道路レポート 埼玉県道・群馬県道83号 熊谷館林線 葛和田〜赤岩間 考察編

所在地 埼玉県熊谷市〜群馬県千代田町
探索日 2016.05.06
公開日 2021.09.02

 考察編: 葛和田〜赤岩に架橋が未だ行われない理由はどこにあるのか?

ここからはいわゆる机上調査編というところだが、戦国時代から続いているともいわれる赤岩渡船の歴史の詳細な掘り下げは、他の方々にお任せしたい。
また、道路法の渡船施設としての面白さや見どころについても、本編で語ったところであるから、繰り返さない。
ここでは、私が現地探索を終えてなお残った“ある疑問”について、私なりに考察してみたいと思う。 あとは、私の大好きな“夢”の話を少しする。

“ある疑問”とは、なぜ葛和田〜赤岩の架橋が行われてこなかったか である。

往来する需要が少なかったとか、コストの負担に堪える民力および政治力がなかったというような、単純な理由は見えてこなかった。
同じ利根川で架橋が実現している他の地点と比べて、何が違っていたのか。
何か特別な理由がある気がしたので、それを探ってみたいと思った。

とはいえ最初から、この地は十分に繁栄していたのに架橋されなかったという前提で論を進めるのは、いささか乱暴だろう。
現地を探索した私としては、街並みの雰囲気とかの言葉にしがたい要素から、繁栄という前提を疑っていないが、読者にも十分伝わっていたか分からない。
ということで、最初にこの前提を確認する意味で、『角川日本地名大辞典』にある「赤岩村」の解説文を抜粋して紹介しておこう。

江戸期〜明治22年の村名。(中略)江戸期から盛んであった河川交通は江戸と中山道倉賀野間の中継地点で河岸は坂東16渡津の1つに数えられ、(中略)江戸からの大船荷物を積みかえて上流の河岸へ引きあげる人足は隣村舞木・対岸葛和田村三か村組合があたった。渡船は文政8年書上(筑比地家文書/千代田村誌)に武家・出家は無賃、他は1人16文、馬1疋24文、近村の者穀物少々。馬渡船は長2丈7尺余、歩行船長2丈2寸。(中略)河岸は問屋・馬つなぎ場・茶屋・居酒屋などでにぎわった。この渡しは中山道鴻巣・熊谷に通じ例幣使街道八木・梁田への道で日光脇往還継立場でもあった。明治初期の赤岩河岸運船192艘(県百年史)。
『角川日本地名大辞典:群馬県』より

明治以前の赤岩の地がとても繁盛していたことは、これだけで伝わったかと思う。
現在は、水上交通としては川を横断する渡船だけが存在しているが、昭和初頭頃まで利根川には上下流を結ぶ形の水運が存在しており、特に明治までは内陸部唯一の大量輸送手段として、江戸方面との往来も極めて頻繁であったから、赤岩や葛和田は坂東16渡津に数えられるほどの繁栄した河港だった。

そのうえ、ここで川を横断していた道についても、中山道と例幣使街道を結ぶ日光脇往還と呼ばれる道の継立場であったとあるのは、重要な街道の一翼を担う道であったことが窺える既述だ(継立は幕府や藩が認めた街道でしか行われなかった)。
まさに、水陸交通が交わる繁華の地であったことが読み取れるのである。

とはいえ、江戸時代までの状況が、近代以降の架橋の実現に直ちに結びつくものではないのは確かだ。
そもそも、明治期は関東平野一円の水運網が鉄道網へ置き換えられる転換期であり、水陸交通の要衝が持つ交通網上の地位は、確実に低下したことが容易く想像できる。
そのうえでどうなっていったかを知る必要がある。


<1> 明治末の利根川県境を横断していた、1本の国道と3本の県道


『群馬縣全圖 大日本分縣地圖』より抜粋のうえ著者加工

右図は「大日本分縣地圖」のうち「群馬縣全圖」(元データへのリンクだ。大正13(1924)年の発行だが、描かれている内容は大正9年の旧道路法制定以降の道路網ではなく、明治末期の国道や県道である。

ここには、赤岩より北へ向かい、明治時代は県道だった日光例幣使街道の梁田へ至る里道(緑の点線)が描かれている。
これは群馬県の地図なので、県境の南側を占める埼玉県側には国道と県道しか描かれていないが、赤岩から利根川を渡船で渡って熊谷に至る日光脇往還とやらは、明治時代には里道となっていたらしいことが分かる。

里道より格上の存在である県道と国道については、県境の利根川を横断する形で合計4本描かれている。
赤岩渡船の東隣の館林道と、西隣の太田道は、この時代いずれも県道。さらにその西では明治国道12号線(深谷で明治国道5号から分岐して前橋の群馬県庁に至る国道)が渡っていた。そしてもっとも西寄り(上流)には近世の佐渡奉行街道が、これも県道となって横断していた。

赤岩渡船を含むこれら5本の南北ルートは、近世において、例幣使街道と中山道を利根川を超えて結ぶ連絡路として、いずれも重視された街道であった。
そして明治以降、里道となった赤岩渡船に対して、国道や県道となった4ルートに対する架橋が優先して行われたことは、予想できる。
なぜ赤岩渡船が明治時代に県道になれなかったかは気になるところだが、おそらく単純に、これらの道と比べれば重要度が落ちたということなのだろうし、このことが現代まで架橋されなかった決定的な理由ではないはずなので、先へ進む。

次は、大正時代の事情だ。



<2> 大正時代に利根川県境を跨ぐ県道が10本程度認定された

大正8(1919)年に旧道路法が制定され、翌年に従来の国道や県道を全てリセットする新たな路線の認定が行われた。
このとき、群馬県と埼玉県によって、利根川を超えて両県を結ぶ県道がそれぞれ10路線と11路線も認定されている。
以下の路線である。

群馬県の認定埼玉県の認定
@伊勢崎本庄線@本庄伊勢崎線
A境本庄線A本庄境線
B境深谷線B深谷境線
B'上敷面境線
C太田深谷線C深谷尾島線
D尾島妻沼線D妻沼尾島線
E太田妻沼線E妻沼太田線
F小泉忍線F忍小泉線
G六郷熊谷線G熊谷館林線
H館林忍線H忍館林線
I館林加須線I加須館林線

まずはこの意外な多さにビビった。当時の県道の路線数はいまの半分程度しかなかったが、利根川の両岸を結ぶ路線の数は現在もそう増えていない。
群馬県と埼玉県がそれぞれ県道を認定しており、自域内を前にする命名なので路線名が異なるが、基本的には同一の路線を認定しており、両者の間で事前の協議があったことが窺える。(埼玉県が認定した上敷面境線に対応する群馬県道が発見できなかったが、渡河部分は深谷境線と重複していたようなので、Bにまとめている。)

注目は、埼玉県がこの時点で現在と全く同じ路線名の熊谷館林線を認定していることである。
いろいろ道路を見てきたが、旧道路法時代の一発目の県道認定から、現行道路法へ切り替わって久しい今日までおおよそ100年間、一度も路線名を変更していないと思われる路線は稀な遭遇だ。
この間、市町村道への降格や、路線の分割・合体による改名、国道への昇格のいずれも経験することなく、県道熊谷館林線を貫いてきたことに、謎の敬意を表したい。

しかも、100年前から同じ渡船が続けられている。
現地案内板に拠れば、赤岩渡船が県営になったのは大正15年ということだから、道路法の渡船施設としても真に筋金入りなのである。日本最長の継続期間を誇る道路法の渡船施設の可能性も捨てきれない。熊谷と館林を結ぶことに対する一本槍。なのに、まだ架橋できていないところに、……ぶわわああぁああああ。落涙を禁じ得ない(←これは大袈裟)。

また、現在の赤岩渡船は県道熊谷館林線の単独区間だが、当時はもう一路線、重複して渡河していた県道があったようだ。小泉忍(おし)線および忍小泉線という、現在の大泉町と行田市を最短距離で結ぶ路線である。この県道は、一行に架橋されない赤岩渡船への同舟に疲れ果てたのか、いつの間にかいなくなってしまった(落涙を禁じ…略)。

右図は、明治40(1907)年と昭和16(1941)年の赤岩付近を描いた地形図の比較である。
明治期には赤岩渡船のすぐ上流に、舞木渡という注記のある別の渡し船が存在していたことが分かる。
しかし昭和16年の地形図では、舞木渡は消滅している。
これらの地形図を見較べると川の太さがだいぶ変わっているので、大規模な河川改修が進められた結果、渡し船も整理統合が行われたのであろう。

このように、明治末頃まで赤岩付近に二つの渡船場があったことは確かだが、これらがそれぞれ熊谷館林線と忍小泉線になったかは定かではない。
いずれにしても、昭和初期にはこれらの県道は赤岩渡船へ一本化されていたようだ。

ところで、明治末頃を描いた前出の「群馬縣全圖」では、1本の国道と3本の県道が利根川を渡っていたのだが、それらはいずれも大正県道へと引き継がれている。
まず、東京と群馬県庁(前橋)を結ぶ(明治)国道12号は、旧道路法下では(大正)国道9号に改称されたが、経路が大幅に変わり、深谷で中山道から分岐する旧ルートを捨てたので、利根川を超えて両県を結ぶ国道は皆無になった。国道ではなくなった渡河地点は、県道境深谷線および深谷境線に認定された。
他の3本の(明治)県道は、佐渡奉行街道を伊勢崎本庄線と本庄伊勢崎線が、太田道を太田妻沼線と妻沼太田線が、館林道を館林忍線と忍館林線がそれぞれ引き継いだ。

大正9年に一挙に認定された、上記の10ないし11の県道こそは、近代道路法制のもと今日まで続く苛烈な“架橋競争”のスタートラインに立った、栄えある選手達であった。
次の節では、彼らの活躍の盛衰を概観しよう。
我らが県道熊谷館林線の“成績”が既に分かってしまっているのは、いささか応援のしがいがないと思うが……。

架橋オリンピック、開会です!



<3> 昭和の架橋競争の最中に、意外な伏兵が現れた?!


大正9年に、埼玉県と群馬県によって一斉に認定された、両県合わせて合計21本もの利根川を渡る県道だが、実質的には、右図に示したA〜Iまでの9箇所の渡河地点のいずれかを横断するものであることを、昭和初期の地形図などから確かめた。
このうち、現在までに架橋に成功した地点は、幾つあると思うだろう。

ずばり、6箇所だ。
大正9年に県道が認定された9の渡河地点のうち、6箇所に現在は橋が架かっている。
これを多いと見るか、少ないと見るかは人それぞれだろうが、残念ながら、熊谷館林線は今のところ少数派グループに属することになっている。

地図の下に掲載した表は、渡河地点ごとに状況の変化をまとめたものとなる。
次はこの表に沿って説明を続ける。

A〜Iの渡河地点のうち、明治末頃に国道や県道であった4地点(A、C、F、H地点)については、全て架橋に成功している。
大正9年の時点では、これらも全て他と同じ県道になったのだが、やはり生まれ持ったもの(近世以前からの歴史)が、これらの道を潜在的エリートたらしめ、優先的に架橋へ導いたことが想像できる結果だ。しかも、このうち3本が現在は国道になっている。

また、D地点とI地点も架橋に成功している。

一方、現在も架橋に至っていない地点はB、E、Gの3つであり、そのうち2地点では渡船が営まれている。
県道(主要地方道)であり県営の赤岩渡船(G地点)と、かつては同じく県道の県営渡船だったが近年降格して市道の市営渡船となった島村渡船(B地点)である。大正時代の県道指定から現代まで道路法の渡船施設が継続している地点が2つもあることに、利根川という巨大な河川の凄さを感じるところだが、これらは渡船があるだけまだマシで、既に後裔となる県道も存在しない、渡船もとうの昔に消え、そんな大正県道のあったことさえ忘れ去られた尾島妻沼線(E地点)のことも誰か思いだしてやってください。

興味深いのは、D地点には国道17号の大規模バイパスである上武道路の架橋があるのに、未だに県道由良深谷線がこれと重複することを潔しとせず、単独で未架橋不通を貫いていることだ。まあ、これによって困っている人は誰もいないと思うが。
あと、I地点についても、東北自動車道の架橋があるのに、ほぼ同じ地点で県道今泉館林線が未架橋不通になっている。もっともこちらはいささか事情が違い、高速道路と一般道路は別物という考え方ができるので、この県道は真剣に(一般道路としての)架橋実現を待っているのかもしれない。


……ある違和感を無視して、いささか白々しい説明を続けてきたが、この表に違和感を持たないだろうか?

……………………

……なんか、話の前提としたA〜I以外に、渡河地点が一つ増えてない?

そう、増えている。

渡河地点“X”が増えている。

そこは、我らが赤岩渡船の5km下流の地点であり、赤岩渡船を差し置いて、架橋が実現している。

私がレポートの最後で辿り着いた、【醤油のバス】が走っていた県道である。

あの県道が利根川を渡る武蔵大橋は、明治、大正の下積みを全く吹っ飛ばして、突如の架橋を達成していた!
これはまるで架橋界の侵略者エイリアンじゃないか?!

もしや、武蔵大橋が先に出来たせいで、赤岩渡船は未だ架橋できないでいるのではないか…?

こいつがどこから出て来たのか、もっと調べてみる必要がありそうだ。


右図は、これまで架橋が成った7地点(エイリアンのX地点を含む)について、実際に架橋された時期と、その橋の区分(永久橋の有無)を、橋梁史年表から調べたものだ。
たとえば、地点Aには現在は坂東大橋が架かっているが、この地点(ごく近隣を含む)では、明治16(1883)年に最初の橋(八山橋という名の舟橋だったという)が架けられ、そこから数世代の架け替えを経て、昭和6(1931)年からは永久橋(鉄橋)へ更新された。そして、現在使われている橋は平成16(2004)年に架け替えられた橋である。

このようにまとめてみると、当然ではあるが、架橋が実現した地点においても、ある程度の順位があることが見える。
明治時代から県道以上であったA、C、F地点が最重要で、次にやはり明治時代から県道であったH地点が優先された。
ここまでが、戦前から架橋が実現していた地点であり、木橋や舟橋という、非永久橋の時代を経験している。

残るD、X、I地点の橋は、いずれも戦後だいぶ経ってから、いわゆる高度経済成長期以降に初めて架橋が実現しており、当然、最初から永久橋として誕生した。そしてその橋が現在まで継続して使われている。

このように架橋された7つの地点は、ACFHとDXIの2つのグループに分けることができ、前者は伝統的な架橋地点、後者はぽっと出新鋭である。
そして、この新鋭組の各橋については、率直に言って、架橋地点周辺自治体の主体的な働きかけによって架けられたものではないという印象を受ける。

まず、D地点にある新上武大橋は、国道17号の大規模バイパスである上武道路の橋である。上武道路の整備は国の直轄事業で、地元の要望がゼロだったとはいわないが、明らかにそこが中心ではない。
I地点の利根川橋は東北自動車道の橋であり、地元の要望とは全く関係がないといえる。どこかで渡らねばならない利根川を、たまたまここで渡っただけと言ったら乱暴だが、当らずとも遠からずだろう。
さて、勝手にエイリアン扱いされて心外であろうX地点の武蔵大橋だが、これも地元の主体的な活動が実って、ここに架けられた橋ではないと言える。

現地をご存知の方には今さらの説明となるが、この武蔵大橋だけは、普通の道路橋ではないのだ。


右の写真が、武蔵大橋の姿である。
一目瞭然、これは、だ。

武蔵大橋は、独立行政法人水資源機構が管理する利根大堰という巨大な堰の一部として架けられた橋である。
道路法的には踏切や堤防道路と同じ兼用工作物という扱いで、施設管理者と道路管理者が共同でこれを管理している。
武蔵大橋は、堰なのである。

で、この堰がなんのためにあるかというと、利根導水路と総称される各種水路へ利根川の水を引き入れるためにある。
利根導水路へ入った利根川の水は、首都圏の水道用水、工業用水、農業用水として多面的に利用され、特に水道用水として1300万人の蛇口を潤す(埼玉県の7割、東京都の4割の水道を供給) まさに首都圏への水供給の心臓なのである。水資源機構による解説ページはこちら

これほど重大な施設が近隣住民の誘致によって設置されたわけでないことは明らかだ。
堰が計画されたのは昭和30年代後半である。当時、高度経済成長を背景とした首都圏の急激な水需要の拡大により東京は慢性的な渇水となり、東京砂漠という流行語が生まれた。この問題の抜本的な解決策として、利根川からの導水が、水資源機構の前身である水資源開発公団の手で進められ、昭和38年に利根大堰を着工。5年後の昭和43年に完成させて、需要に応えたという経緯がある。


完成当初から、管理通路である天端路が、武蔵大橋として一般に開放されており、今日まで重交通に耐え続けている。
天端路を道路として開放した経緯は不明だが、それ自体はそう珍しいことではないので、特に地元の要請に応えて行なわれたものとはいえないかもしれない。

また、そもそもなぜこの場所に堰が設けられたかという点だが、当時の資料は未確認である。
ただ、もともとここには近世に開発された見沼代用水の取水堰があり、この用水路を活用して利根導水路を作った経緯があるため、場所の選定には選択の余地がほとんどなかったはずだ。少なくとも、地元が誘致したものでないことは確かだ。

右図は、赤岩渡船と武蔵大橋の位置関係を、昭和16年と昭和52年の地形図に示している。
利根大堰である武蔵大橋は、従来の集落配置や道路網と余り関係性を持たない位置に、唐突に出現しているように見える。
だが、昭和52年の地形図では武蔵大橋が既に主要地方道として描かれており(当時の地形図は国道だけでなく主要地方道を塗り分けていた)、平成5年にようやく主要地方道に昇格した、大正時代生まれの熊谷館林線を追い越す成長ぶりを見せているのである。

以上、利根大堰という、首都圏の緊急事態を救う目的を有した国策ともいえる巨大事業の棚ぼたとして、赤岩渡船の約5km下流という微妙な位置に、武蔵大橋が誕生したのである。
私は、この出来事さえなければ、早ければ昭和40年代、遅くとも昭和50年代には、熊谷館林線の架橋は実現していたと思う。裏付けはないが…。
戦前から架橋されていた上流の刀水橋と下流の昭和橋の間は約15km離れており、この間に1本の橋を架けることは、現代の利根川中下流にこれより架橋間隔が広い場所がないことをみても確定で成ったと思う。
その際、特別な事情がなければ、バックボーンを持たない新規位置に架ける必然性はなく、歴史ある熊谷館林線への架橋が実現したはずだ。


武蔵大橋さえ現れなければ、赤岩〜葛和田の架橋が実現していた。

こんな恨み言みたいな、妄言と捉えられかねないようなことを、敢えて文章として残している偉い人はたぶんいない(調べた限りは)。日本人らしいと言われる、私も好きな美徳の1つとして、済んだことはグチグチ言わないものだ。
だが整備サイドには現実として、武蔵大橋がここにあるから赤岩〜葛和田の架橋問題はそれで代替されたという判断が、再び架橋問題がクローズアップされる近年まで、相当の期間にわたって働いていたのではないかと思う。
そんなことはないという反論は、もちろん受け付ける。

地元問題で大変恐縮でございます。一言やらせていただきたいと思います。
利根川新橋の促進動向についてお伺いしますが、私の地元千代田町と利根川を挟んで熊谷市を結ぶことを目指して、広く周辺市町村から大きな期待を持って望まれている橋でございます。かつて坂東太郎、利根川は国内一の豊富な水量をたたえ、河岸周辺に様々な交易の拠点を築き、島村地区では田島弥平で象徴される絹産業に寄与し、千代田町赤岩地区は交易に携わる様々な商人が行き交い、文豪田山花袋が文筆活動をするなど、水上の交通の拠点として活況あるまちを呈しておったことがございました。しかし、長谷川四郎代議士が農林大臣のころでございましたでしょうか、武蔵用水の建設に伴う荒川放水路の工事と武蔵大堰により内陸水上交通は寸断され、治水、利水のため、利根川は東京都民の現在63%の飲料水を供給し、一部を邑楽用水として東毛の下流に回していただいているに過ぎません。結果的に、当時豊かだった千代田町は、鉄道もなければ国道もない、そんな状況に追いやられ、現在、赤岩渡船場が細々と県道として、地元対岸への足として運営されているわけでございます。また、武蔵堰は元来、管理道路の道を橋として供用していただいているだけでございます。朝夕の大型車両の交通量も大変多く、ぎりぎりの車間を通っての道幅でございますので、常に交通渋滞を来しております。これを武蔵大橋と呼ぶ方がおりますが、そんな状況を見れば誠にお粗末でございますので、あくまでも我々は利根大堰と呼んでおるわけでございます。

グチグチは言わないまでも、少しくらいなら発言に匂わせてもいいよね。
上記は、平成27年群馬県議会第1回定例会にて、ある地元選出の議員が利根川新橋問題について語った内容だ。
一気に読むには長いかも知れないが、最後まで略し難い内容だった。
利根大堰によって架橋が遠のいたなんてことは述べていないが、……察するものがあった。


というわけで、明確な証言は得がたいが、私の疑問に対する自身のなかでの納得は、これでついた。
熊谷館林線が、歴史的バックボーンの重みに反して架橋の順位で後塵を拝したように見えた最大の理由は、代替性があると見做される位置に武蔵大橋が架けられたためだと思う。
次の最終節では、現在進行形である架橋へ向けた活動の歴史と、実現への模索、そして架橋待望論の背後に見え隠れする大きな夢の話をしたい。



<4> 利根川新橋、実現への模索


昭和43年に利根大堰の堤上路を利用した武蔵大橋が赤岩渡船の約4km下流に開通した。

右図は、昭和52年と平成9年の地形図の比較である。
後者では武蔵大橋の北側に接続する県道のバイパスが開通し、赤岩集落へ迂回する必要がなくなっている。
時代も平成に移り変わったこの当時、赤岩渡船はいよいよ時代に取り残された気配が濃厚だったのではないだろうか。

左図は、各年の4月1日時点における渡船施設数の推移だ(ソースは道路統計年報)。
その数は戦後一貫して減り続けており、平成に入って間もなく100箇所を切った。

大正9年から一貫して同じ名前の県道として渡船施設を有し続ける熊谷館林線は、それぞれの年の着色部分で“1”を占めてきた。減り続ける仲間達と、「明日は自分が架橋される番である」と互いに励まし合って、今日まで来てしまった。
そんな熊谷館林線は、平成5年5月11日に主要地方道に指定され、現在は全国でたった2箇所の主要地方道の渡船施設、県道である主要地方道としては唯一の存在となっている。
そして残った一般県道たちは、「クマバヤシ(熊谷館林線のあだ名)に架橋が実現しない限り、俺等に順番が回ってくることはねぇ。やつの成功が、俺達最後の希望なんだ!」と述べているのである。(だれか美少女擬人化イラストお願いします、右に掲載しますので)

クマバヤシが主要地方道になって間もない平成8(1996)年、関東地方道路広報連絡会議の広報誌『関東の道』に1本の記事が掲載された。タイトルは、「赤岩の渡――昔日の賑わいを川は知っている」。特別興味を引かれるほど古い記事ではないと感じるかも知れないが、渡船施設は最近ほど貴重な存在となっているわけで、案の定、そこには次のような興味深い記述があった。抜粋して紹介する。

「おれの親父も、利根川から江戸川を回って築地までいってたもんだ」
――ポツリポツリ懐かしげに思い出話をしてくれたのは、渡しを守って50年という増田四郎さん。増田さんは、生まれたのも船の中という文字通りの利根川育ちだ。
多いときには、1日に300〜400人の利用者があったそうだ。人のほか牛・馬・自転車など何でも渡った。お嫁さんが数年後に赤ちゃん連れで里帰りをしたり、乗るときには別々だった男女が降りるときには二人連れだったり、スリを乗せて大騒ぎになったこともある。びっくりしたことといえば、昭和28年の朝鮮戦争当時、土手で昼寝をしていたら、突然B29がやってきて目の前で利根川に次々に爆弾を落していったこと。すわ、また戦争か――と思ったら、国内の米軍基地へ戻る途中の故障機が自爆を恐れて投下したものと判明。不発弾処理で、しばらくは渡しも休業させられたという。
手漕ぎからエンジンに変わったのは、昭和30年くらいだったとか。そして、渡しの運命を決定づけたのが、4kmほど下流に出来た大堰。世は自動車時代へ突入し、渡しの需要はがくんと落ちた。
「最近はまあ月に4〜5人、乗ってみたいって人が来るかなあ」
増田さんも近頃は手持ちぶさただ。赤岩の渡しは観光用ではなく、あくまでも県営・町管理の住民の足。ただ、あらかじめ役場に申請しておけば、乗船可能である。
『関東の道 第21号(1996年)』より

これを読んで驚いた。
住民以外が突然行っても、乗せてもらえない時期があったのか。
「月に4〜5人」というのは、役場に申請してまで乗せて貰いに来る部外者の数だとして、日常的な住人の利用者がどのくらいいたのかはここに書かれていないが、平成4(1992)年度の利用者は約2400人だったという情報(後述)があるので、たぶんこの取材時も同程度だろう。

今回(2016年)の探索時の聞き取りでは、1日に30往復くらいしているという話を聞いた。1往復で乗客1人としても1日30人、月だけで900人は利用していることになる。
また、近年の渡船利用者数については、平成30年3月の群馬県議会定例会で道路管理課長による次のような発言も参考になる。
赤岩渡船は(中略)県境の渡船であるため、管理費用は群馬県と埼玉県で折半しており、平成29年度は、千代田町への委託料777万円のうち、群馬県負担額は388万5千円となっている。赤岩渡船は、大正12年から開始され、昭和24年から県が千代田町に委託している。年間の運行日は、利根川の出水があると運休もあるが、昨年度には354日を運行している。平成29年度の利用者は、年間延べ2万人の利用が見込める。

それが、平成8(1996)年頃には年間2〜3000人しか利用していなかったらしい。
現在の利用者数も、全盛期とされる1日300〜400人(年間11〜15万人?)とは比べるべくもないが、平成8年頃と比べればずいぶん隆興したといえる。
というか、こんな低利用者でも渡船を止めずに継続していたことに驚く。
(全国の利用者不足に喘ぐ交通事業者の皆さん、もしかしたら赤岩渡船に復活の秘密があるかも知れませんぞッ?!)

しかしこれは、崇高な道路法の渡船施設だからコスト度外視で続けていたという、ただの美談ではない気がする。
県道として往来があるという既成事実を残して、やがて架橋を実現するための焚き付けではなかったか…?
そんな下心を語る人はいないかも知れないが……とにかく、これほど低利用者の時期があったらしいことは、私にとって衝撃だった。


そもそも、熊谷館林線へ架橋しようという問題は、いつ頃から表立ってきたものなのだろう。
本稿の締め括りとして、架橋問題の経緯と現状について調べてみた。
赤岩渡船に橋を架けようという話は、酒の席ならそれこそ大正時代からあったかもしれない。だが具体的な問題となったのはいつからなのか。武蔵大橋の完成以前からだろうか。

残念ながら、起源となるエピソード・ゼロは不明である。
ただ、平成21年2月の群馬県議会定例会での「利根川新橋の話に関しては、地元の方に言わすと、話が出てからもう40年以上だ」という発言や、「利根川新橋を架ける市民の会」の平成30年度総会主催者挨拶中の「地域住民が60年間待ち望んでいた」という発言などから、昭和30年代後半か40年代前半から具体化していたことが窺えた。
これは武蔵大橋の架橋と同じ頃ということになるのかもしれない。

そもそも、橋と橋の間隔が広いところに橋を架けていくというのが、架橋に対する行政サイドの基本の態度であり、その点から武蔵大橋完成時点で一旦は赤岩渡船の架橋問題は消えたのだろう。
しかし、その後に上武大橋などいくつかの橋が架けられた結果、再び赤岩は架橋間隔が疎な地点としてピックアップされるようになった。
もちろん、そこに需要がなければ問題にはならないが、利根川の橋は常に需要に対して過少であるため、既存の橋の渋滞は激しいままであって(しかも武蔵大橋はもともとが橋の目的で作られていないから、線形や幅員に課題があった)、赤岩への架橋問題は再び甦ってくる定めであった。

今回、インターネットで調べた範囲内で一番古い架橋に関係する情報は、埼玉県議会の会議録にあった平成6(1994)年2月定例会での次のような内容だった。
ある議員が、「利根川葛和田新橋(仮称)について」として、「県道熊谷館林線に残る赤岩の渡しは、刀水橋・武蔵大橋間の10kmのほぼ中間地点に位置しております。両大橋の渋滞解消と沿線地域の活性化を図るため、新橋の建設が強く望まれております。新橋建設について、群馬県と連携し、その実現に向けての協議をすべきと考えますが、土木部長の御見解をお聞かせください。」と質問したのに対し、県土木部長が、「県道熊谷館林線は、利根川を渡る区間が群馬県営の渡し舟による通行となっておりまして、平成4年度には、年間約2400人が利用していると聞いております。 お尋ねの新橋建設につきましては、周辺地域の開発計画や交通需要、さらには、隣接橋の状況などを勘案しながら検討する必要がございますが、早い機会に渡し舟の管理者である群馬県とも話合いをしてまいりたいと存じます。」と答えたのである。

この頃は群馬県との話し合いも持たれていなかったようで、まだまだ具体的な話にはなっていなかった印象だ。埼玉県議会の会議録は昭和54年から検索できる(群馬県議会は平成7年から)が、上記以前の関係発言は発見できなかった。
しかし、どうもこの平成6年頃から、架橋へ向けた動きは活発になったようだ。
経緯は不明ながら、平成5年5月11日に熊谷館林線が主要地方道の指定を受けたことも大きな意味を持っているだろう。主要地方道の新設や改築(架橋は改築にあたる)については、最大50%の国庫補助の規定があり、一般県道であれば原則的に全額県の負担となるところ、両県にとって大いに有利な条件を得たのである。主要地方道指定に対し、何らかの政治的な働きかけがあったのは間違いない。なお、主要地方道への新規昇格は、この平成5年を最後に全国的に行われていないので、飛び込みギリギリセーフとなった。

活発化した架橋陳情活動を物語るように、平成9(1997)年には利根川両岸の群馬・埼玉・栃木県下15市町村の首長らが、利根川新橋建設促進期成同盟会(現会長は熊谷市長)を設立し、国や県への働きかけを強めていった。
平成16(2004)年1月には、建築業界紙である埼玉建設新聞に、「利根川新橋で4案浮上/最大で230億円試算/妻沼滑空場も移設検討」という記事が掲載された。
この記事に当時の論点がまとめられており、それは次の通りである。

  1. 埼玉県と群馬県は、平成15年11月に群馬埼玉地域連携道路網検討会を設置し、両県を結ぶ道路網および新橋架設などについて検討した結果、赤岩渡船への新橋架設についてルートを4案想定した。
  2. 道路規格は第3種第2級、設計速度が時速60km、幅員12.5m、橋梁部10mに設定。起終点は4ルートとも久下橋から県道冑山熊谷線、国道125号行田バイパスなどの埼玉国体関連道路を利用し、利根川を渡河し群馬県内に入り国道50号までとする。交通需要は日量9500台を見込む。
  3. どのルートも妻沼グライダー滑空場の滑走路に影響を与えるため、同施設の下流側への移設も同時に検討する。

……このように、かなり具体的な調査が行わている。ネットで見られる記事に地図がないのは残念だが、計画4ルートとも赤岩渡船周辺に想定され、最長970mの新橋を55〜80億円で架設して、取付道路を含めた全体事業費は190〜230億円と見積もっていた。
群馬埼玉地域連携道路網検討会が検討した利根川の新規架橋地点は熊谷館林線だけでなかったようで、記事には「現在両県への架橋は6橋で14車線。橋梁の混雑を解消すべく拡幅と新橋は必要とし、新地伊勢崎線、今泉館林線、熊谷館林線上の渡船個所の架橋実現を模索している」とあった。ここに登場する新地伊勢崎線と今泉館林線は、本稿第<3>節で述べた各渡河地点のそれぞれB地点、I地点を構成しており、現在も未架橋である。この3県道の中で熊谷館林線が最も有望で、優先整備する方針を固めたと記事にあった。

右図は、記事にあった地名から想定される、利根川新橋を含む構想ルートの全体像だ。
埼玉県東松山市内の国道407号から分岐して、県道冑山熊谷線の久下橋で荒川を渡って熊谷市へ入り、国体関連道路(平成16(2004)年に開催された「彩の国まごころ国体」のメーン会場となった熊谷市内周辺で整備された各種道路であり、久下橋および県道冑山熊谷線もこの関連で整備されている)などを経て葛和田へ、そこから新しい橋で利根川を渡って千代田町へ、さらに北上して栃木県足利市内で国道50号に接続するという、3県を南北に串刺しで連絡する、地図上の計測でおおよそ25kmのルートとなる。

この記事を読んだとき、久下橋という荒川の橋や、栃木県の足利市を東西に走る国道50号が、それぞれ起点と終点として唐突に登場したという印象を私は持ったのだが、ともかく既存の県道熊谷館林線よりもさらに南北の広い範囲と関わる、より広域的な幹線道路の要としての利根川新橋を構想していたことが判明した。
このような南北方向のルートとしては、西側に国道407号(刀水橋)、東側に県道足利邑楽行田線(武蔵大橋)が既存だったが、これらの橋が慢性的に渋滞していた状況を背景に、より高規格な幹線道路を模索したと見られる。これは計画者が欲張りだったという話ではなく、他より遅れて架橋を計画するのに、地域住民だけが利用するようなささやかな橋ではコストに見合わないと考えるのは当然で、また既存の道路を上回るだけの整備の根拠となるメリットがなければ、納税者も納得しないはずである。


大泉町の公式文書より転載

この平成16年の記事以降、東松山方面〜熊谷市〜利根川新橋〜千代田町〜足利市という広域的なルートの構想は現在まで生き続けているようだ。

たとえば、平成20年に群馬県大泉町(千代田町の西に隣接する)が国交省道路局長に提出した意見書では、「埼玉県、群馬県、栃木県を結ぶ地域連携の幹線道路網の整備に関わる利根川新橋の整備促進について」を、事業化を求める項目の筆頭に挙げたうえで、右図のような参考図面が添付してあった。

赤い太い破線で「(仮称)両毛中央幹線」「利根川新橋」「(仮称)熊谷妻沼南北線」が南北を貫いている。その北端は国道50号、南端は国道125号行田バイパスとなっているが、そこから同じ太さで描かれた黒い破線がさらに南へ伸びて、前述した久下橋から「(仮称)テクノグリーンロード」を経由して、関越自動車道の嵐山小川ICまで達しているのである。
起点の北側には北関東自動車道の足利ICが描かれているので、全体として見ると、関越道と北関東道を結ぶ1本の広域道路を描き出している!

平成20年にこれは、少し大それた計画に思える。地方の誇大妄想と断じられる危険もありそうだ。だが、この計画にはだいぶ隠された前史がある気がした。
なぜなら、ここに登場している「(仮称)テクノグリーンロード」は、いくら仮称であっても、この名前で平成20年に生きていたとは考えられないからだ。

今回、埼玉県議会の会議録を調べた中で、テクノグリーン構想というワードは平成6年から登場していた。
この構想を短くまとめると、昭和60年に埼玉県が策定した熊谷およびその南部地域を対象とする地域総合開発計画のことであり、先端技術を集めた第2の大宮ソニックシティを目指したが、バブル崩壊によって計画は頓挫し、平成10年代後半からはほとんど話題に上がることがなくなったものである。
そしてこの構想の中にテクノグリーンロードがあり、関越道の嵐山小川ICと、東北道の羽生ICを結ぶものと目されていたようだが、当然事業化されず仮称止まりで終わったものである。(国体関連道路として久下橋は実現した)

このテクノグリーンロードが、群馬県大泉町が平成20年に提出した参考図面に生きていたわけで、図らずも参考図面が平成20年の生まれではないことを教えていた。
というわけで、利根川新橋を要とする3県連絡の南北幹線道路の構想は、そう新しいものではない。
そしてこの路線に相応しい名称があるとしたら、それはやはりこの図面に出ている「両毛中央幹線」であろうと思う。



千代田町マスタープラン素案より転載

両毛中央幹線の整備も利根川新橋建設促進期成同盟会が推進しており、関連自治体の首長が会員であるだけに、この道路は群馬県邑楽郡の各町や栃木県足利市の長期計画(マスタープラン)の常連となっている。

右図は、令和2年に作成されたばかりの千代田町マスタープラン(素案)に掲載された将来都市構造図だが、赤岩の南北を貫く両毛中央幹線と利根川新橋が、「構想軸」および「広域防災連携軸」として描かれている。

ただ、利根川新橋の整備を前提条件としている両毛中央幹線の計画としての成熟度はまだまだのようで、群馬県の中長期プランには取り上げられていない。
これと接続するとされる埼玉県側の熊谷妻沼南北線も、やはり埼玉県の中長期プランにはない。

埼玉県の中長期プランは近年は5年毎の改訂だが、はばたけ群馬・県土整備プラン2013-2022」に初めて、利根川新橋の整備が盛り込まれた。
具体的には、主要事業箇所図の中に、「平成34年までに着手予定の事業」として、「主要地方道熊谷館林線利根新橋(赤岩渡船)新設」が、盛り込まれた。
着手予定とは、着手したときが事業化のタイミングであり、計画策定時点で未事業化であることに変わりはないものの、平成34年すなわち西暦2022(令和4)年までの事業化が明記されたことで関係者を大いに喜ばせた(その喜びは県会議録にもしばしば現れていた)。

改めて現状をまとめると、利根川新橋はまだ事業化されておらず、着工は決まっていない。
しかし、地元関係者を中心に架橋を求める人々が団結して陳情活動を続けている。中心となってきたのは、既に述べた平成9年設立の利根川新橋建設促進期成同盟会であり、さらに平成23(2011)年に利根川新橋を架ける市民の会が設立され、今回の探索中に目にしたのぼり旗(←)の設置などの活動を行っている。
また、架橋地点と見込まれる熊谷市と千代田町では、それぞれの市議会、町議会議員よりなる利根川新橋建設促進議員連盟および利根川新橋建設促進千代田町議員団も平成24年に設立されている。

両毛中央幹線抜きで、架橋だけが単体で進められることになるのか、2022年を待つべきところだが、この一両年内に事業化するかは少々疑わしい。
というのも、前述の県土整備プランの後継となる最新の「ぐんま県土整備プラン2020」(計画期間は2020-2029年)にも利根川新橋は盛り込まれているものの、目指すべき着手時期の明記が消え、単に「着手に向けて検討する事業」となっている。
これが事業主体となるべき群馬県の最新の態度とみられ、また一方の事業主体となりうる埼玉県の「埼玉県5か年計画」(計画期間2017-2021)に至っては、利根川新橋には全く触れていない。


もっとも、両県議会では最近もときおり利根川新橋の議論があり、しかも内容はいくらかずつ前進している印象がある。
実は架橋に対する大きな障害となっていたのが、私の前にも現れたこのグライダーだった。

葛和田の利根川河川敷に全長1.5kmを越す長躯を横たえる妻沼グライダー滑空場は、公益財団法人日本学生航空連盟が管理する日本一の飛行回数を誇るグライダー滑空場であり、架橋による影響は避けがたいということで、先ほど掲載した平成16年の埼玉建設新聞の記事でも移転の問題が述べられていた。

そもそも、当地への滑空場開設は昭和38(1963)年のことで、利根大堰の建設以前となる。
当時の葛和田は妻沼町の一部であったが、同町はこの時点では全く赤岩渡船への架橋を考えていなかったのだろうか。
仮に、利根大堰の建設というエポックがなかったとしても、このグライダー滑空場問題のために、架橋は先延ばしとなった可能性があるだろう。
河川敷は国有地であり、滑空場は借地契約とのことで、決定的な障害とまではいえないように思うが。

このグライダー滑空場の移転問題、どうやら前進しているようで、令和2年9月の群馬県議会では、同年6月に営業を終了した妻沼ゴルフ場の跡地(現在の滑空場の3kmほど上流の河川敷)へ移転する方向で、具体的な調整が進められていると出ていた。





長い、長い、時間が、既に経過している。
求める人の声に応じて、やがてここにも橋が架かるのか。
未来は予知できないが、記録しておくべき日本の道路の伝統的なものの遺存が一つ、いまの葛和田、赤岩の間にあることだけは、はっきり言える。
なくなった後に追想することが専らとなった私の探索活動だが、珍しく在りし姿を味わえたのは、幸運であった。


ごく最近まで古風な渡し場も多く、渡し船には年寄りの船頭をみかけることもあった。川原に小さい茅葺の小屋を建てて、人を待っていた。それがいつの間にか発動機を据えた船になった。そういう渡しは今もたくさん見られる。
陸上の交通が発達すると川のことはいつか忘れられるようになる。むしろ邪魔ものにさえ考えられてくる。そして船で渡る悠長さには辛抱しきれず、橋をもとめるようになる。この幅広い川に架ける橋であるから、実に長い。そのため一つ一つが名所になっている。川幅の広くなるのは利根川と烏川の合流点からで、長い橋もそれから下に見られる。本庄の北の坂東大橋から始まって、河口の銚子大橋まで全部で一三。まだ決して多いとはいえない。
『日本の美 第五巻 関東二』より

これは、昭和42年発行の『日本の美 第5巻』に、民俗学者・宮本常一が寄せた「利根川」の一節である。
半世紀前の利根川には、坂東大橋より数えて180km下流の河口までに、13本の橋が架かっていたという。
今試みに数えてみると、36本に増えていた。(道路と鉄道を合算、なお、上下線が別である橋も1本とカウント)
この半世紀で、我々は3倍も短気になったということらしい。