7:52 《現在地》
人道用隧道とみられる人工的な穴が、寒川集落跡の南側にある切り立った岩場にも存在していることが確認された。
内部は閉塞していたが、閉塞の状況は不自然で、モルタルによって固められた瓦礫の山が閉塞壁だった。
つまり何らかの人為が加わっていた。
果たしてこの隧道(以後、区別のために「寒川南隧道」と仮称する)は、なぜ生まれ、なぜ閉塞しているのか。そもそも、一度は貫通(完成)した隧道だったのかどうか。
これらの謎に迫るべく、もし貫通していたならば必ずあるべき反対側の坑口を求めて、隧道のある岩山を回り込むことにした。
その前半は、隧道の前に広がっている波蝕棚が伸びているために、全く労せずに進むことが出来た。
(→)
また、この波蝕棚の波打ち際に、金属製の環のようなものがセメントで頑丈に取り付けられているのを見つけた。しかもそれは2つ以上あった。
船舶をロープで固定しておく係船目的で設置されたもののように想像するが、正体は分からない。
波蝕棚の脇の海は全く遠浅でなく、海中の崖となって底が見えない深さまで落ち込んでいるので、船舶を横付けするのに便利な地形だったと思う。
隧道回り込みの儀。
前半は労せず終了。
しかし残りは、荒々しい岩場を乗り越えて進む必要がある。
まずは目の前に聳える黒い大岩の隙間を抜けていくのだが、そこに道があった形跡はみられなかった。もし、隧道が作られる以前の旧道があったとしたら、この位置だったと思うのだが…。
隧道以前に道は存在しなかったということなのかな、やっぱり。
で、大岩の向こう側は――
険しいッッ!!
この険しさは、完全に穴澗の岬の再来を感じる!
あちらには、曲がりなりにも道があったから通り抜けることができたが、果たしてこの岩場に道はあるのだろうか?
たくさんの大岩が海水に浸かって小島のように浮いているのが見えるが、人間の進める余地があるのかどうかは、実際に近寄ってみないと判断できない。
そして何より肝心な“閉塞隧道の出口”だが、今はまだ擬定地に視線は通っていない。
擬定地は、チェンジ後の画像の矢印の辺りと考える。
もう少し進めば、ぽっかりと口を開けた姿で現われるかも。 ドキドキするぅ!
うおおぉぉ!!!
見上げる大絶壁の登場で、テンションが無理矢理持ち上げられる!
坑口の擬定地は、まだしぶとく視線を躱し続けているが、
その場所は、巨石の散乱する浜が入江のように窪んだ地形になっていた。
これは私の勝手な想像であるが、この入江のような場所は、
もともと穴澗と同じような巨大な海蝕洞だったのではないだろうか。
だが、浸食が進んで巨大になりすぎて、遂に天井が崩れ空がある入江となり、
また海面が瓦礫で埋まって、現在のような光景となったのかもしれない!
4階建ての高さを持った巨大な落下岩体が、入江全体の崖壁を玉座と見立てた
その中央に鎮座する魔王の威圧感で、この地に引き出されたちっぽけな私を見下ろしていた。
自然地形に畏怖することは珍しくはないが、予想外の光景ということも相まって、
暫し言葉を忘れるほどの、衝撃を受けた。探していた穴が見当らないとことに気付くのに、
数瞬の遅れが発生するほどの強烈な刺激であった。
巨大過ぎる浮遊岩だが、きっと大昔は海蝕洞の天井部分だったんじゃないかな。
落下の瞬間、どれほどの大音響が地と海を震わせたかと考えると、まさに震えるな。
記録者としての人間が、この地に寄り付く遙か昔の出来事であろうが……。
……ところで、巨大岩体の隣、矢印の位置に、格別に大きな“浮遊岩”が存在している。
これもすげえ…
乗用車くらいの大きさがある岩塊が、巨岩と岩山の隙間、いわゆる岩戸に挟まる楔のような姿で、“浮かんで”いる。
偶然の産物ではあるが、このような風景はとても珍しく、人目に付きやすい場所ではほぼ例外なく名付けられて観光地となっている。
比較的有名なところでは、佐渡島の“弁慶のはさみ岩”があり、私も現地で見たことがあるが、浮遊岩のサイズは寒川の方が大きいと思う。
で、だ…
探している“閉塞隧道”の出口の在処だが………
ず ば り … …
7:55 《現在地》
ここに埋れてる可能性大だろこれ…。
ちょうど……何かの罠かと言いたくなるが……浮遊岩の真下だよ……。
背後の鋭いキレット(切戸)上部の赤っぽい岩場が酷く崩れて、下に巨大なガレ場(崖錐斜面)を形成している。
その末端は浮遊岩の真下を越えて海の傍までなだれ込んでおり、この地形の中で唯一、もともとは地上に露出していた岩盤の一部を隠している。
見える部分に、探している隧道の坑口は存在しないが、その理由として考えられる可能性は2つで、崖錐斜面に埋れているか、そもそも貫通していなかったかのどちらかだろう。
だが、私は前者だと考える。
なぜそう考えるかといえば、先に見た【閉塞部の状況】は、ここにあるガレ場と同じ色の閉塞壁を、雑なセメントで補強しようとしていたからだ。
あれは、貫通していた隧道の南口(現在地だ)が、地表部の大崩壊で埋没し、洞内に大量の土砂が侵入した。
崩壊の規模が大きいため、隧道の復旧を諦め、危険防止のため閉塞壁をセメントで補強したのではなかったか。同時に、入口には【柵や看板】を用意したんだろう…。
……以上は、あくまでも私の想像に過ぎず、実は貫通ししていない未成隧道だった可能性も残っているが…、そう考えるにはあの閉塞壁の様子は不自然過ぎたと思う。
7:58 《現在地》
結論、
隧道の先に道はなかった。
南口が埋れているであろう地点から、さらに100mほど海岸線を歩いてみた。
遠目に見た時には歩ける場所があるか心配だったが、実際に近づいてみると、穴澗周辺とは異なり海岸線に崖錐斜面があるために、頑張ればずっと進んで行けた。
しかし、どこを見ても隧道へ通じていたような道形は見当らず、隧道より南側へ寒川集落道は作られなかったと判断するに至った。
これは、道を作らなくても通れる地形だったから作らなかっただけで、かつて寒川住人の中には、こちら側から函館市街へ通り抜けた人がいたかもしれないが、この先、私が大鼻岬と立待岬を越えて函館市街へ出るにはまだ2.5kmくらいあり、最終的にカヤックを回収するために寒川へ戻らねばならないので、ここで引き返すという決断をした。
しかし、この先に道がないとしたら、やはり最後に見た隧道の存在は、謎深いなぁ…。
それこそ、隧道自体は貫通していても、立待岬へ抜ける道としては未成だったという意味での“未成隧道”という可能性もあるのかも。
この件は、机上調査でなんとか調べたいところだな…。
8:00〜8:08 最終到達位置で休憩。
平らな岩に座って、朝飯を兼ねた休憩タイム。
普段、探索中に食べるのはパンが多いのだが、今回は私の大好物であり、北海道探索での大定番である、セイコーマートの「ザンギ焼きそば」を持ってきた。
こいつの魅力は語り尽くせないが、今回の旅でもたっぷり頂くつもりである。
(→)
休憩した最終到達位置から振り返った、かつて隧道が貫通していたとみられる巨岩。
○印の位置にガレ場があり、坑口はそこに埋れている可能性が大。
海を眺めながら今日初めてのんびりした気持ちになって喫食を楽しんでいると、目の前の函館湾をひっきりなしに大船が行き来した。
中でも頻度が多く、船体自体も目立つのは、津軽海峡フェリーの船だ。
私が今朝利用した青函フェリーと並ぶ青函航路の事業者だが、より垢抜けている。ほぼ同じ頻度で青函フェリーの船も往来しているはずだが、ぱっと見で分かり易いのは間違いなくこの会社だ。
この探索のきっかけとなった『深夜航路』の著者は、あの船上よりこの陸地を眺め、最終的に寒川集落の存在に辿り着いたのであったが、今回私はカヤックの力を借りることで、逆に寒川の人々の目線に立って、国鉄青函連絡船と呼ばれていた当時のもっと無骨な船を見送っていた海を眺めることができた。
ここでちょうど上りと下りの船がすれ違う場面に遭遇したが、津軽海峡フェリーのすれ違いを陸地から見る機会はレアだと思う。
8:09 寒川南方方面の探索を終了し、カヤック上陸地点へ撤収開始!
あとは帰り道だけど、まだ少し探索が残っているぞ。
8:49 《現在地》
前回最後のシーンから40分後――
もと来た“道”ともいえないような石だらけの海岸を1.5km戻って、
この探索の劈頭を飾った巨大障害物、穴澗の岬の目前まで来た。
夜明け前からはじまっていたこの探索だが、気付けば朝日はもう十分に高い。
勘七落しの大断崖は、日に照らされてくっきりとした鋭さをさらに増した感じがあり、
長い浜辺歩きでいささか緩んだ私の心に、今一度キリリとした緊張感をもたらした。
間もなく、この地より私は脱出する。来たときと同じ手段でもって。
私がカヤックを上陸させてある入江に、水中眼鏡で採取を行うミニ漁船がいくつも浮かんでいた。
上陸したときは全く函館から途絶した人気のない孤独な浜だと思ったが、様相が転じている。
函館という大都会にある函館漁港からは大変に近いこの辺りの磯は、
たとえ陸上に集落がなくなったとしても、採取漁業の場としての賑わいを失っていないらしい。
むしろ、舟を自在に出来る彼らにとっては、背後に見える穴澗の吊橋が失われて
陸上からの密漁にほぼ不安を抱かなくて良い現状は、望ましいかもしれない。
8:57
上陸から実に2時間41分後、再びカヤック上の人となった。
当初の予定よりも幾分長い時間を歩行に要したが、ここまでの成果に思い残すことはない。
やり残している、わずかなことを回収しながら、車の元へ帰還しよう。
幸いにして、海上の様子は早朝と変わらず極めて平穏で、なんの不安も感じない。
操業中の漁師の邪魔にならないよう、漁船とは距離をとって静かに入江を出た。
(→)
帰航路より眺めた勘七落しの大断崖と、そこに刻まれた半チューブと化した寒川集落道の姿である。
この風景は、時間を改めて眺めても、本当に見事の一言だ。
岩、海、道のバランスが、これ以上の理想型はないと思われるほどの配合で一体化している。特に道が主題となった海の美景としては、これに勝るものは容易に得がたい本邦屈指のものであろう。これぞ、人智に研ぎ澄まされた絶景である。
もっとも、海の状況によっては美しいなどというのは完全な戯言と化し、恐怖のみが支配する景色となろうが、もはや想像上のそれを含めて魅力的と感じる。
次また見られる機会があるのかと思うと、見納め惜しく離れがたかった。
海が平和すぎてヤバイ。
穴澗の真ん前で、カメラを水面にセットしてのパノラマ写真を撮ってみた。
船上に仰向けになってみたら、うっかり寝そうだったんで、目を瞑るのはやめといた。
9:03 《現在地》
穴澗の岬を回り込むと、3時間ぶりの出発地点が見えてきた。
そこに待つのは、函館市街地の果てにある家並みだ。
この探索の成功を歓迎する準備が既に万端整っていそうな、なんとも穏やかな風景だった。出航したときは薄暗かったし、なんか不気味な街の果てと思っていたけどね。
チェンジ後の画像は、函館湾奥を望遠で覗いた眺めだ。
穴澗の岬を越えるまで、この方向の視界は完全に遮られている。
大船の出入りする工業港のすぐ背後に、火星にでもありそうな火山が聳えているのが、いかにも多数の活火山を有する北海道の玄関口らしい。
あれは駒ヶ岳という山で、渡島富士などの異名を持つスケールの大きな活火山だ。函館港を目指す船の目印になってきたのは想像に難くないが、強面だ。
この写真は、上の写真とほぼ同じ位置(海上)から、もっと手前の海岸線を撮影した。
この海岸線に、市街地から穴澗吊橋を経て寒川集落へ至る道が伸びていた。
現在は穴澗の橋が失われ、そこで行き止まりになっているが、往航時に“最初の隧道”を【見つけている】のは、この区間だ。
往航では海上から眺めただけで素通りしてしまったが、これから隧道の近くに上陸して実踏する。これが今回最後の探索内容だ。
これから上陸する隧道は、穴澗の岬を構成する一枚岩である大岩脈の北側に突出する、支脈らしき小さな岩脈を貫いている。
小さいとはいえ、海側に迂回が困難な険しさを有しており、隧道必須と感じる地形である。
隧道至近の浜辺へ上陸!
9:06 《現在地》
10分弱と短かった2度目の航海を終えて、“最初の隧道”の北に隣接する平磯の浜に上陸した。ここは沈水しつつある波蝕棚であろう。
チェンジ後の画像は、上陸地点から市街地方向を眺めている。
350mほど先に、車を停めてある入舟町の車道終点がある。
この間の海岸線では、寒川集落の現役時代から採石場があったらしく、現在の風景にはその名残が色濃く感じられる。切り出された石材は目の前の浜で船積みされていたらしいが、港らしいものは見えない。
そして、反対方向へ目を向けると――
隧道!!
今回は最初にカヤックを投入して一気に沖を通り過ぎてしまったが、本来であれば寒川集落道の探索で最初に出会うべき隧道、いわば“始まりの隧道”がこれだ。
順序を壊したことで、いくらか初対面の感激を削いでしまった恨みはあるが、多少順序が前後しただけで退屈になるほどつまらない存在ではない。
隧道自体の規模としては既に目にした2本の隧道と大きな違いはないが、チェンジ後の画像だとよく分かる市街地側坑口の不思議な形状は、何かしら解明されたい謎を秘めているように思う。
これについて言及した資料は残念ながら未発見で、机上調査を終えた時点でも答えは分からないのだが、このいかにも拡幅したかったけど途中でやめました感のある形状は、何を意味しているのだろうか。
寒川集落民たちがもっと便利で安全な道をと奮起しかかった名残なのか、それとも海水浴場時代の何らかの未成に終わった開発の名残か。
事情をご存知の方がおられたら、ぜひ教えていただきたい!
隧道は綺麗に貫通しており、長さは10mほど。
これが貫いている岩脈の外観的には、もう少し長いようにも見えたが、ちょうど岩脈の薄い部分を上手く貫くことで、最小限度の長さになっているようだ。
高波が侵入することがやはりあるようで、洞床は海岸とあまり変わらない雰囲気だが、断面の大きさは、これまで見た2本の隧道よりは大きい。どう見ても人道専用で自転車すら通行困難と思えた2本と比べれば、この隧道は、ごく小さな鉱山軌道くらいのスケール感がある。最近レポートしている早川林鉄の隧道もこのくらいのサイズ感だった気が。
とはいえ、素朴で小さな隧道であることに違いはない。
市街地側坑口(北口)付近の洞床に、3本の鉄パイプが立てられていた痕跡があった。
微妙に形は違うけれど、坑口に障害物の足が3つ並んでいるのは、寒川集落跡南側にある“閉塞隧道”の北口でも【見た】光景だ。
一連の道に属する隧道に見られるこの遺構の符号は、これら寒川集落跡(あるいは寒川海水浴場跡)の入口と出口を占める位置にある2本の隧道が、柵や立て札によって封鎖されていた時期があった名残だと想像する。しかし、この位置に生半可な柵や立て札を作っても、高波で簡単に壊されてしまったろう。だから健在な姿を目にしたことがある人は少ないかも知れない。
9:09 《現在地》
短い隧道を抜けると、チェンジ後の画像のような狭い入江に出る。
目の前にひときわ高く穴澗の岬の岩脈がそそり立っていて、一見すると道もここで終わっているような感じだが、実は岩場の低い所に先へ続く道がある。
しかし、道らしい構造物が見えるわけではないので、あると分かっていなければ進もうとは思わなそうだ。
なんとなく傾斜の緩やかな部分に取り付いて岩場のトラバースをはじめるとすぐに、「確かにここは道だったんだ」と感じられるような地形になる。
先に探索した吊橋の寒川側末端部と同じような、裸一貫で崖を行く男らしい道が延びている。海面からの高さは3mくらいだから、波がそれより高ければまず通れないだろうし、そうでなくても激しい風雨や積雪の折には命がけの道行きとなるだろう。
チェンジ後の画像は、直前の入江や隧道を振り返って撮影した。
9:11 《現在地》
このように天候に恵まれていれば、全く爽快で楽しい岩道である。
もっと続いても良いと思えるが、残念ながら岩場に取り付いてから“終点”までの距離は、
寒川集落側の方が長く贅沢に続いており、市街地側はすぐに終わりが来てしまう。
岩に隠されたカーブの先に廃墟然とした階段が見えてきたら、終わりの合図である。
穴澗吊橋跡地へ到達。
通常の海岸歩行スタイルでは、ここが厳然たる終点である。
穴澗を挟んで両岸に、独特な階段型の橋台が、まるで鏡写しのように対しているが、
数えてみると段数が1段違い、向こう岸は11段で、こちら岸は12段だった。
あぶないあぶない、いよいよ13階段にリーチを掛けてしまっている。
階段の角が波で削ぎ落とされているのは、こちらも一緒である。
先に対岸の橋頭に立ってから、2時間20分後の両岸征服である。
もしカヤックという武器を持ってこなければ、ここから眺める向こうの景色は、
羨望という名の息苦しい色に覆い尽くされたものであったことだろう。
手法として、陸路のみで寒川集落跡へ到達する手段はあるようだが、
これほど楽に、また短時間で、寒川探訪を成し遂げられたのは、
海面を我が道とする手段を手にしたからに他ならない。
この場からの眺めに支配欲を存分に満たされてから、引き返す。
9:22 《現在地》
2度目の上陸地点へ戻ってから、最後の航海へ。
採石場跡地である広い海岸線には明確な踏み跡もあり、歩いてスタート地点へ戻っても良いのだが、畳んだカヤックを持ったまま300m以上歩くのは大変なので、この区間も海上を移動した。
なお、函館市立中央図書館所蔵『寒川集落 改訂版』によって、集落が健在だった当時から採石場が稼動していたことが分かった。
昭和戦後期には石黒組という会社の石切場になっていて、発破の際は係員によって集落へ通じる道の通行が禁止されたそうである。
寒川の住民にとって、この採石場の存在も一種の障害物ではあっただろうが、採石事業には最初期の寒川道から一つの障害を取り除く功績もあったことが、次のような一文から判明している。
この石切場付近は「昔、小穴澗があり上下に渡した鉄索の吊り橋に身を任せて、米俵を背負っていく住人の姿が見受けられている。明治29〜33年にかけて弁天台場の埋立工事や船入澗の築設工事の際、穴澗付近から石を切り出したので、小穴澗は削り取られ、どうやら寒川までの道が出来るようになった。」(函館文化 No.15)とあります。
……とあって、寒川に人が住み始めたのが明治17年頃だというが、その頃はまだこの辺りに「小穴澗」と呼ばれる難所があって、「上下に渡した鉄索の吊り橋」【これのことだろ…?】が架かっていたというのだ。しかし、明治29〜33年に、弁天台場の埋立工事や、寒川集落の船入澗の工事のために、小穴澗は崩されて、橋を渡らず通行できるようになったということらしいのである。
9:30 《現在地》
スタート地点へ上陸し、無事、本探索を終了。
函館山の裏に隠された別天地を、心ゆくまで堪能することができた。
歩ける部分は一通り歩いたが、謎はまだいくつかある。
その解明が、最後の仕事だ。
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