道路レポート 島根県道23号斐川一畑大社線 塩津不通区 第3回

公開日 2015.02.13
探索日 2014.05.20
所在地 島根県出雲市

風車の山から山陰の海へ


2014/5/20 10:09 《現在地》

主要地方道斐川一畑大社線は、当初からの“約束”を違うことなく、自動車が通行出来ない道へと変化した。

このことは、何キロも手前から繰り返しに予告されていたことであって、この場所の400m手前の“峠”では、ちゃんと封鎖もされてもいた。
封鎖を無視して進んだ私は、依然として続く舗装路に望みを託したが、結局行き当たったのはこんな場面だった。
私は“約束”が果たされたのだと考えた。警告は欺きではなかったと。

地図上で見る現在地は、峠のてっぺんと塩津漁港の中間付近の山腹である。
そんな中途半端な場所で、唐突に道が狭まり、自動車の通行が出来ない状況になった。
しかも、車を転回させる余地も無いまま、全く唐突に変化した。
この最後では、一体何のために峠からここまでが車道だったのか、腑に落ちない。
これは不通県道であると同時に、未成道なのかも知れないと思った。
ある時期までは、ちゃんと峠から塩津まで車道を繋ぐつもりがあって、最低限度の車道を開鑿していたのではないか。 そうでなければ、こんな場所で車道が潰える理由が…。



それから先は、古いのか新しいのか、よく分からない道になった。

奇妙なのである。

…主にこれは、白いガードパイプに対する違和感か。

妙に真新しいガードパイプが、寄りかかる人も無い路肩に並んでいる。
路上には大量の瓦礫や落葉が敷き詰められていたが、依然として鋪装はあった。見えなくなっているだけだった。

この道は一体何なんだと思う。
こんな姿でも主要地方道である。現状についても、誰かが戯れで整備したのではないだろう。行政の仕事に違いないと思う。
こんな自動車が通れない県道が、それなりに「現在進行形」で整備されているらしいことが面白かった。
観光のための遊歩道ではない、登山道でもない、生活道路としての歩きの道を、比較的最近まで、県道として真面目に整備していた気配があった。これって、県道全体の中でも凄く珍しいこと。



今なお誰かが、この道を歩きで通い、塩津と小津の間を行き来しているのだろうか。
すくなくとも、この道を整備した当時には、そんな需要が見込まれていたのだろうか。

明治でも大正でも戦前でもない、ここ数十年以内に手を加えられたらしい“歩道県道”に、自分でもマニアックだと思う興奮を憶えた。
廃道のような、廃道ではないような、微妙な道が面白かった。
取って付けたようなガードパイプが、なんとも不自然。
ともあれ、自転車で走るにはこれが中々愉快だった。

そういえば、峠からずっと続いていた下り坂が、ここではなぜか反抗して上り坂になっていた。
集落のある東の方向へ進みつつ、山腹の険しい場所を避けるために微妙に上り坂で回避しつつ、やがては一気に集落内へと下り込むタイミングを窺っているようだった。




そして初めて見えてきた、この探索の目的地。

県道23号の不通区間の終わりである、塩津の集落が眼下に現れた。
集落内に見える立派な舗装路こそが、この県道の続きであるはずだが、足元にあるものとの余りの違いに笑みがこぼれた。

同時に私は、塩津という小さな村を取り囲む大きな地形を目の当たりにして、このような山陰の小さな漁村に自動車が辿りついたのは、案外に最近の事ではないかとも思った。
土地勘が全く無いだけに、私の想像はいつも以上に想像に近かったが、それでも大きくは外れてはいないだろうと思った。
そのくらい島根半島の日本海側というのは、明治以降の中央政治からも交通網からも遠くに離れた、裏日本の典型的な弱者だと決めつけていた。
ここは私にとって馴染みがある東北地方の日本海側のどこよりも、なお僻遠ではなかったかと思う。

…私はそこに惹かれた。
私がこの広い“山陰”地方での最初の旅を島根半島のここに決めたのは、決して偶然ではない、選択の末の結果であった。
世間に溢れる情報の乏しさが、私には訪問の最大の動機になった。




集落の周囲に広がる、海岸に刃を向ける鋸のような山嶺。
その山頂には延々と風車が並び、その向こう側に待ち受ける巨大な文明を予感させはするが、その力も海岸には及ばない。

“山陰”という名は、元よりこんな土地にこそ相応しい呼び名ではないかと、私は憧れを込めて思う。
都(みやこ)が国の“光源”であるとしたら、その光が最も届きにくいのは、光源から山脈という遮蔽の裏側で、しかも遠く、さらには海に尽きる場所だろう。
都から中国山地だけでなく、島根半島の稜線にまで遮られ、少しの沖積地も許さない険しい海岸に挟まれた、この塩津こそが“山陰”ではないかと思う。

この県道は近現代においてこうした僻化の打開に挑んだが、もろもろの事情で力が及ばなかったものと想像する。
ここには、車道の開通の難しさが容易く理解できる地形があった。

ここから集落がある海へと下るのは、中々に骨の折れることだった。




再び道が下りに転じると、勾配が一挙にきつくなった。
もはや車道としての“枷”を失ったかのようにも見えるが、それでも階段に頼ることはなく、まだ辛うじて車輌の通行を許している。
道幅は狭くとも、自転車やバイクならば通行する事が出来る。
鋪装もされており、路肩もコンクリートで良く固められているので、現代の手ほどきを受けた道である。
小さな沢を跨ぐ開渠の施工もしっかりしていて、金属製のフタが新しさを感じさせた。

この道は、主要地方道として現代を生きる事を懸命に選ぼうとしていたように思う。

だが、その頑張りを、現実の需要が裏切っているようだ。
進むにつれて、路面の状況は、悪化の一途を辿っていった。
遠からず、自転車が足手まといになりそうな、そんな予感が…。




下り続ける道の視界に、チラチラとカラフルな屋根達が見えた。
路肩の木々の隙間から、塩津の集落が見え隠れする。

目的地への接近が、私に安心感を与えた。
だが、高低差が未だに大きい。大きすぎる。
このまま近付いていっても、集落の頭上を通り越すルートになりそうだ。
集落から海岸線まで下るためには、今の勾配でもまだ足りず、さらに過激に下って行かなければならないだろう。

この道の(作者の)選択が、楽しみだった。
どういう着地を見せてくれるのだろうか。
主要地方道の結末に、ワクワクが止まらなかった。




これは、少しだけ後に分かる事。


実はこの坂道が、
主要地方道斐川一畑大社線だったということ。


道は繋がっていなければ、意味がない。
とりあえず繋げてみました感が全開の、とても県道の色に塗り分けることなんて許されなさそうな、激坂小径。

でも、確かにこれが県道23号のルートだった。




不穏な行き先を、まだそれとは知らない私に見せつけながら、目の前の道は一層の荒れ方を見せていた。

だが、山陰には不慣れな私も、廃道には慣れている。驚きはしない。
下りに任せて、靴底でペダルではなく地面を蹴るように、乱暴な進み方をした。
二度三度は自転車から引きずり下ろされたが、大した時間を使わずにこれを突破した。

こんな生ぬるい下り方では、集落にちゃんと辿り着けそうにない。
「もっと、ガンガン下らないと……。」
そんな誰目線かも分からないアドバイスを、道に対して投げかけていた。
峠と集落の間の直線距離は、その高低差に対して余りに短すぎていた。
今から克服するためには、激しい九十九折りを選ぶか、それとも……。
さあ、どうする主要地方道。何を繰り出す?




県道である証しの一つ。

法面に埋め込まれていた用地標に、「島根県」と書かれていた。

厳密には、県道を証明するというわけではなく、この用地標に囲まれた場所が県有地だという証しに過ぎないが、道路に面して設置されていれば、県道や国道(指定区間外)の証しと捉えて問題無く、キロポストに準じる程度には、酷道者や険道者にとっての道しるべとなるアイテムだ。

「ヘキサ」や「おにぎり」なんて無くても、オブローダーが道を探り愛する手立ては、豊富に存在するのである。




道は結局、集落へ下ることが出来ないまま、その上部の山腹を素通りしてしまう。

だが、このまま終わりではないだろう。

きっと、この後で切り返して、どうにか集落へ下ろうとするはず。

ガードパイプの下に通りすぎる集落を、名残を込めて見下ろした。

よく見れば集落内の“道路”が、そこまで迎えに来ていた。
あれが県道の続きなのだろうが、高低差を埋める最後のピースが、私にはまだ分からなかった。




10:22 《現在地》

峠から約1000mを20分間で前進。
やや唐突に、峠で見たのと同じ形の車止めが、
私が来た方向に背を向けて現れた。

銀の光沢を帯びた車止めは、もう退かされる予定が無いとばかり、路面に埋め込まれていた。
そういえば、峠のものも同じように鋪装に埋め込まれていたっけな…。

これで、不通区間を突破したのか?!




いや、まだだった!




このミミズみたいな道こそが、
国が政令をもって地方にとって特に重要な道路であると指定した、
「主要地方道」斐川一畑大社線の姿だった。