人たちも車やバイクを使うようになり、駅の利用者は減っていった。
  • 自宅は、駅の北側(飯田方面)にある。駅へ来るには、「道なき道を通って」
「南信州お散歩日和」のエントリ「魅力満載のローカル線!飯田線(11)驚天動地の信州最強・秘境駅「田本」その2」より抜粋

最初の証言〜〜駅の裏に出口があって、駅の上に道がある〜〜とは、旧階段と竜東線のペアのことであろう。
そして、〜〜やがて新しい道が出来て、駅近くの旧道もなくなった〜〜というのも、竜東線が廃止されて現在の県道1号のルートになったことと符合する。
様々な情報を総合して考えると、この証言者もまた菊地陸子さんご本人以外ないと思われた。


田本駅の裏に見つけた、一見すると隠し通路のような、古びた石階段。
だがそこには、田本駅が他のどんな訪問者よりも深く愛着を感じるであろう、最後の地元利用者の足跡が、幾千重にも刻まれていた。






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