道路レポート 国道353号清津峡トンネル旧道 最終回

所在地 新潟県十日町市
探索日 2018.11.30
公開日 2019.04.21

瀬戸渓谷の“へつり道”に挑む!


7:42 《現在地》

始めにお断りするが、この先は苦痛だ。
個人的に、いわゆる「痛気持ちいい」という種類のものではなくて、普通に苦痛だった。多分ちょっと怖すぎたのだ。
これの所要時間は17分間。
これだけの時間を、たった143mの瀬戸口隧道の外側に見つけてしまった“へつり道”に費やし、最終的にはもちろん生還するのだが、恐怖心に苦しめられた。


写真は、私がはじめて“へつり道”の路面を踏んだ、瀬戸口隧道第3横坑の直下にあたる(前話最後の)地点から、おおよそ10mほど下流方向へ進んだ位置である。そこからさらに下流を撮影している。
この先は、あと20mほどで穴沢に達し、穴沢橋の上から見下ろした“へつり道”の【末端部】に達するとみられる。

……という書き方をしていることから察せられると思うが……
辿りたくない、これ以上は。

枯れた草付きの列という朧な形で微かに平場の痕跡が認められたが、探索者生命を賭けるまでの価値はないはずだ。
仮に転落しても高さがないので濡れるだけと思うかも知れないが、それでは済まない可能性がある。相当下流まで取り付ける岸がなさそうなので、溺れかねない。というか、人は川に流されてはいけないのだ。予期せず流されれば、助かっても事故である。



後退となる下流方向への踏破は確認のための捨て石のようなもので、重要ではない。
気を取り直し、“最初の地点”から今度は上流方向へ向かう。

第3横坑の位置から考えるに、“最初の地点”から瀬戸口隧道の上流側坑口までは100mほどだろう。
その先にはこのような“へつり道”が現存する余地はなかったから、この探索の踏破目標は残り100mと考えていい。

左の写真は上流方向を撮影している。もの凄い回廊状の峡谷が展開しているが、ここから見える回廊部の出口が、私にとってのゴールでもあるのだ。分かりやすい目標が、私を励ましてくれた。

右の写真は足元の様子。
思いっきり「へり」の所を歩いているように見えるが、当然のことながらこれは悪ふざけなどではない。
道幅がこれだけしかない!
だから、どうしようもない。
人が一人通るのに必要な幅はあるが、本当にそれだけなのだ。

もちろん、昔はもっと広かったものが、川の浸食で狭くなった可能性も疑われるが、個人的には、どうもそんなようには見えなかった。
なぜなら、測ったように同じ狭さの道が続いていたから。初めからこの広さの道を作った感があったのだ。
誰が何のためにこんな危ない道を?!  ……その解明は、机上調査で。




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“へつり道” 全天球画像 その1

この狭さ、究極である。

よく古い文献に出てくる、一人の兵が守れば万兵を塞げる道というのは、こういうものを言うのだろう。
あるいは、矢を仕舞う細長い筒である靫(ゆぎ)を背負った兵が、これを崖と反対に背負い直さねば通れなかった
いわゆる「左靫(ひだりうつぼ)」と言われる…これも全国にある難路の地名だが……、まさしくこれだ。
私は小さなザックを背負っていたが、これが邪魔に感じられて仕方がなかった。



7:44 (上流方向へ歩き始めてから2分後)

下流へ行かせなかった嫌らしい草付きが、上流側にも現われてしまった。
草付きは、2つの意味で私を苦しめた。
第一は、視界を遮り、もともと僅かしかない「踏める場所」を見つけ出しにくくすること。
第二は、藪を漕ぐという余計な動作をしなければならないこと。狭すぎて、ただスタスタ歩く以外の動作などしたくないのに。

もちろん私は退路を断っているわけではないので、いつでも引き返すことは出来た。
だが、進めるならば進みたいという意欲も当然持ち合わせている。

右写真は、慎重に足元を確認しながら、一歩一歩踏みしめるように前進する自身の姿だ。
水面までの高さは3mくらいしかないが、一度転落すれば這い上がれそうにない切り立ち方をしているだけに、緊張した。
もっとも、もしこれで転落自体が脅威になるほど高かったとしたら、既に逃げ出していただろう。



とんでもない道だ……。

もうそんな感想しか出てこない。

「実はこれは道の跡ではなく、農業用水の樋を通していた跡だったのです。」……なんていう興の醒めるオチはないので、読者の皆様は安心(?)してほしい。もちろん、「遊歩道」でもなかった。
だが、現場の私は、こんな道が日常的に利用されていたとはなかなか信じられず、上記のような疑いを持って歩いていた。

こういう道を紹介すると、必ず誰かが教えてくれる有名な黒部峡谷の日電歩道があるが、あれは一般人が日常的に歩くような道路ではない。対してこの瀬戸峡の“へつり道”は、東田尻と角間の両集落を連絡する道として、瀬戸口隧道が建設されるまで、万人に開放された生活道路であった。

この事実を、後ほど詳しく述べる机上調査で知っている今ならば、道の素性に疑いを持ち、そのうえ大変な緊張感に苛まれて道の来歴に思いを致す余裕のなかった現地探索時よりも、これらの“道路風景”に深く共感を覚える。

もっとも、それでも歩き直したいとは思えないが…。




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“へつり道” 全天球画像 その2

巨大な回廊峡谷を、完全に独り占めにする最高のビュースポットだが、ハイリスクハイリターンだ。
この景色が、観光ではない日常の中に避けがたく置かれていた暮らしは想像が難しいといえる。

ここに道があることは、どのくらい知られているのだろう。
そして、実際に歩かれたのは、いつ以来なのだろう。



人工ならぬ“天工”のなせる絶技の賜物、深い回廊峡谷の底行く道から見上げる、帯のような空。
両岸共に70度をこえる絶壁で、もしも落石や雪崩があれば、全く逃げ場はない。

もっとも、落石については、直撃する可能性は低いと想像する。
これだけ切り立っていると、途中で跳ねて河心に飛び込むことが多かろう。
むしろ、対岸の落石の方が害する恐れが大きいかも知れない。

一方、雪崩については無防備どころの話ではない。
雪が斜面に付いている時期に入る行為は自殺に等しい。



7:53 (上流方向へ歩き始めてから11分後)

慎重に慎重を重ねて足を進めているために、100mそこらの距離をまだ抜け出せないでいる。
だがようやく出口が近づいてきた。
最後は……

登っている。

……嫌だなぁ。
ますます転落が怖いじゃないか……。

この先、河芯がこちら側の岸に寄っていて、前進する船の舳先のように路下の岩場が激しく水を砕いている。
まさか増水時にも安定して通行するための策だったのかは分からないが、この河水の衝を避けるように、道は急に高度を上げ、一番高いところで水面から7〜8mまで上がっているようだ。
転落すればただでは済まない落差である。

相変わらず草付きが多く足元が見えづらいなかで、“最後の関門”のお出ましといった感じがした。



進むべきか、退くべきか。
選択の場面は、何回も何回も訪れていた。
その度に、こうして後ろを見て、また前を見て、天秤を測った。

しかし、ここまで来ると引き返すのも気軽な選択肢ではなくなっていた。
敗退を嫌う気持ちだけでなく、単純にこの斜面を移動する距離を長くしたくないという心理からも、戻りがたくなってくる。
そのくらい、長居無用を優先すべき危うい道だった。

さすがに現役時代にはもう少し何か安全策があったのだと思いたいが、この道と比較したら、国道としては酷い部類にあった瀬戸口隧道がどれほど恵まれていたかと思う。
隧道の開通は昭和29(1954)年(道路トンネル大鑑より)というから、ここが現役を退いたのは相当に古い話ではあるが、大昔というほどでもない。まだ多くの経験者が存命であろうと思う。
(上記文章の一部は、机上調査で誤りと発覚する)



7:54 《現在地》

あっ!

あの穴は、瀬戸口隧道の横穴だ。

頭上3mほどの位置にぽっかりと口を開けているのを見つけた。
隧道には全部で4つの横穴があり、そのうちもっとも下流側の横穴から出て、この“へつり道”にアクセスしている。
残る3つの横穴のうち、これは一番上流側のもの(第1横坑)らしい。
ということは、途中で2つの横穴を見つけず通り過ぎてきたことになるが、極めて視界の限られている状況だけに無理もなかったと思う。
わざわざ引き返してまで探す気にもならなかった。

この横坑から見た【景色】が思い出される。
上から見た限りは、狭くとも案外にしっかりとした道に見えたのだが、実際に歩いてみると甘くはなかった。舗装のない岩道、万が一躓いても転落を防いでくれる柵はない。これぞ絶対の危路と言えるものであった。




いよいよ終盤、最後の難関に差し掛かりつつ、来た道を振り返ると、変な笑いがこみ上げてきた。

ここに道を通そうと考えた人、実際に工事を行った人、皆、どうかしてる。
確かに、ここを通れば近かっただろう。アップダウンもほとんどない。逆にこれを迂回するためにはどれだけ高巻きしなければならないか、考えるだけでも億劫になるほどだ。
だとしても、ここは常識的に考えれば、道がありそうには見えない筆頭のような地形である。

そんな道は、狭いけれども、堅い岩場をちゃんと削っていて、簡単な工事によるものでは絶対にない。本気だったと思う。
もし堅い岩盤でなければ、この程度の幅の道が、廃止後長く痕跡を留めること自体なかったと思う。



最終盤、道は頂点を極めた。
崖をくの字に削っただけの片洞門になっていて、落石からは身の安全が保証されたが、足元はこれまでで最悪の危機である(→)。

慎重に、本当に慎重に次の一歩を下ろす場所を選びながら、柴(しば、細い雑木)やポヨ草に縋って歩いた。

柴に体重をかけてはならないが、バランスを整える役には立つ。バランスが命だ。もしヒヤッとする目に遭ったら、以後はその恐怖に蝕まれて、本来の力を発揮できなくなる。少しのヒヤリもなく、亀のように進むことが肝心だった。

使えるものは何でも使って、それこそ岩を噛むような執念を発揮して、最難関だったラスト数メートルを攻略した。
もちろん、私の中では勝算があってやっていることだ。無理だと思えば引き返したと思う。





7:58 (上流へ歩き始めて16分後)

突破した!!!

見覚えのある景色に、全身の栓が抜けたかと思うくらい、ホッとした。

最後は狭いススキの急斜面に入り、道形がなくなったので、河原に下りた。




7:59 《現在地》

凄すぎ!

作った人が凄い。

通った人も凄い。

凄すぎ!

言葉にならない。




瀬戸口隧道と“へつり道”の繋がりは、こちら側でも不明瞭だった。
新旧道の関係性があるはずだが、素直に繋がっていたようには見えなかった。
そのせいで、この“へつり道”の存在は、敢えて横坑から下を覗くという
オブローダー的な探求がなければ、気付くことが出来なかった。

もっとも、瀬戸峡を観光的にここから眺めるならば、“へつり道”は目立っていた。
しかし、瀬戸峡観光の正規ルートは、この河原に立つことを禁じていた。
あそこに見える瀬戸口隧道から、こちら側へ出ることは禁じられていたのだ。
やはり、現代における“へつり道”は、秘密の存在に限りなく近かったと思う。



この瀬戸峡の景を通り抜けるのに、隧道を用いない時代があったことに、心底驚嘆する。

一緒に道がなければ、私にとってはこれも単なる美景で、額縁の中に大人しく収まっていた。

今は違う。もう、忘れがたい。



最後にもう一度、全貌を振り返り、忘れがたい景色を、目に焼き付けた。

この直後、川原を出て旧国道へ上り、1時間ぶりに自転車を回収。

元チャリ馬鹿トリオの仲間の車が待つ集合地点へ向かって走り始めた。




たった900mの旧道に沿って、濃密な発見が多数あった今回の探索。

一つ一つに、歴史があった。そして、尊い命が捧げられていた。

次回、机上調査編。