いま私は、前回最後に到達した地点から、ほぼ真っ直ぐ海岸線に向かって降りている。
恐れていたとおり、これは極めてシビアな挑戦となったが、もっといい手が思いつかなかった。
下り始めた時点で海岸から40mほどの高さがあって、この大きな高さを全て手放さなければならなかった。途中からトラバースに切り替えて進むことなどは出来ない地形だった。
私が下った場所は基本的に鋭い岩尾根で、大部分はススキや樹木が地表を覆っていたが、ゴツゴツとした岩場がその基底にあった。
ススキや樹木は墜落防止のための手掛かりや足掛かりとなったほか、高度感を和らげる目隠しとしても役立ったが、それでも大変恐ろしかった。
チェンジ後の画像は、いま降りてきた尾根を振り返って撮影した。
出来るだけ草木のある部分を踏み外さないよう、慎重に降りてきたが……
……まだ20mほどの高さを残している。
この先も、慎重に降りられる場所を探しながら、下って行った。
9:56 《現在地》
そして、下降を始めてから10分後、なんとか無事下りきることが出来た。
写真の岩尾根……というか岩脈が、か細いルートとなった。
岩脈の両側は抉れた崩壊斜面であり、どちらも道の高さを遙かに超えて高所まで続いていた。
ここで初めて波打ち際に立ったが、見渡した浜は恐ろしいほど雄大で、荒涼とした、救いようもなく無人の世界だった。
遠目には砂浜のようにも見えたが、実際は様々な大きさの岩礫が堆積してできた礫浜で、踏み出すごとにカラカラゴロゴロと軽快な音が鳴り響いた。
広い浜の全体に強い傾斜があり、この時の汀線と背後の崖の縁の間には3〜5mの落差があったものの、流木などの大きな漂着物の大半は岩場に接しており、日本海岸よりも遙かに大きな太平洋岸の干満差(約2m)や時化の凄まじさを伺わせた。
そもそも、この広い浜が常に露出しているよな海ならば、道をあんな険しい崖の中腹に切り開く必要もなかっただろう。
今日の海がたまたま穏やかで、助かった。
東の眺め。
これまで歩いてきた行程の大半が、このワンショットの中にある。
日時計の広場からこの辺まで、わずか1kmを進むのに2時間を費やしていた。
長い2時間が、ワンショットに納まってしまった。
もし、私がこの廃道の状況を予め把握していたのなら、もっと早くから海岸線を歩いただろうか。
それならここへ来るのに30分も掛からなかったと思うが、そもそもそれをするなら、探索自体をキャンセルしたかもしれない。(海から見える遺構は、せいぜい路肩の擁壁の一部くらいだろうから)
条件の悪い地形に翻弄され、探索の旬を大きく過ぎてしまった廃道の厳しさを、実感していた。
とはいえ、苦しいなりの楽しみも感じていた。
こんな厳しい廃道なら、過去に誰も踏破していないんじゃないだろうかという……、それは探索者なら自由に思うことが許された“冒険の歓び”である。
そしてそんな冒険の歓びは、この先の展開に確実な成果をひとつ、約束してくれていた。
これはいまから進もうとしている西方の眺めで、今回の旧道全体を距離のうえで中分する小さな川(この小河川の名前は不明だが、流域が立川と呼ばれているので、河川名も立川と仮定)の対岸高所に聳える、高さ10mもあろうかと思う巨大な道路擁壁がそれだ。
確実に辿り着きたいと思える、探索の成果が見えている。
これはとても大きな励みであった。
まだまだ先は長い。厳しい展開にめげず、頑張るぞ。
では具体的にどう頑張るかだが、これから道へ復帰するためには、一旦降りてしまった海岸の崖を登り返さなければならない。
だがどこから登るかというのが問題であった。
私は周辺の岩壁を広範囲に観察し、上りやすそうな地点を探ったが、迂回した大崩壊地の周辺はどこも険しく、簡単には登らせてくれなそうだった。
また、立川の河口に近い場所の方が、道の高度が下がっていて、上りやすいのではないかと考えた。
それでまずは立川の河口を目指すことにしたのだった。
10:06 《現在地》
立川の河口に辿り着いた。
目に見える川の水はとても少なく、礫浜を伏流しているために地表には水がない部分もあった。
立川河口より、その源である山並みを見ている。
海岸の付近に人工物は全く見当らず、背後の山々もほとんど同様だが、唯一の例外として、緑の調和を突き破る白いビルがあった。立川水仙郷の建築物だった。
同施設は、立川両岸の相当広い敷地を私公園として整備しており、入場には入園料を要した。
そのため、地形図に描かれている立川沿いの道(現県道と旧県道を結ぶ)は一般者の通行は出来なかった。
(入園料を支払えば通れたかも知れないが確認していない。なお探索後の2023年に同園は閉鎖され、敷地は常時立入禁止となった)
これから旧道へ復帰したい。
樹木が低い位置にまで茂っている部分が僅かにあるので、そこを上手く突けば安全に復帰出来るのではないだろうか。
というわけで、こんな斜面をガシガシッと登った。
乾ききった土の急斜面で、手掛かりとなるようなものが思いのほか少なく、ふくらはぎへの負担は厳しかったが、何度か立ち止まって息を整えながら上ることおおよそ3分――
10:10 《現在地》
おおよそ25分ぶりに探索対象である旧道の路上へ復帰出来た。
しっかりとした幅がある明瞭な道形が、急勾配で東から西へ向かって下っていた。
復帰した私は、少しだけ引き返す動きになるが、迂回した大崩壊地の末端を見に行くことにした。
チェンジ後の画像が末端方向の眺めである。強烈な坂道であることが分かると思う。
奥が明るく見えている理由は言うまでもない。
歩き出した直後に、なんとも可愛らしいオトシモノを見つけた。
繊細な模様が入った陶器製の小さな瓶、徳利にしては小さすぎるし、なんだろう? 醤油さし?
模様が違う同じ形の瓶が、近くにもう一つ落ちていた。
ここで少し話を一般化したいが、廃道を探索していると、こういう陶製の食器をよく見る。だが未だに誰がどのようなシチュエーションでこれを残して行くのか、はっきりとした“事例”に触れたことがない。もちろん、廃集落なんかであれば、廃墟の台所から転がってきたんだろうなと思えるが、ここには(古い地形図を見ても)人家があった気配はないし、ここだけでなく山奥の廃道でもしばしば陶器の食器を目にするのである。
こういう壊れやすくて重い食器は、現代だと旅先へ持ち歩く人はまずいないと思うのだが、ある時期までは弁当なんかと一緒に持ち歩いたものなのだろうか。「こういう状況が考えられるのでは?」という皆さまのアイデアをぜひ教えて欲しい。
10:16
辿り着いた。
大崩壊の末端!
チェンジ後の画像に描いた“矢印の位置”までは、反対側から辿り着いたのだ。
だが、この最後の100m弱がトラバースでは超えることができず、海岸まで大きな迂回をすることになった。
あらためてこちら側から見ても、無理をしなくて良かったと思える斜面だ。
全体的に乾いていて堅くかつ表土が薄いので、足裏の粘着力に頼って横断することは難しい崩壊地だと思う。一度スリップしたら止まれなさそうなハイリスクな部分が目立つしね。
これでここまでの区間にやり残しはなくなったので、心置きなく正方向への前進を再開する。
先ほど道に復帰したこの場所を、素通りして進むこと100m足らず……
10:24 《現在地》
道が二手に分れている!
ここが地理院地図にも描かれている、立川河口の分岐地点。
と同時に、一連の旧道(推定約4.2km)の中間地点でもある。
直進すれば水仙郷の敷地で(こちらから人が来ることを想定したゲートなどがなければ、そのまま無銭入場になりそう……)、旧県道の順路は左折である。
……せっかく来たので、ちょっとだけ直進してみても良いかな?? 誰かに見つかって怒られない程度にね……。
2017/12/05 10:25
分岐地点より、直進方向を撮影。
道はコンクリートで舗装されており、山側に低い石垣が積んである。
強烈な急坂だが、これまで歩いてきた廃道と比べれば圧倒的に整備状態が良い。廃道を脱したように感じた。
路面に落葉が堆積している状況から、日常的に車が出入りしている感じはしないけれども、いつでも使えるよう維持されていると思う。
では、誰がこの道を維持しているだろうか。
おそらくこの問の答えは、立川水仙郷の関係者であると思われる。
なぜなら、外部からこの場所へ “車輌を以て” 到達するには、その敷地を通る以外にないからだ。
10:26
分岐から100m足らずで、景色は大きく変化した。
立川の谷底に広がる緩斜面が空地化していて、見通しがとても良い。
ただ、その土地を積極的に利用している様子はなく、広い空地という以外の表現が思いつかない。
道は広い空地の縁を地形に従順に登っていく。
空地の正体だが、オートキャンプ場として利用されていたようだ。
2023年版のスーパーマップルデジタルには、この位置に「立川オートキャンプ場」の表示があり、おそらく水仙郷の公園施設の一部として整備されたものと思うが、2017年の探索時点では見ての通りの状況だった。
さらに進むと、立川という流域人口0人の小さな水系を、小さな袋小路に閉じ込めている山陵が、正面に聳え立った。
緑の中腹を裂いて真一文字の白いガードレールが見えており、それは【探索冒頭で別れた】以来の現県道の姿だった。
県道は海抜100m以上を通っており、現在地とは50m以上の高度差があった。
10:27
既に私有地(しかも入場料を徴集している)の敷地に立ち入っている可能性が高いので、見つからないように恐る恐る進んでいる。
そんな緊張の中、ついに園内建物を発見。外壁には「立川平家村民俗資料館」と書かれていた。
これは【海岸から見えた建物】とは別だが、同じ水仙郷の施設だ。
10:28 《現在地》
さらに進むと、視界の最も奥に動く人影や自動車を見た。観光客だろうか。
これ以上進めば人に遭遇することになる。もともと旧県道探索とは無関係の脇道なので、大人しくここで引き返すことにした。
結局、分岐からは約300m進んだが、現県道に面した【入場ゲート(前日撮影)】まではさらに500m以上の九十九折りの園内路を辿る必要があった。ついでに【現県道から見下ろした園内の眺め(前日撮影)】も添付する。
“良いニャン”の心を取り戻し、オブローダーのあるべき道へ引き返し始めた私の前途には、大鑑を浮かべる海原が。
この立川での寄り道は、苦が楽よりだいぶ多かったここまでの流れに良い気分転換を与えてくれた。
これからまた厳しい海岸線へ舞い戻ると思うが、中途から脱出しうる唯一のエスケープルートがしっかり閉じていることを確かめたので、意を決して、覚悟を固め、改めて後半の残り約2km強を鋭意攻略していきたい。
10:31 《現在地》
分岐へ戻ってきた。
今度はここを右折して、旧県道の続きへ行く。(先ほどは正面の道から来た)
このとき、先ほど気付かなかった1枚の立て札を発見した(矢印の位置)。
「これより先車は入れません」と、手書きの赤ペンキ文字が書かれていたが、これは、“徒歩ならば進める”と理解していいのだろうか。
この立て札が、いつ、誰に向けて書かれたものかはっきりしないが、水仙郷の入場者にはここを訪れる自由が与えられているのか、気になるところ。もし園内から足を伸ばしたことがあるという人がいたら、ぜひ教えて欲しい。
右折するとそこはもう立川の谷の縁で、舗装された路肩が大きく崩れていた。
復旧されていないことから、舗装はされていても事実上の廃道状態と言えるだろう。
そして、谷沿いに下って行く道の先には、立川を渡る橋の姿が見えていた。
ここまでの旧県道の状態の悪さから、橋の現存は五分五分の賭けと思っていたが、どうやら良い方を引いたようだ。嬉しい。
10:33 《現在地》
おおぉ〜〜!
森に隠され、時層に埋れた、忘却のコンクリート橋!
ここまでの道の状況に照らせば、意外なほどに幅が広く、しっかりとした橋だ。
この橋単体ならば、普通にその辺の“険道”で活躍を続けていそう。
橋そのものに目立った特徴はなさそうだが、めっちゃ凶悪な廃道がふいに見せたやさしさには、グッとくるものがあった!
四隅には親柱が健在で、高欄も同じ高さだが、現代の一般的な橋よりもだいぶ低い印象だ。それだけでも古い橋の感じを受けるが、コンクリートの外観に傷みはすくなく、角も綺麗だし材質も悪くなさそう。
ポイントは、親柱に1枚ずつ御影石の銘板が取り付けられていることで、橋の素性に迫るその内容を以下に全て転記する。
「立川橋」 「立川」 「たちかはばし」 「たちかわ」
……以上。
橋の名前が分かったのは大きな成果なのだが、一番欲しかった竣工年の情報がないのは残念だ。河川名は現代仮名遣いで、橋名が旧仮名遣いである理由も分からないが、このどちらかの代わりに竣工年の銘板を付けて欲しかったところ。
橋の上から立川の河口を眺めている。
30mほど下流の右岸(矢印の位置)に、旧橋の橋台らしき石積みがあることに気付いた。
これと対面する左岸に同じような構造物は見当らないが、岩場の高さが上手い具合に右岸橋台と合っているので、あそこに現橋と同程度の長さと高さを有する橋が掛かっていた時期があることは間違いないと思う。そしてそれは、普通に考えて旧橋ということになると思う。
先ほど岸の道を歩いていた際には、対岸に意識を向けていなかったこともあって、この旧橋遺構の存在には全然気付かなかった。
右岸橋台らしき石積み部分の望遠写真。
かなり大きさに差がある石塊を混然と積み上げており、周辺の南島めいた風景と合わせて、古代遺跡のような雰囲気だ。
足元の立川の渓谷から回収した岩石を、あまり加工せず組み合わせて作った構造物っぽい。
そのため、かなり古い遺構であるとの印象を持った。
もっと近くから観察してみよう。
橋を愛でる最大の特席は川底にあり。
この(セルフ)格言に則り、立川河床へ入り込んだ私は、振り返って「立川橋」を鑑賞した。
至ってシンプルな鉄筋コンクリート桁橋(RC橋)らしい外観で、自然界に取り残されて長い時を過ごした人工物の美しさ以外に、特筆すべき点はなさそうだ。
前出の旧橋遺構に対して、“現在も掛かっている橋”ではあるが、これを“現橋”だと表現するのは、使用状況的に違和感がある。
「立川橋」は新旧共に廃止された橋だ。これに対応する(現役の)立川橋というのは存在しない。遙か高所を迂回している現県道は、立川を橋という形では一度も渡らない。この川を橋で渡るのは、律儀に海岸を通っていた旧道だけである。
10:35
間近に見る旧橋右岸の橋台および橋台を支える石垣部分。
橋台の切り欠きの形状から、だいぶ厚みの大きな桁を乗せていたことが窺える。
これがコンクリート桁なら普通の厚みだが、現地に桁の残骸が無いことから、木桁を用いていた可能性が高い(=木橋)。
旧橋のバトンを受ける形で、上流に「立川橋」を架けたと思うが、その時期は不明だ。銘板に竣工年が無かったことが悔やまれる。
ただ、外観の印象は、昭和30年代後半の橋っぽい。
これが当っていれば、「立川橋」が県道として使われた時間は長くても十数年ということになるし、もっと短いのかも知れない。高欄や親柱に衝突跡などの使用感が全くないことも、この想像を支持する。
2世代の立川橋との遭遇は、かなり苦労して“中間越え”を達成した私への、大きなご褒美だった。
ここから先は再び、険しいことがほぼ確約されている海岸線へ戻る。
がんばれ、俺。
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