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道路レポート 滋賀県道319号竹生島線 後編

所在地 滋賀県長浜市
探索日 2022.02.18
公開日 2025.02.17

 ステージ2 “祈りの階段” →ステージ3 “参道県道”


2022/2/18 13:23 《現在地》

第1ステージ “アーケード”(0→34m)を踏破すると、

この第2ステージ “祈りの階段” が始まる!

見ての通りの“階段県道”である。

“階段国道”のように有名ではないし、唯一無二のものでもないが、珍しいことは間違いない“階段県道”の区間が、この県道には存在する。



“祈りの階段”は、私がそれっぽく名付けたものではなく、琵琶湖汽船による竹生島の紹介サイトにも記載された正式なネーミングである。
曰く、「船着場から宝厳寺の本堂へ続く165段の急な石段」の呼称とのこと。
合わせて、「石段に使われた御影石や、寺の伽藍の大きな柱・部材の一つ一つは、すべて島の外から運ばれてきたものです。石段脇には、寄進した人たちの住まいや名前が、彫られています。現在のように大きな船も機械もない時代に、危険をかえりみず建物を築いた人やそれを寄進という形で支えた人。沢山の人々の祈りの心が、竹生島の祈りの階段には深く刻まれています」との解説もあり、これがネーミングの由来かと思う。

なるほどと思った。
湖に囲まれた島内へ、外部から石段や石鳥居などの材料を全て運び込んで造立したというのは、確かに内地に普通に建つそれらよりも一手間多く掛かっている。そこに真摯な祈りが見えるというのは、その通りだと思う。
わが国において神社仏閣は全く珍しいものではないし、そこには大なり小なりの参道が付き物であるが、たまたま今回その参道がなじみ深い県道を兼ねているということで、普段の私があまり意識しなかったところに気づかされた気がする。

「竹生島神社」の扁額を掲げた石鳥居をくぐると、“祈りの階段”は最初の踊り場を迎える。
視線は自然と正面へ誘導され、次の階段へ。



最初の踊り場から、下界を振り返って撮影。
ここからは500円(子供なら300円)を支払った者しか見ることができない風景である。
前回も論じたように、この県道は有料道路ではないものの、参拝料という名目で通行者から料金を徴収している点で特殊である。
これは通行という道路の利用に対して料金が発生しているわけでなく、通行の結果として行われる入山について料金を徴収していると考えられる。



第二弾の階段(“祈りの階段”の続き)は、第一弾よりもさらに長く峻厳になっている。
信仰心を試されているようだと言ったらさすがに大袈裟かも知れないが、見上げた山の上には目指す宝厳寺の伽藍がそそり立っているので、自然と仏を仰ぐような心境になることだろう。

もちろん私も真摯な心持ちで登るのだが、傍らにある簡易なケーブルカーが気になってしまうことはユルして欲しい。
常設の設備なのか仮設のものかは分からないが、金属製の梯子によく似た軌框に沿って1台の単台車がケーブルで捲き揚げられて上下する仕組みだ。動力は電動ウィンチである。
ちなみに、第一弾の階段にも同じ施設があった。


第二弾の階段も上り終えると、今度は「厳金山」の山号を刻んだ扁額を掲げた石鳥居があり(お寺なのに鳥居?)、傍らには光沢を放つ巨大な宝厳寺の寺号標が鎮座している。
これもくぐると、いくつかのお堂が並ぶ中庭様の場所を経て、なおも直進するといよいよ本堂へ通じる【最後の石段】となるのであるが、私は自らの行いの誤りに気づいて引き返します。



いまだかつて、“祈りの階段”の途中で引き返した人間がどれくらいいたか気になるところだが、石段途中でそそくさと引き返し始める私。

県道、こっちじゃなかった。

それ、私にとっては一番に重大なことだからね……。

というわけで、もう一回、石段の下からやり直し!

兎跳びとかしなくて良いから、降りなさ〜い。





正しい県道319号の経路は、最初の石段を登った先の踊り場で、右折するのが正解!

最新の地理院地図では、一応それらしい曲がりが描かれているので、県道が石段の途中で右に折れていると察せられるが、これが公開される以前は本当に道路台帳を見た人しか正しい経路を辿れなかったんじゃないかと思われる。

そして興味深いことに、入山後の県道は、宝厳寺の本堂ではなく、都久夫須麻神社(竹生島神社)の本殿を目指すのである。
この小さな島の中で敷地を接する宝厳寺と都久夫須麻神社が、二つの施設として明確に分離したのは、明治元(1868)年の神仏分離令によるものだという。明治維新から太平洋戦争終戦まで、わが国の政府は仏教よりも神道を重視しており、そのことは国道の制度にも影響が見られるところである。(明治国道や大正国道には、認定要件の一部に伊勢神宮が指定されていた)

そのような寺社に対する行政の態度の差と、戦後の昭和33(1958)年に認定されたとされる本県道の行先が、関わりを持っているかは分からないが、なかなか興味深いことのように思う。
なんなら、石段の下で県道の終点としても良さそうなものなのに、敢えてそうはなっていない。



このように、最初の鳥居と石灯籠がある踊り場を右折するのが、県道のルートである。

確かにここには分岐があり、「竹生島神社参拝道」という看板もあるのだが、私が見ている範囲内では、ここを曲がって行った参拝客はいなかった。
これはほんの数分の観察に過ぎないけれど、おそらく初めて参拝する10人中8人以上は道なりに真っ直ぐ進んでいるように予想する。
これは別に竹生島神社が宝厳寺より不人気だと言いたいわけではなく、自然と足が向きやすい順路として、ここは直進しやすい。それに、宝厳寺と竹生島神社を行き来できる通路がこの上にいくつかあり、ここからしか神社へ行けないということでもない。



 道路台帳付図を見る その3 〜 34m→52m 〜


県道は、34m地点から幅3.9mの石段となっていて、47m地点で踊り場に達すると、そこを右135°方向へ大きく折れて、幅2.7mの通路となって南東へ向かうように描かれている。

面白いのが、県道は踊り場に設置されている石灯籠や石鳥居の手前で右折しており、これらが設置されている敷地は県道から除外されている点だ。
こんなことは、さすがに台帳を見ないと分からない。
分かったからなんだということでもないが(笑)。 



“祈りの階段”を最初の30段くらいで投げ出して、脇道ではない、竹生島神社参道へ。

第3ステージ “参道県道” がスタート!

写真は分岐を振り返って撮影。
チェンジ後の画像に赤く着色した範囲が、道路台帳から読み取れる県道の路面とされている範囲だ。
県道を忠実に辿ろうとするならば、「竹生島神社」の扁額がある石鳥居をくぐってはいけないよ。



県道の60m附近の風景。

石段から一転して平坦な道であるが、幅は1.9mと全線中2番目に狭い区間である。当然、車道らしい感じはなく、歩きの参道である。
手の届く範囲にある石も木もことごとくが造形されたものであり、道もその造形の一部としてここにあるから、まるで巨人が作ったジオラマ世界を歩いているような感覚だ。あるいは、先人たちが営々と造り上げた祈りの世界に上がらせて貰っているという感覚。

県道もそこを弁えていて、県道としての主張がない。



63m地点から、83m地点までの20m間は、幅2.5mのになっている。

明らかに橋の形をした道路なのだが、道路台帳には橋名の記載がなく、最新版の「滋賀県橋梁長寿命化計画対策橋梁一覧」にも記載がないので、道路管理上は橋という扱いをされていないようだ。地面にある普通の道と区別がされていないのだろう。
さらに、高欄に橋名などの記載がなく、附近の案内板などにも橋名が書かれていないので、本橋の名前は分からず仕舞いである。もちろん竣功年も分からない。

橋の前後に金属製の鳥居があることからも分かるように、あくまでもこれは参道の一部であり、橋としては主張をしない慎ましさをみせていた。



しかし、橋らしく、ちゃんと眺めが良い。
湖面の縁の急な斜面を桟橋として跨ぐラーメン構造のコンクリート橋であり、高欄越しに島の玄関口であり県道の起点でもある船着場(竹生島港)がよく見渡せた。もちろん背後は一面の湖だ。



ちなみに、少し前の上陸地点から撮影した写真だと、現在地の橋はこのように見えている。
橋を見下ろす高い石垣の上は宝厳寺の境内である。
地形的に、もしこの橋がなければ、船着場から神社へ行くのに必ず宝厳寺の境内を通ることになる。それでは神仏分離的にマズい……みたいな計算が働いて増設された道だったら面白いと思った。



《現在地》

橋を渡ってから17m進んだこの地点(写真中ほどの路面)が、本県道の0.1キロポスト(KP)、つまり100m地点である。

wikiなどでは全長0.1kmという表現をされている本県道だが、まだここは終点ではない。
ただ、四捨五入をして0.1kmとなるのであれば、あと49m以内で終点が来るはずだ。
そんなことを考えなから県道を辿る人は、普通いない(笑)。

記念すべき0.1KPにも、これといって県道を感じさせるアイテムはないが、参道としては印象的な場面である。大木の下の先が見えない曲り角になっていて、森閑とした雰囲気がある。角に黒龍堂の小祠が祀られており、背後は急角度で湖面へ落ち込んでいる。
一方の山側は、古びた石段の上に高層的な木造建造物が建っている。これが重要文化財である宝厳寺観音堂だ。



 道路台帳付図を見る その4 〜 63m→100m 〜


印象としては、地上の平場を占拠している“仏様の領域”である宝厳寺の境内を、斜面上の細々とした道で迂回しながら、まだ見ぬ“神様の領域”竹生島神社を目指して行く行程だ。
なんて書くとそれなりに長さがありそうだが、まあご覧の通り数十メートルの世界観でやっておりますよ。

次回、県道竹生島線の真の終点へ!! 
果たしてそこには県道らしい何かがあってくれるだろうか?!




 県道竹生島線の“真の終点”へ 〜 0.1KP→E.P 〜


100m地点付近から、目の前の黒龍堂のお堂と、その前を通って奥へ延びる県道……竹生島神社参道……を撮影している。
奥の立て札が建っている左カーブの地点が112m地点である。
路面は石畳風のタイル鋪装であり、この日は日陰の所々にけっこうな量の雪が残っていた。

で、この奥の角を曲がると、このステージのハイライトというべき、なかなかに凄い景色が待ち受けていた。



大掛りな木造高層建築物の下をくぐるように県道は延びている!

この木造建築の様式を、懸け造りという。

神社仏閣巡りが好きな人にはお馴染みの建築様式かと思う。



懸け造りは、神社仏閣を急傾斜地に建設する際に選ばれる伝統的な建築様式で、特徴は建物の基礎を大量の木材で格子状に組み上げることだ。太い柱と、柱同士を横に連結する貫という部分で格子状に組まれたそれは、橋梁で言えばラーメン構造にあたるものだろう。

ここで県道上に半分覆い被さるように設けられている懸け造りの建物の正体は、宝厳寺【観音堂】の一部である【舟廊下】と呼ばれる部分だ。舟廊下も観音堂と共に国の重要文化財の指定を受けているが、その名の通り、秀吉が朝鮮出兵の際に作らせた御座船「日本丸」の木材を利用して作られたといわれる。



来た道を振り返って撮影。
県道の上に建つ観音堂(写真奥)から舟廊下(写真右上)を経由して竹生島神社の本殿へアプローチするのが、かつて神仏を習合した信仰がなされていた“神宮寺”だった当時のオーソドックスな参拝コースだったようである。
次の図を見て欲しい。




「岩金山大神宮寺竹生嶋絵図」(滋賀県立図書館サイト)より

これは江戸時代末期に速水春暁斎(1767-1823)が描いた「岩金山大神宮寺竹生嶋絵図」という浮世絵の一部で、神仏習合であった当時の竹生島における神社仏閣や参道の配置をかなり細かく観察することが出来る逸品だ。

ここには既に今日みられる伽藍の数々が描かれているが、県道319号となっている竹生島神社本殿と船着場を結ぶ一連の道は、船着場を出た最初の階段以外見当らない。チェンジ後の画像に黄色く描いたラインが、現在の県道の位置である。

やはり、明治元年の神仏分離令以降に、寺院と神社を別の参道を持つ別施設として分離するために、現在の県道にあたる新たな参道が整備された可能性が高いように思う。
この辺りのことを明言した資料は、今のところ発見できていないが……。
現在の県道319号の姿は、神仏分離令が作ったものといっても、過言ではないのかも知れない。



128mから137mまでの直線区間が、懸け造りである舟廊下の下をくぐっている。
その後、137mから145mまでの区間は、階段となっている。
この再びの“階段県道”区間は、幅員1.6mしかなく、本県道中の最狭隘区間となっている。

そして、階段を上りきった145m地点……



13:57 《現在地》

ここが県道竹生島線の終点だ!

はるばる船着場からやってきた県道は、全長145000mmを辿りきったこの地点、竹生島神社の本殿脇のこの場所で、しれっと終わる。

もしここにも起点にあったような【標石】が設置されていれば、ここが終点であることは道路ファンにもっと広く普く知られていたと思うが、そういう物がないために、あまり知られてこなかったと思う。
だが、それでも私は見つけたぞ。

この地点が県道という小さな証し!



石段の終わりの路面に埋め込まれた、「滋+道.台.基.」の文字が刻まれた小さな永久標識板を!

ネットを検索してみると、これと同様のものは滋賀県内の県道上でしばしば見つかっているらしく、滋賀県が設置した「道路台帳基準点」という、その名の通り、道路台帳の作図と関わる基準点であることが判明。これが直ちに県道の終点を意味するものではないのだろうが、滋賀県が道路台帳を作成する対象の道路であることが明示されたことになる。すなわち、ここが県道である証しだ!



終点より、県道竹生島線を振り返る。

なお、画像で気づいた人もいると思うが、この日は県道の一部区間が簡単なAバリケードで封鎖されているように見えた。
特に通行止の表示はないが、バリケードは通常そのように解釈されるものだろう。
理由は、路面の凍結か、屋根からの落雪か、いずれ雪が原因だと思う。県道として道路法46条を根拠に行われている通行止では無さそうに見えた。



 道路台帳付図を見る その5 〜 112m→145m(終点) 〜


道路台帳付図の探訪もこれが最後だ。
137mから145mまで続く幅1.6mの階段の終わった地点が終点で、その傍らに「永久標識」の記号が打たれている。
これは現地で見つけた標識板を示している。

これにて全線踏破である。
全長145mということで、四捨五入をすれば確かにwikiにあった通り、0.1kmの県道であった。
これでもう、県道竹生島線の行方を捜して困ることはないはずだ!



県道探索終了ということで、そこから1歩も進まずに引き返して島を出たら、それはそれで道路特化人間としては箔が付いたかも知れないが、特別そのような不条理の枷を自らに課しているわけではないので、入山料分は神仏の加護を戴くべく、竹生島神社の玉砂利が敷かれた境内へ進行。
正面に見えるのが、名物“かわらけ投げ”の舞台である拝殿で、左の無骨な階段が舟廊下から来た場合の通路。その左の石段の上に本殿が鎮座している。



これが本殿。
左奥の陰の小さなAバリが見えているところが、県道の終点である。

こうして見ると、宝厳寺境内を通過せずに船着場からここまで来られる唯一の経路である県道は、やはり本殿へ参るための参道としては、少々付け焼き刃的な感じのする不自然な経路であると思う。
かといって、舟廊下から来る場合も、拝殿を経由せずに直接本殿へ突撃する形であるから、不自然な気がする。

……って、ついつい公共物のような効率性や合理性を追求する“道路脳”で参道を見てしまうのは良くない癖だな。
この辺りは、良い意味でユルい人と神の付き合い方次第なんだろう。県道の在処をセンチメートル単位まで特定しようとする硬直化した脳みそでは分からない世界観か。



最後は、拝殿より見張らした琵琶湖の眺めでさようなら。

拝殿の下にもいく道が公開されていない鳥居があり、その先はいよいよ崖と湖しかないが、なんとなくそこに正面から拝殿をくぐって本殿へと至る通常スタイルの参道がありそうな配置だ。
あるいはそれは、人間のような普通の存在には利用できない参道であって、湖面によって抽象化された広い精神世界より登ってきているものかもしれない。そんなことを想像して楽しんでから、何も投げずに船へと戻った。

探索終了。



 ミニ机上調査編 〜竹生島と県道の関係あれこれ〜


小さな島の小さな県道。
この道路についての机上調査を試みたが、残念ながらさほど多くの情報は得られなかった。
具体的には、現在県道となっている各区間が、いつ、どのような経緯で整備された道であるかについての情報は見当らない。

県道に認定されている道の来歴が、竹生島神社の参道にあることは疑いがないと思われる。そして本編中で述べたように、江戸時代末期の絵図にはこの参道の大部分は描かれていないので、明治以降に整備された可能性が高いと考えられる。だがそれを言明する資料は未発見である。
本編中では神仏分離と参道整備に関わりがあるのではないかと推測したが、これについても言及する資料は見当らない。

ぶっちゃけ、県道といってもそれが所在する範囲があまりにも狭く、かつ特定施設の内部で完結してしまっているため、たとえば「竹生島史」のような島内事情に特化した資料が見つからない限り、文献的解決は難しいかもしれない。


@
明治26(1893)年
A
昭和22(1947)年
B
昭和50(1975)年
C
地理院地図(現在)

いつものように、歴代地形図の比較もやってみるが、これは正直、全長0.1km程度しかない極短県道の変化を探るための調査方法としては無理がある。
分かっていたが、その普段との違いを楽しむ意味もあって、やってみた。

@は明治26(1893)年版2万図である。後の版と比較しても島内の施設配置は今とほとんど変わらないように見える。道も描かれており、船着場から宝厳寺本堂に至る“く”の字型の「石磴」という記号が描かれている。後の版の「石段」であり意味は同じ。また、石段の途中で分岐して「観音堂」へ至る道っぽい記号があるが、おそらくこれは道ではなく、板塀を意味する「板牆」という記号である。現県道に該当する道は(石段のごく一部を除いて)描かれていない。

Aは昭和22(1947)年版2.5万図で、島内の様子に変化はほとんど見られない。強いて言えば、船着場に「汽船による通船」の記号があるので、明治期とは異なり動力船が就航していたことが分かる。やはり県道は描かれていない。

Bは昭和50(1975)年版2.5万図で、島内の様子が随分と簡略化されているように見える。ただ、港湾施設はより拡充したようで、湖上へ延びる埠頭が出現し、地方港湾を示す記号も描かれるようになった。県道は描かれていない。

Cは最新の地理院地図である。本編でも利用しているのでお馴染みだろう。地理院地図になったことで、初めて県道の存在が描かれるようになった。厳しい縮尺ながらも、道路台帳と照らして出来るだけ正確に描こうとした形跡がある。「竹生島港」から「都久夫須麻神社」まで、ちゃんと黄色い県道が繋がっているのである。

以上の歴代地形図調査によって、地理院地図より古い地形図には、県道や、そのもととなった道自体が描かれていないことが分かったが、それをもって道の有無を論じることは出来ないだろう。



ここで少し視点を広げて、竹生島へと至る交通路についても考えてみたい。

島への交通手段として必ず水上交通が介在することになるが、現在、島へ通じる定期船が発着する港には、私が利用した長浜港に加えて、今津港、大津港、彦根港がある。このうち今津港を除いた3港へ竹生島港を加えた4港が、滋賀県の管理する地方港湾である。

しかし古くは、島の真東に位置する早崎港こそが、竹生島参詣の最も有力な渡し場であった。
島の所属は、明治22(1889)年から昭和31(1956)年まで東浅井郡竹生村にあり、その後、同郡びわ村、びわ町を経て、平成16(2004)年から長浜市となっている。竹生村の役場があったのも早崎だった。そして今もこの名残として、島の全域は長浜市の大字早崎町に所属している。

早崎港について、『角川日本地名辞典 滋賀県』(昭和54(1979)年刊)を調べてみると……

東浅井郡びわ町の北西部、早崎湖岸にある県費支弁港湾。沖合5kmに浮かぶ竹生島宝厳寺の門前町である早崎は、観音信仰が盛んになった江戸期、竹生島への渡津集落として発達したが、明治期以降、琵琶湖岸の各所より竹生島航路が開かれ衰退。特に太湖汽船の登場は水深の浅い早崎港の衰退を早めた。

『角川日本地名辞典 滋賀県』より抜粋

……このようにあり、江戸時代までは早崎が島への渡津として重要であったが、明治期に船舶が大型化すると、遠浅である同港はその地位を失ったという。ちなみに太湖汽船株式会社の設立は明治15(1882)年のことである。随分と早い時期に衰退していたことが窺える。

だがその一方で、道路制度としては、随分と遅くまで早崎は竹生島への玄関口として公認されていたもののようである。
というのも、昭和2(1927)年に出版された『東浅井郡志 第参』は、大正9年の旧道路法施行以前の郡内道路網に関し、郡内の主要な里道を挙げているが、そこに次の路線がある。

竹生嶋道は、速水村馬渡の北国街道より起り、竹生村の北辺を横断し、益田より早崎の湖岸に達す。古来竹生嶋に詣づる順路たるを以て此名あり。

『東浅井郡志 第参』より

そしてこの明治生まれの里道は、旧道路法によって、大正時代に県道へ昇格していたことが判明した。
今度は、昭和63(1988)年の『滋賀県市町村沿革史 第4巻』から、東浅井郡びわ村の交通について述べた部分からの引用だ。

町村制施行後村内の道路網は次第に整備され、北国街道が大正9年4月10日に県道大津・福井線に認定されると同時に、虎姫停車場・南浜港線、片山港・長浜線も県道となり、翌年4月8日には虎姫停車場・竹生島線が(中略)それぞれ県道に認定された。

『滋賀県市町村沿革史 第4巻』より抜粋

大正10(1921)年4月8日に、「県道虎姫停車場竹生島線」が認定された!

これが歴史上、竹生島の名を冠した県道が始めて登場した場面である。
現在の県道竹生島線に先駆けること37年も前に、早くも島の名を冠した県道が滋賀県にはあったのだ!
それでは、この“大正”県道虎姫竹生島線の経路や終点は、具体的にはどのようなものであったのだろうか。

『滋賀県統計全書 昭和9年』に、この路線の諸元が収録されているのを見つけた。以下のような内容だ。

虎姫停車場竹生島線延長:9871m起点:東浅井郡虎姫村、虎姫停車場終点:東浅井郡竹生村重要なる経過地:速水村
『滋賀県統計全書 昭和9年』より

全長は分かったが、残念ながら肝心の終点が村名までしか書かれていないため、その地点を詳細に特定することは出来なかった。
だが、重要なる経過地として示された「速水村」の存在や、この県道の前身とみられる里道竹生嶋道が速水村馬渡と竹生村早崎を結ぶ路線であったことを加味すれば、自ずから、この県道は虎姫駅と早崎港を結ぶ区間を持っていたことが予想できる。


上の図は昭和26(1951)年版の地形図だ。
北陸本線の虎姫駅から西進して馬渡で北国街道を横断、香花寺、益田を経て早崎へと至る道が描かれている。
この経路が、県道虎姫停車場竹生島線であったと考えられる。(かつ馬渡〜早崎間は明治期の里道竹生嶋道を継承している)

チェンジ後の画像は最新の地理院地図で、同じ経路は現在も2本の県道によって実現されている。県道275号三川月ヶ瀬線と県道255号早崎湖北線である。

そして、これが私にとっては重要なポイントなのだが、この県道虎姫停車場竹生島線は、全長が9871mあったとされる。
だが、虎姫駅から早崎までの距離を計算しても、せいぜい6.5kmくらいしかない。よほど迂回しなければ、9.8kmにはならないのである。
そこで考えられるのが、この“大正”県道には、今日の国道や県道に稀に見られる“海上区間”ならぬ“湖上区間”というべき水上の区間が存在した可能性だ。

今日の県道319号竹生島線は、竹生島の中で完結する路線であり、本土側には路線がない。
だが、虎姫停車場竹生島線は湖上部分も県道で、そのまま竹生島の島内のどこかに終点があった可能性がある。
むしろ、路線名を考えれば、島内に終点があった可能性は極めて高いと言えるのではないか。

残念ながら、この“大正”県道の終点が島内のどこであったかについては、全く手掛りがないが……。現在の県道竹生島線を完全に包含する路線だった可能性もあるだろう。

なお、早崎と竹生島の間は直線距離でも5.7km離れており、この距離が全長9871mに含まれるとすると、今度は陸上区間が全く足りないことが起こる。
これは、陸上区間の大部分が他の(より番号が若い)県道との重複区間だったとすれば解決出来るが、具体的な重複関係は未調査のため不明だ。おそらくこの可能性が高いと思うが。

右図のような、それなりに長い“大正”県道が、現在のたった全長145mしかない離れ小島的県道の前身であったすれば、これは相当に愉快な前史である。

しかも、大正時代でさえ既に早崎港は竹生島の門前町、玄関口としての役割を終えていたのである。
早崎には明治20年代の地形図でさえ渡船の記号が存在しないから、県道認定当時はとっくに島への主要な渡津ではなかったはずだ。当然、県営渡船が運航していた、なんて事実もない。にもかかわらず、そこに県道が認定された。
これは、県道の認定が伝統に縛られるという、現在の道路法下でもよく見られる傾向が、旧道路法の当時からあったということなのだろう。




県道虎姫停車場竹生島線の廃止年の記録はないが、おそらく現行の道路法(昭和27(1952)年公布)による一般県道を滋賀県が初めて認定した昭和33(1958)年7月26日まで存続していたようである。ここで滋賀県が認定した一般県道は101号から319号までの219路線で、そのラストナンバーが今日まで変わらぬ番号と路線名を有する県道319号竹生島線だった。
滋賀県告示によると、起点は「長浜市早崎町」、終点も「長浜市早崎町」とのことで、これだけだとどこにあるのか全然絞り込めない(苦笑)。

それはともかく、こんな短小な泡沫路線のように見えて、ちゃんと現行道路法下における一般県道第一陣という誉れを受けた路線なのである。それもこれも、前身となる旧法時代の県道虎姫停車場竹生島線が存在したおかげではないだろうか。

昭和50(1975)年に滋賀県警察本部が発行した『滋賀の交通 1974』という統計に、各県道の延長と車両の通行台数が分かる資料がある。

県道竹生島線延長:0.2km交通量(台):――
『滋賀の交通 1974』より

(→)車両交通台数がゼロなのは路線の状況を踏まえれば当然と言えるが、延長が「0.2km」となっているのが興味深い。
実は、認定された当初の全長は今よりも長かったのである。
昭和54年刊『角川日本地名辞典 滋賀県』には「竹生島線」という項目があり、そこに次のように書いてあった。

県道319号。東浅井郡びわ町大字早崎竹生島の西国三十番観音霊場札所宝厳寺本堂前から竹生島港桟橋までの参道。全長225m・幅員3m未満。

『角川日本地名辞典 滋賀県』より抜粋

全長225m?!

そして何より、宝厳寺本堂前が起点だったかのような記述が想定外だ!

現在の県道を同じように表現するならば、「竹生島神社本殿から竹生島港桟橋までの参道」となるはずで、宝厳寺本堂というのは少々意味合いが違っている気がする。
これはいったいどういうことなのだろうか。

ここで重要な証言をしてくれるのが、現地にある本県道の数少ない存在の証しである【起点標石】だろう。
この標石の【側面】には、これが建てられた(おそらく)昭和33年7月当時の位置が「びわ村大字早崎一六六六番地」と詳しい地番まで書かれている。


長浜市が公開している地図情報サービス「ながはまっぷ」(→)には、地番を表示する機能がある。

びわ村からびわ町を経て長浜市へと変遷した今も地番は変わっていないようで、早崎町1666番地というのが今も島内にあった。
チェンジ後の画像の詳細な地図(これも同サイトで見られる)と重ね合わせると、早崎町1666番地は、現在の起点標柱がある位置を確かに含んでおり、おそらく県道認定当初からこの起点の位置は変わっていないと思われた。(このような標柱の場所を移すことはあまりないと思う)。

一方、現在の県道の終点にあたる都久夫須麻神社(竹生島神社)本殿脇は、早崎町1665番地であり、そこに終点を示す標柱は存在しない。(他の滋賀県道では終点にも標柱があるので、この標柱がないことは本県道に謎の一つである)

現在の終点に終点標柱がない理由は、昭和33年の県道認定当初の終点が現在の位置と異なっていたためである可能性が高くなった。
当初の終点は、起点から225mの地点であったらしい。

『角川日本地名辞典』の記述では、都久夫須麻神社本殿ではなく、宝厳寺本堂前が終点であったように読み取れる。
本編のレポート内では本堂前まで行っていないが、レポート外で行っている。



これが、宝厳寺の本堂である。本尊は大弁財天で、日本三大弁天として古くから信仰を集めてきた。
地番としては早崎町1664ー4番地にあるが、チェンジ前の写真辺りまでは1666番地に含まれている。
起点から、この本堂へ至る一般的な参道を経由すると、200m前後の距離であるから、かつてはこの本堂前が県道の終点であったというのはあり得そうだ。

なお、本当にここがかつての県道の終点であった場合、今なお県道の終点標柱が境内に残留している可能性があると思うが、探索時は生憎の積雪と、そもそも探索時にかつて終点が異なっていた可能性を予期しなかったので探していないから、見つけてもいない。もし、読者諸兄がここを訪れることがあったら、一人あたり3分で良いので、終点の標柱を探してみてほしい。もしあったら、大発見となる。

ちなみに、県道の終点が変更され、全長が225mから145mへ短縮された時期は、おそらく昭和59(1984)年頃である。
というのも、今回入手した道路台帳付図の調製年度が「昭和59年11月」となっていたのである。
おそらく終点が変更になって、図面も書き換えられたのだろう。
古い道路台帳付図が残っている可能性は低そうだが、一応問い合わせてみるつもりだ。


 県道竹生島線の告示についての情報
2025/2/18追記

県道竹生島線の古い道路台帳が保管されているかを長浜土木事務所に問い合わせてみたが、残念ながら、保管はされていないとのことであった。

一方、読者さまコメントを介して、県道虎姫停車場竹生島線および県道竹生島線が関係する滋賀県告示の一部の内容をご提供いただくことが出来た。
ご教示いただいた内容を転載しつつ、気づいたことをコメントしたい。

1. 県道虎姫停車場竹生島線について

路線認定大正10年4月 滋賀県告示第123号
起点:東浅井郡虎姫町虎姫停車場、終点:東浅井郡竹生村竹生島、重要な経過地:東浅井郡速水村
路線廃止昭和33年7月26日 滋賀県告示第292号
供用廃止昭和33年7月26日 滋賀県告示第455号

“大正”県道虎姫停車場竹生島線の終点の位置が下線部の通り、確かに竹生島であったことがはっきりした。それが島内のどの地点かは不明だが、これで間違いなく“湖上区間”が存在したことも確定となった。


2. 県道竹生島線について

路線認定昭和33年7月26日 滋賀県告示第291号
起点:東浅井郡びわ村大字早崎、終点:東浅井郡びわ村大字早崎
区域決定昭和33年7月26日 滋賀県告示第453号
区間:東浅井郡びわ村大字早崎1666番地先から東浅井郡びわ村大字早崎1666番地先まで
敷地の巾員:2.5メートル 延長:212.0メートル
供用開始昭和33年7月26日 滋賀県告示第454号

現行の県道竹生島線が、“大正”県道虎姫停車場竹生島線の廃止と同日に認定、区域決定、供用開始が行われていることが確定した。
さらに、区域決定の告示内容から、認定当初の全長は212mであったことや、その起点と終点が共に早崎1666番地にあったことが判明した。

この212mが後に225mとなり(『滋賀県の交通 1974』時点)、最終的に現行の145mとなったのであるが、この3つの数字以外の長さだった時期もあるのかもしれない。いずれ最低でも過去2回全長が変わっていることがはっきりした。

そのうえで、認定当初の全長212m時点では起点と終点が共に1666番地であったとのことだから、地割りが今日まで変化していないと仮定すると、現在の都久夫須麻神社本殿脇が終点でなかったことは確実だ。そこは1665番地なのである。一方、宝厳寺本堂は1664-4番地だが、そのすぐ手前までは1666番地であるから、宝厳寺本堂が当初の終点であった可能性がより高まる情報だと思う。

情報提供、ありがとうございました!




大正時代から竹生島を終点とする県道が設定されていたことや、昭和33年に現行道路法下で認定された当初の県道竹生島線が今よりも70m長かった(終点が神社でなくお寺だった?)ことを知れたのは、今回の机上調査による大きな成果であるが、これらの他に章を立てるほどではない事項として、次のようなことも判明した。

「ながはまっぷ」で表示出来る「市道情報マップ」によれば、竹生島の島内に、長浜市道は全く存在しない。
したがって、竹生島にある道路法上の道路は、県道319号竹生島線だた1本である。
島内に県道以外の道路法上の道路が全く無い島は唯一無二かもしれない。(架橋の途中で通過する無人の岩礁のような小島を除けば)

『角川日本地名辞典 滋賀県』の「竹生島港」の解説ページによると、「県道竹生島線の起点標識を中心とした半径150m内の湖面を港湾水域とする。昭和42年地方港湾指定」とのことで、県道竹生島線の起点標柱が、竹生島港の地方港湾としての港湾水域を規定する基準点になっていることが分かった。道路法的には何の効力も持たない標柱だが、地味に今も役立っているようだ。


以上です!





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