2018/11/30 7:09 《現在地》
旧道入口から600m、地図で予期した位置に隧道はあった。
瀬戸口隧道。
この名前は、オブローダーお馴染みの一冊『道路トンネル大鑑』(昭和43年/土木界通信社)に掲載されているものである。
同書にはトンネル名の他に、「全長134m、車道幅員3m、限界高3.7m、竣功年度昭和29年、覆工なし(素掘り)、路面未舗装」などの主要なスペックに加えて、当時の路線名が「主要地方道高田松之山六日町線」であったことなども記されているが、実際に坑口を目にしてみると、これらデータの羅列からは窺い知れなかったトンネル実在の迫真が、まざまざと感じられた。
これまで膨大なトンネルを見てきたが、これほどまでにトンネルの必須を感じる地形は稀で、その最難部にピンポイントで穿たれた坑口には、寸毫の装飾も見られなかった。
これをして迫真と言わずになんと表現できようか。
車(大型車)1台がどうにか通れれば良いという、本当に国道として必要最低限のトンネルであったことが、この坑口の時点で痛いほど伝わってきた。
さてこの坑口、最初に見えはじめた時点で「察し」たのだが、この通り鉄柵で念入りに閉塞されている。
内部が見えなくなるコンクリートや木壁での閉鎖よりは幾分オープンといえるが、しかし鉄柵で天井まで完全に塞いであることは、立ち入り禁止を伝える形式的な封鎖ではない「本気さ」を物語っている。
もちろん、格子状の鉄柵だけならば、スキマから簡単にニュルインできるんだが、画像に目をこらして貰えば分かるとおり、金網も張られているのである。
これでは、さすがに立ち入れない……。
しかし、この景色には、廃隧道の一般的な風景に照らしてみたときに奇妙に思える部分が一つある。それが何か、お気づきだろうか。
なぜ、看板が向こう側を向いているの?
トンネルに入れない理由が書かれているなら、看板はこちらを向いていなければならないはずだが…。
祝! 逆転勝利!!
これは、どういうことかな〜?
犯人は、ケモノか、ヒトか。
分からないが、ともかく坑口を封鎖していた金網の一部が破られていて、ヒトが出入りできるスキマが生じていた。
ぬふふのふ。 ごちそうさまです。
ただし、自転車だけはやっぱり無理だわ。
鉄柵のスキマが狭く、車輪を外すなど簡単な分解したとしても、自転車は通すことが出来ない。
こちらは潔く諦めるとしよう。
もっとも、自転車はこの坑口までさえ来られていなかった(苦笑)。
この30mほど手前にあった大きな土砂崩れ地点を乗り越える際に、「偵察」を口実に自転車を乗り捨てていたことを、前回の読者なら記憶しておられるだろう。
なのでここで自転車を取りに戻る手間は省けたが、最終的にはやっぱり、戻ってきて回収しなければならないことになった。
さて、それではみなさま、そしてわたくしのお待ちかね――
ワルワルニャ〜ン!
もぞもぞ……
怪しいトンネルだなぁ…。
光が、随所から漏れて来てるぞ。
134m先にあるはずの出口は見えないのに、別の光源が沢山だ。
(なんかオレンジに光っているのは、デリニエータの反射板っぽい)
少なくとも、光の射し込んでいる横坑は、3箇所ある。
谷沿いの立地であるから、横坑が存在するくらいでは驚かなかったかもしれないが、
まるで“あばら家”のように、何箇所も光が漏れてきているのでは、驚くなは無理な話。
ゆるゆるとカーブしてるし、素掘りにコンクリートを吹き付けただけの壁だし、
狭いし、穴だらけだし、無灯火だし、見れば見るほど、怪しいなぁ。ぬふ。
なぜか反対に向きに設置されていると思っていた看板だが、それは勘違いだった。
この看板、書かれた内容を読んでみると、意外なことに、この向きで正しかったのである。
これは、歩行者がトンネル外へ出ることを防ぐために立てられたものだったのだから。
看板にははっきりと、「土砂崩れによる歩道崩落のため」と、封鎖の理由が書いてあった。
この念入りな鉄柵による閉鎖は、トンネルへの侵入を防ぐためではなく、まさに私が歩いてきた廃道区間への立ち入りを防ぐ目的であったのだ。
そこまで荒れ果てた廃道ではなかったが、落石や雪崩の危険度を考えれば、トンネル内よりもリスキーなのは間違いない。むしろ山道ではトンネル内が一番安全だというのは、昔から私が思っていることだ。
看板に書かれた手形がミッ●ーばりの4本指である理由は不明だが、この看板、事前情報をあまり持たずに探索しに来た私にとっては、有用情報の目白押しだった。
これまで探索を進めてきたこの場所が、「瀬戸渓谷」と呼ばれていたらしいことも、この看板で初めて知ったことである。
「瀬戸口隧道」というトンネルの名前も、ここから生じたものなのだろう。
「瀬戸」という地名は、この地の景色にはこれ以上なく似つかわしいと思う。『日本地名語源事典』によると、「セト(瀬戸)」の語源は、「セト(狭戸・狭門)」の意であって、水陸の通路の狭くなっている所を意味するというのだから。
前回、これまで歩いてきた区間には特に遊歩道時代の遺物が見られないと書いたが、看板によれば、通行止めになる以前は確かに「瀬戸渓谷遊歩道」の一部であったようだ。
しかし、この場所が遊歩道の終点だった時期というのも、なかなかシュールな気がする。
私のようなトンネル好きならばそれを「ラッキー」と思うのかも知れないが、渓谷の景色を見に来た遊歩者にとって、横坑から僅かに外の景色が見えるだけの旧国道トンネル内部の終点は、どんな感想に繋がったのだろう。ぜひ聞いてみたいものだ。
まあ、情報提供者の証言によれば、このトンネルも今は遊歩道を止めてしまったらしいが。
最後に、看板の設置者が「中里村」となっているのも“情報”で、平成17(2005)年の合併で十日町市になったわけだから、それ以前の設置だと分かるのである。
本当に、少ない文字数で、内容は盛りだくさんの看板だった。
7:13 《現在地》
入洞した時点で既に見えていた3つの横坑のうち、一番手前のものが早速近づいてきた。坑口から30mくらいのところである。
射し込んでくる光の感じからして、横坑というよりは横穴、あるいは“窓”と呼ぶのが相応しいくらいに奥行きが少なそうだ。
そして、この横坑もまた、坑口を塞いでいたのと同じような格子状の鉄パイプ柵で簡単に塞がれているようである。おそらく“国道時代”からのものではなく、遊歩者の脱出防止用に設置したものだろう。
柵を支える斜材が道路上にはみ出しているので、国道時代からあったならばヤバい。
“国道時代”といえば、壁に刻みつけられた沢山の痛々しい擦痕に、その濃密な名残りが感じられた。
幅3m、高さ3.7mというスペックでは、やはり国道としての不足があったのだろう。
十二峠の道路が開通する昭和50年代以前、このトンネルを潜ることで初めて触れることが出来た清津峡の景観は、申し訳ないけれど、今日とは別次元の印象力を持っていたのに違いないと思うのだ。難所の先に甘露があるのが、カタルシスというものだ。
これまでのところを総合して、このトンネルと印象が似ていると思ったのは、“廃隧道界”の超有名物件である“釜トン”である。
“釜トン”の最大の特徴である急勾配こそ、こちらにはないものの、逃げ場がない大絶壁峡谷沿いの立地、コンクリート吹き付けのゴツゴツした外見、内部の微妙なカーブと狭さ、多数の横坑、そして開通以来長きにわたって著名山岳観光地の唯一の門(関門)として活躍していたことなど、似ているところが多い。
これが、“第1横坑”だ!
見立て通りに、思いっきり薄っぺらだった。
本当に窓のようで、ここから外へと道が通じているような感じは皆無である。
外は【例の大回廊峡谷】の真っ只中であるはずだから、当然だ。
ただ……、柵の向こうで清津川に身を乗り出したら、いったいどんな景色が見られるだろう。……そんな純粋な好奇心から、私は脱出を実行した。
そして、その先にあったのが、今回のレポートで私が煽りに煽ってきたトンデモナイものだった。
この、トンデモナイものの正体については、多くの読者様がコメントでいろいろな楽しい予測を立てて下さったので、私も読んで何度も笑ってしまったのだが、私がトンデモナイと言うのは当然のことながら(?)、道関係である。
おわかり
いただけただろうか?
↓ もう一度、ご覧頂こう ↓
いま、平場、見えたよね?
平場っつうか、道だよね、これ……!!!
半ッ端なく、狭いけど!
絶対、歩道だろうけど!!
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
↑まさしく大回廊峡谷のただ中にある、現在地。
しかし、脚下の垂壁の中段に、蛇の道のような小回廊あり。
それは前後に通じ、明らかに人工的な道のように見えるのだが……。
(↑)ここへ近づいてくる途中、「トンネル必須の凄い景色だなぁ……」などと、
ある意味で対岸の火事、高見の見物を決め込んでいた“大回廊峡谷”の眺めであったが……
そこに、トンネルではない旧道?古道?が、存在していた疑いが!
これこそが、私の予測と、私の常識とを、ダブルで覆した
トンデモナイものの正体だ!
こ、こ、こ、こ、これはいったい? (予想してた人いたかな?)
7:17 《現在地》
いやはや、トンデモナイものを見つけてしまった。
私は、瀬戸口隧道の中へと戻った。
横坑から見下ろした回廊峡谷の崖の縁(へり)に、昔の道と思しき狭い平場が、真一文字に横たわっているのを見つけてしまったのだ。
それは、自然の地形が偶然に道の形を見せたのではなく、明らかに人為的に作られた道のように思われた。
私は激しい興奮に襲われ、ぜひとも歩いて確かめたいと思ったが、平場を最初に見つけた“横坑1”からは見下ろすのが精一杯で、アクセスすることはロープでもなければ極めて困難と見えた。
(下りるだけならば滑り降りられるかも知れないが、それをすると登って来られないだろうから、前途に窮する可能性があった)
隧道の残りの探索に、通り抜ける以外の目的が加わった。
それは、既に前方に目視されている残り2つの横坑からも、平場の存在を確かめること。さらに、平場への到達可能性を探ること。
これらが目的に加わった。
最初の横坑を過ぎて次の横坑へ近づく途中、川側の内壁にこんなものが取り付けられているのを見つけた。
目盛りが左右に2つ並んでいる見慣れない温度計と、ラミネート加工されたプレートが1枚。
この温度計は、測定期間内(本体にリセットボタンが付いており、そのボタンを押してから現在まで)に記録した最高・最低気温と現在の気温という3項目を表示出来る優れもので、読み取った数値は現在気温5℃、最低気温−6℃、最高気温30℃というものであった。
一般に、トンネル内のような地下の温度は年中あまり変わらないと言われるが、このトンネルにはそれが当てはまらないようだ。最高気温が30℃にもなるというのは、驚きである。このように温度変化が激しい理由は、このトンネルの土被りがとても浅く地表に近いことと、地表と洞内を直結する横坑が多数存在することで、外気の影響を強く受けているからだと思われる。
この温度計が設置されている理由は、ラミネ板が教えてくれた。
なんでも、「小型哺乳類の学術研究調査」が目的とのことで、これはコウモリのことを指していると思われる。
調査期間が「2014年〜2025年」となっているのも注目点で、遊歩道として普段から人が大勢出入りする環境では調査は成り立ちづらい。つまり、2014(平成26)年には既に遊歩道は廃止されていたのではないかという疑いが濃くなった。
肝心のコウモリたちだが、見たところ、全然いなかった。
彼らが大勢住んでいれば必ず残るグアノの堆積もないから、せっかくの調査地点なのだが、彼らのお眼鏡には適わなかったようである。
コウモリ生息地(主に廃隧道)を飽きるほど見てきた私(もちろん素人)に言わせて貰えば、ここは風通しがよすぎるし、常に川の音が洞内に響き渡っているのも、静寂を愛していそうな彼らの好みではないと思う。
2個目の横坑に辿り着いた。
隧道の南口からは50mほどの地点で、まだ全長の中間には達していない。
1個目の横坑とよく似た開口部で、違いは天井がより高いことである。
やはり簡単な鉄パイプ柵で封鎖されているが、気にせず外へ出てみよう。
平場との再開は、ありや、なしや。
そして、アクセスの可能性は。
……ありますねぇ……。
これはいよいよ、間違いない。
さっきの段階では半信半疑(七信三疑くらい)だったが、これで確信に変わった。
ここには、道がある。
瀬戸峡と呼ばれる峡谷の最も険しい核心部、この回廊状の峡谷を通過する、野天の“へつり道”が実在する。もう間違いない!
右見て〜
左見て〜
厳しい!!
率直に言って、厳しい。アクセス。
平場が良〜く見えはするのだが、ほとんど垂直に近いような崖の下にある。
崖にはいくらか草付きがあるが、木が生えてないのが駄目。
さっきも書いたが、無理矢理下りたら、もう登ってこられなくなりそうだ。さすがに川へ飛び込む羽目になるのは、笑えないのである。
やはり、こんな横坑からではなく、普通に隧道外の道からアクセスするのが正解と思われる。当たり前のことだが、この平場が真に古道であるなら、こんな隧道内からではない正規のルートが峡谷の前後へ通じているはず。前後のうち“前”の部分は、探していなかったせいもあって見つけられていないが、これから行く先に“後”の部分があるわけだから、ぜひそれを見つけたい。
7:21 《現在地》
ここだけ、幅が広い!
2番目の横坑と3番目の横坑の間は少し離れているのだが、その途中の15mほどだけ、幅が1.5倍くらいあった。
おそらく、トンネル全体の中間部分でもあると思う。
これは、すれ違いのための拡幅だろう。
全長は134mとさほど長くないトンネルだが、内部には素掘りトンネル特有の蛇行があり、見通しは非常に悪い。運悪く、トンネル内で対向車に出くわした場合のために、この小さな待避所が用意されていたのだと思う。
自分がドライバーの立場だったら、お世話にはなりたくはない、真っ暗で狭っ苦しい洞内待避所。
光を吸収してしまう素掘り吹き付けの壁面である。洞内照明がないのなら、せめてもうちょっと反射板なんかを付けておいてくれないと、待避の途中で壁に擦りそうで気持ちが悪い。
さっきから外の景色に目を奪われてばかりの私だが、このトンネル自体も相当に尖っている。これが国道だったというのは、熱い。
なお、この拡幅部の壁沿いに、大量のデリニエータ(中里村の記名あり)と、鉄製のU字車止めが置かれていた。
おそらく、遊歩道時代に全線で使われていたものを、まとめて保管しているのだろう。
侘しい。
っと、 これは……!
トンネル中間地点の拡幅部分(上の写真の“黄○”の位置)にも、小さな小さな横坑が隠れていた。
第2と第3の横坑の中間だから、無理矢理だが、“第2.5の横坑”としておこう。
これは、ちょっと… さすがに……、這い出してみようとは、思えなかった。
……もしも、横坑がここ一つだけだったら、這い出したくなったと思うが……。
手前に見えるのは普通のサイズの車止めで、奥に見えるのはゴミカゴ(昔はよく見たこれ)だが、これが邪魔をしていて容易には通れそうにない。
こんな小さな横穴では、ズリ出しはもちろん、明り採りにも役立たなさそうなので、もしかしたら、拡幅時に外壁が薄すぎて偶然に開いてしまったのかも知れないな(笑)。
打って変わって巨大だったのが、この第3(本当は第4)横坑。
出口まで残り50m弱のところに口を開けている、おそらく最後の横坑は、側壁だけではなく天井に達するほどの縦長の穴で、幅はこれまでと変わらないので、まるで地の裂け目であった。
この隧道、本当に全体にわたって土被りが激浅であるようで、圧壊しやしないか心配になるレベルだった。とはいえ、昭和29年とされている完成以来、70年近くも保っているで、地質に恵まれているのかも知れない。
この先にはいわゆる“片洞門”の区間があるらしいが、この隧道もほとんど片洞門のようなものだ。あと2mほど川側に道をスライドさせたら、絵に描いたような片洞門になるだろう。
これまでの横坑でもやったように、今回も柵を乗り越えて、外を見に行く。
やってますか〜。(平場ありますか〜)
暖簾を除けるように、頭を下げて柵のスキマから外へ出ること、3度目。
飲兵衛が居酒屋をはしごする絵が連想されておかしかった。(自身にそんな体験はないが)
やっぱりありますねぇ、平場は。
今までの3箇所のなかでは、ここが一番平場へアクセスしやすそう。
斜面のいいところに灌木が生えているので、あれを使えば、そこそこ安全に上り下りが出来そうだ。
まあ、ここも道でないのは間違いないし、出来ればこんなアクロバチックではないルートを見つけ出したいが、とりあえず今のところここが唯一、アクセスの可能性を感じられたポイントだ。
許された谷の幅一杯に流れる、とても透き通った清津川。
こんな薄ら寒い雨でなければ、気持ちのよい眺めだったかもしれない。
しかし、今の私にはほとんど恐怖しか感じられない。
最大の難関を、トンネルで安全にやり過ごせたと思ったのに、そこに危険を結晶化させたような旧道を見つけてしまうという、オブローダー笑い泣きの好展開。
オブローダーの神よ、今日も私を愛してくださり、そしてネタへと導いてくだり、ありがとうございます。ありがとうございます。感謝は捧げますから、命だけはお助けください。
誰が、好き好んでこんなところを歩かねばならないのかと、ニヒルな考えが脳裏をよぎったが、これが生活のための古道だとしたら、むしろ真面目に歩いていた人たちしかいなかったことになる。ふざけて歩ける道ではない。
この状況で、唯一の救いと感じられるのは、道が高い位置にはないことだろう。
これで転落死を心配しなければならないような高度であれば、こんな滑りやすいそうな雨の中では自重せざるを得ないが、道はかなり水面に近いところを通っているようだ。万が一滑落しても、溺れさえしなければ命は助かるだろう。 ……絶対嫌だけどな!
またトンネル内へ戻った。
瀬戸口隧道は、残りあとこれだけだ。
間近に見えて来た北口だが、封鎖されている様子はない。
やはり以前はこのトンネル内までが遊歩道として解放されていたようだ。
当時の観光客は、抜けることの許されないこのトンネルを、楽しめていたのだろうか。
省みる南口。
こちらから見ると、中央の待避所部分の拡幅が分かりやすい。
また、トンネル内が綺麗ではないくの字型に折れていることも、よく分かると思う。
それだけに、これ以上北口へ近づくと、南口は見通せなくなる。
今回は、自転車という荷物を南口の傍に置き去りにしてきているので、このあと必ず戻らなければならない。
そしてその帰路において、トンネルの外側にある“問題の平場”の完全踏破を目論んでいるが、果たして成功できるかどうか。
長さとしては、このトンネルの全長ほどのものでしかないわけだが……。
お外が見えて来た。
険悪そうな片洞門を、引き連れている!!
7:23 《現在地》
瀬戸口隧道、脱出!
トンネルを抜けると、そこは穴沢に架かる、欄干もない簡素な橋の上だった。
そのすぐ先には、聞きしに勝る厳つさを見せつける、片洞門の姿が。
その先に、一連の危険旧道の終点を知らせる安全地帯、立派な赤い橋が見えた。
この旧道は、残りあと200m。終盤戦だ。
忘れてはいないぞ。今回の探索のきっかけが、この片洞門にあったこと。
ここにも旧隧道があるという情報の提供があった。
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穴沢に架かる橋の上から、四方八方を見てみよう。
ちなみにこの橋、親柱や銘板がないので、橋名不明である。
(←)
これが、穴沢。
はっきり言って、
終わってる。
絶望しかない険しさだ。
穴沢という名前は、隧道の近くにあるからだとなんとなく思っていたが、地名の古さを考えれば、穴のように狭く深い谷に対する命名だろう。
こんな取付く島もない絶望の谷だが、現国道の清津峡トンネルが、“架かっていた”。
トンネルが架かっているというのはおかしな表現だが、実際そうなのだ。
(→)
振り返る、瀬戸口隧道北口。
短期間とはいえ、これが国道だったのだから恐れ入る。
植物を飾り付けと呼ばないなら、無装飾の素掘り坑口だ。
かつて、清津峡の険を探らんとする旅行者は、まずこの隧道の洗礼を受けることで本気度を試され、同時に世俗からの脱出を憶えたのだろう。
私にとってあるべきと思える、山岳観光地の前門の光景が、ここにあった。
振り返りついでに、例の平場へのアクセスルートを探してみたが、どうも隧道脇にはないようだ。
嫌な予感がする。
ここにないということは、どこにある?
言っておくが、この穴沢には下りられないと思うぞ……。
……嫌な予感の的中率の高さよ……。
最悪。
橋の真下、穴沢の底に、平場の端っこが、ありやがった。
でも、ここからは行けないから!(泣) 穴沢には下りられないって言ったでしょ…(涙)
……まあ、これについては、いったん保留だ。
井之川氏の情報にターゲットを移そう。
片洞門区間にあったという旧隧道を探すぞ。
―5秒後―
あった!(笑)
勇み足をしてしまったので、ちょっと引いた写真を撮り直し。
あるでしょ!
かんたん。別に隠されてもいないし、旧道脇に普通に口を開けていた。
現在進行形で崩れていそうな片洞門を歩くよりも、安全そうに見えるくらいだが…。
お読みいただきありがとうございます。 | |
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