道路レポート 函館山の寒川集落跡への道 第4回

所在地 北海道函館市
探索日 2022.10.27
公開日 2022.11.20

 寒川集落跡を見る、通る


7:30 《現在地》

どうやら寒川集落跡へ辿り着いたようである。

見つけたのは、海岸から小さな沢を遡った先の海岸段丘とみられる緩斜面に広がる、青々としたスギの純林。明らかに植林地だろう。
離村の際に住民たちが集落の跡にスギを植林し、将来の自身や子孫へ向けた財産とすることは、しばしば見られることである。
そのため、私はこの植林地の辺りに寒川集落が存在していたのではないかと考えたのである。

これは私としては自然な考えだったのだが、結果から言うと間違っていた。
しかし、集落とは無関係の森というのでもなかった。
函館市中央図書館での調査で入手した次の図を見て欲しい。




より転載。著者が一部着色。

この絵地図は、前回も紹介した文献『寒川』(平成12(2000)年/大淵玄一著)に掲載されているもので、著者の大淵氏が、もと住人たちからの聞き取りを元に描いたものである。海上の上空から集落を眺めた想定の俯瞰図となっており、これは著者が繰返し注意していることであるが、昭和4年から24年の期間内に存在した建物を、同時に存在していないものも含めて全て描いた、そういう意味では不正確な地図だという。

だが、寒川が集落として存在した期間の大半が戦前で、当時は要塞地帯であったため集落を撮した写真が1枚も残っていない寒川の実態を写実的に捉えた、ほぼ唯一の極めて貴重な図といえる。

本レポートでも、以後はこの絵地図を併用しながら集落跡の紹介を進めていくが(時系列的に探索時点ではこれを把握していなかったことは注意)、これを見ると、昭和4〜24年という長い期間を通じて、住民の家屋は全て海岸に面した所に存在していて、緑の丸で囲んだ位置にある「杉の植林」は、集落跡ではなかったことが明らかだ。
この期間にあった家屋は、住民の住居が15軒ほどで、全体として南北2つの部分に分かれていたようだ。また、北側の部分には寒川分校と呼ばれた分教場もあった。
集落の前面は全て海で、背面の函館山の斜面には段々畑が広がっていた。植林地は、一箇所だけにあったようである。
生活用水となる小川が豊富にあったことも分かる。



植林地の下辺りに目を向けると、段々畑の跡らしき段々が見えた。
また、海岸から数メートル高い位置には、普段ならば道と思うような横長い平場が見えるが、この位置に分校を含む家屋が一列に並んでいたようである。おそらくここは人工的に造成された平場なのだろう。

寒川に人が住んだ期間は、明治17(1884)年頃から昭和32(1957)年までのおおよそ70年間といわれているが、食料については、ほとんどを自給自足していたと聞く。
彼らは本職が漁師で、目の前に漁の舞台があったし、野菜も自前の畑で収穫することが出来た。

また、集落の周りには当時とにかく多くのマムシが多く棲息し、部外者には恐がられたが、住民は襲わないとも言われ、それどころかマムシを捕ってマムシ酒として外へ販売することも行われたそうだ。前出の絵地図には、「ウナギ養殖」と書かれた場所が見えるが、これなども対外的な商品生産だったのだろう。
ほぼ同郷者だけからなる集落は、仲睦まじく身を寄せ合うように、厳しい風土の中でも逞しく生き抜いたのだろう。



7:34 《現在地》《絵地図》

また少し浜辺を南下して、かつての集落の中央付近へとやって来ている。
ただ、先ほどの絵地図を見ると分かるが、中央付近に住居はなかったようだ。
陸は段畑としてのみ利用され、その前の海には「船入澗」という注記が見られる。

澗(ま)というのは穴澗にも登場した文字だが、小さな入江のような波穏やかな海をいう。
船入澗はその名の通り、集落が所有する漁船を浮かべるのに都合の良い海面を指して名付けたと推測できる。
漁業を生活の中心とする以上、集落の最も核心的な施設が、この船入澗の海面であったとも考えられる。

実際の風景は右の通りで、確かに「澗」と名付けるに相応しい、入江のような地形になっている。
海面に浮かぶやや大きな露岩や、半島状に突き出した波蝕棚によって、体育館ほどの広さの海面が外海から隔てられたようになっている。
そこは周囲よりも波穏やかであるが、とはいえ一般的な感覚でいえばやはり荒海の一角でしかなく、生活の根幹を支えた“漁港”としては、あまりにも頼りがない感じがする。なにせ、人工的なものはといえば……


……沖に向かって突き出した波蝕棚の先端近くの海面に突き出した、この謎の鉄筋コンクリート柱1本しか見当らないのである。

この柱の正体は、机上調査でも明らかになっていないのだが、このように目立つものが住民たちの証言として登場していないことから逆説的に考えると、住人が不在となってから昭和40年代頃まで、一帯が海水浴場として利用されていた時期に建造され、利用された何らかの施設の残骸である可能性が高いように思う。
この柱の正体をご存知の方がおられたら、教えていただきたい。




あれっ? 競艇場に来ちゃったか?

甲高いモーター音と共に静海を跳ねるように現われた、一艇の小型漁船。
釣り人にしてはあまりにも迷いのない、この海を知り尽くしている者の早さで、岩礁のある近海を北から南へ走り抜けていった。
もしこの速度があったら、寒川から函館市街へ“海上通勤”したとしても10分くらいで済みそうである。なんとも気持ちがよさそうだった。

波蝕棚の小さな岬を後にして、いよいよ寒川集落跡も残りは三分の一、南部を残すばかりとなっていた。



「まさかり岩」。
この左に見える黒っぽい大岩は、そう呼ばれていたそうだ。

ここから先が大きく南北に分かれていた集落の南側家屋群の在処だったが、ここまで来るともう、集落の果てを厳格に仕切る大鼻岬前衛の切り立った岩山(相変わらず“未成隧道”といわれる坑口が見え続けている…)は、かなり間近に感じられる。
なんだかマジで世界の果てっぽい威圧感だ…。

で、「まさかり岩」を回り込むと……




7:38 《現在地》《絵地図》

色とりどりの丸石が散らばるゴロタ浜が現われ、 ん!

おおおっ! 石垣発見だ!!

集落内で初めて、建物の痕跡と言えるようなものを見た気がするぞ。
事前情報(『深夜航路』の記述)で、建物はもう残っていないと知っていたが、これは嬉しい誤算? 誤算とは違うが、とにかく嬉しい発見だ。

穴澗の岬という巨大な難場に、文字通り、岩を噛む道の標(しるし)を残した人々が、集落そのものとしては礎石の一つも残さなかったとしたら、それはもはや幻想的すぎて集落実在の現実味を感じにくいところだった。石垣の存在は、集落の証しとして望ましい遺構だと思う。



嬉しい。
嬉しくて、早足で近寄った。

間近で見ると、丁寧に作られた石垣だと感じた。
使われているのは、まさに浜から現地調達したに違いない色とりどりの石たちで、色だけでなく風合いも様々なので粗野だが、元は丸石だったはずなのに平らな面を削り出して使っているので、手が込んでいる。
しかも、極めて多彩なサイズと形の石を、とても上手に(切り込み接ぎのように)隙間少なく照合させて積み上げてある。土台として自然の大岩を咥え込んでいるのも面白い。
そのうえ、角となる部分は波との衝撃を考えてのことなのか丸みを帯びて積まれていて、素晴らしい仕事ぶりだ。

海面からの距離や高さを考えれば、高波の影響を受けないはずのない立地なのに、ほとんど破壊されずに残っているのは、築設技術の確かさをこのうえなく証明していると言えるだろう。すごい!



しかも最初に見えた部分で全部ではなくて、

もっとこんなに大きいんだ!!

でもこれ、どうやって上るんだろう? 浜からの通路らしいものがない。




ここまで一切、浜から上がってなかったが、この石垣に魅せられたので初めて上った。(今もこの地にマムシが多いのかは知らないが、もしそうだったら、あまり動き回らなかったのは良かったのかも…)
しかし通路らしいものがないので、適当に石垣を這い上がった。

石垣の上は、海に沿って細長い建物を設置できるような平場となっていたが、それだけで、一面イタドリとその枯れ枝の堆積に覆われていた。茫漠とした風景であった。
チェンジ後の画像は、同じ場所から見上げた函館山だ。どこにも道の跡や開けた土地は見当らない。

さて、石垣の上に何があったかの答え合わせは、探索後に見た例の絵地図によって判明した。
ここには、「元大謀網番屋」というものがあったらしい。
大謀網(だいぼうあみ)とは、定置網の一種およびそれを利用した漁法で、詳しい説明はしないが、非常に大きな網に対し同時に大人数(数十人)で行う漁法であったので、この網を保管したり、漁師たちが大勢詰めたであろう「元大謀網番屋」というのは、集落の共同財産であると同時に、公会堂のような役割も持っていたかも知れない。
なにせ、ここまで集落内を見てきて唯一、石垣を有する立派な基礎の上にあった建物だ。



また絵地図によると、元大謀網番屋の前の浜、この写真の風景の辺りに、「船着場」と書いてある。

先ほどの「船入澗」とは似ているようだが別で、舟を陸揚して保管したり、函館市街との間の通い船(商業航路的なものではなく住民たちが必要に応じて出していたようだ)の乗り降りがもっぱら行われる場所だったのだろうか。
しかし桟橋のようなものがあるでもなく、現在ではただゴロタの浜が広がるばかりだ。




では、ここはもはや人が寄り付くことのなくなった死んだ浜かと思えば、そんなことはないのだった。
先ほど颯爽と海を切って現われたあの漁船が、この浜の目前の海上に泊って、いまその一人だけの乗員は水中眼鏡を被って一心不乱に漁をしているのである。
このような海の景色は、集落健在の当時から変わっていないかも知れない。

陸の寒川集落はといえば、船着場と元大謀網番屋があった辺りが南端で、これより先に家屋はなかったようだ。
南北400mの広い海岸線に長く伸びていた集落跡の探索は、ここまでである。
事前情報の通り、あまり多くの痕跡はなかったといえるが、石垣の美しさは一見の価値があったし、目前に道のない土地に人が住んでいた痕跡を見るのは初めての新鮮な経験だった。道の代わりに海岸がある立地だった。これでは当然、車道というものの恩恵に浴さなかったし、電気も電話も最後まで開通しなかったそうである。

寒川集落道 <完> 




だけど、この先に“アレ”を見てしまっているんで、まだ進むぞ!



7:45 《現在地》

集落南端より眺める、大鼻岬方向。

ミニ“刀掛岩”のような奇岩が、おおよそ200m先にそそり立っている。

sdtm氏情報の“未成隧道”らしき穴は、あそこに見えた。

……いまも半分くらい見えている。



果たして本当にそんな隧道があるのだろうか……?

例によって、浜に道があった形跡は見えないが…。




 寒川集落跡の先にあった、“謎の隧道跡” 


7:46 《現在地》

最初にカヤックで上陸してから1時間半後、上陸地点から約1.4km南の海岸にいる。
レポートの表題に反して、ここまで歩いた部分の大半には、明確な道はなかった。
かつて海岸そのものが道であり、どうしてもそのままでは通れない地形の場所にだけ、死力を尽くし岩を削り橋を架けたのが、この「寒川集落道」だったということが分かった。

この道が誕生したきっかけであり、また利用目的の全てであった寒川集落跡に辿り着いたことで、本探索は終わりを迎えるかと思いきや、それで終わらないのが、現実の探索の恐ろしいところ。

sdtm氏の情報提供にあった「未成の廃隧道」とみられる坑口が、やはり氏の情報通り(集落跡の)「東」(実際の地図上だと南と行った方が近そう?)に、ぽっかりと口を開けているのが発見されたのである。

しかしなんだこの立地は?!(困惑)
……本日、ここへ至るまでの過程で既に2本の隧道を確認している(1本は探索済み)が、それら2本にも増して奇妙な立地であることが、ここに来て明らかとなった。



坑口は、波蝕棚という自然の平場に面して立地している。

波蝕棚というのは日本海岸ではそれほど珍しい地形ではないが、波打ち際が浸食されて陸が後退することで生成される。
生成直後の波蝕棚は、潮間帯という満潮時に海面下となる場所だが、隆起があればそのまま陸地化して最終的に海岸段丘のような高台となることもある。一方で沈降すれば海底に沈む。

この坑口の目の前にある波蝕棚は、探索時の海面より1mくらい高いが、よく濡れていることから分かるとおり、潮間帯なのだろう。
坑口自体は波蝕棚から見てさらに1.5〜2m高い所にあって、これは穴が海蝕洞ではなく隧道だという証拠でもあると思うのだが、この立地だと、満潮時や荒天の際は波蝕棚が水没し、坑門に近づくことが困難になるだろう。

せっかく掘った隧道へ常時アクセスするためには、坑口の高さに合わせて桟橋なり石垣なりを建造して、ここに道を付けてやる必要があろう。しかしそのような道は、痕跡すら残っていない。そもそも作られていなかった?
この穴には外見の第一印象からそうした不自然さがあって、まだ内部の状況については(情報提供によっても)不明であるが、これも「未成の廃隧道」という不自然な存在である根拠の一つかも知れないと思わせるものがあった。(提供された情報では、なぜこの隧道が未成と判断されているかの根拠は示されていなかった。(多分、内部が行き止まりなんだろうが…))

…うん、これは確かに変な穴だぞ…… 相 当 に 。



爪先だけ浸かるような世界一浅い海を踏越えて、岩の根に口を開ける坑口へ接近する。
前の隧道のようにガッツリ切り立っていたらキツイ落差だが、幸い、手をつけば簡単に上っていけるくらいの傾斜だ。
とはいえこの立地はやはり不自然極まりない。

もしかつて木の桟橋があったとしたら、波蝕棚に橋脚を建てた跡の穴が開いていそうだが、そういうものも見当らない。
先行して隧道だけ建設していたという印象を受ける風景であるが、かといって、あらかじめ「未成」と言われていなければ、そこまで考えはしなかったろうとも思う。




坑口の下から振り返った風景が見事だった。
波蝕棚の薄い水面が鏡のように景色を反射して、感動するほど綺麗な眺めが現われていた。ここから見えている海岸に集落跡の全てが収まっており、函館山の平坦な山頂まで綺麗に見通せているが、カヤックで上陸した地点や穴澗の岬は、ここからは見えない。いま見えている一番奥の海岸のすぐ裏辺りが上陸地点である。

砂利や丸石の歩きづらい海岸をこれだけ歩いたので、早くも足首の周りに結構な疲労感があった。このあと最終的にはカヤックへ戻らなければならないことは、ちょっとだけ気が重い。




7:49 

うん。 間違いなく人工洞窟だな。

確かに隧道、なんだと思う…。

しかし、下から見上げるようなアングルなので大きく見えるかも知れないが、
実際の断面サイズは、穴澗の岬で潜った激狭人道隧道と変わらないと思う。
間違いなくこの隧道も人道専門のサイズ感だ。間違っても車道じゃないな。
かといって、灌漑用水路隧道って感じでもないよな…。海岸だしな…。

まずは登って…




そのまま入洞!

どういう経路で種子なり胞子なりが運び込まれたのか不思議なような絶海の立地だが、
この洞内には少しだけ植物が根付いていて驚いた。奴らの生存環境への探究心はすげー。

まあそんなことよりも、奥行きは少しはあるな。即座に行き止まりではなかった。
が、やはり貫通はしていない感じがする。いま見えている奥がゴールならそういうことだ。
しかし洞床の平らな感じとかは、間違いなく通路として成形されたものだな。
断面部分に、作りかけの未成隧道と感じるような要素は、とりあえずない。

で、 奥へ行こうと思ったんだが…。



入ってすぐ、洞内へ第2歩目を記そうした足が踏むべき位置に、奇妙な遺物が残っていた。

洞床の地面に、何かを挿していたような穴が二つ空いていた。写真の左右に見えるのがそれだ。周りはモルタルで補強されていたようで、形的に、侵入防止のための木柵を固定していた跡っぽい感じ。
で、中央にも突起のようなものが見えると思うが、これは地面に刺さったままの杭らしき木片で、正体は不明だが、例えば「立入禁止」を掲げた木札の根元部分だとすると、辻褄は合う。

私の推論として、この隧道はかつて封鎖されていたことがあるのだろう。
ただ、勝手知ったる人々だけが住んでいた寒川集落の現役当時に、わざわざこのようなものが必要だったかというと少し疑問で、さらに推論を重ねる形になるが、これは後年の海水浴場時代(昭和30年代から40年代初頭?)に、海水浴客へ向けて設置されていたものではなかったろうか…。  と、考えている。

役目を果たさなくなった、おそらく封鎖の跡を無視して……、いざ洞奥へ!



7:51 (入洞1分未満)

うん、これはこれは、洞内探索としては一瞬で終わりそうだ。
入洞時点で見えていた奥の壁が、そのまま洞内の最終ゴールのようだ。
だが、呆気ないなと落胆するほど、話は単純ではない。むしろ貫通している隧道以上に謎は深いのだから。
この奥の壁にこそ、本隧道を「未成の廃隧道」だと判定しうる鍵であると思うし、しっかりと目に焼き付けたい!

なお、この穴に関しては『深夜航路』に記述がなく、話は前後するが、探索後の机上調査の成果として既に本編に度々登場させている函館市中央図書館所蔵の寒川関係2大文献 『寒川集落 改訂版』 と 『寒川』 にも全く言及がない、実は、謎過ぎる存在だったのである。
だからこそ、現地で見たことを判断材料とする重みが大きいのであった。

話は変わるが、なんか行き止まりの手前に場違いな赤っぽい岩が一つだけ落ちている。
たぶん高波で運ばれてきたんだろう。
この高さにある洞奥まで、こんな一抱えもある岩を運び込むような波が乱入するのは、考えただけでも恐ろしいな。



行き止まりを背にして、入口を振り返って撮影している。
足元に、波が運び込んだと思われる前述の岩が写っている。
入口から行き止まりまでの長さは、15mくらいだった。
少し曲がっている辺りが、いかにも手掘り手作りって感じだな。完全な人道サイズである。頭が窮屈。

で、この謎の穴の “謎” の核心に、迫ろうと思う。

見て欲しいのは、行き止まりの壁の状況だ。




ドーン!! 閉塞壁!

この壁って、掘りかけのトンネルの行き止まりである掘削前の地山の壁、いわゆる“切羽(きりは)”ではないと思う。

切羽は、一度も崩されていない地山だから、地山と同じ風合いをしているものだ。
だがこの行き止まりの壁は、明らかに地山と異なる風合いがある。
それどころか、最大に近づいてみると……




天井付近に、腕が辛うじて入る程度の激狭の空洞が残っていて、少なくともさらに2〜3mは奥行きが続いていることが明らかなのである。

そしてさらに、周りと色が違いすぎるこの行き止まりの壁の灰色だが、これは明らかに生コンクリートだ。
練った生コンを掛けて、もともとはただの瓦礫の壁であっただろう閉塞壁を、ガチガチに固めてあるのだ。

ここまで観察して、私は思った。
少なくともこの隧道の現状からは、未成隧道とは判断できないと。
未成じゃないという証拠もないが、少なくとも現状よりも奥まで掘られていた形跡があり、もともと貫通していた可能性がまだある。
これ以上奥へはどうやっても進めないので、この穴の出口が岩山の反対側に存在するかどうかを、探しに行く必要があるな。



すぐさま入口へ向かって引き返すが、これでまた一つ、海岸を先へ進む理由が出来てしまった。
まあ乗りかかった舟であるし、この穴の正体は私としても気になりすぎるので、ぜひ反対側を確認して決着を付けたいと思う。

情報提供者が未成と判断した理由は、単に貫通していないからなのか、それとも別に情報ソースが存在するのだろうか。
気になるが、そもそもこの隧道が作られた目的が一番気になる。
穴澗の岬に隧道や道が作られていたように、やはり寒川集落への道として、住人たちが整備されたものなのだろうか。

そうだとしたら、集落から時計回りに函館半島をまわって市街へ出る道の他に、反対周りで大鼻岬と立待岬をまわって市街へ出る道もあったのか? まさか、半島一周の歩道が実在したとでも?!
この立地に隧道があったとしたら、謎は深まる一方だな……。
しかしとにかく、貫通していたかどうかの捜索を最優先に進めたい。

たった2分ぶりに地上へ。




謎を解き明かすべく、次なる行動は、

隧道の反対側を目指して、この岩場を回り込むことだが…、

カヤックなしで成功できるだろうか?

どんな地形か怖いな……。険しいから隧道を掘ったんだろうし…。