道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 第2回

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2021.01.03

隧道―橋―隧道 が 大正―昭和―大正 である謎展開


2020/12/23 12:14 《現在地》

私の目は、路下の高光川水面近くに見えた物に、釘付けになった。
予期した旧県道の1本目の隧道の川側、驚くほど低い位置に、予期せぬ廃隧道のものらしき坑口が発見されたのだ。

ここが名だたる石灰石地形であることを考えれば、穴があってもまずは自然洞穴を疑うべきところだが、一見して穴は貫通し、穴越しに反対側の景色まで見えるとなれば、海蝕洞でもあるまいし、自然洞穴とは考えにくい情勢だった。

となると、今いる旧県道よりもさらに世代を古くする、いわば旧旧道の隧道が現われたのだと思った。
だが、そうした路線についての心当たりは……  まるでない。
今回は土地鑑がまるでなく、この道の素性についての事前知識もほとんどなかった。
予備情報としては、旧県道の時代を描いた昭和26(1951)年の旧版地形図を準備していた程度だったから、それより前の状況について事前に深く思慮するところではなかった。



地理院地図上に、いま発見した旧々隧道?の位置を示した。

現県道の「剣トンネル」は、平成6(1994)年の竣功で全長194m(銘板より)。
旧県道のトンネルは「一号隧道」といい、大正15(1926)年の竣功で全長36m(『大鑑』より)。
さらに1世代前の隧道だとしたら、明治生まれも十分射程圏内だと思えるのだが、残念ながら、名称も緒元も、この時点では知る術がなかった。

ただとかく印象的だったのは、隧道位置の低さだった。旧道や現道とは妙に高低差が大きい。
そのため、この道の世代交代の最大の目的は、単純な線形改良とか断面の拡幅とか老朽化の解決ではなくて、道路の嵩上げにあったのではないかと感じた。

ズバリこれは、帝釈川ダムの建設によって神龍湖が誕生する前の隧道だと思う。
帝釈川ダムの完成は大正13(1924)年という我が国の発電用ダムの中でも最古参に属するが、『大鑑』に記述された大正15年という隧道の竣功年は、これとおおむね符合していた。
本邦最古参級のダム付け替え旧道ではないか?

そう考えると、私には単純な旧々道というよりも興味深い感じがあった。なぜなら、もしそうだとしたら旧々道はここだけで終わらず、この先湖面に没するところまで延びている可能性があって、そこにもさらに隧道が眠っているかもしれないのだ。
探索は、予期から大いに拡張される可能性が出て来た。



目の前に旧隧道「一号隧道」を置きながら、私の心は蠱惑の未知色に彩られた眼下の隧道に引き寄せられた。

しかし、隧道は私が飛びつくように馳せ参じる“ルパンダイブ”を許さない、拒絶の状態にあった。
本当に交通用に作られた隧道であるのかを疑いたくなるような、坑口の前部に接続する路や橋が全くない隔絶した状況だった。

坑口がある地点は、おそらく古来より“剣(つるぎ)”と称されてきたであろう、極めて鋭く聳立した石灰尖塔の地上から4mほどのところで、この前面の崖をよじ登ることは一見して不可能にみえるうえ、それを実際に試してみることさえ許さないのは、直下が高光川の水勢の衝にあたっており、水流は緩やかなれど河童でも潜んでいそうな深淵になっているせいだ。

とりあえず、反対側の坑口がどうなっているのかを確かめたい。
前後ともに全く道の形跡がないとなれば、さすがに旧々隧道を考え直されねばならないだろう。
というわけで、疑・旧々隧道を頭に置きながら、ようやく目の前の隧道に向かうことになった。



改めて、「一号隧道」に向き合ったが、その刹那、再び眼前の隧道ではないものに意識を持って行かれてしまう。

奥にもう1本隧道が見えており、その向こうまで一気に視線が通っている!

――という眺めの妙趣に意識を連れいかれた。
奥に見えるのは、『大鑑』記載の「二号隧道」であろう。
同じ大正15年生まれと記録されている、同一寸法断面の隧道である。

隧道の長さや大きさは、『大鑑』記載の昭和41年度末から変わってはいなさそうだ。
隣の現道が開通したのは平成6(1994)年であるから、既に旧道となってから25年ほども経過しており、誕生からだと100年の大台に近づいているが、堅牢な石灰岩の一枚岩を貫いていそうなだけに無敵なのかもしれない。より古い旧々隧道さえ全く崩れはなさそうに見えたし。

十分に年代を感じさせる三心アーチの扁平で四角に近い断面で、中央部は素掘りにコンクリートを吹付けただけの野趣ある様相。『大鑑』では未舗装となっていたが、さすがに舗装はされていた。



12:23 《現在地》

かっこいい道!

思わず少年のような感想が漏れ出た、隧道―橋―隧道の核心となる橋の前である。
今か今かと読まれるのを待つ立派な石の親柱があるが、それより先に眼下の谷底に目を向けてしまった私を許して欲しい。

疑・旧々隧道に連なる道が眠っていなければならない谷底だが、一見してそれと分かるような道形は見当たらず、代わりに見慣れたダム湖の満水線下の泥汚れた感じの河原や、満水線の痕がありありと浮かび上がった対岸の岩壁が飛び込んで来た。
ますます、ダム湖の湛水を逃れる道の付け替えが行われたことを肯かせる風景だった。

この高光川のバックウォーターである剣から、湖心である帝釈川合流地点の紅葉橋まで約1.2km、さらにそこから帝釈川ダムの堤体まで2.8kmほどあるから、峡谷を沈めているのはなんとも細長い湖であった。

一旦、目前の橋に意識を返す。



コンクリートではなく、花崗岩(おそらく)を加工した見事な親柱!
まるで道路元標を彷彿とさせる外観やサイズ感の親柱だったが、敢えて自然石を使ったのは観光名所を意識してのことだろう。
それだけに、刻まれた文字の筆捌きも冴えに冴え、解読にやや手こずらされた。

(←)
橋名は、剣橋。
隣にある現道の橋は新剣橋なので、継承されている。

そして竣功年や読みだが――(→)
読みは何の問題もなく「つるぎはし」でOK。
竣功年は…………、「昭和五年二月」。
「年」はよく見る崩し字だったが、「五」はスマホ片手にかなり解読に手間取り、当初「七」と判断しそのようにレポートしたが、当サイトの宝である解読班の活躍により「五」と訂正した。
なお、親柱は4本健在で、表記の内訳は橋名、読み、竣功年×2であった。

帰宅後、令和2年3月に公表された神石高原町橋梁個別施設計画を見つけ、そこに剣橋のスペックが次のように出ているのを見つけた。

橋梁名橋長全幅員架設年
剣橋27.2m5.2m昭和7(1932)年

ここでは昭和7年竣功となっていたが、親柱と記述が異なる理由は不明。
また、竣功が昭和5年でも7年でも、別に大きな疑問が生じた。
『大鑑』によれば橋の前後に直接している2本の隧道の竣功年がともに大正15年であるのに、なぜ橋はそれから5年か7年も遅れて架せられたのかという疑問だ。
短命に終わった先代の橋が架かっていたのか、それともこの橋の工事に手間取ってなかなか完成しなかったのかどちらかだろうと思ったが、実はそのどちらでもない可能性もあって、この問題はずっと後にまでつきまとうことになるのだが……、それについてはまた後述する。



(←)
剣橋はオブローダー的に興味ある古い橋だが、一通行者の立場からは最大重量14トンという余裕のある規制を持つだけの罪ない橋で、橋上は高光川の石灰岩峡谷を四周に眺める見事な展望台である。
薄暗さを伴った眺望の凄みにおいて、現道橋上より遙かに勝る。
大正時代から愛されてきた(ここは内務省指定の名勝指定地域内である)風景だけはある。
むしろそのために生かされ続けている旧道かも知れぬが、観光名所的な看板もなく、知る人ぞ知る感じがあるのもいい。

(→)
そして橋を終えると直ちに二号隧道の禿げ上がった富士額に対面する。
見るからに一号よりは短いが、完全同一断面の姉妹であり、『大鑑』の緒元は次の通り。

トンネル名延長車道幅員限界高竣功年度素掘・覆工舗装
二号21.0m4.7m4.0m大正15年



そろそろ見に行こう。

剣橋の二号隧道側袂から、先ほど旧々隧道らしきを見た岩場の裏側に目を向けてみる。

橋からの比高は10m以上あるが、うまい具合に剣橋の石造橋台脇に歩行可能な傾斜面があり、谷底へのアクセスは難しくない。

また、期待していた旧々隧道に連なる旧々道の路面らしき平場も、うっすらとではあるが、見える気がした。

行くぞ!




剣(つるぎ)直下の旧々隧道へ突撃!


12:23 《現在地》

剣橋の袂から、高光川の河床へ降りることにした。
さすがに自転車は、一旦ここでお留守番だ。

とりあえず、スギ林の斜面を伝って、10mほど下に見えるやや平らな部分を目指すことにする。
そこは旧々道の跡なのか、はたまた河床付近によく自然形成されるミニ河岸段丘的な堆積地形なのか、ちょっとここからでは判断できないが、前者であることを期待している。

それでは、下降開始!


十数秒後、簡単に目的高度に降り立った。

確かに平場っぽい緩やかさだが、道と言えるかはやや微妙か。
少なくとも、ダム湖が広がっている下流方向については、剣橋の橋台に連なる石垣が邪魔をしていて、真っ当に道形が続いている感じはしない。
ここが旧々道であれば、旧道の建設によって破壊されたことも十分に考えられることだが、それ以上にダム湖の湛水によって破壊されていそうな立地だった。

また、橋上に居ては窺い知れなかった剣橋(昭和7年竣功の古橋)の構造も、ここで判然となった。
桁は2径間のプレートガーダーで、赤い塗装が施されていた。
中央の橋脚が門型ですらりと高く、目を引く形状であった。建設された年代を考えれば、かなり美観に気を遣っていそうな橋脚で、橋全体の縦横の比率がなんとなく黄金比を思わせるような、秀麗な橋だった。

この下流方向についても後ほど行ってみようと思うが、まずは反対の上流方向へ向かう必要がある。
先に見つけた谷底の隧道の裏側坑口が、上流側数十メートルの範囲内にあるはずだ。
反転!




道だ! 見るからに道!

幅は狭く、1.5mあるかどうかといったところだが、明瞭に山側と谷側に岩を切られた平場になっていて、人為的な道形と考えて疑いないように思う。
そしてここに道跡があったということは、やはりさっきの穴は隧道跡なのだ! うう〜!(興奮を噛みしめて)



なんてことだ!
このまま道を辿って坑口まで行かれると思ったのに、10m足らず(あっという間!)で、突如道が消えてしまった。

もう本当に坑口は目と鼻の先だと思われるのだが、目の前の迫り出した岩場が邪魔をしていて、カーブした谷の奥側は見通せない。
こうなったら、河原に降りて進むしかないぜ。




河床に入った。湖底を窺わせる、生命感の乏しい河床だった。

今日の水位が私のこの進路を許してくれたのは、全くもって幸運なことであった。
周囲の様子を見る限り、帝釈峡ダムの満水位は、私の背丈以上の丈でこの河床を沈めるはず。
もしそんなタイミングに当たっていたら、隧道を目にしながら辿り着けないという、秋田から広島まで来て真の生殺しに遭うところだった。
下手したら、悔しすぎて冬のダム湖を(いつかみたいに)泳ぎ渡ろうとさえしたかも知れない(爆)。

さて、重要なのは上流方向だが……



怖気が走るほどに幽玄な谷間だ。
わずか300m上流の畑平集落をはじめ、この川の上流には人口約3000人の旧神石町の大半の集落があるのだが、そういうことを想像させない風景だ。

また、両岸は恐ろしく切り立っているのに、河床に大きな岩がなく平坦な様は、天然の切通し道路のようであって、1年前に見た無明谷の県道が初期には河床をそのまま路面にしていと聞いているが、その時代の道路風景はこのようなものであったろうと思った。

進行方向の岸辺に何かが見えている。
あの角ばった感じは、おそらくコンクリートの……橋脚だ。
やはり道は、この絶壁下の岸辺に通じていたのだ!!

そして、この橋脚らしきものへ近づいてみると――




12:37 《現在地》

キター!!!


しつこいようだが、間違いなく隧道であり、


しかも…




大胆過ぎる立地条件!

石灰岩の大露頭である“剣”の岩を、道が貫いている……!

一帯は大正12年に名勝地の指定を受けているが、
時代が下って昭和38年には比婆道後帝釈国定公園に追加指定され、
貴重な地形に手を加えるような開発行為が強く抑制される状況となっているので、
今では絶対に許可されなさそうな完全に我が道を行く隧道だった。

格好よすぎて、ちょっとブルッときた…。




今のように下から眺めるのが、おそらくこの隧道の最良の味わい方だろうと思ったが、ここまで来た以上は当然、“通行する”ことを最終目的としている。

このまま河床にいては隧道へ立ち入れないので、おそらく桟橋の橋脚であった構造物を手掛かりに路面の高さへよじ登り、そこから岩場の短いトラバースで坑口を目指すことに。善は急げだ。




ギリッギリ!

桟橋跡のところの岩壁には靴幅と同じくらいのステップが辛うじて刻まれていて、トラバースできた。
もっとも、ダム湖の水位いかんでは、ここに辿り着くこと自体が難しかったはずである。
そんな風に湖面に取り囲まれて孤立した隧道も、風景としては素晴らしかっただろう。



坑口に繋がる路盤に到達!

この立ち位置よりも後ろ側には道がないので、正面から引いたアングルで坑口を撮影することは(空中に立たなければ)出来ない。

しかし、こうして近づいて見ると、遠望の印象以上に大きな断面を持った隧道だった。
比較対象物がないので写真では伝わりづらいと思うが、間違いなく人道隧道のサイズ感ではない。自動車が走る道路隧道のスケールであり、横幅よりも高さに余裕がある辺りは、鉄道用隧道のようでもあった。
いずれにしても、これだけ固い岩盤を掘る以上、必要以上に拡幅することはないはずで、間違いなく車両交通を前提とした隧道だった。

また、前出のコンクリート製桟橋橋脚に続いて、坑口前の路肩にも僅かながらコンクリート製の転落防止柵(柵というか地覆程度の突起だが…)が設けられており、この道が使われていた年代は、場所打ちコンクリートが普通に使用される時代(概ね大正後期以降)であろうという推測が結ばれた。
ファーストインプレッションであった“明治廃道”という印象よりは、少し後の時代のものっぽい。



隧道へ進入!

断面のサイズは目測だが、幅2.4m、高さ3.6m程度であろう。
全体的に縦長の断面だが、ちょっとだけ左に傾斜したような歪な形状をしていた。

この形状は歩行者には特に問題にならないが、背の高い車にとっては接触事故を誘発する恐ろしい罠になっていたかもしれない。
しかし好んで歪な形にしたはずもなく、とにかく岩盤が固いために掘削に手こずったのではないかと想像する。おそらく岩盤中の節理に引きずられる形で、こういうことになったのだ。

壁面には、そんな掘削の苦労の痕が残っていた。




向かって右側(膨らんでしまっている側)の側壁には、削岩機の長いロッドの痕が無数に残されていた。
痕が少ない部分と較べて、それだけ手数を多く費やしているということであり、難業が偲ばれた。

そしてこれは、手掘りの隧道ではないという重要な情報でもある。
国内の隧道工事での削岩機使用は、明治14(1881)年の栗子隧道を濫觴とするが、すぐに一般化したわけではなく、このような地方の小隧道でも用いられるようになったのは、おそらく大正以降ではないか。
もちろん、後年の拡幅もあり得るから断定的なことは言えないが、少なくとも隧道に手が加わっていた終期は、大正時代以降と考えて良いように思う。



奇抜な位置に奇抜な姿で存在している隧道だが、内部は見事なもぬけの殻で、渓風のみが通り抜けている。
その空虚さを特に示しているのは、路面である。
切り拓かれたままの固い岩盤が直に露出しており、人の足や車輪への愛情がない。現役当時には砂利でも敷かれていたに違いないが、長年の風雪、そしておそらくは洪水の侵入によって洗い流されたものであろう。

隧道の全長はおおよそ10mで、旧県道の一号隧道と較べても3分の1以下である。
したがって出口はすぐにやってきたが、近づいていくと、外へ路面がそのまま続いているような“危険な錯覚”を憶えた。
いかにも明瞭な石垣が続いており、あるいは異常に気の急いた者ならば、うっかり駆け出してとんでもない目に遭いそうである。




だが現実の道は、このように坑口で途絶している。
飛び出せば淵へドボンだ。

なお、極めて緩やかに渦を巻いて停滞している淵の水面に、やや熟れすぎて黄色くなった1本のキュウリが浮かんでいたことについて、私は説明の言を持たない。
先にこの淵を旧県道より見下ろしの際、河童でも潜んでいそうだと軽口を叩いたが、よもや彼の妖怪が無類の好物が用意されていようとは。事実は小説より奇なり。思わず爆笑してしまって、この後少しの間、探索の冷静を欠くことに(笑)。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

全天球画像向きのシチュエーションである。
道の坑口で途絶している様子がよく伝わると思う。



道はここで完全に途絶しているが、これは洪水によって水勢の衝にあたる部分の道がえぐり取られた結果であるらしく、数メートル先から明瞭な石垣の痕跡が残っていた。
その位置は旧県道の10m下方であり、旧県道側から斜面伝いにアプローチが可能だが、結局そこを踏む機会なく日暮れを迎えたのは遺憾である。

とはいえ、この先がどうなっているのかは判明している。
おおよそ110m先の旧道路肩に【名勝指定区域境界標】があり、その地点では川と道の間にほとんど比高がないから、この110mの間で旧々道は旧道は一つになっているのだ。

旧道側からそのことに気付かなかったのは、旧道が旧々道を上書きするように整備されたために、目に見える分岐を持っていないせいだった。



予期せぬ旧々隧道および旧々道との遭遇は、こうして幕を開けた。
この後再び下流へ向かい始める私だが、プレリュードを終えた廃の重奏は、さらなる盛り上がりを先に秘めつつ、静かに潜伏していくのだった……。