道路レポート 兵庫県道76号洲本灘賀集線 生石海岸旧道 第1回

所在地 兵庫県洲本市
探索日 2017.12.05
公開日 2024.02.09

《周辺地図(マピオン)》

淡路島は、日本の離島の中では、沖縄本島と北方領土の島々を除くと、佐渡島、奄美大島、対馬に次ぐ4番目の面積を誇る大きな島で、東京23区の総面積に近い592㎢の広さがある。人口は約12万5000人で、沖縄本島を除く離島では最多である。全域が兵庫県に属し、洲本市、淡路市、南あわじ市の3市に区分される。“阿波路(あわじ)”という名の通り、古くから本州と四国の間の往来および文化を橋渡しする役割を担った島だが、現代に入ってからは明石海峡(平成10年開通)及び鳴門海峡(昭和60年開通)を横断する巨大な道路橋の完成によって本土との繋がりを確固たるものとし、概ね離島の後進性を脱している。(淡路島は、わが国における離島振興政策の根幹法である離島振興法において、昭和39(1964)年に同法対象地域として指定されたが、島内での離島振興事業の完成・終息により、平成20年にその指定を解除されている)

外周約216kmほどの島の南部をおおよそ50kmにわたって周回しているのが、兵庫県道76号洲本灘賀集(すもとなだがしゅう)線だ。この主要地方道は、かつて上灘および下灘と呼ばれた海岸地域を貫通する唯一の幹線道路であり、これらの地域の生活を支える重要な役割を担っている。沿線は、島内最高峰を含む諭鶴羽(ゆずるは)山地が、列島を二分する中央構造線に切断されて鋭く太平洋に落ち込む巨大な断層海岸となっており、極めて険しい。

この県道の廃止された旧道が、今回の舞台である。

そしてそこは、おそらくこの島で一番険しい廃道だ。



県道76号は、起点の洲本市の中心部から南あわじ市灘(旧灘村)までの約30kmにわたって概ね海岸線をなぞるが、例外的に洲本市由良(ゆら)から同市中津川までの約6.5kmでは、山手を迂回して高度差150mほどの峠越えをする。取り立てて名前もない峠だが、この県道を走行する人にとっては、九十九折りがあって他とは印象が違うので記憶に残りやすいと思う。ごく最近(2023年9月)まで、この峠の頂上付近に立川水仙郷という、美しい水仙と独特の“秘宝館”が話題を呼んだ観光スポットがあったので、その少しばかり奇抜な建物や看板の印象が強い人もいるかも知れない。

だが、この峠越えの区間は、県道が今の名の道路になるよりだいぶ前に改築された、新道である。
実はそれ以前の旧道が存在していると書けば、地図を見ながら「なるほど」と思う方が多いだろう。

最新の地理院地図において、崖記号が居並ぶ海岸線に絶え絶えとなって描かれている「徒歩道」の記号が、実はその名残である。
如何にも風景が良さそうなので遊歩道か何かと思われていた方もいるかも知れないが、そんななまっちょろいものではない……。

このことは、チェンジ後の画像である昭和33(1958)年版の地形図と比較して貰えば一目瞭然だ。
この図式では「府縣道」を示す太めに描かれた道が、今は“破線”となった道路の位置に、はっきりと描かれている。
その堂々として無駄のない姿は、むしろこちらの方が新道ではないかと思えるほどだが、間違いなくこれが旧県道なのである。

今回の探索は、洲本市由良の越田から、立川(たちかわ)を経て中津川まで、海岸線の旧道……名付けて“生石海岸旧道“(推定4.5km)の完抜を目指す!

中央構造線に削られた、淡路最強の海岸廃道に、いざ挑まん!

(なお今回は、読者さまからの情報提供などに起因しない、旧地形図によってきっかけを得た、事前情報皆無の探索である。淡路島の訪問自体もこの時が初めてだったので、とても新鮮な気持ちでの探索となった)



 淡路島の南東隅、生石海岸への接近


2017/12/05 7:30頃

突然ですが、“山行が”としてはとても珍しい、バスの車内からレポートスタート。
いま乗っているのは、洲本市のコミュニティバスだ。
探索のスタート地点へ向かっている。“自分の足”を使わず敢えて公共交通機関に頼っている理由は、まもなく説明する。

過疎化により廃止を余儀なくされた路線バスに代わって、上灘・下灘地区の住民の足として洲本市バスセンターへと走るものだが、いわゆるバスの車両ではないバスへ乗るのは初めてだったので、一人でバス停で待っていてワゴン車が目の前に止まった時も、そのドアが開いた時も、一瞬勝手が分からず戸惑った。でも意外にも車内には利用者が私の他に何人もいて、賑やかで温かかった。

バスは、前説で述べた“峠越え”の区間を、この写真からも感じられるスピーディなハンドル捌きで駆け抜けた。
この区間は“新道”だと書いたが、今なお車線数は1であり、幅は1.5車線のちょっとした“険道”である。
そして乗車から約17分、乗ったところから2つ目の越田バス停が近づいたので、下車を告げ、130円を払って降りた。



最初にバスを利用した理由を含め、この探索の行動プランを説明する。

時系列順に、まず今朝早く明るくなる前に私は車でこの越田を訪れ、そこに@自転車をデポした。
次に車で峠越えをして中津川へ行き、そこにA車をデポした。
続いてバスの時刻にあわせて歩いて中津川バス停へ行き、そこから越田バス停までBバスで移動した。
ここまでが探索の準備であり、いまちょうどそれが終わったところだ。

ここからの探索本編では、まず@でデポしたC自転車に乗って生石(おいし)海岸を目指す。
この区間も紛れもなく旧県道であるが、グーグルストビューも整備されたまともな道のようなので、自転車で時短したい。
そして本番中の本番として、D生石海岸から中津川までの長い海岸線の旧道を徒歩で探索する。
こちらは事前情報皆無だが、地図上の表現からして自転車同伴でどうにかなる予感がしないので、最初からキッパリ徒歩で行こうと思う。

これで無事に中津川まで歩ききったら探索終了(E最後に車で生石海岸へ行き自転車を回収)である。
いつもの道具である車、自転車、徒歩に加えて、公共交通機関も利用することで、最大限に探索前の時短と体力温存を図ったわけである。こういう練った探索プランがズバリ刺さると、気持ちいい!



7:39 《現在地》

バスを降りた私は、走り去るテールライトに背を向けて、いま来た道へ振り返る。
旧道の分岐地点は、越田バス停の目と鼻の先にあり、私というオブローダーへの便宜を考えたとしか思えない立地である(冗談だ)。
峠の険しさを窺わせる「連続カーブ」の道路標示(正確には法定外表示)を眺めながら、分岐へ向かって歩いた。
自転車デポ地も、この先だ。



7:40

ここが、旧道の分岐地点。
どちらも同じくらいの道幅に見えるが、右が【現道】左が向かうべき旧道である。
峠の入口にあたるこの場所には、この先の道路に関係したいろいろな表示物がまとまって置かれており、走りながら読み込むには少し多すぎるくらいだ。

チェンジ後の画像は、それらを間近で撮影した。
探索当時は健在だった立川水仙郷の案内看板に、珍しい(淡路島オリジナル?)自転車向けの勾配区間注意の標識(この先1600mが平均勾配8%の上りであることが簡潔にまとめられていて、自転車乗りには親切だ)、そしてこの先の道路の険しさを窺わせる「事前通行規制区間」であることの案内板と、電光掲示式道路情報案内板およびヘキサの可変標識などがある。ヘキサの可変標識は、前述の通行規制発動時には「通行止」の標識に変化するものと思われる。

この先の道路に対する“注意書き”めいた告知が、大群となって押し寄せている感じが、なんとも険しそうで興奮するが、これから向かうのはこういう告知物の備えすら全くない、廃止されて久しかろう旧道の方である。きっともっと険しいだろうに……。

ところで、この場所に居並ぶ各種表示物の中で、一つだけ地面の近くで目立たないものがあった。チェンジ前の写真の矢印の位置だ。
しかし、それこそが私にとっては最も重要な情報だった。(↓)



背の低いコンクリートと御影石の表示物。
よく林道の起点とかで見るものに似ているが、一行目に「昭和39年度道路付替工事」という文字列を読み取った瞬間に、その重要性が頭にガツンときて背筋がピンッとなった!ビクビクッ!

昭和39年度道路付替工事

第 1 工 区

竣 工 昭和40年3月

施工者 淡島建設共同事業体

延 長 16387米 幅員 4米

その延長から見て、ここから始まる峠越えの区間だけでなく、その先も含めて現在の南あわじ市灘漁港付近までの一連の道路整備に関係するものだと思うが、冒頭で見た通り、昭和33年の地形図には旧道しか描かれていなかったことに照らしても、現在の道路は、ここに記された昭和40(1965)年完成の「道路付替工事」によって誕生したものと推測できる。逆に、旧道はその時に旧道となったのだ。

旧道の歴史の一端、その終幕の部分を、早速垣間見ることが出来た。
これから、その実態に、アクセスしていこう。



というわけで、こちらが分岐から眺めた旧道の様子だ。
だがおそらく旧道化当時の姿のままではない。ぶっちゃけ現道よりも幅広で整備されているような雰囲気さえあるが、まあ分岐前後に行先表示が何もないことから、先行きはお察しである……。

路傍の草地に、今朝暗いうちにデポした自転車が無造作に転がっている。
さっそく乗って行こう。

次回、本編スタート。



 現道よりもなぜか広い旧道をゆく


7:42 《現在地》

さて、旧道の始まりだ。
いきなり見渡す限りの上り坂で、しかもだいぶ先まで見通せる。
路面はしっかり舗装されており、センターラインこそないが2車線相当の道幅があり、ぶっちゃけこれは現県道よりも広い。

なお、入った直後に短い橋を渡った。(チェンジ後の振り返った画像に写っている)
この橋は存在感が乏しく、銘板などもないため現地ではほとんど意識に上らなかったが、「2018年度全国橋梁マップ」によって、「大谷橋」という名前と共に平成2(1990)年という竣工年と「市道中津川由良線」という路線名が判明した。この情報は重要だ。

この路線名から考えて、私がいまから攻略しようとしている一連の旧道の全体が、この市道中津川由良線であるのだと思う。
この先、実態としては既に廃道状態の部分も多そうであるが、法的にはいまも市道に認定され続けているのかも知れない。そのようなケースは良くある。



道は小さな谷を右に沿わせながら、直線的に上っている。
左側は最初から結構急な山の斜面になっていて、地図を見ると、高さ100mを越える山の頂上に灯台がある。生石鼻灯台といい、淡路島と紀伊半島の間にあって大阪湾の玄関口にあたる友ヶ島水道の安全を支える。
また、灯台の周辺には展望台や園路が整備されており、生石公園として開放されているが、こちらは裏側にあたり、その賑わいとは無縁のようだ。

ふと、路傍に佇む荒削りな石柱を見つけた。
表面には、「陸 防二」とだけ刻まれており一見意味不明だが、「陸」の文字が刻まれた同形の石柱は日本各地の旧要塞地帯周辺でよく見かけるものである。
大阪湾を扼する友ヶ島水道を防衛すべく、旧帝国陸軍が明治期から終戦まで維持していた由良要塞の遺物に違いあるまい。要塞地帯には様々な規制があり、市民に境界を明示する必要から、無数の標石が周囲に設置された。生石公園内にはいまも明治期の砲台跡が残っているそうだ。



自転車を漕いで進んでいくと、1台の軽トラに追い抜かれた。この旧道探索中に他車と遭遇したのはこれっきりだった。

ところで、写真の左に1本の荒れたコンクリート舗装路が写っているが、こちらが本来の旧県道だと思われる。
わずか50mほどの区間だったが、現在の車道の脇に、この細いコンクリート舗装路が並行して敷かれていた。
このような如何にも頼りのない細道が、(この道が旧道になった)昭和40年までは、県道として島の長く険しい海岸線を巡り多数の集落を結んでいたものか。


……ゾクッ。

……この程度の道が、地形図上に居並ぶ、【あの崖記号の連なり】に挑もうというのか……。

そして私はそれを、それだけを頼りに、未来を掴もうとしている…………。



どことなく未成道の虚しさを思わせる、無駄に広い2車線道路を黙々と登った。
まだ頂上ではないが、地図で見る峠はもう近い。
写真は来た道を振り返って撮影した。空は青いが、谷には朝日が届かず薄暗い。谷の出口から切れ端のような海が見えた。

チェンジ後の画像は、その小さな海を望遠で覗いた。
近い海上に、まるで防波堤のように浮かぶ細長い陸地があるが、“淡路橋立”の異名を持つ成ヶ島の長い砂州だ。
そしてその遙か向こうに霞んで見える山は大阪湾の向こうの陸地であり、方角的に六甲山地だろう。岸には神戸や大阪のビルディングが蜃気楼のように揺らいでいた。細長い湾を長軸に見通す形となっており、おそらく60kmくらい遠くまで見えている。

内海に浮かぶ淡路島からは、海を挟んで様々な“向こう岸”を遠見できるが、この“小さな窓”から見る神戸や大阪の大都会はなんだかレアリティがありそうだし、彼我の強烈な対比も感じられて、とても好きだと思った。



その後も数回、「陸」と刻まれた石柱を左の路肩に見送りつつ、地図上では次のカーブで峠頂上というところまで来たが、唐突に未舗装に!

だが、未舗装になっても道幅は広いままであるばかりか、路肩の側溝も舗装された路面の高さを基準に既設であるなど、完全に舗装工事のみ未成の雰囲気だ。

どんな事情があったのか分からないが、旧県道は少なくともこの辺りまで2車線幅の舗装路として再整備される機会があったことが分かる。
ただ、微妙に完成に至らぬまま、しばらく時間が経過している様子だ。
さすがに中津川までの旧道全体を2車線再整備しようとしたわけではなく、何か別の目的があったのではないかと思われる。



7:55 《現在地》

分岐から約600mで、無名の峠に辿り着いた。
と同時に舗装が再開。結局未舗装だったのはカーブひとつ分、わずか50mほどであった。
ここまでの所要時間は自転車で10分少々、ぜんぶ上り坂だったので意外に時間が掛かった。これなら歩いても差がなかったな。ややこしい準備をした割に。笑

この峠には、地理院地図に標高53mの「写真測量による標高点」の記号があり、一連の旧道における最高標高地点である。
対して現道は最高で標高150mまで上る。
また、分岐から合流までの全長も、旧道の約3.3km(推定)に対して現道は6.5km(実測)もある。
単純な経路の効率としては明らかに旧道の方が優れていると思われるが、その旧道を廃して現道を利用し続けている理由は、……正直、いまの時点ではあまり考えたくないなと思った。



峠の頂上を過ぎると下り坂に変わり、それからすぐ十字路があった。
左右の道には同じ作りの両開きのフェンスゲートが有り、左は開いていたが右は閉じていた。
地理院地図だとどちらの道も外界には通じていないが、現地を見る限り、左の道の先には資材置き場のような広場がある。

肝心の旧道の続きは直進だが、幅は1車線になる。
つまり、この十字路までの区間だけ、旧道を2車線に拡幅する理由があったのだと思うが、それが何だったのかは分からない。
立地的には生石公園の裏口を整備しようとして中断したとか、産廃処分場でも作ろうとして頓挫したとか、そんな想像が出来るが、どなたか事情をご存じないだろうか。



上った分をあっという間に使い果たしそうな勢いで、1車線となった旧道は南へ下った。この先には海しかないはずだが、躊躇いなく下って行く。
とはいえまだ廃道化の兆しは感じられない。舗装が綺麗である。何かしらこの先にまだ行き先があるらしい。



刹那、世界に光が満ちた!

道の先に新しい海原を認めるのと同時に、空と海面の反射という二重の眩しさで、私の眼球を陽光が貫いた。
峠以上に峠を越えた感じがしたが、自転車の私にとってそれは一瞬のことだった。



7:57 《現在地》

海を見下ろす広場が現れた。

広場の左右に道があり、旧道は道なりに広場の右側へ、そして別の道が広場の左側へ向かっている。
広場には、何かのモニュメントが意味ありげに置かれているのがここからも見えた。
ここまで何の行先表示もなかった道に、私でも分かる“意味”を与えてくれそうな存在だと思った。

旧道の追跡を一度中断して、広場を探ることに。



周りを簡単な柵に囲われ、芝生が張られた広場の中央にあったのは、石材とコンクリートを絶妙に配置した、日時計であった。

が、その存在に対する説明が見当らない。(実はあったのだが(後述)気付けなかった)
敢えて人通りの少ない旧道沿い、それもその終点に近いと思える場所に、なぜ日時計を?
古代遺跡ならぬ“現代遺跡”の無言に、私も沈黙せざるを得なかった。



が、

そんなことはどうでも良くなるくらい、ここから見る眺めは至大だった。

太平洋のうち紀伊半島と四国に挟まれた海域、紀伊水道に昇る朝日である。
かなたの巨船が、魔王城へと旅立ついさおし勇者を思わせた。
これは私を祝福しているのか、威圧しているのか、どっちなんだろう。眺めが壮大すぎて、怖い気持ちの方が強い。


日時計は阪神大震災と関係するモニュメントだった

みんなでつくる1995.1.17伝承ポイントマップ」によると、この日時計は、平成7(1995)年に発生した阪神大震災で解体撤去された廃棄物などを埋め立てた熊田最終処分場跡地に建設された、「時のしらべ」というモニュメントとのこと。
これにより、モニュメントの意義と共に、前述した十字路までの道路が拡幅されていた事情や、十字路周辺にあった広い土地の正体(熊田最終処分場跡)も判明したことになる。ひっそりとして観光っけがない理由も、分かったな。


日時計広場の左へ入っていく脇道は、初っ端から封鎖されていた。
地理院地図だと、海際へ降りていくようだが、廃道なのか?
立入禁止の看板に、この先で撮影されたと思しき写真が掲載されているのが、親切だった。
「こんな風に道の下が崩れて空洞だから通ったら危ないぞ」という主張が分かり易い。

怖じ気づいたわけではないが、私が向かうべき道はきっともっとロクデモナイと思うので、余計な寄り道はせず、速やかに旧道の続きへ行くことにした。



って、こっちも?!

我らが旧道も、脇道と時を同じくして、広場を出んとしたところで、恒久的な雰囲気アリアリの障害物で封鎖されていた。

おっぱじまったか…。




 おっぱじまったらおわっていた 


8:12 《現在地》

現県道から約900m、日時計がある広場の脇で、旧県道は唐突に閉ざされていた。
何の説明もなく、ただガードレールで塞がれていた。

私はここで迷うことなく自転車を乗り捨てた。
大抵いつも頭を悩ますこの決断を全く悩まず行えたことが、今回の周到な“事前準備”(バスを使ったりした…)の最大の効用であったろう。
心置きなく、最も身軽な姿で廃道に挑みたい。



通行止区間に入った直後だが、まだ道路は綺麗で全然使えそうである。舗装もされていた。
地理院地図にも描かれているが小さな脇道があり、その行く手にはいかにも屋敷の跡らしき石段や平地が見られた。
集落と呼べる規模ではなかったかもしれないが、そう遠くない時代までは、この土地に暮らしがあったのだろう。



そして屋敷跡を過ぎた道は、直ちに潮騒のする方向へ登りながら向かっていった。
普通は下りそうな場面で、敢えて登っていくのが不気味であったし、舗装された路面に砂利や木の実がたくさん散らばっていることも、不穏だった。
しかし何より不安を駆り立てたのは、次のカーブが、明るく見えすぎることだ。



前の写真からはパラパラ漫画ほどの前進しかしていないが、この次のカーブは私にとって相当に劇的な瞬間となる予感が強くあり、そんな体験を記録すべく数歩ごとに撮影していた。
そして道はここ、輝くカーブが始まる直前のこの場所で、ついに舗装という着物を脱ぎ捨てた。
未舗装の“素っ裸”となって、海の御前へ。
私はもう、番兵に両肩を握られて刑場へ引き出される死囚の気分だった。そのくらい不穏だった。



8:17 《現在地》

ひゃーーー!

これは、ギリギリ耐えているのか?! 道!

明らかに幅は足りていないが、法面の間知石の擁壁から1mくらいは、何とか路面が残されている様子。
ただもう、海の前へ出た最初のこのシーンを見ただけで、この先が二度と車の通わぬ廃道であることがほぼ確定したと感じる。
それくらい無抵抗に崩れている感じがしたし、長年の放置を感じさせる景色だった。
間知石の壁にしても、大きなひびが入っていて、海側へ崩れ出しそうな気配があった。



ほんと、ギリッギリで道が残っている!

近寄ったら崩れそうな路肩より見下ろした海岸線は、20mも下にあった。

しかし、最初の場面から現れた石積み擁壁の存在は、この道が決して己の厳しい立地状況を楽観視していたわけではなく、それなりに対処しようと頑張っていたことを伺わせた。ただ現実的にはとても耐えられなかったというのが、大幅な遠回りの現在路線へ換線された理由なんだろう。それ以外にはないと思っている。ルート的にはこっちの方が遙かに進歩的だと思うもの。



うっわ……

この先もまたすぐ、やばそうな雰囲気じゃないか…。
もう全く踏み跡ないし……。ケモノッチさえ踏んでなくないか…。
まあ、地形図上の道の印象通りといえばそうなのだが…、ずっとこんな崖際を裸で進むのだとしたら、すぐに壊滅的な寸断の場面にぶつかる予感が……。
めっちゃヤバイ林鉄みたいな危うい雰囲気アリアリだ…。



地形がやべーだけに、眺めはガチで良いなぁ……。

海上にポツンと浮かぶ島が見えるが、あれは隣の南あわじ市に属する沼島だ。淡路島の小さな属島であり、600人ほどが暮らしているらしい。別名は“おのころ島”といって、あの有名な日本創世神話である古事記において、天孫の神々が天の沼矛によって日本列島を作り出したとき、最初に誕生した島という伝説がある。また地学的にも面白いところで、淡路島の南岸のこの直線的な海岸線を日本列島全体を大きく分断する中央構造線が走っていて、あの沼島はその線の向こう側なのだそう。こんなに近いけど、地学的には遠い島ということらしい。

ていうか、構造線といえば超巨大な断層帯なわけで、脆く崩れやすいに決まっているのだ。
憶えがありすぎるぞ! 構造線絡みで死ぬ思いをした廃道探索!
糸魚川静岡構造線が通るあの早川町と一緒じゃねーか!! これとか、あれとか、ぜんぶ死にかけてる!!


…はぁ…はぁ……

……すまない、中央構造線というワードに過剰に反応してしまった………。



沼島の反対側、すなわち東の方向には、

紀伊の山々をバックに和歌山の工業地帯が大変よく見えた!

はぁ〜〜〜、 ほんと、景色は良いんだよな。 厳しい道はだいたいそうだ。

癒やされない。いまはまだ、癒される気分じゃない!



この先、ちょっと木が生えていて暗く、気持ちが楽になる。
暗い方が安心感があるからね。廃道では。
ただ、険しさはこれまでとあまり変わらず、路肩にはかなりの高さがあるコンクリートブロック積みの擁壁が作られていた。

この道はおそらく昭和40(1965)年まで県道として日常的に利用されていたようであり、その時期まで生きていたのなら、いわゆる前時代的な土木素材である石材や玉石では終わらず、このようなコンクリートブロックや、場所積みのコンクリート擁壁が使用されていても不思議はない。
ただ、この道が誕生した時代にはまだなかっただろうから、こういう新素材の構造物があるということは、完成後も頻繁に手を加えられていたという証しになる。

それこそ、廃止の直前まで道の崩壊と修繕がいたちごっこに繰り広げられていた。
ここまでの短い距離の中で、既に様々な“顔”をした擁壁を見ている私は、そんなことをイメージした。



あ、予感…。




8:22

ハイ死ンダ。

はやすぎだろいくらなんでも…。






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